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周防国(山口県)と安芸国(広島県)の県境に架かる両国橋を渡ると、山陽道も西国街道と名前を変えることとなりました。両国橋(広島側から見たところ)山陽道は山口県内の呼び方で、正式には西国街道と呼ぶそうです。県境を流れる小瀬川も、広島県側では木野川と呼び方が変わります。西国街道となった山陽道は、国境を越えても木野川(小瀬川)沿いを通っていました。幕末の第二次長州征討では、長州軍と幕府軍が木野川を挟んだ戦いの舞台でもあります。ちなみに山口県では「長州征討」や「長州征伐」とは呼ばず、「四境戦争」や「四境の役」と呼びます。四境とは、小倉口(関門海峡を挟んで九州との境)、大島口(瀬戸内海を挟んで四国との境)、石州口(島根県との境)、芸州口(広島県との境)のことです。幕府軍は四境で長州軍を包囲しましたが、いずれの戦いも長州軍の圧倒的優位に終わりました。そのうちの芸州口の戦いの舞台となったのが木野川で、1866年に周防国側に長州軍、安芸国側に幕府軍が対峙しました。幕府軍の先鋒を務めるのは彦根藩主井伊直憲、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の次男です。JR大竹駅前にある芸州口戦いの図木野川を挟んで右側(広島側)が幕府軍、左側(山口側)が長州軍で、中央の2騎は幕府の使番です。幕府軍の先鋒を井伊氏が務めるあたりは、なんとも中世的な感じがするのですが、兵装も甲冑姿などの前近代的なものだったようです。一方の長州藩ですが、第一次長州征伐では降伏して不戦敗に終わったものの、この時は高杉晋作のクーデターによって藩の体制も変わっていました。奇兵隊などの民兵組織が編成され、大村益次郎の主導による近代的な用兵に変わっていました。芸州口の戦いでは、幕府軍は長州軍の5倍の3万人で布陣しましたが、長州軍の近代兵器と用兵の前に敗北を喫しました。(結果は勝海舟の調停により、休戦・引き分けとされました)幕府軍が布陣した「苦の坂」の西国街道長州遊撃軍は苦の坂の背後にも侵攻し、幕府軍の退路を断ちました。苦の坂から先はほとんど通行不可能だったので、迂回して大竹の市内へと回って行きました。西国街道は旧家の並ぶ小方を通り、亀居城へと続いていました。小方の街並み玖波宿の宿場町は、四境戦争で焼失してしまい、旧街道の街並みはほとんど残っていませんでした。
2011/10/12
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台北で林森北路と言えば日本人街の代名詞のような場所で、特に長安東路から南京東路に至る間は、「在台ビジネスマン御用達」とか、「飲み屋街」などと紹介されています。(在台日本人向けのフリー雑誌である「My Town Taipei」でも、林森北路のお店が大半です)おそらく在台の日本人は、オフィスを出た後に林森北路に立ち寄り、それから天母エリアにある自宅に帰るパターンかと思うのですが、私の場合は家が信義エリアと反対方向にあるので、わざわざ林森北路まで行くことはありませんでした。今回は在シンガポールの日本人駐在の人と台北で飲みに行くこととなり、私がシンガポールに行った時は在シンガポールの日本居酒屋を紹介してもらったこともあって、今度は反対に台湾の日本居酒屋を紹介するべく、噂の林森北路に行くことにしました。初見参の林森北路カタカナの看板がありますが、「メロリ」の意味が不明。。。林森北路は南北に延びる道路ですが、東西に横切る道路は台北の住所表記「〇〇巷」に加え、「五条通り」・「六条通り」などの日本風の名称が付けられています。日本語で書かれた看板があふれているのですが、その中でたまたま入ったのが「七条通り」にある居酒屋「呑兵衛」です。店の名前も店構えも日本ではありがちですが、これが普通に台北にあるのが驚きです。台北の日式居酒屋では、通常日本語表記と中国語表記が併用されているのですが、ここでは店内全て日本語表記になっていました。違うのは通貨の単位くらいでしょうか。おそらくパラボラアンテナを取り付けたのだと思いますが、店内では日本のBS放送が放映されていました。普段は日本語のテレビと言えば、「NHKワールド」・「緯来日本」・「國際衛視」くらいしかなく、いずれもつまらないので、ここではテレビが珍しい存在でした。
2011/02/21
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新宿といっても葛飾区新宿で、読み方も「にいじゅく」です。江戸時代には水戸街道最初の宿場町があり、江戸との間には中川が流れているため、対岸の亀有との間は渡し船で行き来していました。中川は荒川と利根川(江戸川)の間を流れるですが、江戸時代ではこの中川が荒川・利根川水系の本流だったそうです。したがって江戸時代には中川という名前はなく、現在も上流部は古利根川や元荒川と呼ばれています。荒川や利根川の付け替えによって、今となっては取り残された感じの河川ですが、今ではのどかな河川敷が続いています。水戸街道付近の中川江戸時代にはそれなりの大河だったようで、当時は水戸街道を往来する人でにぎわったことでしょう。歌川広重「名所江戸百景 にい宿の渡し」
2010/04/22
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徳川家康の関東入封時の榊原康政が10万石で入り、徳川綱吉(後に5代将軍)の時に25万石と、上野国(群馬県)最大の規模を誇ったのが館林藩で、その城下町の中心にあったのが館林城です。現在となっては、城下町・城郭ともにほとんど面影はありませんが、「紺屋町」や「鷹匠町」など、城下町を偲ばせる地名が残り、所々に往時の姿が復元されていました。復元された長屋門と旧宅復元された館林藩士旧宅鷹匠町にあったものを移築・復元したものです。城郭を見る時、普段はあまり城下町に気を留めないのですが、榊原康政が基礎を築いた館林の城下町だけに、すこしゆっくりと見て回ることにしました。紺屋町付近の登城道城下町と城郭の境目は、片側が町屋だったことから「片町」と呼ばれ、片町に大手門が置かれていました。大手門付近大手門から城内を歩いて行くと、(といっても普通に住宅地の中を歩いていただけですが)「土橋門」の櫓門が見えてきました。土橋門(外側)土橋門からが三の丸となり、土橋門の内側に枡形になっていました。土橋門(内側)三の丸は高い土塁で囲まれていたようで、周りの土塁も一部残っています。土塁は見事なのですが、三の丸の曲輪そのものは見る影もなく、文化会館の敷地に変わっていました。ここが城の曲輪だと、考える方に無理があるような気がします。三の丸からは二の丸が続いていたと思われるのですが、こちらは城郭の遺構すら残っていません。現在の二の丸は市役所の敷地となって、「日本一暑いまち館林市暑さ対策本部」が置かれていました。外を歩く人をほとんど見かけないのも納得です。二の丸は見る影もなかったのですが、それでも二の丸から本丸方向を眺めると、遠くに土塁のようなものが見えていました。本丸には三層の天守や櫓が置かれていたそうですが、現在は別の建物が建っているようです。そして本丸跡に行ってみると、近代的な「向井千秋記念こども科学館」が建っていました。こうなると如何ともし難い状況ですが、やはり榊原康政や徳川綱吉よりも、館林出身の宇宙飛行士、向井さんの方に軍配が上がるようです。そのこども科学館の南側には、先ほど見えていた土塁が残っていました。本丸の土塁館林城の本丸の南東側、ちょうど搦め手方向には城沼と呼ばれる大きな沼が広がっているのですが、その城沼と本丸の間にもいくつか曲輪が置かれていたようです。その曲輪の1つである「八幡曲輪」には、館林城の守護神として八幡宮が祀られており、現在も八幡宮が鎮座しています。八幡宮明治になってからは最後の藩主であった秋元氏の所有地となり、現在も秋元氏の別宅が保存されていました。本丸の周辺を探ってみると、他にも館林城の遺構があり、しかもそれが無造作に置かれていました。二の丸・三の丸から出土した石垣石田山花袋の旧宅敷地内に置かれていたのですが、ということは田山花袋も館林城跡に居宅を構えていたことなります。その田山花袋の旧宅敷地には、「浜田藩中奉納手水場鉢」も野ざらしのまま置かれていました。1836年に当時の館林城主であった松平斉厚が石見国浜田藩に移封になった時、松平家の家臣たちが館林在任中の感謝の意を表すため、館林城下の八坂神社に奉納したものと言われています。手水鉢の側面に家臣たちの名前が刻まれている貴重なものですが、もう少しマシな保存の方法はないものでしょうか。館林城の搦め手にあたる本丸の南東側には、周囲5kmもある大きな「城沼」が広がっています。城沼この天然の要害があれば、ここに城を築くのも納得ですが、実はここに縄張りを定めたのはキツネだったと言われています。館林城は、1528年に赤井照光によって築城されたと言われています。当時大袋城主であった赤井照光が、殺されそうになった子狐を救ったところ、次の夜に老翁が現われて、子狐を救った礼を述べると共に、大袋から要害堅固な館林に移るよう薦めたそうです。さらには次の夜に老狐が現われ、館林への道案内をするとともに、尾を曳いて縄張りを定めたと言われています。館林城は別名「尾曳城」とも呼ばれますが、このキツネが縄張りをしたという言い伝えに由来したもので、赤井照光は城内の一角に「稲荷曲輪」を設け、尾曳稲荷神社を祀りました。尾曳稲荷神社戦国時代になると、赤井氏は上杉謙信に降伏開城し、館林城も上杉氏の支配下となりました。その後も甲斐武田氏・小田原北条氏との三つ巴の争いを経て、最後は小田原北条氏の支配下となっています。そして1590年の豊臣秀吉による小田原の役の時、豊臣方の大谷吉継・石田三成の軍勢の前に降伏し、館林城は開城されました。小田原の役の後、徳川家康が関東に入封してくると、館林城には榊原康政が10万石で入城してきました。榊原康政と言えば、徳川四天王に数えられた功臣ですが、「なんでまたこの人が館林に?」という気がしないでもありません。(井伊直政が11万石で同じ上野国箕輪城(後に高崎城)に入ったり、本多忠勝が10万石で上総国大多喜城に入ったりというのも、同感ではありますが)いずれにしても上野国に榊原康政・井伊直政の2人を配することで、十分北への抑えになったことでしょう。関ヶ原の戦い後、榊原康政には水戸25万石への加増・移封の話があったそうです。しかしながら榊原康政は、館林城の方が江戸城に近いこと、そして関ヶ原の戦いでは功績がなかったことを理由に、この申出を断ったと言われています。その代わりに榊原康政は城下町の整備に勤め、堤防工事や日光脇往還の拡充など、館林の発展の基礎を造りました。そして1661年には、徳川家光の4男である徳川綱吉が、25万石で館林城に入りました。1680年に4代将軍徳川家綱の跡を継いで第5代将軍となり、館林藩は一躍将軍を輩出した藩となっています。
2010/08/12
