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神戸南京町・長崎新地中華街と並んで、「日本三大チャイナタウン」と呼ばれているのが横浜中華街です。いずれも安政の五箇国条約で開港された場所にあり、外国人居留地と深い関係がありました。横浜中華街も旧山下居留地にあって、「中華街大通り」の西口には「牌楼」の1つ、善隣門が建っています。善隣門善隣門(内側から見たところ)内側から見ると扁額の文字が「中華街」ではなく、「親仁善隣」と書かれていました。中華街の門は四神相応に基づいているようで、中華街大通りの東側、東急東横線の元町・中華街駅側には、「青」の青龍をモチーフにした朝陽門が建っています朝陽門南側に回ってみると、「赤」の「朱雀門」がありました。朱雀門そして西側には「白虎」の延平門があります。延平門柱の上に白虎の彫刻があります。横浜公園に近い北側には、「黒」の玄武門がありました。玄武門前日に麻雀をやっていたせいか、気が付けば東・南・西・北と回っていました。その他、中華街の中央部を東西に通る関帝廟通りには、東西それぞれに門が置かれていました。関帝廟通りの東側入口にある天長門西側入口にある地久門そして中華街の中心にあるのが、三国志に登場する関羽を祀った関帝廟の廟所です。関帝廟の門関帝廟横浜中華街にはかつて清国総領事館が置かれており、その跡地である山下町公園の横には、媽祖廟の廟所があります。媽祖廟辛亥革命の後は中華民国領事館が置かれていたようで、日本に亡命していた孫文もここを訪れていたかも知れません。
2018/02/07
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福岡市・北九州市に次いで福岡県で三番目の人口を有する久留米市には、律令時代に築後の国府が置かれ、江戸時代には久留米藩が置かれていました。その久留米藩の藩庁であったのが久留米城で、筑後川を背後に持つ縄張りとなっています。久留米城の縄張り図久留米城の背後を流れる筑後川現在の久留米城跡には本丸部分しか残っておらず、二の丸や三の丸は市街地や工場敷地となっていました。二の丸跡久留米が発祥のブリヂストンの工場になっています。大城郭も大半が市街化されていますが、それでも本丸の大手口には水堀と石垣が残っていました。本丸大手虎口の冠木御門跡枡形になっていますが、名前からすると冠木門が置かれていたのでしょうか。本丸には七つの櫓が置かれていたようですが、いずれも取り壊されて現在は石垣だけが残っていました。坤(ひつじさる)櫓のあった南西側の本丸石垣と水堀南東側の石垣櫓の中で最も大きい三重の巽櫓が置かれており、巽櫓が天守の代用となっていたようです。本丸東側、月見櫓のあった石垣本丸東側の月見櫓直下「東御門」虎口跡直下の駐車場は蜜柑丸と呼ばれる腰曲輪の跡で、曲輪の名前は蜜柑の木が植えられていたことに由来しています。本丸には本丸御殿があったようですが、現在は久留米城主であった有馬豊氏を祀る篠山神社の境内となっていました。篠山神社拝殿神社の敷地となった本丸には有馬記念館など、ブリヂストン創業者である石橋正二郎氏にゆかりのある建物がいくつかありました。その一つが千松庵と呼ばれる茶室で、石橋正二郎氏の母親である石橋マツさんによって寄贈されたものです。千松庵の名前は、千利休の千とマツから命名されたそうです。さらには東郷平八郎元帥の書斎も移築されていました。久留米出身で東郷平八郎を崇敬していた小倉敬止氏が譲り受けたもので、石橋正二郎氏が有馬記念館を建てる際に移築されてきたものです。思えば久留米に来たのは2回目です。1度目は学生の頃に周遊券で九州を回っているときでした。その時は鹿児島本線から久大本線(久留米・大分間)への乗り換えに利用しただけで、久留米駅のホームから出てもいません。再び久留米に来ることや、こんな城郭があることは知る由もありませんでした。久留米城は1504年~1521年の永正年間に築城された平山城が始まりと言われています。その頃は久留米にある高良山の出城としての位置付けで、1583年から3年の間、高良山座主である麟圭が久留米城に籠って大友氏との戦いを繰り広げていました。豊臣秀吉による九州平定の後、毛利元就の九男である毛利秀包(のちに小早川元総)が、養父である小早川隆景の筑前・筑後領有に伴って久留米城に入城しました。現在残る近世城郭の原型は毛利秀包によって作られています。関ヶ原の戦い後に毛利氏が防長二ヵ国に減封されると、岡崎城から田中吉政が柳川城に入り、久留米城も柳川城の支城として田中吉政の支配下となりました。田中吉政と言えば東海道岡崎宿の「二十七曲がり」など、城郭というより城下町造りの名人のような印象です。しかしながら田中吉政の子である忠政に子がなかったため、田中氏は改易となって久留米から移封となりました。田中氏の後には福知山城から有馬豊氏が入城し、久留米の城下町を整備すると共に、明治維新に至るまで久留米藩の藩主は有馬氏が勤めていました。日本城郭協会「続日本100名城」
