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明け方、10分ほど南国らしい雨が降った。今年の冬は日本も暖冬だが、グァムも乾季のこの時期にしては雨が多い。グァムは、何となく年中常夏という印象だが、6月~10月の雨季と、11月~5月の乾季とに分かれる。常夏といっても、日本の初夏ぐらいの雰囲気に近い。乾季の日中でも、31℃を超える日は多くない。雨季のピークは8月~9月頃だが、日本の梅雨みたいではなく、サッと大粒の雨が降って、また晴れるという感じだ。日本の夏より、遥かに快適で過ごしやすいのだ。個人的には、乾季に差しかかった今頃よりも、ダイナミックに、自然を感じられる雨季をお勧めしたい。但し、台風が発生してヒコーキが飛ばないということもある。こういう処では、観光や買い物に躍起になるより時間という概念を忘れ、風通しのよいテラスで、本でも読んで過ごすのが一番だ。さて、中国の株式市場では、相変わらず動揺が続いているようだ。サーキットブレーカー制度が中断されても、もう市場不安は拭えない。デヴィッド・ボウイさんが68才の若さで亡くなった。英国ロックを代表するアーチストで、ビジュアル系の先駆けでもあった。誰かがいなくなってしまうということは、寂しいことだ...
2016.01.11
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日本との時差は+1時間。昼間の気温は28℃で夜25.5℃、湿度が86%。日暮れ時、ひと雨あって海から吹く南東風が心地良い。シャワーを浴びて、射撃の硝煙の匂いを消し、ルームサービスのマティーニを飲み干して部屋を出た。歩道のド真ん中に、平気で消火栓を設置する、アメリカ人のテキトーな思考というか、雑さにムカつく。ほろ酔いで歩いて、股間を強打したではないか...ホテルから、Pale San Vitores Roadを西へ10分ほど歩き、米兵に聞いた、安いチャイニーズレストランで夕食を済ませ時計を見た。まだ、午後10時だ。1月に、BeachでSouthern Crossが見られるのは夜明け前。たぶん午前6時頃だから、まだ時間はたっぷりある。ちょど蠍座の右側、アンタレスの直ぐ下に見えるのだ。東に少し戻ると、ABCストアーの上にハードロックカフェがある。そこらで少し、時間を潰すとしよう。あれから、もう直ぐ21年。神戸の街は、明るさを取り戻したけれど、そんな街の灯も、私の心の奥は照らさない。17日は、TVを点けるとあの日を思い出す機会も増える。忘れたいと、願っている訳ではない。いや、違う... 自分はまだ、あの灰色の瓦礫の中にいるのだ。あの日、自分が失った物など、今さらもうどうでもよいが、そこから、積み重ならなくなった時を思うと、恨めしくも切なくもあり、寂しさに似た感情から、遠くへ逃げ出したいとさえ思う。だけど、自分の歪んだ喪失感からは、そう簡単に逃れられはしない。一瞬の逃避行も、不毛で空虚な時間を再確認してしまうだけで、さらに、女々しさすら感じさせられるだけで、決して逃れられないのだ。そんな自分が、自問するように時々考えることがある。自分が、生きている意味とはいったい何だろうかと...この先、元気なうちは色々と工夫し、楽しみを作ることも出来ようが、それすら出来なくなるとき、ただ孤独な老いと向き合う自信がない。多かれ少なかれ、誰もがそんな後悔をしながら生きているのだ。
2016.01.10
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昨年末、蔵を整理していて面白いものを発見した。和綴じに、毛筆で記された曽祖父の日記と和歌が一首。 吹きすさふ 風も恨めし枯れ葵 成すべき事そ まづ成さんなり(曽祖父元服の歌)11日の成人式を前にして、少しばかり水を差す話題になるが、今から、143年前の明治4年1月9日は曽祖父が元服した日だったそうだ。折りしも、明治3年に廃刀令、翌年には廃藩置県が発布される時代だった。そんな波乱の時の中で、曽祖父は2年遅れでその日を迎え、武家作法に則った烏帽子大紋で腰に帯剣し加冠の儀に臨んだ。文字通り、これが我が家で最後の元服となった。その後の、曽祖父は西南の役に従軍、日清戦争、日露戦争を戦い抜き、秩父の連隊長を辞した後、晩年は書と水墨画に興じたりしたそうだ。「武士(もののふ)らしく」というのが曽祖父の口癖だったようで、武人の誇りを貫いたまま、大正9年に67才の生涯を閉じた。 現代の成人式は、マナーを解さずスピーチする賓客に暴言を吐いたり、酒を飲んで暴れたり、およそ一人前の男子たる態度ではないと思う。 もっとも、祝辞を述べる政治家諸氏も、いずれ劣らぬ恥知らずだが。(笑)この国の魂は、どこまで堕落するのだろうか。 成人式とは、一人の人間として、社会の一員として奉公を決する日であって、式に参加すれば成人し、自由気ままができるというものではない。この国は、もう一度維新からやり直しすれば如何か...