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南総里見八犬伝では、「八房」生誕の地として「犬掛」の名前が出てきます。犬掛にある八房像もちろん南総里見八犬伝はフィクションですが、実際の歴史でも犬掛は里見氏にとって因縁深い場所であり、戦国時代の里見氏の歴史では「犬掛の戦い」として登場する場所です。犬掛の遠景南房総の中央部を南北に通る平久里街道沿いにあります。犬掛の戦いは、里見氏第4代の里見義豊と第5代の里見義尭の、従兄弟同士の間で起こった里見氏の内紛「天文の内訌」によるものですが、この両者の間で戦いが行われたのが「犬掛」でした。里見家第4代当主であった里見義豊は、里見氏第3代当主の父里見義通が亡くなった後に家督を継ぎ、稲村城に入城しました。里見義通の弟で、里見義豊の叔父である里見実尭とその息子里見義尭は、金谷城へ入っていました。この時に上総進出を狙う小田原城の北条氏綱は、当主の里見義豊を排除するべく、里見実尭と実尭の側近正木通綱に接近していきました。この里見実尭・正木通綱・北条氏綱の動きに危機感を抱いた里見義豊が、叔父の里見実堯と側近の正木通綱を稲村城に呼び出して誅殺したことが戦いの発端です。さらに里見義豊は、里見実尭の息子である里見義尭も攻めるべく、義尭の居城であった金谷城にも攻め込んできました。一方、父里見実尭を殺害された息子の里見義尭も、同じく稲村城で殺害された正木通綱の息子、正木時茂・時忠と共に、父の敵である義豊を討つべく決起しました。そして里見義尭軍は造海城に籠城し、それまで里見氏の宿敵であった北条氏綱に援軍を求め、北条氏綱も要請に応じて造海城に援軍を送って来ました。そして里見義尭・正木兄弟・北条の連合軍と里見義豊軍が激突したのが「犬掛」の地であり、この「犬掛の戦い」で里見義豊は討ち死にしています。犬掛にある里見義豊の墓所元々廃寺となった大雲寺にあったものをここに移したものです。戦いの結果は里見義尭の勝利で終わり、里見義尭は里見第5代の当主となりました。道端の小さな石碑だけがその戦場の跡を示していました。これまでは、「里見義尭が父の敵討ちのため、やむなく北条氏綱に援軍を求めて挙兵した」との、里見義尭よりの説が有力でした。しかしながら近年の研究では、これは北条氏綱と組んだ里見義尭のクーデターだったと言われています。里見氏の宿敵である北条氏と組んで里見氏の当主を討ったこと、さらには後の「第一次国府台合戦」で、里見義尭は北条氏綱を裏切ることになるため、里見義尭としては何ともバツの悪い話ばかりです。いずれにしても、里見義尭はこの戦い以降房総全域へと勢力を伸ばし、里見氏の全盛期を迎えました。関連の記事稲村城→こちら金谷城→こちら造海城→こちら
2009/10/17
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白砂と青松が続く虹ケ浜海岸と室積海岸の間には、製鉄所や工場の立ち並ぶ工業地帯があります。戦前まで光海軍工廠のあった場所で、戦後になって民間企業の工業用地として利用されるようになりました。島田川の対岸から見た光海軍工廠跡(製鉄所の施設が見えています)光海軍工廠は昭和15年10月1日に、当時の熊毛郡周南町に開設されました。光海軍工廠の開設を機に、周南町から光町へと名称が変わり、現在の光市へと続いています。かつて海軍工廠の正門があった場所には今も「正門町」の名称が残り、現在は民間工場の入口となっていました。製薬会社の工場ですが、現在も海軍工廠の建物が一部使われています。海軍工廠のすぐ西側には島田川の河口があり、河口付近からはかつての「艦船ポンド」の跡を見ることができました。かつての海軍工廠の目の前には周防灘が広がっていますが、呉港から出撃した連合艦隊の集結地でもあったそうです。光海軍工廠には「回天」の基地も置かれ、回天の出撃28回/148基のうち12回が光基地から行われたとの記録があるそうです。光市文化センターには、訓練用の回天の頭部が展示してありました。終戦後光市内の海岸に埋没していたものを、掘り起こして保存したものです。広島県呉市の大和ミュージアムに展示されている「回天」光海軍工廠は終戦前日の昭和20年8月14日に、マリアナ諸島より飛来したB29の編隊157機によって爆撃され、738名の犠牲者を出すと共に工廠施設の約72%が損壊しました。光市文化センターにあるアメリカ軍の航空写真「HIKARI NAVAL ARSENAL」と書かれ、「TARGET NO」や緯度・軽度と共に、写真上に爆撃目標が円形で記されています。目標は4ヶ所あり、主に本部庁舎や工場が目標とされていました。また、7月に書かれたアメリカ軍のレポートも展示されており、「日本の最も重要な工廠の一つ」と書かれた上で、「この目標の破壊は、日本にとって最も新しくかつ大きなプラントを失うことを意味し、日本の戦争遂行能力に深刻な打撃となろう」と記されていました。
2011/10/16
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高森宿から玖珂(くが)宿までの距離は18町(約2km)しかなく、呼坂宿~今市宿間と同じくらいの短さです。玖珂宿から先、岩国方面に向かう間には山陽道最大の難所と言われる欽明路峠が控えているため、峠道の手前に宿場町を造ったのかと思われます。高森宿からは岩徳線沿いに平坦な道を辿るため、すぐに玖珂宿の宿場町に入った感じでした。玖珂宿の宿場町旅館の看板がありますが、旅籠屋の名残でしょうか。ところで玖珂宿に限らず、旧山陽道の街道沿いには天満宮(天神社)をよく見かけます。防府天満宮のみならず、菅原道真の天神様への崇敬を感じました。玖珂宿の菅原神社元々は江戸時代の大庄屋である岡氏の屋敷があったところです。岡氏は戦国時代に玖珂に本拠地を置いていた杉氏の末裔でしたが、天災や疫病が続くのは毛利元就との戦いで非業の最期を遂げた杉氏のたたりであると、屋敷に天満宮を祀ったことが始まりです。菅原神社前の旧山陽道立派な屋敷が並んでいました。玖珂宿の本陣は残っていませんが、玖珂小学校の前が本陣だったようです本陣付近の旧山陽道玖珂宿の宿場町を抜けて欽明路峠に入る手前には、名前の由来ともなった欽明寺があります。欽明寺欽明天皇(在位540年~571年)の御幸の際、ここで休息をとったことから欽明寺と名付けられました。昭和15年の火災によって伽藍が焼失し、昭和17年に周防武田氏16代の武田甲斐人氏によって、観音堂が再建されています。観音像は行基の作と伝えられていたようです。加藤清正を祀る堂宇もあったそうですが、意味がよくわかりません。欽明寺のすぐ近くには、その周防源氏武田氏の屋敷跡がありました。1540年に安芸武田氏が毛利元就の援助で欽明路に居を構えたのが始まりで、江戸時代の1818年に武田宗左衛門が稽古屋敷を設け、明治の小学校の前身となったそうです。門以外の建物は現存していませんが、門の向こう広がる敷地には石垣が一部残り、武田氏の墓所が並んでいました。欽明寺からは、いよいよ山陽道最大の難所とも言われる欽明路峠へと入って行きます。欽明寺前の旧山陽道奈良時代の730年には、大宰府の少典である山口忌寸若麻呂が、欽明路を越えた時に次のように読んでいます。周防なる磐國山を超えむ日も 手向けよくせよ 荒しその道中峠付近もちろん舗装道は後になって造られたものですが、それでも急な峠道でした。現在徳山方面と岩国方面の連絡として、鉄道ではJR岩徳線と山陽新幹線、車道では県道15号線「欽明路道路」と旧山陽道が欽明路峠を通っています。旧山陽道だけが峠越えの道となっており、後のルートはいずれもトンネル経由となっています。山陽自動車道の欽明路トンネルところで徳山方面と岩国方面を結ぶルートのうち、国道2号線と山陽本線が欽明寺峠を迂回するルートとなっています。国道2号線は欽明寺の手前で急に向きを変えて迂回していますが、国道2号線の開通当初はトンネル技術が発達していなかったためです。それでも欽明路峠を通るルートが最も近いため、国道2号線のバイパスとして県道15号線「欽明路道路」が有料道路として1972年に開通しました。県道が国道のバイパスとなるのも妙な感じですが、国道2号線よりも欽明路道路の利用の方が多く、予定よりも早く無料開放されています。欽明寺道路には長さ1.1kmほどの欽明寺トンネルがありますが、鉄道は勾配が苦手なので、車道よりもトンネルが長くなっていますJR岩徳線の欽明寺隧道が約3km、山陽新幹線の新欽明寺トンネルは約7kmの長さがあります。山陽本線は全く関係ない瀬戸内海沿いを通っていますが、元々は最短ルートを行く岩徳線が山陽本線となっていました。複線電化にあたっては、欽明寺トンネルをもう一本掘る必要があるため、海沿いを迂回する柳井線を複線電化させて山陽本線に昇格させた経緯があります。お蔭で岩徳線の方は最短ルートにも関わらず、幹線から降格となり、未だに単線非電化のままです。欽明寺峠は東の京都方面に向かう下りの勾配が急となっており、車道もアスファルトではなくコンクリートの滑り止めがついているほどでした。京都方面から西へ向かう旅人は急勾配を登ることになるので、峠を越えて玖珂宿で一息ついたことと思います。
2011/10/08
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山梨県甲府市と言えば、やはりこの人でしょうか。甲府駅前にある武田信玄像。(武田信玄はもっと痩せていたようで、これは武田信玄ではないとも言われています)甲府駅から北に真っ直ぐ約2kmにわたって延びる道が「武田通り」で、その先に武田信玄の本拠地「躑躅ヶ崎館」がありました。躑躅ヶ崎館(武田神社)から見た武田通り。通りの名前も「武田」ならば地名も「武田」、途中には「武田~」がやたらと目につきます。例えばバス停の名前は「武田三丁目(武田歯科医院前)」、とこんな感じです。全国の武田さんは、甲府に来て悪い気はしないことでしょう。当時は武田通りの途中には重臣たちの屋敷が並んでおり、まさにここが当時最強の甲州武田軍の拠点でもありました。今となっては当時の面影はありませんが、屋敷跡の碑がわずかに往時を偲ばせます。武田典厩信繁の屋敷跡。武田信玄の弟で、武将のみならず文人としても優れていました。川中島の戦いで討死しましたが、信玄は信繁の死体を抱いて号泣し、上杉謙信もその死を惜しんだと言われています。馬場美濃守信春の屋敷跡。築城の名手で、山本勘助から武田流築城術を受け継ぎました。設楽原(長篠)の戦いでは、勝頼を逃すために殿(しんがり)を努め、奮戦もむなしく討死を遂げています。板垣駿河守信方の屋敷跡。武田信玄の筆頭家老で、板垣退助の祖先だそうです。武田信玄が諏訪頼重を滅ぼした後は、上原城の城代となり、信濃攻略で主導的地位をしめました。武田信玄が村上義清に敗北した、「上田原の戦い」で討死しています。穴山玄蕃頭信君の屋敷跡。武田信玄の甥に当たり、本能寺の変では徳川家康と共に堺を脱出しますが、途中で討たれたため、武田氏再興の夢を果たすことができませんでした。高坂弾正昌信の屋敷跡「甲陽軍艦」の原本を作ったとされています。美男子であったため、武田信玄の衆道の相手でもあったそうです。その他にも名将たちの屋敷跡が並んでおり、ここが当時最強と言われた甲州軍団の本拠地でした。当時最強と言われた甲州武田軍ですが、「なんでこの人たちはあんなに強かったんだろう」と、未だに疑問です。織田信長が恐れ続け、徳川家康が見習った甲州武田軍、その強さの秘密を知りたいものです。
2008/12/03
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東西線の駅名にもある江東区木場は、その名の通り材木の集積場で、隅田川の河口に広がる集積場には、各地から集められた材木が水面に浮かんでいたようです。歌川広重「名所江戸百景 深川木場」今となっては信じられないほどの風流ですが、木場の貯木場は1969(昭和44)年まで続いていました。1933(昭和8)年の木場の風景現在の貯木場は新木場に移り、木場の貯木場跡は完全に埋め立てられて、木場公園と現代美術館の敷地が広がっています。
2010/07/21
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二俣城から北東に700mほど行ったところに清瀧寺があります。山門本堂ここには二俣城で自害した徳川家康の長男である松平信康の廟所があります。松平信康が自害した2年後に徳川家康はここを訪れ、清水の湧き出ることから「清瀧寺」と名付けたそうです。その名前の由来となった瀧の水は今も流れていました。松平信康が切腹を命じたのは織田信長ですが、その理由については、徳川家臣の讒言によるもの、武田氏に内通した疑いによるもの、性格が粗暴であることなど、様々あります。 松平信康は時に狂暴な性格ながら、父家康は大きな期待をかけていたと言われています。織田信長は自分の息子たちが松平信康に劣るため、将来を危惧して切腹させたとする見方もあるほどです。家康は後の関ヶ原の戦いでの徳川秀忠のふがいなさに腹を立て、「三郎(信康)が生きておれば・・・」と嘆いたとも言われています。松平信康、享年21歳。その最期は武士の鑑とも言えるほど潔いものだったと言われています。ここ清瀧にはもう1つのエピソードがあります。清瀧寺のある二俣の尋常高等小学校に通っていたのが、ホンダの創業者本田宗一郎でした。当時小学校では、清瀧寺の正午の鐘と共に昼食の弁当となっていたそうです。そこで本田宗一郎は清瀧寺に来ては正午よりも30分早く鐘を突き、早めの弁当を食べることに成功していたとのことでした。本田宗一郎が突いた鐘は今も残っています。清龍寺の門前に戻ってくると、けたたましいエンジン音が鳴り響いていました。音の主は隣地にある「本田宗一郎ものづくり伝承館」です。ホンダカブF型