2011/11/07
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大和は「国のまほろば」であり、自分が育った場所でもあります。実家は広島に移ってしまい、もはや奈良に帰る場所はありませんが、大阪に用事があったため、久しぶりに秋の大和路を訪ねてみました。法隆寺前の国道25号線は何百回と通っているのに、実は法隆寺の中に入るのは2,3回くらいしか記憶にありません。南大門(国宝)室町時代の建立だそうですが、この見慣れた門が国宝だとは知りませんでした。法隆寺では、建造物だけでも18件が国宝に指定されており、その他の美術工芸品などを含めると、何件が国宝指定されているのでしょうか。建造物について言えば、法隆寺にある47件のうち18件が国宝で、残りの29件は全て国指定の重要文化財です。三経院及西室(国宝)聖霊院(国宝)と東室(国宝)聖霊院には聖徳太子が祀られており、聖徳太子及び眷属像は国宝に指定されています。妻室(国指定重要文化財)重文の建物はそう滅多にお目にかかるものでもありませんが、法隆寺に来ると重文の格が下がるような錯覚があります。綱封蔵(国宝)奈良時代から平安時代に造られた倉庫で、高床式になっています。食堂(じきどう)(国宝)と細殿(国指定重要文化財)日本書紀では670年に法隆寺が火災で焼失したとあり、現在の建造物はその後に再建されました。聖徳太子の時代の法隆寺は残ってませんが、それでも廻廊で囲まれた西院伽藍は、世界最古の木造建築群となっています。五重塔(国宝)世界最古の木造建築物です。金堂(国宝)鞍作止利(くらつくりのとり)による釈迦三尊像(国宝)などが安置されています。金堂と五重塔廻廊(国宝)と鐘楼(国宝)大講堂(国宝)建造物だけでも圧倒されそうな法隆寺ですが、仏像などの美術工芸品も数多くの見どころがあります。「大宝蔵院」には、観音菩薩像や百済観音など、飛鳥時代から白鳳時代にかけての仏像(もちろん国宝)が綺羅星のごとく建ち並んでいました。(館内は撮影禁止なので画像はありませんが、法隆寺のHPにて紹介されています)個人的には「玉虫厨子」を楽しみにしていました。(これだけ身近に長く住んでいながら、玉虫厨子は美術や歴史の本でしか見たことがありません)実物を目の前にした時は、「これまで写真で見てきたものが実際にある」といった感じで、現実を認識するのに時間がかかったほどです。
2018/10/28
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これまでの南アルプスと言えば、関東の山からわずかに見える山並みか、関西便の機窓から下に見える山ひだくらいの印象でした。それでも7月に韮崎の新府城を訪れた時、間近に南アルプスの気品ある山容があって、さらには何とも言えない気高いオーラを放っていたのを覚えています。その時から「あそこに行きたい」という気持ちが強くなり、この1ヶ月の間、あえて歩きづらくて苦手な山に登ったりしていたのも、南アを意識していたからでした。その数ある南アの山の中で、今回選んだのは「南アルプスの女王」の別名を持つ仙丈ケ岳です。南アの入門的な山ではありますが、日本アルプスとしては北ア以来約20年ぶりで、3,000m峰としては同じく富士山以来のこととなります。体力的な問題もさることながら、もっと頭が痛かったのは天候でした。直前までの天気予報では、山梨県南アルプス市の降水確率は40%、長野県伊那市では50%となっており、この日に限って天気が悪そうな感じです。晴れ男とは言わないまでも、これまで天候にだけは恵まれてきた方なので、ここで一気につけが回ってきた気がしました。ところで仙丈ヶ岳までは1泊2日の行程となるのですが、最初は夜叉神峠か芦安まで、仮眠をとりながらクルマで行こうかと思っていました。夜叉神峠から先の南アルプス林道は一般車通行禁止なので、その先はバスに乗り換えることになります。南アルプス林道のような山道のワインディングロードとなれば、我が相棒のパジェロ君の得意とするところではあります。それでも5速マニュアルという弱点があって、「帰り道でクラッチを切ったら左足がつる」というオーナーの一方的な意向により、今回も出番はなくなりました。公共交通機関を使いながら、なるべく安く済む方法はないものかと探していると、山梨交通で毎週金曜日に「南アルプス登山者バスツアー」を催行していることが判明しました。以下の行程で1人6,600円です。新宿西口22:00発~[中央自動車道]~双葉SA【休憩(買物可)】 24:00着・0:30発(予定)~白根IC~天恵泉白根桃源天笑閣1:00着(休憩)5:10発~(路線バス)~広河原 6:30着(予定)早速申込みをしたのが1週間前で、台風の接近とともに天候が悪化してきたのはその後のことです。