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Nov 6, 2014
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(第四回川中島合戦)

 信玄が黙然として佇んでいる。信ずる事の出来ぬ報告を聴いたのだ。

 先刻は弟の典厩信繁の討死の報せを聴いても、顔色も変えずに耐えた

信玄が、山本勘助の討死の報せで呆然自失となっている。

 妻女山奇襲部隊の将兵が、本陣の前を駆け抜けて行く、黄備えの騎馬が

一団となって猛烈な勢いで犀川方面へと疾走して行った。

「はっー」  「はっー」

 聞き覚えのある声を挙げ、馬場美濃守信春、飯富兵部虎昌、小山田信茂、

 甘利昌忠、真田幸隆等が騎馬に鞭を与え、一斉に追撃して行く。

 彼等にとっては満を持した戦であった。

 馬蹄の響き、甲冑、草擦りの音が響き、その後から足軽達が笠をかたむけ、

眼を剥いて、得物を手に何千名とも数知れぬ、兵士の群れが後続している。

 今こそ本隊の苦戦を我等の手で晴らす。

 その一念で越後勢の背後を必死で追いすがっていた。

 暫く時が過ぎ犀川方面から銃声の乱れ射ちと喊声が聞こえてきた。

 別働隊と越後勢が、本格的な合戦に入った合図である。

 犀川の手前と対岸、更に犀川の半ばで激しい戦闘が繰り広げられた。

 川水が泡立ち、血煙を挙げて川中に転がる彼我の兵士の血潮で川水

が、真っ赤に変色したと言われている。

 それほど激しい戦いを双方ともが繰り広げたのだ。

 それは勝利の名分が、両陣営ともに欲しかったのだ。

 戦国乱世には、その名分こそが家の誉れであり、武門の誉れでもあった。

「別働隊が敵と合戦に入ったようじゃ。者共、仇討ちじゃ」 

 山県三郎兵衛が本陣前で部下を督励する声が響き、赤備えの騎馬武者が

反転し、越後勢への追撃戦を開始した。

 信玄は八幡原を見廻した。辺りには死骸が横たわり軍馬が斃れ、死にきれ

ずに、苦悶の悲鳴をあげている。

 彼我の兵士の遺骸は、我が軍勢の将兵が圧倒的に多い。

 それだけ越後勢が精強であった証である。

 そうした光景の中、空は真っ青な秋空を見せ。雲が悠々と流れ、朝日を

浴び、この八幡原の北西に聳える、茶臼山の稜線が緑色に輝きだした。

 信玄は床几に腰を据えた。躰が鉛のように重く感じられる。

 越後勢の奇襲を受けた本隊の被害は、予想よりも甚大であった。

 特に将の討死が多かった、その中に弟の典厩信繁、諸角昌清、

初鹿野忠次、軍師、山本勘助の討死は武田にとり大きな損失であった。

 信玄は一人、荒野に取り残された感覚の中に居た。胸にぽっかりと穴が

開き、冷気が吹き込んでいる、そんな思いを味わっていた。

(勘助、何故、余との約束を守らなんだ)

 一人でに勘助に対する、恨み言が口を衝いてでる。

 突然、母衣武者が駆け戻り、信玄に片膝をついて声を張りあげた。

「山本勘助さま、お討ち死ににございます」

「何処で討死をいたした?」  

「東福寺近辺にございます」

「・・・-遺骸は確かめたのか?」  

「申し訳ございませぬ。、お報せが先と思い確かめてはおりませぬ」

 東福寺は海津城の北に当たる一帯に位置し、武田勢が妻女山から駆け

下る、その押さえとして越後の甘糟勢が、その東福寺の西に伏兵として

潜んでいた場所である。

 勘助め余をあざむきおったな瞬時に悟った。

 政虎の本陣に突撃せんと出陣した勘助が、そのような場所で死ぬ訳がない。

 信玄がぽつりと低く呟いた。

「信繁の墓も勘助もここに葬ってつかわす」  

 信玄が重そうに床几から立ち上がった。

 犀川方面からは未だに干戈の音と喚声が聞こえる。

 上杉の本陣付近から法螺貝が一帯に鳴り響いた。引きあげの合図だろう。

 一斉に越後勢は引き揚げを開始し、善光寺に向って撤退を始めた。

 それは難戦中の難戦であったが、見事に越後勢は成し遂げた。

 こうして戦国有名な川中島合戦は終りを告げた。緒戦は上杉勢が圧倒し後半

は武田勢が追い討ちをかけ、合戦は午後四時頃に幕をおろした。

 双方の損害は上杉勢が三千五百余名、武田勢が四千六百余名と伝えられて

いるが、武田家は有力な武将を数多く失った。

 この合戦で上杉家は川中島北部を辛うじて確保し、武田家は信濃の大半を領

する事となった。

 翌日、勘助の遺体が見つかった。いく創もの傷を負い、白の法衣は血潮に

塗れ、首のない勘助の愛用の鎧を纏った武者の遺骸であった。

 信繁は信玄により典厩寺を建立され、そこに葬られたが、勘助は千曲川の

土手下に墓を立てられ葬られた。

「山本道鬼居士墓」と碑面に刻まれている。

 何故、勘助のみがこのような場所に葬られたのかは、永遠の謎である。

 さらに三年後の永禄七年七月に両軍は、再び相いまもえるが、信玄には戦う

意志がなく、両軍は睨みあいを続け兵を引いた。

 十二年間も続いた、両雄の烈しい戦いは終りを告げるが、時代は確実に

新興勢力として、織田信長、三河の松平家康が台頭してくるのであった。

        (三河一揆)

 武田信玄はこの年の暮れから、北条氏康との同盟をさらに強化し関東に

本格的な出兵をはじめた。

 信玄の関東での狙いは、西上野の支配と北条勢との強固な同盟の二つであった。

 一方、上杉政虎は関東管領として北条勢、武田勢と関東で戦うことになる。

 上杉政虎が謙信を名乗るのは、彼が四十一才となった元亀元年からで、彼の

不幸は領国が雪深い越後であった事である。夏に三国峠を越えて関東に出馬す

ると、北条氏康は居城の小田原城に籠城し、謙信が折角、降した城を冬の季節

に回復するという図式が何年となく続くのであった。

 武田信玄の関東進出は永禄八年まで続くが、これは今川家に代わり駿河、

遠江を支配する上には、北条氏康の力が必要であり、その為にも同盟を強化

し、上杉勢を牽制する必要があったのだ。

 しかし、氏康が晩年に家督を嫡男の氏政に譲った頃から、北条家との関係

が怪しくなり、今川の領土をめぐり何度となく合戦騒ぎを起こす事になる。

 こうした年月の浪費が後に信玄と武田家に、重大な脅威となるのであるが、

信玄も武将連も気付かずにいた。こうして波乱にとんだ年が暮れた。

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Last updated  Nov 6, 2014 05:50:34 PM
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