2017/05/11
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律令時代に石見国の中心であった浜田には、江戸時代には浜田藩が置かれており、浜田城が藩庁となっていました。浜田城の城跡は護国神社の境内となっており、神社の参道入口付近に浜田城の大手があったようです。縄張り図大手口にあたる参道入口護国神社への参道を登る途中、下の住宅地の中に石垣が見えていました。下に降りて見に行くことはしませんでしたが、縄張り図によると中ノ門跡のようで、三の丸から二の丸に至る虎口のようです。護国神社の境内には特に遺構らしいものはなかったのですが、ここも三の丸の曲輪の一部だったのかも知れません。拝殿の脇から階段が続いており、階段を行くと石垣と共に薬医門が現れました。石垣の虎口にこの門が建っているのは不自然な感じがしたのですが、この門は後から移築されたものだそうです。それでも創建は明治の初めと古く、浜田県が設置されるにあたって、元々津和野藩庁の門を浜田県の県庁門として移築してきたものでした。二の丸の石垣神社境内の奥にいきなりこんな石垣があったのでびっくりしました。二の丸から本丸へ至る「二ノ門」の跡は枡形になっており、当時は櫓門があったようです。二ノ門跡江戸時代中頃の絵図を見ると、浜田城の本丸は石垣と土塀で囲まれ、隅に御三階櫓が建っていたようです。現在の本丸跡浜田城は西側から南側を流れる浜田川を天然の要害として、北側と東側に外ノ浦の日本海を望む縄張りとなっています。外ノ浦西回り航路が整備された1672年以降、北陸と瀬戸内海の中継地点として、諸国の廻船が外ノ浦に入港してきました。廻船の停泊地には廻船問屋が並び、物流の中継地点として栄えていたようです。西側の旧城下町の方向1619年に古田重治が大坂夏の陣の功により、伊勢松坂より5万5千石で浜田に移封されてきました。古田重治は1620年に築城と城下町の整備を開始し、1623年に築城と城下町の整備が完了しています。1615年の一国一城令以降の新城築城であるため、近世城郭としては最近の城郭でもあります。その後の浜田城主では、お家騒動があったり密貿易が幕府にばれたりと、城主がめまぐるしく変わっていきました。1866年の第二次長州征伐の時は長州の大村益次郎軍に攻められ、当時の藩主松平武聡は戦うことなく敗走しました。この時に自ら浜田城に火をつけ、城と城下町を焼失させています。
2011/05/03
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江戸城の内堀は時計回りに渦巻きを描いていますが、外堀も同様に渦巻き状になっています。雉子橋門をスタートして、ぐるりと回って浅草見附、さらには隅田川が外堀の役目を果たしています。「これを回ったのか?」って話ですが、ちゃんと回りました。(実は何回かに分けて回り、途中地下鉄なども利用していますが・・・)まずは雉子橋門から鍛冶橋門までをご紹介します。古地図で見ると雉子橋門は枡形をしていましたが、今もその一部が残っています。とあるビルの入口にあるのですが、なんとも面妖な感じです。現在雉子橋からの外堀は、日本橋川となっています。こんな感じでずっと続いていました。そして一ツ橋門に到着。当然ながら橋はコンクリートで再建されたものです。しかしながら対岸をよくよく見ると、石垣が残っていました。おそらく枡形門の一部だと思うのですが、これにはビックリです。徳川家康が江戸に入った時、ここには丸太が一本架かっていたため、「一ツ橋」の名前が付いたそうです。さらに8代将軍徳川吉宗の子、徳川家尹がここに屋敷を構えたことから、橋の名前をとって「一橋家」を名乗っています。また橋の北側には、一橋大学(東京商科大学)がありました。一ツ橋門の次の見附は神田橋門ですが、こちらはよくある普通の橋が架かっているだけです。やはり内堀と違って外堀は望み薄かと思いきや、その次の常盤橋門には枡形が残っていました。橋の向こう側に枡形が見えています。常盤橋門枡形の石垣。実は外堀の見附の中で、この常盤橋門が最もよく残っていました。この常盤橋門の橋のそばには、北町奉行所が一時置かれたこともあったそうです。常盤橋からは外堀通り沿いを歩いたのですが、だんだん古地図から目が離せなくなってきました。呉服橋交差点。もはや推理ゲームのような感じです。そして鍛冶橋交差点。かなりやけくそになってきました。まだまだ推理ゲームは続きます。
2008/10/09
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平泉を代表する史跡と言えばやはり中尊寺、平泉の最後に中尊寺を訪れました。武蔵坊弁慶の墓碑入口からは長い登りの坂となって、月見坂の名前がありました。前九年の役の時、源頼義と義家が戦勝を祈願したのもこの月見坂で、途中には八幡堂が祀られています。アスファルトの坂を登りきると総門の跡があり、ここからが中尊寺の伽藍となるようです。総門跡弁慶堂堂内をのぞいてみると、弁慶と義経がいました。弁慶堂の近くには東物見と呼ばれる開けた場所があり、衣川古戦場跡の碑がありました。東物見から望むのは、衣川と前九年の役の古戦場です。かの前九年の役の古戦場、奥州に来たことを改めて実感しました。中尊寺の参道を歩いていると、なんだか落ち着くのが不思議なところです。地蔵堂薬師堂本尊の薬師如来は、慈覚大師の円仁の作と伝えられています。観音堂数々の御堂を参詣しながら長い坂を登って行くと、ようやく本堂にたどり着きました。本堂を過ぎて「そろそろかな」と思いつつも、さらに御堂が続いて行きました。不動堂峯薬師堂阿弥陀堂阿弥陀堂の先では、まさにジパングを見たような思いでした。中尊寺経蔵松尾芭蕉が見た「二堂」の1つです。金色堂覆堂この覆堂は室町時代に再建されたもので、松尾芭蕉が見たのもこの覆堂だと思います。金色堂覆堂(現在)唯一の現存遺構、金色堂は撮影禁止なのでご紹介できませんが、芭蕉翁の紀行文そのままでした。かねて耳驚かしたる二堂開帳す経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す七宝散りうせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆いて風雨を凌ぎ、暫時千歳の記念とはなれり五月雨の 降り残してや 光堂芭蕉句碑芭蕉像伽羅之御所から始まって中尊寺まで、平泉の栄華の跡を見てきました。豊富な資源と豊かな土地に恵まれた、現世の極楽浄土の跡を見たように思います。
2013/05/03
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三方原の戦いの前哨戦である「一言坂の戦い」の後、武田信玄軍は一言坂から反転北上し、今度は天竜川上流にある二俣城の攻略にかかりました。二俣城を落とした武田信玄は、今度は西へ向かって進軍し、浜松城の北側を迂回し、まるで徳川家康を無視するような進路です。これを見た徳川家康の浜松城では、城を出て武田信玄と戦うかどうか、家臣を集めて戦評定が開かれていました。当時最強の武田軍を目の当たりにして、武田信玄が通り過ぎるのを静観しようとする意見が大勢だったようです。その武田信玄の主力部隊の人数は25,000、徳川軍は織田信長からの援軍3,000を加えても、11,000ほどの人数でした。しかも織田信長の援軍は戦意に乏しいため、実質徳川軍8,000で3倍の武田軍を相手にしなければならず、到底勝ち目のない戦いです。それでも徳川家康は浜松城を出て、武田信玄と一戦交えることにこだわりました。そしてついに徳川軍は浜松城を出て、浜松城の北側約10kmの位置にある祝田坂の街道で、武田信玄の主力と激突しました。祝田坂の旧街道碑両軍の戦いの場となった三方原の地名は、この辺り一帯の総称ですその戦いが開始された場所とされる根洗松は、代替わりして現在も残っています。三方原墓苑にある布陣図徳川家康は鶴が翼を広げたような「鶴翼の陣備え」で、一方の武田軍は鶴翼の陣に有効な「魚鱗の陣備え」です。徳川家康のとった「鶴翼の陣」は、敵を包囲できるメリットがあるものの、数で劣るためにそれを活かすことができません。むしろ防御が薄くなり、少しでも突破されると一気に浜松城まで攻め込まれてしまいます。それでは何故徳川家康は不利な陣形をとったのでしょうか。実は鶴翼の陣は防御が手薄なものの、敗戦した場合の退却には有利です。戦闘が開始されたのはすでに夕刻でしたが、これも敗戦した場合は夜陰に紛れて容易に退却できるため、徳川家康が敢えて夕刻に開始したと言われています。それでも何故徳川家康は、敗戦が予想される戦いに敢えて挑んだのか、大いに謎が残るところで、これには諸説あります。いずれにせよ徳川軍が圧倒的に不利な状況の下、最強の武田軍との間で戦いの火蓋は切られ、戦いが始まると徳川軍は武田軍の猛攻により、しだいに劣勢に立たされて後退していきました。三方原の戦場から浜松城までは10kmの距離もなく、ましてや迫りくるのは最強の武田信玄軍です。徳川家康はこの危機をどのように切り抜けたのでしょうか。
2017/05/13
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曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」では、安房里見氏初代の里見義実の娘「伏姫」が、母と共に参拝した場所として登場するのが洲崎明神(洲崎神社)です。堂々の安房国一之宮です。「南総里見八犬伝」では、玉梓の呪いによって口が利けなかった伏姫ですが、洲崎明神に参拝して役行者から数珠を与えられると、口が利けるようになり健やかに育っていきました。その役行者に与えられた数珠が、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の「仁義八行の玉」で、後に八犬士となって、里見家の危機を救うこととなります。【彫刻置物】丸玉 水晶20mm (素彫り) 里見八犬伝 【パワーストーン 天然石 アクセサリー】その洲崎神社の拝殿は、階段を何段も登った高台にありました。拝殿から見た参道と鳥居その先には太平洋が広がっています。拝殿「南総里見八犬伝」は史実をモデルにしたフィクションですが、史実でも里見氏第6代の里見義弘によって崇敬され、神領も寄進されています。(洲崎神社の解説板では、里見義弘が「房総里見氏第七代」とされていますが、こちらの方が正しいのかも知れません)解説板によると、安房国に流れ着いた源頼朝も、ここで源氏再興と妻北条政子の安産祈願をしたとありました本殿南総里見八犬伝 全106冊揃 / 曲亭馬琴(滝沢馬琴)/重宣・英泉 他画 【中古】現代語訳 南総里見八犬伝 合本版【電子書籍】[ 曲亭馬琴 ]
2019/01/15