もはや後戻りはできず、とりあえず北沢峠まで行って、雨が降っていたら帰ろうと思っていました。ところでこのツアー、前週8/23のツアーは満席だったのでよほど盛況かと思っていたら、この日8/30の参加はたったの13人(半分は女性の単独行)でした。山梨交通からも「今日は自由席ですので、ご自由にお使い下さい」とのことで、観光バスを広々と使いながら天笑閣へ、そして畳の上で仮眠をとった後は、まだ暗いうちに南アルプス林道へ向かうバスに乗り換えました。路線バスに揺られながら南アルプス林道を行き、夜叉神峠を過ぎたあたりでようやく日が昇ってきて、意外にも天候はよさそうです。車窓から見ると、南アルプスの山容が間近に迫って朝日に映えていました。揺れるバスの車窓からの画像なので迫力はありませんが、実際に見た私なんぞは胸に込み上げるものがあって、朝食代わりのおにぎりをほおばりながら、思わずウルウルきていました。目指す仙丈ヶ岳山頂は雲の中のようです。「来た甲斐があった」と、南アルプスの急峻な山容や野呂川の渓谷美に魅入っていると、バスは広河原に到着しました。広河原アルペンプラザ北沢峠へのバスを待つ人たち。まだ朝の6:30でこの行列です。広河原で南アルプス市営バスに乗り換えて北沢峠へ、途中の野呂川出合で両俣小屋経由北岳へ向かうアルピニストと、ランディングネットを背負った渓流アングラーが数人下りたものの、ほとんどの人は仙丈ヶ岳と甲斐駒の登山口である北沢峠で下りました。天候はまずまずなので、この先に行くことにしました。北沢峠で下りた大半は甲斐駒へ向かったようですが、私は仙丈ヶ岳へ向かいます。左は双児山経由甲斐駒ヶ岳、右は仙丈ヶ岳への直登ルート
2013/08/31
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岩場の続く北長門の海岸線の中にあって、萩市街地の海岸線には菊ヶ浜の砂浜が続いています。菊ヶ浜から見た指月山(萩城)瀬戸内海の虹ヶ浜海岸と並んで、日本海の菊ヶ浜は山口県の代表的な砂浜海岸で、「快水浴場100選」にも選ばれています。笠山を正面に臨み、火山島群が水平線上に浮かんでいます。穏やかな砂浜の続く菊ヶ浜ですが、幕末になると風雲急を告げるようになりました。1863年5月10日に長州藩は攘夷を決行、関門海峡を通過するイギリス・オランダ・フランス・アメリカの4カ国艦隊を砲撃し、下関戦争が起こりました。外国船からの報復攻撃に備えるため、長州藩は沿岸各地に土塁の築造を命じ、菊ヶ浜にも土塁が造られました。土塁の築造にあたっては、武士の妻や奥女中の功績が大きかったことから「女台場」と呼ばれましたが、現在もその女台場の土塁が残っています。この時に築造された土塁で現存しているのは、菊ヶ浜と象鼻ヶ岬の石塁だけだそうです。土塁の築造にあたって歌われた「男なら」は、現在も山口県の民謡として歌われています。1.男なら お槍担いで お中間となって 付いて行きたや下関 国の大事と聞くからは 女ながらも武士の妻 まさかの時には締め襷 神功皇后の雄々しき姿が 鑑じゃないかな オーシャリシャリ2.女なら 京の祗園か長門の萩よ 目もと千両で鈴をはる と云うて国に事あらば 島田くずして若衆髷 紋付袴に身をやつし 神功皇后のはちまき姿が 鑑じゃないかな オーシャリシャリ3.男なら 三千世界の鳥を殺し 主と朝寝がしてみたい 酔えば美人の膝枕 醒めりゃ天下を手で握り 咲かす長州桜花 高杉晋作は男の男よ 傑いじゃないかな オーシャリシャリ3番の「三千世界の烏を殺し…」は高杉晋作の都々逸が元になっているとも言われています。
2011/05/17
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どこかで聞いたことのあるようなネーミングですが、「青の洞門」は大分県を代表する景勝地「耶馬溪」にある名勝で、耶馬溪は大沼(北海道)・三保の松原(静岡)と並んで、「新日本三景」の1つにも数えられています。耶馬溪と一口に言っても範囲は広く、山国川の上流から下流に到るまで、本耶馬渓・深耶馬渓・裏耶馬渓・ 奥耶馬渓・椎屋耶馬渓など多岐に渡っています。「耶馬溪に行くには、一体どこに行けばいいのだろう?」と、それほど範囲が広くて見所の多い渓谷美です。山国川の上流部に広がるのが本耶馬渓で、さらに本耶馬溪を代表する競秀峰の絶壁の麓に「青の洞門」があります。山国川と青の洞門ちなみに煙が上がっているのは山火事ではなく、野焼きです。(大分の風物詩でしょうか、あちらこちらで野焼きの煙を見ました)さすがは「新日本三景」の1つとあって、耶馬渓を代表する競秀峰は、「一体なぜ?」と圧倒されるほどの自然美でした。この競秀峰の頂上部分は元々個人所有だったようで、明治になって売りに出されたことがありました。この時、「もし分別のない人の手に渡って樹木が伐採された場合、景勝を損なう」と危機感を持ったのが、同じ中津出身の福沢諭吉です。