2016.01.09
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さてさて、昨日からの続き...(※脚色を加え、オリジナルとは異なる凄惨な描写があることをご了承頂きたい。)女殺油地獄(下の巻)月日は流れ、お吉は河内屋からのれん分けを受けた、豊嶋屋七左衛門の女房となり、それなりに幸せに暮らしていた。 一方、与兵衛は度重なる放蕩で勘当され、挙句に大借金をしてしまう。 金策に疲れ、まさに崖っぷちに立たされた与兵衛には他に頼るあてもなく、一度は情を交わしたお吉に頼んで、金を工面しようと豊嶋屋へ向かう。ちょうど、与兵衛が豊嶋屋に行き着いたときのことだった...与兵衛は、偶然にも豊嶋屋に義父と母が豊嶋屋に入って行くのを目にする。 自分を勘当した両親が、「もし息子が訪ねて来たら 渡してやってくれ」と、金を用意し、お吉に預けに来ていたのだ。 物陰に隠れ、一部始終を聞いた与兵衛は、この時あらためて親心を知り、まっとうに生きようと決心し、お吉を訪ね、金を貸してくれと懇願する。お吉にすれば、当然、与兵衛を助けたいのは山々だった。しかも、渡りに舟とばかりに、徳兵衛夫婦にも頼まれたところだった。けれど、今まで欺かれ続けたこともあり、易々と許すには躊躇いもあった。さらに、恩ある河内屋の旦那と奥様の心も察し、今回は心を鬼にして、わざと厳しい口調で、お吉は与兵衛の心を確かめようと図った。 しかし、お吉のあまりに厳しい態度に与兵衛の心は折れ観念した。なら、ここで自害しようと思い詰め、持っていた匕首(あいくち)を抜いたが、それが惨劇を招いてしまう。匕首を見たお吉は、てっきり与兵衛が自分を刺すものと誤解し、咄嗟に与兵衛を突き飛ばした。突き飛ばされた与兵衛は、かっと逆上し、逃げるお吉に切りかかる。 逃げ惑うお吉、追う与兵衛... 二人はもつれ合い、与兵衛は、お吉の着物の襟を掴み、匕首を脇腹に突き立てた。 「今死んでは娘が流浪する!」 「死にと~ない」 「金は要るほど持ってござれ」「助けて下され与兵衛様ぁぁぁ」 お吉は幼い我が子を思い、必死に与兵衛に命乞いをするが、逆上して、魔が差した与兵衛の耳には届かなかった。 お吉の帯を掴んで引き寄せ、なおも無我夢中で刺し続ける。与兵衛は、お吉の身体を刺してはえぐり、抜いては切りつけし、全身に返り血を浴びて、もはや悪鬼の形相だった。 お吉は苦しみに身もだえして、店の油樽は次々に倒れた。 土間には、ドクドクと油が流れだして見るみる油の海となり、流れる油に足を取られ、二人はもつれながら倒れ込む。 そして、油の海で馬乗りになった与兵衛に繰り返し腹をえぐられ、力尽きたお吉は、下腹に匕首を突き立てられたまま痙攣して血の泡を吹き、白目を剥いて絶命した。 髷(まげ)も解け、血と油にまみれた与兵衛は身を震わせて起きあがり、戸棚の金を掴んで表へ逃げ出した。 それは、まさに放蕩と愛欲に溺れた果ての惨劇だった... ― 完 ― 夢に舞ひ 明けに骸(むくろ)の 糸蜻蛉 浮き世の川の 澱みなるかな(砂浮琴愚歌)長々と、勝手気ままな乱文にお付き合い頂き、御礼を申し上げます。m(_ _;)mさて、昨日からのblogの写真は、時々出掛けている近江八幡の風景で、よく時代劇のシーンにも登場するので、見覚えのある方も多いだろう。
2016.01.04
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「女殺油地獄(おんなころし あぶらのじごく)」は、近松門左衛門の世話物話で、享保六年(1721)に文楽(人形浄瑠璃)で初演されている。本作も、大坂で実際に起きた事件を基に書き下ろした作品だといわれているが、事件の全容については未だ確認されていないという。人気の近松作品ということで、一度は歌舞伎の演目になったが興行的に失敗し、歌舞伎でも文楽でも、上演は一旦途絶えていたらしい。坪内逍遙らが本作を再評価し、明治四十二年に歌舞伎で復刻上演され、文楽でも、昭和二十七年に復活して現在に至る...殺油地獄(上の巻)(※脚色を加え、オリジナルとは異なる表現があることをご了承いただきたい。)