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海上自衛隊の中でも、潜水艦隊が配備されているのは横須賀と呉だけで、その呉の街には本物の潜水艦が展示されています。「海の忍者」と呼ばれ、絶対に姿を現さないのが潜水艦なので、全景を観る機会は滅多にないかと思います。潜水艦「あきしお」の全景道を挟んだ向かい側は、やはり呉にゆかりのある「大和ミュージアム」です。さすがは古くからの軍港といった感じで、SC「ゆめタウン」の真横に普通に潜水艦が置かれていながら、あまり違和感がありませんでした。艦橋と潜舵部分艦首の魚雷発射管潜水艦の魚雷発射管も、実際に下から眺めることはまずないと思います。「あきしお」が展示してある海上自衛隊呉史料館は、海上自衛隊の広報を目的に建てられた史料館で、「てつのくじら館」の愛称が付けられています。館内には海上自衛隊の活動が様々な展示物とともに紹介されており、実物の潜水艦「あきしお」の中に入って、見学することもできます潜水艦の内部に入ると、艦内にはアクティブソナーの探信音が鳴り響き、まるで潜航しているような神秘的な雰囲気がありました。潜水艦の中はとにかく狭いといった印象がありますが、実際に見てみると想像以上でした。寝室トイレとシャワー室士官寝室士官も二段ベッドで寝ていたようです。唯一の個室である艦長室おそらく海上自衛隊の艦長室の中で、最も狭いのが潜水艦でしょうか。士官公室食堂も兼ねていたようですが、「沈黙の艦隊」の中で、「たつなみ」の艦長である深町洋二等海佐がどんぶり飯を食べていたシーンを思い出しました士官公室の隣にあるのが発令所で、艦内各部に命令が発せられる場所です。「潜航せよ。ベント開け」そしてこちらが操舵室です。三次元の航行が出来る乗り物は航空機と潜水艦だけで、潜水艦にも航空機のような操縦桿が付いています。それでも航空機と潜水艦の大きな違いは、潜水艦は外を見ることが出来ないことでしょうか。退役艦ではありますが、潜水艦の最大潜航深度は機密中の機密です。深深度計は目盛が外してあるのか、見ても最大潜航深度はわかりませんでした。あきしおの潜望鏡は今もアクティブで、実際に外の景色を眺めることができました。艦長が潜望鏡を見ながら、「配置につけ、魚雷戦用意」と命令するシーンを見ることがありますが、元乗組員のガイドの方によると、古い戦法だそうです。ドルフィンマークを付けた「サブマリナー」は、海上自衛隊の中でも相当高い能力が求められるといいます。潜水艦勤務は食事などの待遇がいいとも聞きますが、それだけに想像以上に過酷な環境にあることがよくわかりました。ところで潜水艦を題材にした映画では、「Uボート」や「レッドオクトーバーを追え」などの名作が思い浮かびますが、個人的には「眼下の敵」が一番好きです。映画 眼下の敵 DVDアメリカ海軍駆逐艦とドイツ海軍潜水艦の一騎打ちが題材ですが、そこには艦長同士のヒューマニズムがあふれています。沈黙の艦隊 [DVD]
2019/01/19
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約1ヵ月前、居酒屋で堀こたつを踏み外して痛めた左ひざですが、市道山を過ぎたあたりから何となく違和感を感じるようになってきました。そのうち膝を曲げると痛みが走るようになり、確実にペースが落ちてきました。さらにはここに来て、いきなり道標が距離表記から時間表記に変わりました。膝がこの状態なので、せめて距離表記ならば時間の予測もできるのですが。尾根沿いの道は、ハイキング用の縦走路というより林業の作業用といった感じで、周囲の木には白いペンキで所有者と思われる名前が書かれていました。道を示す目印も白いペンキで描かれているため、はっきりしていてよく目立ちます。白い目印があまりに目立つため、ハイキングコースを示す赤い目印をついうっかり見逃しそうになります。途中のピークでつい白いペンキを目指してしまい、気が付くと主尾根から分岐する稜線をたどってしまいましたふとクモの巣が顔にかかったので、ようやく道を間違えていることに気が付きました。(複数のトレイルランナーとすれ違ったのに、昨晩から誰もここを通っていないことになります)足を引きずるようにして元のピークに戻った時は、あやうく命拾いした気分でした。(このまま稜線を降りていれば、秋川渓谷のどこかの集落には出たでしょうが)作業用の道は効率的でいいのですが、ピークをまいてあらぬ方向に行くこともあったりしました。この辺りのハイキングコースでは、尾根線を忠実にたどるのが肝要かと思います。膝の具合は相変わらずで、普段ならなんでもない下り斜面が、とてつもなく遠く感じたりしました足の状態が悪いせいか、やたらとアップダウンが多いようにも思えます奥高尾縦走路の最後、臼杵山の山頂に到着した時は、本当にようやくの思いでした。臼杵山(標高842.1m)臼杵山からの眺望アップダウンを繰り返した割には、あまり高度が下がっていません。登ったからには下らなければならないのは当たり前ですが、この時ばかりは下りが恐ろしく感じます・トレッキングポールを突き刺すようにして斜面を下りていると、荷田子峠との分岐にやってきました。最後のオプションに戸倉城山(戸倉城跡)を残していたのですが、この先とても4.5kmを行く自信はありません。しばらく思案を重ねたのですが、ここまで来て戸倉城を素通りもできず、やっぱり戸倉城山を目指して「グミ尾根」の稜線を下りて行きました。皮肉なことに、眺望が低くなっているのがうれしい限りです。グミ尾根の由来「戸倉山茱萸御前」と書かれた石柱とにかく下りは悪戦苦闘の連続で、左ひざだけでなく右ひざにも痛みを感じるようになり、かに歩きのような無様な格好で斜面を下ってました。普段なら30分もかからないであろう荷田子峠ですが、気が付けば臼杵山を出てから1時間が経っていました。荷田子峠は戸倉城山との分岐でもあるのですが、荷田子峠を下るだけでも精一杯の感じだったので、残念ながら戸倉城はあきらめることにしました。はるかなる戸倉城実は今回の装備にヘッドライトとビバーク用のサバイバルシートを入れていたのですが、とにかく陽のあるうちに荷田子にたどり着いたのが、何よりでした。奥高尾縦走路の関連記事高尾山(2014年5月)小仏城山(2014年5月)景信山(2014年5月)陣馬山(2014年5月)醍醐丸市道山臼杵山
2014/09/16
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毛利博物館での特別展示が地元のニュースで放映されていました。毛利博物館の収蔵品には前から興味があったので、これを機会に行ってみることにしました。毛利博物館は旧毛利邸に併設されており、毛利邸・毛利氏庭園とセットでも見て回ることができます。毛利博物館入口の毛利邸門旧毛利邸1916(大正5)年に完成したもので、大名ではなく公爵毛利氏の旧邸です。唐破風を備えた入口は、一見すると江戸時代の大名御殿のような感じでした。毛利邸大広間大正天皇・昭和天皇も宿泊した客間外観はクラシカルですが、浴室には給湯設備が備えられ、全室がインターホンで結ばれるなど、当時としては最新の技術が取り入れられていたようです。毛利邸の奥に併設されているのが毛利博物館で、公爵毛利家に伝わる20,000点の収蔵品の一部が展示されています。館内は撮影禁止なので紹介はできませんが、雪舟の「四季山水図」をはじめとして国宝が4点も収蔵されています。収蔵品一覧は→こちらそうそうたる品々が並んでおり、それだけでもかなり引きそうですが、必ずしも常設展示ではないそうです。「三矢の教え」で喩えられる毛利元就の「三子教訓状」を楽しみにしていたのですが、収蔵庫にあるそうで、展示されていませんでした。(まさに御蔵入り・・・)他に展示されているものも興味深いものばかりで、毛利元就直筆の吉田郡山城の籠城戦の日記などが展示してあります。豊臣秀吉の下で五大老を務めた毛利氏ならではですが、豊臣秀吉直筆の本領安堵状や秀頼のことを託した遺言状などもあって、かなりしびれました。毛利輝元が徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景の五大老の花押入りの書状もあったりして、立ちすくんでいたように思います。(個人的には、関ヶ原の後で送られた井伊直政と本多忠勝連名の花押入り書状の前で、かなりの時間立ち止まっていました)毛利博物館でのシビレが治まらないまま毛利邸を後にし、隣接する毛利庭園にも行ってみました。庭園から見た旧毛利邸瀬戸内海を借景として造られた庭園ですが、元々水平線の少ない瀬戸内海で、さらに埋め立てが進んでおり、なかなか絶景とまでは行きませんでした。当時は江戸時代の毛利水軍の本拠地であった中関なども見わたせたことでしょう。
2011/09/23
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♪ようこそここへ 津ッ津、津ッ津♪ということで、遠州浜松や三州長篠を慌ただしく駆け巡った後は尾張名古屋で1泊し、2日目は伊勢の津へとやってきました。津といえば、「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は城で持つ」と言われます。一説には「石は津で持つ 津で持つ石は 尾張名古屋の城が待つ」が正しいそうで、名古屋城の天下普請の時、津から石垣石が運ばれたと言われています。その石垣石を運んだのが、加藤清正と並び評される築城の名手、藤堂高虎です。津城本丸にある藤堂高虎像元々の築城主は織田信包でしたが、縄張りの大改修を行ったのが藤堂高虎です。伊勢街道を城下に引き込む形で城下町も改修され、旧街道に面した西側には武家屋敷が並んでいたようです。縄張り図。右側が北になっています。かつての二の丸跡は、市役所の敷地と公園になっていました。かつての水堀の名残でしょうか。本丸西側には内堀が残っており、大手口と思われる虎口には土橋の名残があります。内堀西之丸の虎口跡西之丸は日本庭園として整備されていますが、1820年に第10代藩主藤堂高兌によって創設された藩校「有造館」の門が移設現存しています。入徳門有造館の講堂正門だったそうで、「大学は諸学徳に入る門なり」に由来し、徳に入る門として作法は厳格だったようです。現在は日本庭園となった西之丸には、番所や倉庫が置かれていました。旧西之丸西之丸から本丸へ至る虎口は西鉄門と呼ばれ、かつて本丸の石垣上には隅櫓が上げられていました。西鉄門跡本丸石垣見事な打込み接ぎの石垣です。本丸の西側には内堀が残り、一部は藤堂高虎を祀る高山神社の境内となっていました。高山神社内堀跡月見櫓の石垣本丸には天守が建っていたようで、天守台が残っていました。本丸の東側が搦め手のようで、埋門の跡が残っています。東鉄門跡隅櫓のようなものが建っていますが、後世になって建てられたもので、場所も本来と違う「模擬櫓」です。本来の丑寅櫓跡史実と違うものが建てられたのは残念な限りですが、搦め手の東側の石垣は大手よりも高く積まれており、藤堂高虎の築城術を垣間見たように思います。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/05/15
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大阪から名古屋方面へのルートとしては、京都・滋賀・岐阜を通る東海道の他に、奈良・三重を通る奈良街道・伊賀街道の「伊賀越え」のルートがあります。(本能寺の変の時、徳川家康が堺から岡崎への脱出ルートに使ったのもこの伊賀越えでした)その伊賀越えの要衝にあるのが伊賀上野城です。伊賀上野城跡碑いきなり忍者の格好をした人がいたので驚きでしたが、さらに忍者が2人寄ってきて、何やら話し始めました。どうやら道を探しているようなので、「忍者でも道に迷うことがあるのか」と不思議に思ったのですが、伊賀市内には観光用に忍者の衣装をレンタルするお店があるようです。伊賀上野城の本丸には三層の天守があり、その天守から別名「白鳳城」と呼ばれています。正式な名称は「伊賀文化産業城」、すなわち復興天守(模擬天守)です。これまで史実に基づかない模擬天守に対しては否定的な立場にありましたが、この伊賀文化産業城は個人の私財を投じて建てられたこともあり、あまり文句も言えません。この大天守と小天守は、昭和10年に伊賀上野(伊賀市)出身の衆議院議員川崎克氏の私財によって木造で建設され、「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」と、伊賀産業文化城と名付けられました。伊賀上野城は戦国時代の1585年、大和郡山から伊賀に移封となった筒井定次(筒井順慶の養子)によって築城されました。本丸の東側、一段と高い場所に筒井氏の時代の城跡が残っています。筒井氏時代の本丸上野城の縄張りは判然としないのですが、筒井定次は豊臣秀吉配下にあって、伊賀越えの要衝にある上野城を大坂城の防衛ラインとして縄張りを行ったようです。筒井定次は関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍で参戦したものの、江戸時代になった1608年に改易となり、筒井家もここで滅亡しています。筒井氏の後、伊予宇和島から入封して来たのが藤堂高虎です。築城の名手藤堂高虎は、伊賀上野城の大改修を行い、縄張りも大坂城の防衛から、大坂城攻めを目的としたものに変えました。伊賀上野城の西側の防御を特に固め、高さ30mもの高石垣を築いています。本丸から見た内堀と高石垣ビルの10階屋上から下を見ているような感じです。直線的に立ち上がる隅石が藤堂流築城術で、日本一の高さとされて来ましたが、大坂城の石垣の方がわずかに高いとのことでした。(大阪夏の陣の後に天下普請で築かれた大坂城の石垣も、藤堂高虎の普請によるものです)それでも1人の大名によって築かれた石垣としては、伊賀上野城が日本一ではないでしょうか。伊賀上野城一帯は上野公園として整備されており、「伊賀文化産業城」の他にも、伊賀にゆかりの建物があります。忍者博物館伊賀上野城を訪れるのは2回目なのですが、前回は目的地の明かされないミステリー列車での旅行だったので、計らずも伊賀上野を訪れることになりました。もう30年も前の話なので、城跡については覚えていませんが、忍者屋敷のことは覚えています。さらに伊賀出身の人と言えば松尾芭蕉の「俳聖殿」こちらも伊賀文化産業城と同じく、川崎克氏によって建設されたものです。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2012/08/05