福沢諭吉は故郷の名勝を守るため、個人の資金で競秀峰一帯を買い取ったそうです。ところで「青の洞門」の話になりますが、江戸時代に造られた全長342mのトンネルです。ノミと槌だけで岩盤を貫いて造られたもので、完成までには30年を要しました。洞門が出来る前、通行人は鎖だけで結ばれた難所を渡る必要があり、ここで命を落とす人も多くあったそうです。そこでこの地に洞門を造ろうと思い立ったのが、諸国漫遊の末に立ち寄った禅海和尚でした。禅海和尚像道徳の教科書か何かで聞いたことのある話でしたが、実は禅海和尚が1人で造ったものではなく、托鉢で得た資金で人夫を雇って造ったそうです。今も残る手掘りの洞門(一部)禅海和尚は洞門の通行料を徴していたようで、青の洞門をもって「日本最初の有料道路」と言われる所以です。現在の洞門はおそらくドリルか何かで拡幅されたものでしょうが、普通に舗装道路が通っていました。一方通行なので、双方の出入口に交互信号がありました。ところで「青の洞門」の名前ですが、由来の方はよくわかりませんでした。後世になってイタリアの「青の洞窟」をパクった参考にしたのでしょうか。
2012/05/09
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戦国時代の常陸と言えば佐竹氏、本拠地の太田城があった茨城県太田市に、佐竹寺があります。仁王門。萱葺屋根の本堂に歴史を感じます。銀杏の葉が落ちて一面黄色に染まり、本堂と美しい好対照を成していました。佐竹寺は985年に元密上人が開山したと伝えられる古刹です。本尊は「十一面観世音菩薩」、この本尊に深く帰依したのが、源昌義(義光の孫)でした。源昌義は、この佐竹寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを吉兆として以後「佐竹氏」を名乗るようになりました。佐竹氏の初代となった佐竹昌義は、この佐竹寺を本拠地太田城の鬼門除けとしています。以後代々にわたって佐竹氏の祈願寺となりました。1543年には戦火によって焼失したものの、15代佐竹義昭(義重の父、義宣の祖父)によって、この地に再建されています。
2008/12/02
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「高天神を制する者は遠州を制す」言われた高天神城ですが、徳川家康は横須賀城を築いて攻略の足がかりとし、武田勝頼は諏訪原城を築いて攻略の足がかりとしました。武田勝頼の命で諏訪原城を築城したのは、築城の名手として名高い馬場信春です。縄張り図を見ると、まさに武田流の築城術となっていました。本丸から同心円状に曲輪と空堀を巡らせていますが、この「丸い縄張り」こそが武田流です。縄張り図の左下(南西)を大手とし、右上(北東)が搦め手になっています。大手口にある「大手曲輪」(といっても茶畑…)武田氏滅亡後、徳川家康の支配下となった時に拡張されたようです。この大手曲輪を始めとして、城郭の一番外側には曲輪がいくつか並んでいました。馬場跡乾曲輪。(曲輪と言われればそうですが、ただの林にしか見えません)各曲輪の周囲には深い空堀が巡らされていました。二の丸の空堀。(武田流の「三日月堀」です)空堀が深く巡らされているせいか、曲輪そのものはあまり変化のない平坦な場所になっていました。二の丸(わずかに土塁が残っています)三の丸三の丸の空堀。(曲輪と空堀のギャップが激しすぎる)本丸の周囲には、さらに深い空堀が巡らされていました。本丸の空堀。(空堀と言うよりは、もはや谷です)本丸の手前には一段高くなった場所があり、「馬出」の役目を果たしていたようです。本丸の馬出。(本丸側から見たところ)手前が本丸の馬出で、空堀をはさんで向こう側に二の丸の曲輪が広がっています。本丸には「天守台」と名付けられた一段高い場所がありますが、さすがに当時は天守はなかったことでしょう。本丸天守台本丸の最奥部には虎口の跡がありました。本丸搦め手虎口本丸背後の搦め手は急な斜面となっており、下を見ると腰曲輪のようなものが見えます。(さすがに降りて行くのはためらいました)諏訪原城は戦国時代の武田流築城術の遺構がよく残っており、なかなか見ごたえのあるお城でした。徳川家康の遠江進出を狙う武田勝頼は、1573年に馬場信春に命じて、諏訪原城を築城しました。すぐ南側を東海道が通る要衝にあり、高天神城攻略の足がかりであると同時に、高天神城攻略後は重要な兵站補給の拠点となっていたようです。「高天神を制する者が遠州を制する」ならば、「諏訪原を制するものが高天神を制する」となるのでしょうか。設楽が原(長篠)の戦いで武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍に敗れた後は、徳川家康が高天神城と共に諏訪原城を手中に収めています。
2009/06/14
