2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全2件 (2件中 1-2件目)
1
★ラム&コーク 北の巨人とのかかわりの系譜最初に、1930年代のキューバ音楽を生み出したキューバとアメリカの社会について、八木啓代さんと吉田憲司さんの著書『キューバ音楽』(2001年、青土社)の第4章から要約します。1920年1月16日をもって、アメリカ本土では合法的には酒が呑めなくなった。続々と闇酒場が生まれ、酒を密輸したギャングは儲けたが、人間、堂々と酒の呑める場所だって欲しい。そこで目をつけられたのがキューバだった。隣の国とはいえ、目と鼻の先。しかも、海は綺麗で、エキゾチックなムードを楽しめる。そして、アメリカは空前の好景気に沸いていた。この好況の中で、ラジオは誕生し、ハリウッド映画は発展し、ニューヨークの摩天楼が建設され、不動産と株は暴騰して、億万長者が次々と誕生していた。湯水のようにお金を使える人々が、歓楽を待っていたのだ。そんな中で、シカゴのギャングたちが本腰を入れて、キューバ開発に乗り出した。砂糖で儲けたキューバの資本家たちも負けてはいない。見事な連係プレイによって、キューバのリゾート化が進んだ。ハバナには、アメリカからどっと観光客が押し寄せるようになる。観光客たちにお金を落としてもらうために、カジノが作られ、キャバレーが作られた。ハバナは、まさに不夜城の都市となった。ハバナには、世界中のトップアーティストが集まるようになった。そして、スターたちの伴奏を行うのは、キューバの楽団だった。いくつものジャズのビッグバンドがキューバに生まれた。アメリカのジャズ界のスターたちも、外国公演という意識さえなく、頻繁にキューバの土を踏んでいる。こうしてジャズやアメリカのショウ音楽のエッセンスは、キューバ音楽に採り入れられたのだ。キューバの音楽家たちは、ジャズを完璧に演奏する一方、新しいキューバ音楽を生み出していった。たとえば、1920年代から40年代にクラシックとポピュラーの両分野で大活躍をしたエルネスト・レクォーナは、20代にニューヨークでモーリス・ラヴェルに学び、ロックフェラーセンターのミュージックホールをプロデュース、アフロキューバン組曲などを発表する一方、ショービジネス界では、レクォーナ・キューバン・ボーイズを結成し、数々の名曲を創作している。★「南京豆うり」の世界的ヒットとルンバ・ブームさて、今回は『キューバ万華鏡 私のキューバ体験』(2000年、海風書房)に中村とうようさんが執筆した「世界にはばたくキューバ音楽」の中から、キューバ音楽が「ラ・パローマ」以来ほぼ半世紀ぶりに送り出した第二の世界商品「南京豆うり」の世界的ヒットとそれに続く広範なルンバ・ブームについての記述を紹介します。音楽産業のカネの力が強大であることは、アメリカの強みというよりも、むしろ弱みなのではないかと、ぼくは思っている。カネの力でヒット曲を作り上げてしまうようなことばかりやっていたら、音楽そのものの生命力が育たなくなるからだ。だからときどきアメリカの音楽産業は行き詰まる。そういうときに、どうするかと言うと、外国からネタをパクッて来る。新鮮な生命力に満ちたネタを―。1929年にアメリカで株が暴落して大恐慌に陥ったのは有名な歴史の一齣だ。そのとき、あらゆる産業が落ち込んだなかで、いちばん深刻な打撃を受けたのが、音楽産業だった。1927年、アメリカで売れたレコードのトータルは一億枚を大きく超え、音楽産業にとっては絶頂期だった。ところが大恐慌のあとの1932年のレコードの総売り上げは、たったの600万枚、つまり5年前の6パーセントにも達しないというミジメな数字となった。この不景気のピークだった1930年代の初めに、唯一の明るい話題を提供したのがキューバから輸入した新しい音楽、ルンバだった。まず「南京豆うり」という曲がドン・アスピアス楽団のレコードで大ヒット、つづいて何曲ものルンバのレコードが発売された。レコードが売れただけでなく、ルンバの踊りが流行したことでクラブやダンスホールも賑わった。アメリカに「南京豆売り」を紹介したドン・アスピアスという人物はもちろんキューバ人で、名門のオボッチャマとして生まれ、兄のアントバルとともにアメリカに留学した。そのころキューバの大統領に就任したメノカール将軍はアメリカのマスコミにキューバをPRしようという気になり、アメリカの大学を出たばかりのアントバルにその役を命じた。そこでアントバルはニューヨークにキューバ音楽を紹介する事務所を設けると、ハバナでバンド・リーダーをやっている弟のドン・アスピアスをニューヨークに呼び寄せてバンドをやらせ、自分はそのマネージメントをやるという道を選んだ。それというのも、1929年の株の暴落でアントバルも損失を負い、音楽でカネもうけして借金を返そうと考えたらしい。1930年4月29日、ニューヨークのパレス・シアターでドン・アスピアスとハバナ・カシーノ・オーケストラのショウが開幕。