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数ある武家の家紋の中でも、星をモチーフにしたものは意外と少なく、毛利氏の家紋である「一文字に三ツ星」(オリオン座の三連星)や、千葉氏の家紋である「月星紋」(月と北極星)が代表的でしょうか。上総の名門千葉氏は妙見菩薩を守護神としており、千葉妙見宮(千葉神社)の本尊として、厚く信仰されていました。妙見菩薩は天の中央に位置する北極星と北斗七星(北辰)の御神霊として、全ての星を司るとされています。(そう言えば、神田お玉が池の千葉周作も「北辰一刀流」の開祖でした)神社では珍しく、門と社殿が一体となった「尊星殿」が正面にあり、内部は「福徳殿」・「日天楼」・「月天楼」・「開運殿」の四つに分かれています。尊星殿元々の千葉妙見宮の山門は昭和20年の空襲で焼失してしまい、現在の門は平成10年に再建されたものです。社殿社殿内部には中央の奥に大きな鏡が置いてあったのですが、社殿内部は撮影禁止とのことでした。内部は撮影禁止なので、賽銭箱を撮影してみました。千葉氏の家紋である「月星紋」が描かれています。星をモチーフにした紋は、やはり輝かしいものです社殿の西側には旧社殿があり、「千葉天神社」となっていました。天神社の「知恵の輪」天神社の名前にある通りこちらは菅原道真を祭神とし、月星紋の「月(ツキ)を呼び、(勝ち)星を拾う」ことから、合格祈願に訪れる人が多いようです。関連の記事亥鼻城(千葉城)→こちら
2014/04/15
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「丸いお城」が武田流築城術の特徴ですが、その顕著な例が田中城かも知れません。本丸から同心円状に曲輪が配されており、珍しい「輪郭式」と呼ばれる縄張りです。しかしながら現在では完全に住宅地と化しており、城郭を比定するのは非常に困難でした。本丸の跡(小学校の敷地になっていました)それでも本丸を中心として道路が同心円状の環状をしており、輪郭式城郭の名残があります。城郭の遺構としては、武田流築城術の特徴である三日月堀の跡もわずかに残っていました。本丸南側の三日月堀の跡本丸東側の三日月堀の跡本丸の周囲には二の丸が置かれていたのですが、二の丸から本丸へ至る虎口のあった場所には、わずかに水堀と土塁の跡がありました。現在は完全に住宅地となっています。江戸時代の田中城では、城郭の外側に下屋敷が置かれていたのですが、現在は建物が移築されて現存しています。本丸にあった櫓(移築現存)郷蔵茶室と泉水庭園こちらも下屋敷にあったようで、外堀の役目を果たした六間川の水を引き入れていたようです。田中城は元々今川氏の築城でしたが、今川義元亡き後は武田信玄の遠江攻略の拠点となりました。田中城の築城主は馬場信春であり、諏訪原城・小山城と共に、遠江浜松城に拠点を置く徳川家康に対する攻略ラインを形成していました。設楽が原(長篠)の戦い以降は徳川家康の支配下となり、以後代々徳川氏の譜代が入城しています。徳川家康が最期に鯛の天ぷらを食べて体調を崩しましたが、その天ぷらを食べた場所が田中城でした。関連の記事東海道~藤枝宿→こちら
2010/01/24
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内房はよく訪れるのですが、東京湾を山の上に観音様が建っているのが気になってきました。あまりにも気になるので、今回は立ち寄ってみることにしました。高さは56mあるそうです。さらに観音様の中は20階建てになっており、中のらせん階段を登って上まで行くこともできるようです。各階には16体の様々な仏像の他に七福神も祀られており、「七福神めぐり」もできるようになっていました。4階にある大黒様9階いあるマリア観音そして10階にはご本尊がありました。最上階の20階に到着すると、そこは「天上界」となっていました。階段は全部で314段あり、手のところ(13階)と(冠のところ(19階)は展望台になっています。冠の展望台からは、東京湾を一望することができました。富津岬浦賀水道振り返ると房総半島の山並みがずっと続いていました。反対側の外房海岸や九十九里まで見渡せそうな感じです。東京湾観音は深川の材木商であった宇佐美政衛氏が、世界平和を願って、私財を投じて建設しました。昭和31年に観音像の建立を構想から5年経った昭和36年に完成、総工費は当時のお金で1億2,000万円だそうです。
2010/06/07
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猿島から再び船に乗り、観音埼へと渡りました。船から見た観音崎観音埼灯台は1869年に造られた日本初の洋式灯台です。観音埼灯台幕末の1866年、江戸幕府はイギリス・フランス・アメリカ・オランダと改税約定を結びました。その中で灯台の設置が義務付けられ、一番最初に完成したのが観音埼灯台です。(観音埼灯台が1869年11月1日に竣工したことから、11月1日は「灯台の日」だそうです)その後2度の地震によって崩壊してしまい、現在の白亜の灯台は1925年に造られた3代目です。初代観音崎灯台は、レンガ造りの四角い灯台でした。設計したのは、ヴェルニー公園にも名前が残るフランス人技師のレオンス・ヴェルニーです。灯台内にある初代観音埼灯台の模型後ろに写っている胸像がレオンス・ヴェルニーです。灯台の上はさすがに見晴らしが良く、東京湾が一望できました。房総半島の山並み灯台のレンズも間近に見ることができました。観音埼灯台の閃光間隔は15秒毎に2閃光で、今も東京湾の安全を見守っています。
2009/08/23
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江戸から数えて東海道38番目の宿場町が岡崎宿です。岡崎城の城下を通る旧東海道は「岡崎二十七曲がり」と呼ばれ、かぎ型に曲がった道が続いていました。現在の道は碁盤の目の形に整備され、かぎ型に曲がった道も十字路に変わっていますが、交差点には「二十七曲がり」の標識があり、それを辿って行くと東海道をめぐることができます。名鉄岡崎公園駅にある案内図現在の岡崎宿は戦災復興の整備によって、完全に市街地に変わっていました。本陣付近の旧東海道西本陣跡。コンビニに変わっていました。それでも道端には当時の道標などが残っており、街道の要衝であったことがうかがえます。足助街道との分岐点吉良道との分岐を示す道標中にはレトロな建物も残っていました。東海道沿いにある旧商工会議所赤レンガと花崗岩のルネッサンス風の建物で、大正6年に岡崎銀行本店として建てられました。岡崎宿を通る東海道は、岡崎城の北側を迂回するように格好になっています。一部は岡崎城の外堀沿いを通っており、岡崎城との間には門が置かれていました。外堀にあった籠田総門の跡。大手門跡岡崎藩の外来使を受け入れる「対面所」も置かれていました。岡崎城の西側まで来ると、八丁味噌で有名な八帖町(八丁町)へと続いていました。岡崎城から八丁(約870m)離れていることから名付けられ、現在も味噌蔵が並んでいます。せっかく岡崎に来たので、味噌煮込みうどんを食べてみました。名古屋で味噌と言えばこの赤みそですが、煮込んでも風味が落ちないのが特徴です。岡崎宿の西側には矢作川が流れており、矢作川には東海道最長の木橋である矢作橋が架けられていました。歌川広重「東海道五十三次 岡崎」岡崎城の天守が描かれており、矢作川を渡った西側からの構図だと思います。現在の矢作川矢作橋は鉄橋に変わっていますが、昔と同じく矢作橋を渡って岡崎宿を後にしました。関連の記事岡崎城→こちら
2010/08/30
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かつては「回天坂」と呼ばれた坂の上には当時兵舎が置かれており、現在は「回天記念館」が建てられています。神社の参道を思わせるような通路の両脇には「烈士碑」、回天戦没者の名前と出身地が刻まれたプレートが並んでいました。悪化する戦局を打開するべく、黒木博司大尉と仁科関夫中尉が考案したのが、魚雷に人が搭乗して操縦する兵器でした。(後に黒木大尉は回天訓練中に事故死、仁科中尉は回天搭乗で戦死)当初海軍はこの発想には否定的で、日露戦争でも名を馳せた永野修身軍令部総長にいたっては、口頭で「それはいかん」と明言して却下したそうです。それでも黒木大尉の血書の嘆願書などの働きかけによって、「搭乗員の脱出装置なしでは採用しない」との条件付で、「人間魚雷」の試作が開始されました。結局脱出装置は搭載されないまま製作が進められ、1944年8月になし崩し的に正式採用され、「天を回らし、戦局を逆転させる」願いから「回天」と命名されています。回天の復元模型従来の魚雷を搭乗用に改造したものです。魚雷を人が操縦すると言ってもリアルには理解できませんが、ミサイルの命中度を上げるために、人が操縦すると言ったらどういう兵器になるでしょうか。映画「出口のない海」でも出てきた回天を搭載した一等輸送艦の模型大津島には回天の訓練基地が造られ、終戦までに延べ1,375名の搭乗員が訓練を受けました。その年齢は17歳から28歳、大多数は20歳前後だったそうです。回天の戦没者は搭乗員・整備員を合わせて145名、回天記念館ではその回天の歴史の紹介と、戦没者の遺品の数々が展示されていました。訓練の合間に描いたスケッチなど寄せ書きや楠木正成の湊川の戦い「七生報国」の鉢巻など。当ブログのプロフィール画像にも利用しているように、楠木正成は武将として最も尊敬する人物ですが、実はこの歴史観には違和感を感じています。それでも戦局が悪化する中、日本を守るべく自ら回天の搭乗員となった方々の思いには、敬服するばかりでした。回天搭乗員が残した遺書も展示されており、その思いの数々には目頭が熱くなってきます。土井秀夫海軍中尉が両親に宛てた遺書松田光雄二等飛曹(没後少尉)の遺書上西徳英海軍一等飛行兵曹(没後少尉)が家族に宛てた遺書昭和20年8月11日沖縄南東海域にて戦死(享年18歳)お父さんお父さんの鬚は痛かったです。お母さん情けは人のためならず和ちゃん私は海です青い静かな海は常の私 逆巻く涛は怒れる私の顔敏子すくすくと伸びよ兄さんはいつでもお前を見てゐるぞ忠範よ、最愛の弟よ日本男児は御盾となれ他に残すことなしここでご紹介できるのはほんの一部ですが、その歴史と共に遺した思いは忘れてならないものだと思います。関連の記事大津島~回天の島→こちら
2012/06/06
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角島・青海島・菊ヶ浜・笠山と、さまざまな景観が織り成す北長門海岸国定公園にあって、その東の端にあるのが須佐ホルンフェルスです。ホルンフェルスはドイツ語「Horn」(角)と「Felse」(岩)の組み合わせで、マグマの熱によってできた変成岩だそうです。岩の間から何気なく下を見ると、海面がはるか下にありました。冬の日本海と言えば、吹雪と荒波の印象がありますが、北長門海岸は暖流である対馬海流の影響を受けて、植生も温暖な感じでした。北長門海岸国定公園関連の記事角島(2011年6月)→こちら青海島(2011年5月)→こちら菊ヶ浜(2011年5月)→こちら笠山(2011年9月)→こちら