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旧広島市民球場から少し西へ行くと、旧太田川の分流点があり、珍しいT字型の橋が架かっています。相生橋。(「T」の下から見たところ)「T」の右側から見たところ。上から見るとT字型がはっきりとわかるため、原爆投下の目標点とされました。そして相生橋のすぐそばに建っているのが、旧産業奨励館の建物(原爆ドーム)です。1996年にユネスコの世界遺産に登録されましたが、周囲のビル群に埋もれてしまった感じです。(ちなみに後ろに写っている照明は、旧広島市民球場です)関連の記事「アインシュタインの嘆き」(2008年8月8日)→こちら広島城(2007年9月1日)→こちら厳島神社(2008年7月31日)→こちら
2009/06/23
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壇ノ浦付近の関門海峡には電光掲示板があって、アルファベット・数字・矢印が交互に点滅しています。関門MARTISの火ノ山下潮流信号所です。潮の向きが「W」(西向き)・「E」(東向き)で表示された後、潮流の速さが数字(ノット)で表示され、最後に「↑」(速くなる)または「↓」(遅くなる)が表示されます。西日が当たって見えづらいのですが、この時は西向き7ノットで速くなるようでした。天気晴朗なれども波高し関門海峡では玄界灘と周防灘の干満の差による潮流の変化が激しく、源平の壇ノ浦の戦いでもこの潮流の変化が勝敗を分けました。 潮流の速さも最大で10ノット(約時速18.5km)に達し、鳴門海峡・来島海峡などのうず潮級の海峡に次ぐ潮流の速さがあります。また関門橋付近では対岸までの距離が650mしかなく、古来より早鞆ノ瀬戸と呼ばれる海上交通の難所となっています。 下関側の火ノ山から見た早鞆ノ瀬戸関門海峡では全国に7か所ある「海上交通センター(MARTIS)」の1つである「関門海上交通センター(関門MARTIS)」があって、関門海峡の航行管制や情報提供などが行われています。関門海峡の航路図海峡というより運河のような感じですが、ここを1日600隻の船舶が航行しています。火ノ山下潮流信号所も関門MARTISからの潮流信号で、他にも大型船舶が通行する際に「H」や「T」の表示がされる電光掲示板もあります。関門海峡が太平洋・瀬戸内海と日本海を結ぶ最短ルートになるため、通過する船舶の交通量も1日あたり約600隻と、まさに海上交通の要衝となっています。今のご時世、関門海峡を通過するか大隅半島を回るかでは、スエズを通るか喜望峰を回るかくらいの違いがあるかも知れません。関門海峡通行中の注意事項と事故事例について→こちら「係留」は関門海峡特有かも知れません。
2011/11/24
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音戸の瀬戸を通って倉橋島に渡り、さらに早瀬大橋を渡って江田島までやって来ました。江田島と言えば旧海軍兵学校のあった場所で、現在は海上自衛隊の幹部候補生学校と第一術科学校になっています。中の見学は出来るのですが、海上自衛隊の施設でもあるため、見学時間が決められていて、団体で見学するようになっています。見学開始時間まで少し時間があったので、食堂で食事をすることにしました。海軍カレー海上自衛隊の艦隊勤務では、曜日の感覚を忘れないように毎週金曜日はカレーライスだと聞いたことがあります。売店やコンビニもあり、自衛官だけでなく一般の人も利用することができました。コンビニもあるのですが、品揃えも一般のコンビニとは少し違って、実用品主体のような感じでした。NHKの「坂の上の雲」のロケが行われた講堂の中も見学することができます。本木雅弘の秋山真之が図上演習を行っていたシーンもここで撮影されていました。振り返ると江田島の最高峰である古鷹山がよく見渡せました。海軍兵学校時代のみならず海上自衛隊でも訓練登山が行われ、早い人だと25分位で登ってしまうそうです。古鷹山には登りませんでしたが、山頂には海軍兵学校時代の「五省」の碑があるそうです。一、至誠に悖る勿かりしか一、言行に恥づる勿かりしか一、気力に缺くる勿かりしか一、努力に憾み勿かりしか一、不精に亘る勿かりしか伯父が海軍兵学校を卒業しているのですが、海兵時代の話はあまり聞いたことがありません。(それでも卒業時に拝領する短剣が飾ってあるのを見たことがあります)海軍兵学校は意外とリベラルな感じで、英語の教科もあったようです。江田島までは呉から倉橋島を経由して延々と陸路を1時間以上かけて来たのですが、大和ミュージアムやてつのくじら館のある呉中央桟橋と江田島の小用港の間にはフェリー航路があり、こちらを使うと10分ほどの距離にあります。江田島フェリーの後甲板から見た江田島正面には海軍呉工廠のあった造船ドックが見えていました。
2011/05/12