米国人がマラカス、ボンゴ、コンガを使ったラテン・ダンス・バンドを見たのは、これが初めて。ショウは大好評で、これを見たRCAビクターは同年5月14日に「南京豆うり」を吹き込ませ、レコードは11月に発売され、翌年には百万枚の売上げを記録。この大ヒットでたちまち成功を収め、ブームに乗ってヨーロッパ公演でまたまた大入り続き。アメリカでもヨーロッパでも、不況で沈み込んでいる人々の心にキューバの楽しい音楽ルンバが明るい光を投げかけたのだった。日本でも、いちばん人気のあったコメディアン榎本健一(通称エノケン)など多くの歌手が「南京豆売り」を録音したことで、ルンバの流行ぶりがわかるだろう。Don Azpiazu & his havana casino orchestra "El Manicero"Don Azpiazu & his havana casino orchestra "True Love" Don Azpiazu & his havana casino orchestra "The Voodoo"Don Azpiazu & his havana casino orchestra "Green Eyes"Don Azpiazu & the Havana Casino Orchestra "Caminando"Don Azpiazu & the Havana Casino Orchestra "La Ruñidera"米国での成功の後、1932年、アントバルはアスピアス楽団を連れて渡欧、モンテカルロのカジノで喝采を浴びたあとパリのクラブに出演中に、アスピアスは「どうしてもキューバへ帰る」と言い出し、ひとりでパリを離れてしまう。バンド・メンバーの大部分はアントバルがニューヨークに連れて帰り、新しいメンバーを加えて、アントバル・オールスターズを結成。彼の楽団のレコードは1930年代に日本でも発売され、高く評価された。レコードで見る限りニューヨークでのアントバルの活動は1937年で幕を閉じている。パリ・ルンバはソフトで優雅であるのに対し、ニューヨーク・ルンバはヴァイタリティにあふれている。アスピアスやアントバルはドラムスやティンバーレスを使っている。当時のティンバーレスはダンソーンでの奏法が基本。軽快さの中に力強さを秘めたアントバル独特のリズムはダンソーンの要素による。Antobal's Cubans "Say 'Si,Si'" Antobal's Cubans "A Gozar" Antobal's Cubans "My margarita"Antobal's Cubans "Virgen (In A Cuban Garden)"Antobal's Cubans "They All Look Alike to Pancho"Antobal's Cubans "Tierra Tropical (The Cuban in Me)"Antobal's Cubans "Said the Monkey"アメリカからさらに、ヨーロッパでも日本でもルンバは流行した。パリなどはアメリカ以上のルンバ・ブームで、キューバの楽団が何組もパリに長期滞在し、ルンバ専門のクラブがパリの夜のもっとも華やかなスポットとなった。キューバのルンバが世界的にブームを起こしていた1932年、エルネスト・レクォーナはバンドを率いて渡欧しようとしたが、レクォーナ自身は病気のためとかで参加せず、ピアニスト兼アレンジャーのアルマンド・オレフィーチェがリーダーとなって渡欧、第二次世界大戦が起こるまでパリを中心に活躍を続けた。録音は1935年~1938年に行い、歌手アルベルト・ラバグリアティを擁し、キューバ情緒を適度にヨーロッパ好みに適用させて、欧米風のルンバやコンガを演奏して成功を納めた。Lecuona Cuban Boys "Coubanakan" モイセス・シモンズ作。シモンズ自身がピアニストとして客演。Lecuona Cuban Boys "Esclavo Soy"エリセオ・グレネ作。♪私はどれい、黒い肌は生まれつき。私の運命もまっ黒。私はとらわれのルクミ族。自由なしに生きなければならない。でもいつかは黒人にも自由の日が来る。わが恋人パンチャよ、その日が来たら思い切り踊ろうよ。Lecuona Cuban Boys "La Comparsa De Los Congos"エリセオ・グレネ作。Lecuona Cuban Boys "Anacaona"エルネスト・レクォーナ作。アナカオーナとは、スペインに征服される前のキューバの女王だったとされる伝説上の人物。Lecuona Cuban Boys "Tabou"エルネストの姪マルガリータ・レクォーナ作。Lecuona Cuban Boys "Para vigo me voy"エルネスト・レクォーナ作。年老いた母に別れを告げて旅立つ息子の歌。Lecuona Cuban Boys "Rumba Tambah"ラファエル・エルナンデス作。