2012/01/14
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高取城のある高取から関西空港への帰り道、やはり素通りできないのが橿原神宮でした。一の鳥居神橋と二の鳥居神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)が、九州高千穂から東に向かった「神武天皇東征」で、畝傍山の東南の麓に創建した橿原宮が橿原神宮の始まりです。南神門外拝殿祭神は神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)で、現在の社殿は1890年に明治天皇によって創建されました。外拝殿から見た内拝殿と廻廊内拝殿の奥に本殿(国指定重要文化財)があります。古事記と日本書紀にある「神武天皇東征記」では、二つの鳥が登場します。一つはサッカー日本代表のエンブレムともなっている八咫烏(ヤタガラス)で、神武天皇の道案内を務めた鳥です。そしてもう一つが金の鵄(トビ)で、長髄彦との戦いの最中に神武天皇の弓先に止まり、勝利に導いた鳥です。私の母校である奈良県立畝傍高校では、その神武天皇の東征記に由来して「金鵄」が校章となっています。(旧制畝傍中学から続く校章も、現在では合併により変わっているようですが)たとえ公立高校であっても、神話の鳥が校章になる土地柄が大和の国であり、ここが「くにのまほろば」です。「大和平野のあさぼらけ」ならぬ、大和平野の夕間暮れ葛城山に沈む夕陽と深田池です。2012年、奈良県大会の準決勝で智辯学園に勝利した時の伝説の校歌決勝では天理高校に敗れ、優勝はなりませんでした。
2017/11/25
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1657年の明暦の大火の後、本所深川方面へ飲料水を供給する目的で、亀有上水が開削されました。水源は瓦曽根溜井(現在の埼玉県越谷市)で、四つ木(東京都葛飾区)まで水路が延びていたそうです。亀有上水の跡亀有上水は1722年に廃止されましたが、四つ木と亀有の間の水路では「サッパコ」と呼ばれる小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で引いていました。ここから「曳舟川」と呼ばれるようになり、柴又帝釈天や水戸街道に向かう人々によって利用されるようになりました。この曳舟は江戸の風物詩ともなり、歌川広重も「名所江戸百景」に描いています。歌川広重「名所江戸百景 四ツ木通用水引船」
2010/04/23
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「調子はずれ」のことを犬吠埼と言うそうですが、犬吠埼灯台はまさに千葉県銚子市の外れにあります。「世界の灯台100選」にも選ばれた犬吠埼灯台。灯台の上に登ることもできるのですが、灯台内部の螺旋階段は九十九里浜に因んで99段になっています。(階段は99段ですが、最後に梯子階段がついており、やや強引な感じはしますが…)強い風が吹くことで知られ、風力発電の風車が立ち並ぶ犬吠埼ですが、この日の風はとても穏やかでした。それでもこの波しぶきです。海を眺めるならば灯台が一番だと思うのですが、特に360度のパノラマを望める犬吠埼灯台からの眺めは絶景だと思います。関連の記事犬吠埼(その1)~君ヶ浜海岸→こちら犬吠埼(その3)~地球が丸く見える展望台→こちら
2009/12/03
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現在は完全に埋立られて首都高速が通っている京橋川ですが、江戸時代の古地図を見ると、江戸城外堀から分流するように開削されているのがわかります。鍛冶橋門の南側から分流し、東西方向へ流れているのが京橋川です。京橋川にはいくつか橋が架かっていたのですが、やはり京橋が最も有名かも知れません。江戸の古地図で京橋川と外堀との合流点を見ると、小さな橋が架かっているのですが、これが比丘尼橋です。歌川広重「名所江戸百景 びくに橋雪中」外堀沿いの道を描いたものだと思われますが、右側に江戸城の外堀が描かれています。ちなみに左側に「山くじら」の看板が描かれていますが、「山くじら」とはイノシシのことです。(江戸市中でイノシシ料理があったとは、意外な感じがします)こちらが現在の比丘尼橋付近です。銀座1丁目の外堀通りですが、京橋川は首都高速に変わり、江戸城外堀は外堀通りに変わっています。関連の記事京橋→こちら江戸城外堀めぐり2(鍛冶橋門~赤坂見附)→こちら
2010/06/22
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遣隋使、遣唐使、朝鮮通信使そして参勤交代や北前船の航路であり、日本国内のみならず古来より中国大陸や朝鮮半島との交通路となっていたのが上関海峡です。山口県の南東部は瀬戸内海に大きく突き出した室津半島を形成しており、上関海峡を隔てて室津半島の先に上関(長島)があります。室津半島と上関の間に架かる上関大橋上関海峡は、防長二ヵ国でも中関(三田尻)・下関と並んで海上交通の要衝でもありました。海峡の距離は約170mで水深は10m、大型船の航行には不向きかも知れませんが、航路としてはここを通るのが近道かと思います。幕末の第二次長州征伐(四境戦争)においては、長州藩が上関海峡に砲台を設置し、幕府軍の艦船に対して海上封鎖を行った場所でもあります。現在の上関砲台跡には、吉田松陰が残した歌碑が建っていました。嘉永癸丑(1853年)十月十五日舟を発し家室を過ぎ室津に到りて泊す。詩あり云はく「故郷夢断えて涙潜々(たんたん)、舟子喚び(むせび)醒ます『是れ上関』」と。蓬窓怪しむなかれ起き来ること晩き(おそき)を。國去りて看るに忍びんや故国の山当時ではコスモポリタンであった吉田松陰にとっても、上関海峡は故郷の海そのものであったようです。その吉田松陰の弟子、高杉晋作も上関を句に詠んでいます。「室津上岡さおさしゃ届く なぜに届かぬ我が想い」吉田松陰の漢文と高杉晋作の句、この師匠からこの弟子が出たのも不思議に思います。
2011/10/22
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千畳敷駅を出た後、千畳敷カールの斜面を上へ上へと登り、八丁坂を登り切った稜線が「乗越浄土」です。振り返ってみると、ホテル千畳敷はアルプスの山小屋のように小さくなり、伊那谷の空の上には南アルプスの稜線が浮かんでいました。千畳敷駅から乗越浄土までは約50分と、ほぼ標準タイムで登り切れました。それでも完全に真冬を想定した装備を持って来たため、ザックが予想以上に重くて、乗越浄土に着いた時は本当に浄土に着いた気分でした。防寒着にアイゼン、寒冷地用のガスカートリッジやストーブ、コッヘルなどで、ほうほうの体です。乗越浄土は中岳・木曽駒山頂と宝剣岳、伊那前岳の分岐点でもあります。尾根伝いに見える宝剣岳伊那前岳見通しの良い稜線上には霊神碑が建ち、一面にはハイマツ帯が広がっていました。霊神碑(建立年不明)ハイマツ帯千畳敷カールとは植生だけでなく、地質も異なってきたようです。乗越浄土からは中岳を経由して木曽駒ヶ岳の山頂を目指すわけですが、ここでルートについて協議となりました。すなわち、宝剣岳を往復してから中岳を目指すのか、中岳はピークの直登ルートを行くかトラバースするかです。宝剣岳については帰りに余力があれば、そして中岳については直登ルートで行くということで、ここは私の意見が通りました。私のルート案が通り、ホッとしながらもトボトボと中岳を目指しました。(最後尾が私)
2016/06/20
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上野動物園や国立博物館などが建ち並ぶ上野公園ですが、江戸時代はこの一帯全てが寛永寺の境内で、寛永寺の伽藍が建ち並んでいました。しかしながら幕末の上野戦争や太平洋戦争の空襲で伽藍のほとんどが焼失し、現在では10分の1程度の規模に縮小されています。それでも創建当時の建物からは、当時の巨刹の面影を偲ぶことができました。旧本坊表門。元々は上野公園の国立博物館の敷地内に建っており、博物館の正門として使われていました。関東大震災後に博物館が改築された際、現在の場所に移築されたものです。寛永寺の本堂も現在の国立博物館の敷地内にありましたが、幕末の彰義隊による上野戦争で焼失してしまいました。現在の本堂は、寛永寺の開祖である天海が住持を務めた、川越の喜多院の本堂を移築したものです。寛永寺の本堂である根本中堂川越の喜多院での創建は1638年と言われています。寛永寺の開山は1625年のことで、開祖は徳川家康のブレーンを務め、秀忠・家光にも仕えた天海僧正です。ちょうど江戸城の北東の位置にあり、江戸城の鬼門除けの役割を果たしていました。京都の鬼門を守るのは比叡山延暦寺ですが、天海も寛永寺を比叡山と同じように考えており、寛永寺は「東叡山」と号されています。寛永寺は徳川将軍家とゆかりが深く、15人の将軍のうち、家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定の6人の将軍の墓所が造られました。徳川家の霊廟は太平洋戦争の空襲で焼失してしまいましたが、第4代家綱の墓所にある「勅頼門」は焼失を免れて現存しています。寛永寺の墓地にある勅頼門。立ち入りは出来ませんが、道路脇の柵越しに見ることができました。歴代将軍の墓所は増上寺と寛永寺に交代で造られ、増上寺と共に寛永寺も徳川家の菩提寺となっています。
2009/07/15
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大森貝塚遺跡庭園から池上通りを大井町方面に向かうと、途中に品川区立品川歴史館がありました。この手の郷土資料館では、テーマが局地的かつマニアックになりがちで、その分当たり外れも大きいところがあるため、入ってみるべきかどうかと、いつも迷うところです。今回は見送ろうかと思いつつ、ふと入り口脇を見てみると、石垣石みたいな石が目に入りました。近づいて見てみると、品川台場の石とのことでした。入館料が100円ということもあり、急に気が変わって中に入ってみることにしました。品川台場に関して言えば、昭和28年当時の海岸線の俯瞰写真があり、現在は残っていない第一台場や第五台場などが写っていたりして、かなり貴重な資料だと思います。品川歴史館の常設テーマの1つは大森貝塚で、大森貝塚や付近の縄文遺跡から発掘された出土品や資料などが紹介されていました。(大森貝塚の記事でも触れましたが、出土した貝殻が会議用のテーブルの上に普通に置いてあったのが驚きです)そして品川歴史館のもう1つのテーマが、東海道品川宿です。品川宿の北側の入口にあった傍示杭(復元)この傍示杭は歌川広重の東海道五十三次にも描かれていたものです。さらに圧巻なのは、模型で復元された品川宿の宿場町でした。床にはそれぞれの屋号が書かれており、両脇の模型の中を歩く感じです。さすがに江戸東京博物館でも、品川宿だけでここまでのことはできないと思います。ところで、現在の旧東海道品川宿はこんな感じです北品川商店街(2009年8月)一車線、一方通行の道幅がわずかに旧街道の面影を残しています。品川宿本陣の復元模型東海道のしかも江戸に最も近い本陣で「一文字三ツ星」とは不可解千万ですが、その由緒はわかりませんでした。現在の本陣跡(2009年8月)品川宿に限らず、御殿山のから出土した陶磁器なども展示してあり、かなり興味深いものがありました。(すでに江戸時代では、現代と変わりない食生活だったように思われます)たまたま入った品川歴史館でしたが、入館料100円でこの展示は大当たりでした。
2014/02/28