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荒川の河口部から海に突き出た埋立地(15号地)に若洲海浜公園があります。突堤は海釣り施設となっています。以前ここで釣りをやったのですが、釣果ゼロでした。突堤の裏側はガレ場となっており、こちらもチョイ投げくらいは出来そうです。海からの南風が吹いており、羽田の到着機はCアプローチの進入経路でちょうど目の前を飛んで行きました。東京湾岸に沿うように旋回しながら高度を下げ、対岸にある羽田空港へ着陸する様子がよく見えます。若洲海浜公園には「若洲ゴルフリンクス」のゴルフ場があります。コースの監修は岡本綾子さんです。埋立地なので起伏はなさそうですが、バンカーが深かったりするのでしょうか。荒川に近い北側の埋立地にはサイクリングロードも整備されていて、海風に吹かれながら回ってみるのもいいかも知れません。北側埋立地にある東京ヘリポート荒川対岸のパノラマ(TDL、葛西臨海公園などが見えます)
2009/06/19
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江戸時代には東海道随一の繁栄を誇った小田原ですが、その礎を築いたのは北条氏5代であったと言えるでしょう。初代伊勢宗瑞(北条早雲)の時代から続いた「四公六民」などの治世により、人と物が小田原に集まって、城下町が発展していきました。その繁栄の中心にあったのが小田原城ですが、現在となっては北条氏時代の戦国城郭はほとんど姿を消し、江戸時代の大久保氏・稲葉氏の近世城郭が復元されています。それでも小田原宿を探索してみると、北条氏時代の名残をわずかに見つけることができました。旧東海道に面した三の丸小学校の脇には、「箱根口」の跡があります。石垣は江戸時代になって造られたのだと思いますが、北条時代の小田原城ではここが大手門でした。三の丸小学校の校庭には土塁の跡が残っており、ここでは北条氏の小田原城をわずかに偲ぶことができます。東海道の箱根口から、海へ向かって南に延びる道は、「安斎小路」と名付けられています。1590年の豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原城は降伏・開城し、北条氏第4代の北条氏政と弟で八王子城主の北条氏照は切腹を命じられました。2人が切腹した場所が田村安斎の屋敷であり、その田村安斎邸があったことから「安斎小路」と呼ばれています。東海道からは離れていますが、小田原駅のすぐ東側には、北条氏政と北条氏照の墓所があります。北条氏政が切腹の時に乗ったとされる「生害石」安斎小路を南へ向かうと、「御幸の浜」の太平洋が広がっています。水平線上には、宿敵である里見氏の房総半島がわずかに浮かんでいます。小田原攻めの時は九鬼や長宗我部など、音に聞こえた水軍で海上が埋め尽くされていたことでしょう。西側を向くと、荒波の向こうに真鶴半島と箱根の山々が見えていました。小田原宿はこの辺りで終わり、箱根八里が待ち構えています。旧東海道でも、小田原宿の終わりを告げる「板橋見付」が置かれていました。江戸から西へ向かう旅人は、どんな気持ちでここを通ったことでしょう。すでに箱根八里に半歩踏み入れたところですが、北条時代の小田原城「総構」は、ここまで広がっていたようです。早川口には北条時代の総構の跡が残っているとのことで、「それは是非行かねば…」と総構を探しに行ってみたものの、それらしきものは見当たりませんでした。「さっき土塁みたいなものがあったけど、あれがそうなのかな?」などと話していると、通りすがりの人が「あ~、あの土塁がそうですよ」とご丁寧に教えてくれました。(もしかして城跡マニアなのか?)小田原城総構の土塁と空堀跡。最近は戦国時代の城郭を探索していないせいか、これをあっさり見逃してしまいました。(二重の土塁の間には、ちゃんと空堀の跡がありました。。。)さらに箱根方面へ進んでいくと、街道沿いに大久寺がありました。北条氏滅亡後に小田原城主となった大久保忠世の開山で、大久保氏の菩提寺です。境内には大久保一族の墓所がありました。大久保忠世・忠隣の墓所大久保忠世は大久保忠教(彦左衛門)や大久保忠佐と共に、「大久保兄弟」として徳川家康家臣の中でも武勇を馳せた人です。しかしながらその子大久保忠隣は、本多正信・正純父子の陰謀(大久保長安事件)によって改易となりました。(大久保忠隣の孫娘を妻としていた里見義康も改易となり、里見家もここで途絶えています)関連の記事東海道~小田原宿(その1)→こちら小田原城(その1)→こちら小田原城(その2)→こちら小田原城「総構」→こちら石垣山一夜城→こちら早雲寺→こちら名胡桃城→こちら山中城(その1)→こちら山中城(その2)→こちら八王子城(その1)→こちら八王子城(その2)→こちら鉢形城→こちら鉢形城北条まつり→こちら忍城→こちら
2009/09/16