Lecuona Cuban Boys "En la Plantación"アルマンド・オレフィーチェ作。南国の田園風景の中でのロマンティックな恋の歌。Lecuona Cuban Boys "Guajira" アルマンド・オレフィーチェ作。グアヒーラとは、農村部の民謡ではなく、田舎娘のこと。Lecuona Cuban Boys "Luna de Monte Carlo"アルマンド・オレフィーチェ作。キューバ音楽は、民衆の生活感情をリアルに写し取るといった性格よりも、どうせ歌なんて芝居がかった“そらごと(空事)”さ、とでもいうようなクールな姿勢が根底にあって、架空の世界に遊ぶファンタジー的な要素が共有されていた。キューバ音楽は、そのような性格を体現していたからこそキューバ人以外に容易に受け入れられた。パリでは、芸能都市パリにふさわしい形にアダプトされ、すぐに根を張ることができた。レクォーナ・キューバン・ボーイズやカスティジャーノス兄弟、ドン・バレット、リコズ・クレオール・バンドは、パリに溶け込み、フランス色に染め上げられたキューバ音楽を聞かせる。キューバ音楽のファジーな性格を活かして土着化し、土地の色に染まることで新たなキューバらしさを発揮している。バレット兄弟もフィリベルト・リコも、1926年頃にスペイン経由でパリにやって来て、最初の演奏活動はジャズが中心だった。20年代末になるとビギンが商売になり始め、30年代に入るとルンバ・ブームが始まって、ルンバを中心に演奏するようになった。キューバ音楽を最初に録音したのは1930年11月~12月のカスティジャーノス兄弟の「ミ・トゥンバオ」と「クンバンバ」。バレットの「マルタ」は1932年5月の録音で、それ以後、パリでのルンバの録音は盛んになる。E. Castellanos "Cumbamba"Don Barreto et son Orchestre Cubain "Marta"モイセス・シモンス作。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Beguin-Beguine"これはキューバ音楽ではなく、マルチニーク島のビギン。ヴォーカルはシャンソンの大スターであるジャン・サブロン。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Nella"ギターはドン・バレット。Don Barreto et son Orchestre Cubain "melody's bar"ホセ・リエストラ作。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Trigueñita"フリオ・ブリート作。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Lamento Cubano"エリセオ・グレネ作。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Cubanella"レイモンド・ゴットリーブ作。リコのフルート、バレットのギター、ゴットリーブのピアノ。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Tristessa"ドン・バレット作。Rico's Creole Band "Lamento Esclavo"エリセオ・グレネ作。Rico's Creole Band "Buscando Millionarias"ホセ・リエストラ作。Rico's Creole Band "Vision De Venus"フィリベルト・リコ作。Rico's Creole Band "See Saw (Cachumbambe)"モイセス・シモンス作。Rico's Creole Band "Shangai"Rico's Creole Band "Biguine d'amour"Rico's Creole Band "Alma de mujer"Rico's Creole Band "La sitiera"Rico's Creole Band "Como una rosa"Rico's Creole Band "Canto caribe"エルネスト・レクォーナ作。アントバルとアスピアスの兄弟に続いてアメリカで成功したもうひとりのキューバ人が、デシ・アルナスだ。こちらも名門の出身。なにしろ父はキューバ第2の都市サンティアーゴの市長だった。市長のドラ息子デシは、アメリカでミュージシャンになり、人気バンドのザビア・クガート楽団などで活躍したあと自分のバンドを作り、やはりルンバで人気をつかむ。Desi Arnaz and his La Conga Orchestra "La Conga (Asuncion)"Desi Arnaz and his La Conga Orchestra "Africa Canta"Desi Arnaz "Conga" from the RKO movie "Too Many Girls"Desi Arnaz "Babalu" だが彼がいちばん成功したのは、テレビ・ドラマだ。