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大中寺からJR両毛線の大平下駅まで下りて来たところ、まだ余裕があったので「もう一つ登ってみようか」と、大平下から1駅のところにある岩舟駅で電車を降りました。岩舟駅の背後にある岩船山さすがにこれを登るわけにはいかず、目指したのは岩舟駅から西へ4kmほどのところにある三毳(みかも)山です。麦畑越しに見る三毳山ここから距離はあるものの、比高は200mもなさそうで、「行きがけの駄賃」ならぬ「帰りがけの駄賃」くらいに考えていました。(実はとんでもない見当違いだったのですが)「とちぎ花センター」の案内標識にしたがってみたものの、アスファルトの車道を延々と歩くこととなり、南東側の山麓にある「みかも山公園」に着いた時は、ようやくの思いでした。三毳山の南側全体が公園の敷地となっているようで、さらには普通の都市公園みたいな雰囲気があり、どこから登っていいのか見当がつきませんでした。駐車場広場の脇に登山道らしき道があり、「←東山道→」と書かれた標識があったので、取り急ぎこの道をたどってみることにしました。ところが山麓を巡るだけで全く山に登る気配もなく、途中にあった解説板を読んでみると、「東山道」は「ひがしやまみち」ではなく、律令時代の官道である「とうざんどう」とのことです。ようやく登山道らしきアスファルト道を見つけて歩き出したものの、後ろから何やら音がして、葛西臨海公園に走っているのと同じ「フラワートレイン」が近づいて来ました。家族連れでにぎわうフラワートレインがすぐ横を通過して行き、フラワートレインを見送った後は、ただ道端に呆然と立ち尽くすだけでした。そのままフラワートレインアスファルト舗道を行くと、ようやく途中に登山道の入口がありました。ちょうど東側の斜面を直登するようになり、ここから稜線までの標高差100mを一気に登る感じです。三毳山には中岳(標高210m)と青竜ヶ岳(標高229m)の2つのピークがあり、その間にある鞍部は旧東山道の三毳関があった場所とされています。三毳関跡(推定)まずは南側の中岳のピークを目指して、三毳関跡の鞍部から稜線沿いを登って行きました。中岳までは急登となっていて、さらには途中に岩場もあったりして、なかなか侮りがたい雰囲気です。三毳山には「三毳七石」と呼ばれる石があり、この石は七石の1つで「犬石」の名前があります。三毳関の役人「威奴(いぬ)」がこの石の上で見張りを行ったことから、「威奴石」→「犬石」となったそうです。その先にもう1つの「犬石」があったのですが、こちらは形が犬に似ているのが由来だそうで、なんだかこちらの信憑性の方が高い気もします。中岳まではずっと樹林帯が続いており、わずかな切れ間から赤城山を望むことができました。登山道はフラワートレインの車道をショートカットする格好で、途中で何度か車道を横切って行きました。普通に散歩感覚で人が歩いていたのが衝撃です再び樹林帯の中を進んでいくと、放送用のスピーカーが上に見えてきて、中岳の山頂に到着です。中岳山頂(標高210m)山頂もさほど広くなく、特に眺望があるわけでもありませんでした中岳からは三毳関跡まで来た道を引き返し、北側の青竜ヶ岳を目指して行きました。途中には三毳七石の1つ、「花籠石」があります。ある僧侶がこの岩の上で五穀豊穣・村内安穏を祈願し、一週間経を唱え続けたところ、村の人が競って花籠を捧げたことに由来するそうです。(物見台の跡のようにも見えます)三毳関跡からはアップダウンを繰り返しながらも登りが続き、青竜ヶ岳のピークへと差し掛かって行きました。青竜ヶ岳山頂にも通信設備が置かれているようです。青竜ヶ岳山頂(標高229m)三毳山全体での最高点となります。青竜ヶ岳山頂から西側を眺めると、赤城山の山並みの向こうに遠く八ヶ岳も望むことができました。反対の東側を振り返ると、西日を受ける岩船山と晃石山がありました。「みかも山公園」の東口近くにはハンググライダーの着陸場があり、晃石山からはハンググライダーで飛んで来ることもできるようです。三毳山の北側は「かたくりの里」と呼ばれ、カタクリの群生地として知られています。春になると斜面一面にカタクリの花が咲くようですが、ここでもまた季節外れな時に来てしまいました。関東100名山新・花の100名山栃木100名山
2014/05/21
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JR山陽本線明石駅のホームから見る明石城は、2棟の隅櫓の間に土塀を備える姿が壮観です。明石駅の北側近くにある明石城跡は、兵庫県立明石公園として整備されています。山陽本線と公園の間には、かつての水堀跡が残っていました。水堀跡明石公園入口桝形の石垣が見られるのは、かつての三の丸虎口の跡でしょうか。明石駅からは遠めに眺めていた隅櫓も、近づいて公園内から見てみると迫力があります。南東の巽櫓(現存)南西の坤(ひつじさる)櫓(現存)明石城に限ったことではありませんが、やはり天守や櫓は城外から見るのが一番です。西側の本丸土塀同じく西側にある天守台石垣隅石は算木積みでしっかりと積まれ、重厚感があります。その本丸へ入るの虎口は、北側に石垣が残っていました。こちらは搦手になると思いますが、おそらく櫓門で固められていたと思います。桝形を抜けると視界が開け、本丸広場が広がっていました。本丸跡そして先ほど見てきた本丸の建造物を、今度は内側から眺めることとなります。天守台跡天守が築かれる予定でしたが、実際には天守は築かれなかったようです。南西の坤櫓(現存)これも明石城に限ったことではありませんが、天守や櫓を内側から見ると、全く外観が異なります。南東の巽櫓(現存)城外から見上げると迫力満点でしたが、内側から見ると物置程度の感じがします。それでも坤櫓と巽櫓の間の土塀は、内側から見ても迫力満点でした。土塀(現存)鉄砲狭間と矢狭間が交互に切られて、芸術的な機能美を感じます。本丸から南側を眺めると、瀬戸内海の海岸線が近くに迫り、現在では明石海峡大橋を眺めることができました。当時の本丸には坤櫓と巽櫓だけでなく、当時は本丸の四隅にそれぞれ隅櫓があったようです。昔は方角を十二支で表しましたが、現存する巽櫓(南東)と坤櫓(南西)だけでなく、北西には乾櫓と北東の鬼門には艮(うしとら)櫓が置かれていました。北西の乾櫓跡わずかに櫓台が残っています。北東の艮櫓跡西側の仮想敵国、すなわち島津や毛利の抑えを重視するならば、この櫓はあまり機能しなかったかも知れません。明石城の縄張そのものは東西に延びる縄張だったようで、本丸の東側に二の丸の曲輪があり、さらにその二の丸の東側に東丸が配されていました。北側が搦手なのに対し、本丸の大手虎口は東側にあったようです。本丸と二の丸の虎口二の丸の曲輪跡二の丸と東丸の間は、東西と南北に虎口跡のようなものがあって、実務的にはここが大手虎口だったかも知れません。南側の大手虎口北側の搦手虎口こちらが搦手に続く虎口だと思うのですが、北側の急な斜面に造られています。二の丸と東丸の間の虎口いずれも石垣が桝形に積まれており、堅固な印象を受けました。東丸の曲輪跡に出てみると、二の丸と同じくらいの広さがありました。東丸の曲輪跡東丸からの虎口は二重になっていて、さらに堅固な印象があります。東丸大手虎口(内側)内側に馬出があり、内桝形になっていたようです。東丸大手虎口(外側)建造物はなくなっていますが、当時は重厚な入口になっていたと思います。東側の大手方面にも水堀があったようで、今もその名残を見ることができました。薬研堀どこにでもある普通の池といった風情ですが、薬研の名前からして深く掘り下げられていたと考えられます。箱堀牛蛙の鳴く普通の池ですが、名前からしてこちらは広く浅く掘られていたのかと思います。明石城は、すでに江戸時代に入った1618年、徳川秀忠の命によって小笠原忠真によって築城されました。水陸共に交通の要衝にあった明石は、徳川家康が「仮想敵国」としていた薩摩の島津氏と防長の毛利氏を抑える要衝であったと思われます。そのためか城主も目まぐるしく代わり、築城主の小笠原忠真は築城後に豊前小倉に転封となっています。その後1632年に松平康直が信濃松本より入封となりますが、その松平康直も急死したために、わずか1年で城主が甥の松平光重に代わることとなりました。松平光重も在城5年で美濃加納に転封となり、代わりに入城した大久保季任も10年で肥後唐津に転封となっています。歴代城主の顔ぶれをみると、徳川譜代で固めた印象ですが、現代の転勤よりも過酷な異動ではなかったでしょうか。日本城郭協会「日本100名城」
2017/06/06
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岐阜市内を見下ろす金華山は、「美濃のマムシ」斎藤道三の稲葉山城のあった場所であり、織田信長が「天下布武」を号令した岐阜城のあった場所でもあります。現在は金華山の山麓に、織田信長の居館跡が発掘復元されています。居館入口にある冠木門当時の居館入口はもう少し西側にあったそうで、現在は「板垣退助遭難の地」として、板垣退助像が建っています。元は神道中教院のあった場所で、1882年(明治15年)に自由党の党首板垣退助が暴漢に襲われた場所です。その時の「板垣死すとも自由は死せず」は、よく知られている言葉かと思います。岐阜公園の敷地内には、山内一豊と千代夫人婚礼の地の碑が残っていました。前回2008年に岐阜城を訪れた時はまだ新しい碑だったので、大河ドラマ「功名が辻」の放映に合わせて建てられたものだと思います。板垣退助にしても山内一豊にしても、今年の夏に訪れたばかりの高知城とは、何かと縁があります。織田信長の居館は「千畳敷」と呼ばれ、岐阜城を訪れたポルトガル人宣教師ルイス=フロイスは、その時の様子を「日本史」に著わしています。フロイスの「日本史」によると、三層四階建ての御殿風の天守閣が建っており、その内部は金箔と絵画で飾られた壮麗なものだったようです。そうなると岐阜城には、安土城よりも前に天守が建てられていたことになります。千畳敷の復元図庭園には池があり、泉水が巡らされていたそうです。居館の石囲い跡通路跡発掘調査では、織田信長時代の遺構に加えて、斎藤道三の時代の遺構も発見されていました。斎藤道三時代の石積み金華山へ向かうロープウェーから見ると、今も発掘復元が行われていました。いつか織田信長の千畳敷が復元される日が来るでしょうか。
2017/10/22
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日本には五稜郭が2つあって、1つは有名な函館の五稜郭、そしてもう1つが長野県佐久市にある龍岡城の五稜郭です。五稜郭公園から五稜郭の方へ歩いて行くと、民家や畑の中にいきなり稜堡が現れました。北西側稜堡周囲の水堀は埋められて道路となっているため、稜堡や石垣を間近に見ることができました。石垣は最も進化した切込み接ぎの布積みで、石垣上部に武者返しの「刎ね出し」を備えています。函館の五稜郭のように完全な形で残ってはいませんが、大手口のある北東側を含め、東側の周囲には水堀が残っていました。現地の縄張図(大手口のある北東が地図の下になります)大手口と大手橋大手口付近の水堀龍岡城の本丸跡は田口小学校の敷地となっており、かつての虎口の跡が小学校への出入口に使われています。北西側の黒門跡かつては非常用の出入口として使われていたようです。本丸跡小学校の敷地に建つ和風の建物が御台所櫓で、現存する建築物です。城郭の外側は水堀と石垣で囲まれていますが、内側には土塁が築かれていました。南東側の水堀幾何学的な線形が美しいと思います。南東側の土塁(城内から見たところ)北東側の稜堡(城外から見たところ)函館の五稜郭に比べて規模も小さいため、稜堡を間近に見ることができます。北東側の稜堡(城内から見たところ)画像ではわかりづらいですが、函館の五稜郭を彷彿とさせる造りとなっていました。龍岡城は三河国奥殿藩の藩主、松平乗謨(のりかた)によって築造され、1867年に完成しました。函館五稜郭の竣工が1864年なので、龍岡城の五稜郭の方が新しいことになります。三河の殿様が信濃に築城することには違和感がありますが、三河奥殿藩の松平氏は本拠地の三州奥殿と信州佐久にそれぞれ封地を持っていました。しかも三州奥殿が4,000石に対し、信州佐久は1万2,000石と、石高では信州の方が上回ります。信州佐久には陣屋を置いていましたが、居館を三河から信濃に移すことに決め、幕府からも許可を取り付けました。松平乗謨は、幕府では陸軍奉行や陸軍総裁を務めており、西洋軍学にも通じていたため、居館を西洋式の城郭にして、完成したのが龍岡城五稜郭です。せっかく完成した龍岡城でしたが、完成からわずか5年後の1872年、廃藩置県によって解体され、廃城となっています。日本城郭協会「続日本100名城」