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丸岡城からはバスの便も極端に少ないこともあり、丸岡駅までタクシーを利用することにしました。途中で新田義貞墓所の案内看板を発見したので、運転手さんに頼んで寄ってもらうことにしました。新田義貞の最期は北陸だったとは覚えていたのですが、丸岡(坂井市)にあるとは思っていませんでした。運転手さんも、丸岡城の途中で新田義貞の墓所に寄る人が多いとのことで、「新田義貞はそんなに立派な人だったのでしょうか」と。私も答えに窮して、「ええ、まあ、そうなのかも知れませんね」と、何とも歯切れの悪い答えになってしまいました。新田義貞の墓所は称念寺というお寺の境内にあり、田園地帯の中にある普通のお寺といった風情です。称念寺境内新田義貞の顕彰碑が建っています。新田義貞墓所これまで当ブログ内で新田義貞を愚将だと酷評してきたこともあり、墓前では静かに謝罪しておりました。足利尊氏や楠木正成と同時代を生き、しかも急に歴史の表舞台に出ざるをえなかったのが新田義貞でした。建武の新政権下では、楠木正成と共に後醍醐天皇の南朝方についたものの、湊川の戦いでは足利尊氏軍の前に敗走し、越前へと逃れてきました。称念寺の解説板によると、1338年に灯明寺畷の戦いで討死し、時宗の僧8名によって称念寺に葬られたことが、太平記に書かれているそうです。ところでこの称念寺はなかなかの名刹で、1562年には明智光秀が称念寺を訪問し、門前で寺子屋を開いていたとのことです。また松尾芭蕉も称念寺を訪れた際、その明智光秀について「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ」との句を残しています。(「おくのほそ道」では東北の後に北陸も訪れていますが、越前のくだりでは称念寺についての記述はありませんでした)新田義貞は徳川将軍家の祖先ということで、江戸時代には寺領を安堵されていましたが、明治になると寺領は没収され、無檀家・無住の廃寺寸前だったようです。大正時代になって地元の人たちによって再興され、現在に至っています。
2012/12/23
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前回の水戸街道は、いきなり最初の宿場町である新宿で家に帰ってしまい、あっさりと終ってしまいました。気を取り直して再び自転車に乗り、前回の終点であった金町三丁目の交差点をスタートすることにしました。国道6号線は金町広小路で東へ向きを変え、江戸川から松戸へとショートカットして行きますが、旧水戸街道はそのまま江戸川の川べり近くを北上して行きます。途中で岩槻街道を左に見送ると、江戸川べりにある葛西神社の前を通って行きました岩槻街道分岐見慣れたなじみ深い交差点ですが、これが旧岩槻街道の分岐点だと初めて知りました。戦国時代の江戸川は、里見氏(房総連合軍)VS北条氏の国府台合戦の舞台となっていましたが、当時里見氏と同盟を結んでいた太田資正(三楽斉)も、岩槻城からここを通って援軍に向かったのでしょうか。葛西神社葛西神社の創建は1184年のことで、当時の領主であった葛西清重(葛西城主)が下総香取神宮(千葉・香取市)を分霊し、上葛西・下葛西33郷の総鎮守としたのが始まりとされています。徳川家康は関東に入封した直後の1591年に葛西神社を訪れ、葛西神社に伝わる操り人形に感銘し、朱印状10石が葛西神社に与えられました。葛西神社の祭神は香取神宮と同じく経津主尊(ふなつぬしのかみ)で、日本武尊とともに、徳川家康も祭神に祀られています。葛西神社から先は江戸川の川べりを行き、水元公園の入口を左に見ながら、葛飾橋(国道298号線)を渡って行きました。都立水元公園桜の季節になるとまた来ると思います。葛飾橋から江戸川の下流を眺めると、富士山と東京スカイツリーを左右に眺めることができます。画像にするとさほどの迫力ではありませんがかつての江戸川左岸、国府台の光景は歌川広重が風景画に残してくれていました。歌川広重「江戸名所百景 鴻の台とね川風景」なぜか江戸川ではなく「とね川」となっていますが、富士山は今も昔も変わっていません。さらにこの切り立った崖は、まさしく現在と変わらない国府台の江戸川だと思います。葛飾橋こちらは国道298号線の葛飾橋で、1kmほど下流に国道6号線の新葛飾橋があります。さらにその下流は千葉街道(国道14号線)の市川橋まで、車道の橋はありません。江戸時代には橋も架けられておらず、江戸川を渡し船で渡っていました。現在の葛飾橋の少し上流に渡し場があったようで、江戸方には金町関所が置かれて、交通の取り締まりに当たっていたようです。金町関所跡の碑現在でもここから2kmほど下流に行った柴又にも渡船があり、こちらは「矢切の渡し」として知られています。(矢切の渡しも江戸時代からあったものですが、こちらは地元専用の渡船として、幕府も公認していました)葛飾橋を渡ると千葉県松戸市に入り、金町関所から見て江戸川の川岸には、松戸宿の碑が建っています。