アメリカの初期のテレビ界で人気最高だった「アイ・ラヴ・ルーシー」(ルーシーショウ)の主役ルシール・ボールはデシの奥さんであり、デシのほうもあのドラマで、実生活どおりルーシーの亭主役を務めていたのだ。"Lucy Takes a Cruise to Havana" Desi Arnaz Jr. portrays his father in "The Mambo Kings"こうしたキューバ出身者だけでなく、南米のあちこちからアメリカにやってきた連中やら生粋のアメリカ人やら、いろんなミュージシャンたちが、ニューヨークをはじめアメリカ各地でいわゆるラテン音楽を演奏した。★キューバ音楽のエクゾティシズム最後に「キューバ音楽のスケールが大きくなったのは、その国際性による」と分析する田中勝則さんの文章「キューバ音楽のエクゾティシズム」(スタジオ・ボイス1997年4月号 特集:キューバ~革命とエロス掲載)の一部を紹介します。ぼくが言うキューバ音楽の特徴である、エクゾティシズムと隣り合わせにやっていくようなスタンスは、この国にポピュラー音楽が生まれた時から持ち合わせていたものじゃないかと思う。なにしろキューバはカリブ海に浮かぶ小さな島。自国にさほど大きな音楽マーケットを持っているわけはなく、その歴史は外国との付き合いなくしては考えられない。むしろキューバ音楽をこれほどスケールの大きなものにしたのは、そんなこの国の音楽の国際性によるとも考えられる。30年代初頭、パリに進出したルンバ・バンドには、レクォーナ・キューバン・ボーイズやドン・バレット楽団、そしてニューヨークに向かった中にはドン・アスピアス楽団やアントバルズ・キューバンズなどがあったが、彼らこそがエクゾティックでありながら自己主張も忘れない、キューバ音楽の一番の特徴を確立させた偉人たちだ。パリではパリなりに、ニューヨークならニューヨークなりに、ルンバは聞き手の趣向に合わせてファジーにスタイルを変化させながら、同時にキューバ音楽の心というものを世界中に広めていった。
2013.04.14
コメント(0)

中村とうようさんの魂を追悼するため、とうようさんの著書を少しずつ読み直しています。今夜は、1999年9月20日に発行された岩波新書『ポピュラー音楽の世紀』の中から、ソンが成立するまでのキューバの融合音楽の歴史のエッセンスを紹介します。ラ・パロマは、1859年に出版され、世界的に大ヒット。リズムはハバネラ。キューバで生まれたリズムで名称もハバナに因んでいる。作曲家イラディエールは若い頃キューバに住んでいた。スペイン人によって送り出されたキューバの音楽だ。"La Paloma"カリブ海の多くの島々で、ハバネラが出てきた19世紀よりずっと前からアフリカとヨーロッパのリズムが融合して、様々な新しい民衆文化を生み育てていた。そのなかからポピュラー音楽が開花していく。世界で一番早くポピュラー音楽が芽ばえたのは、カリブ海と南アジア・東南アジアだ。コロンブスたちのカリブ到達とヴァスコ船団のインド洋横断に始まるヨーロッパとアメリカ大陸やアジアとの出会い、アメリカ大陸に黒人奴隷が連れ込まれたことによるアフリカとの出会いこそ、世界史上で最大のインパクトを持つ空前の文化衝突であった。ポピュラー音楽もその副産物。近代以降の世界の歴史は、表面的にはヨーロッパ・アメリカを中心に動いてきた。しかし、中心たるヨーロッパのはなばなしい発展は、周縁化したカリブ海・南アジアからの略奪があって初めて成り立った。周縁は、従属化という形での発展を、むしろ先進国よりも先に、なし遂げたのだ。融合文化の形成はどのような条件のもとで起きるのか。19世紀のカリブ海では、労働力を満たすために放り込まれた下層ヨーロッパ人たちは、それぞれの故郷を捨て去って新しいカリブ人に生まれ変わって生きてゆくしかなかった。彼らは、強いインパクトを持つ民衆文化を必要とした。それが、躍動するアフリカン・リズムによって身体性をなまなましく表現する踊りの音楽だったのは、当然の成りゆきだろう。19世紀カリブ社会のテンションは、ジャズを作ったニューオリンズよりも高かった。こうして生み育てられた新しい融合音楽が熟成したのが、ハバネラだった。白人たちもヨーロッパ的な音楽伝統だけでは充分に生きてはゆけないことを自覚せざるを得なかった。体の奥から揺さぶってくれるようなビートを求めてやまなかった。その欲求に応えられるのは、肉体の解放による満足感と高い精神的な喜びとを合一させたアフリカのダンス音楽しかない。融合音楽のなかにアフリカン・ビートの魂がどれだけ息づいているか。ジャズは、ハーモニーや演奏テクニックなどヨーロッパ的な価値観に進みがちだった。カリブの島々の音楽は、コミュニティを基盤としてアフリカン・ビートの生命力を受け継ぎ、強固なアイデンティティを保った。