2018/08/12
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須山浅間神社を後にすると、次は富士山の南麓と愛鷹山の間にある十里木高原を抜けて、村山浅間神社を目指しました。今回の世界遺産めぐりルート→こちらまたもや途中で道を間違えてしまい、気が付けば富士サファリパークの入場待ちの渋滞にずっと並んでいたこともありました。根本宮村山浅間神社は、富士登山道の村山口に鎮座する浅間神社です。東口本宮富士浅間神社と同じく、ここでも富士塚の上に狛犬が置かれていました。拝殿に行ってみると、意外にも鉄筋コンクリート造りになっていました。それでも拝殿の後ろに回ってみると、本殿は木造部分が残っています。村山浅間神社はこれまでの浅間神社と少し異なっていて、神社であると同時に富士山興法寺の寺院でもありました。明治の廃仏毀釈によって富士山興法寺は廃寺となりましたが、それまでは修験道(山伏修行)の中心地でした。廃寺となった現在も、富士山興法寺大日堂(旧本堂)が残っています。イチョウの木の向こう側に見えるのが、富士山興法寺大日堂です。村山浅間神社のは背後にある高嶺総鎮守社は、村山修験の開祖である「末代上人」が「大棟梁権現」として祀られており、現在も地元の氏神社となっています。その他にも大棟梁権現社の拝殿にあたる「護摩壇」や、修験者(山伏)が水垢離を行った「水垢離場」の跡が残っており、今後富士宮市によって発掘調査・整備が行われるそうです。村山浅間神社の鎮座する富士村山口登山道は、「大宮・村山口登山道」として、ユネスコ世界文化遺産の「富士山域」の構成資産の1つに登録されています。富士登山道村山口村山口からは、初代駐日英国公使であったラザフォード・オールコックが1860年に富士登山を行っており、富士山に登った最初の外国人とされています。そして村山浅間神社にも、33回の登山を記念した富士講碑が建っていました。「登岳三十三回 大願成就」の富士講碑その横には「遠江国磐田郡福島村中嶋」と刻まれており、さらには「大先達 佐藤八代𠮷 六十四才」とありました。日付の記載はないものの、遠江国磐田郡福島村中嶋(現在の磐田市福田中嶋?)の記載から、江戸時代以前の建立だと思われます。山伏修行の修験道の中心であった村山浅間神社では、同じ富士信仰でもまた違った一面に触れた気がしました。ユネスコ世界文化遺産「富士山 信仰の対象と芸術の源泉」
2018/08/23
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総石垣の近世城郭に関して言えば、どうしても西高東低の感は否めないかと思います。大和国については、1560年に松永久秀が信貴山城や多聞城を築城し、近世城郭の先駆けとなりました。(織田信長が安土城を築いたのは、さらに時代が下って1576年のことです)関東で総石垣の近世城郭が登場するのは、さらに時代が下った1590年のことで、豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻めるために築いた石垣山一夜城が最初の総石垣造りでした。「織豊時代」または「安土桃山時代」とも呼ばれ、文化・芸術だけでなく城郭建築も発展を遂げたこの時代に築かれたのが、奈良県大和郡山市にある郡山城です。郡山城縄張図近鉄郡山駅の周辺には「三の丸」の名前を冠した施設がいくつかあり、三の丸の大手口にある門の跡も残っていました。「頬当門」跡「柳御門」跡桝形が残っています。二の丸虎口「鉄御門」跡渡櫓の櫓台だと思いますが、石垣には矢穴(石積み石を切断する時のミシン目)が残っていました。本丸の周囲は内堀で囲まれており、今も水堀が残っていました。二の丸「陣甫郭」から見た本丸内堀細長い陣甫郭の先、本丸の大手虎口には追手門が復元されています。追手向櫓(手前)と多聞櫓(奥)(いずれも復元)追手門(復元)豊臣秀長の時代の復元櫓で、白の塗籠ではなく黒の下見板張りに、西日本の近世城郭らしさを感じます。追手門から本丸へは直線的に入れない縄張になっており、天守のある本丸へ向かうにはUターンして、毘沙門郭を抜けないといけません。毘沙門郭からみた本丸内堀今度は本丸内堀を右側に見るようになりましたが、本丸内堀は何となく大阪城に似ている気がします。ところで一部石垣が崩壊して修復中のような場所がありますが、「白沢橋」と櫓を復元中とのことです。ボランティアガイドの方によると、この復元には私財が投じられており、旧城主である柳澤氏の家臣の末裔によって、億単位のお金が寄付されたそうです。
2018/11/09
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「水戸のご老公」こと、黄門様の徳川光圀がまさに隠居していた場所が、「西山御殿」(西山荘)です。西山荘は水戸城から北へ約20㎞行った常陸太田市にあり、人里離れたひっそりとした場所に建っていました。表門のような門構えですが、通用門だそうです。表門である「突上御門」は、逆に質素な造りになっていました。城郭でいうならば、ここが大手門です。徳川光圀の居宅も質素な造りで、とても徳川御三家の藩主の居宅とは思えないほどでした。徳川光圀の当時の住居は1817年に火災で焼失してしまい、現在の建物は1819年に水戸藩によって再建されたものです。徳川光圀の偉業の1つに「大日本史」の編纂がありますが、隠居後もこの西山荘で編纂作業を続け、ここで一応の完成となりました。やはり徳川光圀と言えば、「水戸黄門漫遊記」があまりにも有名かと思います。実際の黄門様は水戸城と水戸藩の江戸藩邸(小石川後楽園)を往復するくらいで、全国各地を巡ったわけではないようです。(藩の執務に忙殺されて、とてもそんな余裕はなかったかと思います)それでも「大日本史」の編纂にあたっては、家臣たちは史料を集めるため、各地を巡ったと言います。その家臣の中には、佐々介三郎宗淳(助さんのモデル)と、安積澹泊(覚兵衛、格さんのモデル)がいました。水戸城の三の丸、JR水戸駅前に建つ御一行の像「助さん」こと佐々木助三郎のモデルとなった佐々介三郎宗淳は、「ご老公」の隠居後も徳川光圀のすぐそばで暮らしていたようです。佐々宗淳(助さん)の居宅跡「水戸黄門」の名君ぶりはテレビドラマで全国区で有名ですが、実際の徳川光圀も常陸国(茨城県)では「義公」と呼ばれ、名君として称えられています。「徳川御三家」である水戸藩の藩主を退いて隠居の身となった徳川光圀は、一領民として水田を耕し、年貢米を納めていたそうです。徳川光圀の水田「ご前田」「水戸黄門漫遊記」が世に広まったのは幕末の時代で、ちょうど徳川斉昭が水戸藩主だった頃だと思います。徳川光圀が「義公」ならば、徳川斉昭は「烈公」として称えられ、常盤神社にはその義公と烈公が祀られています。(徳川斉昭も庶民的な藩主で、「偕(みな)と共に楽しむ」の「偕楽園」を造園し、身分を問わず一般開放した人でした)庶民派の徳川斉昭に、かつての庶民派である徳川光圀をオーバーラップさせて、「水戸黄門漫遊記」が生まれたのかも知れません。ところで、西山荘は紅葉スポットとしても知られており、実は紅葉がメインで訪れた場所でした。
2018/11/17
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新発田城の本丸は周囲を内堀で囲まれ、その周囲をさらに二の丸が囲む輪郭式の縄張りだったようです。現地の縄張り図二の丸と本丸の間には筋違いの橋が架けられ、それぞれに門が置かれていたようです。二の丸側の「土橋門」跡本丸の虎口には櫓門形式の表門が現存しています。本丸表門(現存、国指定重要文化財)表門の渡櫓は開放されていて、中に入って見ることもできました。渡櫓入口なまこ壁の渡櫓です。渡櫓内部現存する渡櫓の中に入れるのは、新発田城の他には高知城しか経験がありません。新発田城には本丸表門以外にも十一棟の櫓と五つの門が現存していましたが、明治5年になってほとんどが破却されました。今も現存する建造物としては、旧二の丸隅櫓が本丸に移築されています。城内から見た旧二の丸隅櫓(現存、国指定重要文化財)こちらもなまこ壁の外壁になっています。旧二の丸隅櫓新発田城に限らず、やはり隅櫓などの建造物は、城外から見るのが一番だと思います。本丸では旧二の丸隅櫓の他にも、辰巳櫓や三階櫓が復元されていました。辰巳櫓(城内から見たところ)辰巳櫓(城外から見たところ)写真が残っていたためか、詳細に復元されていました。新発田城に天守は上げられず、三階櫓が事実上の天守だったようです。三階櫓(復元)新発田城の築城は比較的新しく、慶長3年(1598年)に加賀から移封された溝口秀勝によって築城されました。溝口秀勝は上杉景勝との戦いで落城した新発田重家の城跡を取り入れて築城し、以後明治に至るまで新発田藩主溝口氏の居城となっています。日本城郭協会「日本100名城」
2019/08/09
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低山ながら関東100名山に数えられるのが、埼玉県日高市にある日和田山です。登山道入口登山道脇に曼殊沙華が咲いていますが、実は9月の話です。日和田山の山腹には金刀比羅神社があって、登山道は表参道も兼ねているようでした。金刀比羅神社一の鳥居一の鳥居の先で、登山道は「男坂」と「女坂」に分かれていました。男坂と女坂の分岐点ここは当然ながら、自信満々に女坂を行くことにしました。後で山頂で聞いた話によると、男坂はかなりの急登で、岩をよじ登る感じだそうです。長いつづら折りを登っていくと、樹林帯の先に再び鳥居が見えてきました。金刀比羅神社二の鳥居鳥居の先にあるのが金刀比羅神社本殿です。金刀比羅神社本殿金刀比羅神社のあたりは視界が開けていて、都心方面も望むことができました。新宿方面そして眼下には、巾着田を眺めることができました。巾着田実はこの巾着田が今回のメインの訪問地で、上から見ると本当に巾着のような形をしています。金刀比羅神社から一登りすると、日和田山の山頂に着きました。日和田山山頂(標高304m)日和田山で関東100名山も34座目となり、ようやく1/3を超えたところです。関東100名山
2019/09/26
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Bon-Bonさんのブログを拝見していたら、イスラエルの空港の記事がありました。テルアビブの空港名はベングリオン空港、ベングリオン首相の名前が付いた空港だと初めて知りました。(ロッド空港じゃないんですね)記事を読んでいると、偉大なるベングリオンとは裏腹に、大変なことが起こったようです。(Bon-Bonさんのブログ→こちら)ところで、日本にも人名の付いた空港が1つだけあります。高知龍馬空港です。写真は高知龍馬空港で撮った掲示板なのですが、これを見る限りでは人名空港がとても珍しいかのような書き方です。しかも世界的に有名な人ばかりなので、「高知龍馬空港ってすごいな~」と感心していました。実は上の写真に書かれた空港やベングリオン空港以外でも、人名の付いた空港は意外と多くあるようです。(高知龍馬空港の掲示板にだまされた)例えばチンギス・ハーン国際空港(モンゴル、ウランバートル)蒋介石国際空港(台北、台湾)ニノイ・アキノ国際空港(マニラ・フィリピン)フレデリック・ショパン空港(ワルシャワ、ポーランド)ロナルド・レーガン・ワシントンナショナル空港(アメリカ)エマーム・ホメイニ空港(テヘラン、イラン)などなど人の名前を付けるにあたっては、知名度があって、しかも名前とその国(または土地)がリンクしている必要があるかと思います。名前を聞いて「はて?どこだっけ?」では、かえって混乱したり、行き先を間違えたりするかも知れません。それでも人名が付いていると、馴染みや親しみがあっていい思います。
2008/11/04
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