「是より御料松戸宿」の傍示杭松戸宿の水戸街道では、江戸川を渡ったすぐの場所に本陣があったようです。本陣付近の旧街道また江戸川を渡った先には丘陵部があり、かつての水戸藩別邸「戸定邸」のある「戸定が丘歴史公園」があります。。(個人的には松戸城跡だと信じているのですが)松戸宿の旧水戸街道は、千葉県道5号線(流山街道)が踏襲しており、現在の角町から春雨橋の間が宿場町の中心部だったと思われます。ところどころに旧家が残っており、初めて旧街道らしい風情に出会ったように思いました。こちらの旧家は「松戸探検隊ひみつ堂」となっていました善照寺の参道に差し掛かると、道端には古い道標も残っていました。「伊予州大山寺」と読めますが、真言宗の寺院のようです。善照寺善照寺の隣には宝光院が並んでおり、宝光院はかつて浅利又七郎の道場だったそうです。北辰一刀流の開祖、神田お玉が池の千葉周作も宝光院の門前に住んでおり、ここで剣の修行をしていました。現在の松戸駅前あたりが宿場町の水戸方の出入口だったようで、江戸方と同じくかつては「是より松戸宿」の碑が建ち、一里塚も置かれていたようです。現在の松戸駅入口付近
2014/03/16
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お気に入りの富士見スポット、足柄峠へ向かう途中で、地蔵堂に立ち寄ってみました。地蔵堂(神奈川県指定重要文化財)足柄山地にある地蔵堂は、箱根と丹沢の中間の矢倉沢にあって、矢倉岳への登山口であると共に、夕日の滝への分岐点ともなっています。この日は8月の終盤で、まだまだ夏の日差しが照り付ける中、矢倉沢の里山では稲穂の上を赤とんぼが舞っていて、秋の気配が感じられました。駐車場の車が多いとは思っていたのですが、なぜかバンジョーなどの楽器を持って夕日の滝に向かう人が大勢いました。この日は「箱根夕日の滝ブルーグラスフェスティバル」が開催されていて、バンガローの沢沿いには色とりどりのテントが並び、スピーカーからはバンジョーの音楽がながれていました。「ブルーグラス」という音楽のジャンルを初めて知りましたが、聴いたことのある音楽も流れたりしていました。駐車場の車のナンバーを見ても全国各地から集まっているようで、1つの音楽のジャンルでこれだけの人が集まれるのは、うらやましい気がします。沢を越えて、バンガローの先の樹林帯を抜けると、瀑音と共に夕日の滝が見えてきました。この先に夕日の滝があります。夕日の滝滝口から滝壺までの全景が見渡せ、滝壺付近まで行くこともできます。画像では迫力が伝わらないので、またもや動画にしてみました。ブログに動画のアップ機能がないので、YouTubeにアップして、そのリンクを張り付けています。音が出るのでご注意下さい。
2018/09/03
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吉原宿を過ぎて富士川を渡ると、蒲原(かんばら)宿に入ってきます。蒲原宿の碑現在の行政区分では、静岡市清水区蒲原町です。東海道は再び海岸線沿いを行くことになりますが、蒲原宿から由比宿の間は、海岸線からすぐに急な斜面が切り立っているため、宿場町も細く長く続いています。旧東海道と共に、東名高速道路・国道1号線・東海道本線が肩を寄せ合うように集まってきました。(東海道新幹線だけは「蒲原トンネル」の山の中を通っています)蒲原宿の旧街道蒲原宿には旧東海道の面影がよく残っており、往年の宿場町の雰囲気がありました。「平岡本陣」(現在も人が住んでおられるので、中を見ることはできません)旅籠屋「和泉屋」天保年間にの建物が今も残っています。磯部家住宅1909(明治42)年に建てられたもので、総ケヤキ造りの見事な建物です。二階のガラスは日本でガラス生産が始まった頃の手作りのガラスです。志田家住宅(国登録有形文化財)町家形式の建物で、当時は味噌や醤油の醸造を営む商家でした。旧五十嵐歯科医院(国登録有形文化財)町家の外観を洋風に改築したもので、外は洋風、中は和風の「擬洋風建築」と呼ばれる珍しい建物です。その他にも旧街道の名残があちらこちらに見られました。馬頭観音の碑馬頭観音は馬の守り神として信仰され、その供養塔は街道の道標の役割も果たして来ました。蒲原宿のこの辺りにも伝馬や宿駅などで馬を飼っていたようです。高札場跡現在は町内の掲示板としてなっており、当時の高札場と同じ役割を果たしていました。江戸時代の歌で、蒲原宿は次のように歌われています。「蒲原に過ぎたるもの三つある。出入り、疫病、寺が八ヶ所」その歌にあるように、蒲原宿には急斜面の麓に寺院が所狭しと並んでいました。その1つである東漸寺の山門関連の記事東海道~吉原宿→こちら東海道~由比宿→こちら蒲原城→こちら
2009/11/01
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