大坂天満にある油屋の豊嶋屋は、河内屋からのれん分けされた油屋で、かつてお吉は河内屋へ奉公に出て、そこの次男坊与兵衛の乳母代わりもした。 その与兵衛が4才の折り、河内屋の主人が突然の病で他界。 その後、母のお沢が大番頭の徳兵衛と再婚した頃から与兵衛は放蕩を繰り返し、その度に、お吉は与兵衛の尻ぬぐいをした。 ある日、お吉は与兵衛が油屋元締の小倉屋市兵衛の一人娘の小菊と恋仲になり、逢う瀬を重ねていることを知ってしまう。 二人の関係が、表沙汰になることを案じたお吉は、与兵衛に意見するが聞く耳を持たず、なおも二人は淫らな関係を続け、遂に捕縛される不始末を起こす。この時は、市兵衛の口利きで何とか与兵衛は放免となったが、市兵衛は、娘と別れないなら油の株仲間から河内屋を外すといい出した。 今までは、目をつぶってきた義父の徳兵衛だったが今度ばかりは許さず、与兵衛を激しく打ち据え、関係を絶つよう迫るが与兵衛は開き直り、心配するお吉に心中するとまで口走る。数日後、与兵衛は家を抜け出し、小倉屋から密かに小菊を連れ出すが、駆け落ちという非日常が、異常なまでに小菊を興奮させたようで、小菊の変貌振りに驚いた与兵衛はお吉に助けを求めた。 お吉は、小菊を小倉屋の手代に引渡し、与兵衛に女の魔性を語り諭す。ほどなく、小菊は小倉屋から嫁に出しされ、与兵衛の方も目を覚ましたと見え、仕事に精を出すようになったが、平穏な日も長くは続かなかった。ある日、小菊が与兵衛を誘い出し、再び二人の密会がはじまってしまう。お吉は、小菊に会って忠告したが、小菊は薄笑いを浮かべ聞き入れようとしない。 さらに、相手を嘲るような小菊の態度は、お吉の心に魔性を芽生えさせ、女の意地と嫉妬の情念を燃え上がらせた。 あんな小娘に与兵衛をくれてやるものかと、お吉は遂に与兵衛と激しい情を交わし、それが後に悲劇の迎え火となるのだった・・・。物語は明日につづく...m(_ _)mさて、1月14日からNHK総合で放映される木曜時代劇は近松門左衛門。しかし、作家としてスランプに陥ったダメ男という風変わりな設定だ。近松を松尾スズキが演じ、お節介な渡世人とともに大坂をお騒がせする。モチーフは曽根崎心中だが、人情喜劇として脚色されている。あまり馴染みのない、古典に興味を持つイイ機会になるともよい。
2016.01.03
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先ずは皆々様へ、新年明けましておめでとうございます。本年も、何卒ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。皆様のご健康とご活躍を心よりお祈り申し上げます。 ☆写真をクリックすると拡大♪さて、今朝は一点の雲も... いや、雲は多少あったが、初日の出が熊野の海に美しく輝いていた。さて、一年の計は元旦にありという言葉がある。実は、この諺は戦国武将毛利元就の言葉に由来するもので、一般にいわれる、一年の計画を元旦に立てよということではない。毛利元就は、元三の儀式を大変重んじる人物だった。元三(がんさん)とは、年、月、日の三つのはじめという意味で元三日ともいい、のちに、正月三が日の意味に用いるようになったそうだ。元就は、日頃から何事もはじめが肝心だと考え、先ず、元旦から寝坊して儀式を疎かにするのは駄目だといい、一歩目から、怠けては駄目だというのが本来の意味だ。招財進宝とは、財を招き宝が入ってくることを表し、財運を高め、思うままに幸運を手にするという意味も成す。財運や縁起物にと、人々の夢を適える財運の篆書文字で、玄関などに招財進宝の文字を飾ると財や宝を招くといわれる。また、古来桃色は中国では富と健康を象徴する色彩として好まれ、瓢箪も縁起物とされるので、こんな風にデザインして彫ったものを、銀箔を散らした薄桃色の和紙に紅花の赤で押した。写真を自由にダウンロードして、携帯の待ち受けにでも使って欲しい。皆々様にとって、穏やかでよき一年のはじまりであるよう、心から願いたい... 元旦
2016.01.01
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