キューバでは、スペイン系の白人農民は内陸部で砂糖きびやタバコを作り、奴隷の子孫である黒人たちの多くは都市のスラム地区でコミュニティを作って単純労働で暮らしてきた。白人農民のスペイン系音楽がグァヒーラ、黒人宗教音楽がサンテリーアやニャーニゴ、黒人世俗音楽がルンバ。ルンバは、声自慢の男が最近の出来事などを即興的に歌い、他の全員がコーラスを挟む、コール・アンド・レスポンスの形。踊りは男女が対になり、タイコが踊り手にサインを出す。歌、打楽器、踊りが三位一体となってひとつの世界を作り出す。Carlos Embale y Coro Folklórico "El Edén de los Roncos""Consuélate como yo"キューバの黒人たちがカトリックの聖者の像を礼拝していたとしても、心の中ではアフリカ生まれの神々を歌とタイコと踊りで礼拝してきた。こうした宗教活動がアフリカン・ビートの保存装置となり、コミュニティの結束を保つ役目を果たした。Merceditas Valdés "Shango"キューバでは19世紀末にはギター伴奏でじっくり聞かせる歌カンシォーンが重要な存在となっていた。白人っぽいきれいなメロディと聞こえても、そこには黒人の感覚が入っていて節回しの微妙な味わいやリズムのノリに影響しているのである。Maria Teresa Vera "Veinte Años"キューバ音楽は1910年代後半のソンの成立で新しい段階を迎えた。ソンは、ほぼ対等と思える黒人と白人の協力で生まれた点で、世界に類例のない音楽だ。誰の耳にもまぎれもなく20世紀大衆のダンス音楽であり、ポピュラー音楽であった。 Septeto Típico Habanero "Como Esta Miguel" Conjunto Típico Cubano "Dulce Habanera" Septeto Típico Habanero ""El Florero"ソンは、スペイン色の濃い歌の主題部と、アフリカ的な繰り返しの部分とから成る。簡単なイントロのあと、主題部をリード・ヴォーカルが歌い、繰り返しのパート(モントゥーノ)をリード・ヴォーカルと全員のコーラスの掛け合いで演奏する。 Septeto Típico Habanero " El Tomatero"" Elena la Cumbanchera" Conjunto Típico Cubano "En el Silencio de la Noche"ソンのバンドが使う楽器は、トレースという小型で高く響くギター、普通のギター、ベース、マラカス、クラーベス、ボンゴの6種。半数がヨーロッパ系の弦楽器、半数はアフリカ系の打楽器。1920年代後半にはトランペットが加わった。Septeto Típico Habanero "Junto al Rio""A la Loma de Belen" Conjunto Típico Cubano "Maltrato"クラーベスは、2小節に5つの決まったビートを打つ。前半1小節の3打は、ハバネラの基本でもあったスペイン系ダンス音楽のリズムを受け継ぐ。後半1小節の2打は、シンコペーションで始まり、アフリカン・ビートの躍動感が生きている。Conjunto Típico Cubano "Nieves""Tiene Son y Guanguaco""Tres Lindas Cubanas"イグナシオ・ピニェイロは、ハバナの黒人居住区で生まれた。マリア・テレサ・ベラのベーシストを経て、1927年にセプテート・ナシォナールを結成。セカンド・ヴォーカルの対位的な絡み方、トレースのビートの効いたフレージングが特徴。Septeto Nacional de Ignacio Piñeiro "Esas No Son Cubanas" トリオ・マタモロスは1925年から1960年まで35年間、同じメンバーで活動。ミゲール・マタモロスの書く曲は、古くからキューバの民衆が歌ってきた民謡の伝統を守った親しみやすい曲で、味わい深いフレーズが散りばめられている。Trio Matamoros "Reclamo Místico""Olvido"ロス・コンパドレスは、ロレンソ・イエレスェーロとレイナルドの兄弟。ロレンソはマリア・テレサ・ベラの伴奏者を17年つとめた。1949年からデュエットで活動。オリエンテ州の伝統を受け継ぎながら現代に生きるキューバ音楽を創造。Duo Los Compadres "Frutas De Caney"モダン・グァヒーラは、キューバの内陸部で砂糖きびやタバコを作っていたスペイン系の白人農民の民謡が、ソンの影響を受けたもの。ややスパニッシュ的なメロディにパーカッションも加えた伴奏がつき、艶と丸みのある声で生き生きと歌う。Ramon Veloz y Conjunto Saborit "Amorosa Guajira"
2013.04.06
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1
![]()

