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時間も場所もトリップして、約半年前の長州は山口県の荒滝山城です。この日は右田ヶ岳城、敷山城を訪れた後に登ったのが、同じ山陽道でありながら中国山地に近い荒滝山城でした。山口県では戦国城郭が他県に比べて極端に少なく、右田ヶ岳城や敷山城から荒滝山城までは道のりで約50kmの距離にあります。時代背景を考えると戦国城郭が少ないのもわかる気がするのですが、防長の戦国時代が他県に比べて短かったことと無関係ではないように思います。防長の戦国時代は長くても1551年に陶晴賢が大内義隆に謀反を起こした大寧寺の変に始まって、毛利元就が大内義長を功山寺で滅ぼした1557年までの6年間、実質的には1555年の厳島の戦いに始まって功山寺までの2年間だと思います。この辺りは150年以上にも渡って、扇谷上杉氏や山内上杉氏、古河公方足利氏に小弓公方足利氏、そして北条氏、武田氏、上杉氏、佐竹氏、里見氏と、雄者が覇を競っていた関東とは事情が違うのかも知れません。誰かが城を築けば、その向かいに城を築くといった具合で、戦国時代の関東では到る所に城郭が築かれていました。戦国城郭が他県に比して極端に少ない印象のある山口県ですが、近世城郭が他県に比して多い印象もあります。実はこれもおかしな話で、江戸時代になってから一国一城令が出されたため、山口県には萩城(長門)と岩国城(周防)の防長2ヶ国以外の城があってはならないのですが、近世城郭をやたらと見かけました。もちろん毛利氏が築いたもので、「陣屋」や「御殿」と言いながら立派な城郭であったり、幕府に無断で築城したものもあったりと、やりたい放題な感じです。何だか防長の城郭の総括みたいになってきましたが、話は戻って若滝山城、こちらは戦国の山城です。荒滝山城遠景標高459mの山頂に本丸があります。ところで登城道入口付近には廃屋となった旧家が放置してあり、何とも言えないノスタルジーを醸し出していました。昭和の初期かそれ以前か、建造時期はわかりませんが、手前には井戸があります。おそらく内部には土間やかまど、そして薪で焚く五右衛門風呂があったりすることでしょう。旧家を過ぎて登城道を登りはじめると、石積みと曲輪ような削平地がありました。いかにもそれらしい雰囲気ですが、おそらく後世になって造られたもので、城郭の遺構ではないように思います。それでも振り返ってみると、山麓の居館跡に見えなくもないので、不思議でした。先入観を持って見ると、全てが城郭に見えてしまいます。山腹にも天然の石を加工したような石積みが見られ、斜面を横切るような形で連なっていました。こちらは築城時からあるものだと思いますが、防御として何の意味があるのかよくわかりませんでした。それでも山頂付近まで行くと、本丸周囲は土塁で囲まれ、石垣や堀切も残っていました。堀切跡見事に残っています。本丸の石垣本丸土塁こちらもはっきりと残っていました。本丸から南側を眺めると、はるか周防灘を遠くに望む景色が広がっていました。今思えば懐かしい光景です。荒滝山城は大内氏の重臣で長門国守護代であった内藤隆春の居城であったとされています。山頂部分は戦闘時の詰城で、普段は山麓に居館があったようです。発掘調査では中国や朝鮮の陶磁器など、16世紀中頃から後半にかけての土器が出土したとのことで、まさに防長の戦国期にあった山城ということになります。内藤氏は大内氏と関係が深いながらも、荒滝山城で実戦が行われた跡がないことから、毛利氏に降ったのかも知れません。それだけに城の遺構もよく残っているとしたら、なんとも皮肉な話でもあります。
2012/11/12
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関門海峡に近い周防灘には、2つの無人島が浮かんでおり、「満珠・干珠」と名付けられています。周防灘に臨む豊功(とよこと)神社から見た満珠と干珠長府にある忌宮神社の飛び地境内とされ、現在も立ち入りが制限されています。そのため数々の植物が原生しており、天然記念物に指定されると共に、瀬戸内海国立公園にも指定されています。日本書紀にも「興津島」・「平津島」の記述があり、神功皇后ゆかりの地でもあります。神功皇后が三韓征伐を行うにあたり、下関で戦勝祈願を行ったところ、住吉の神から「干る珠」・「満つる珠」を借りるよう、お告げがありました。陸側と海側に並ぶ2つの島ですが、どちらが満珠でどちらが干珠なのかについては諸説あって、2つまとめて「満珠・干珠」と呼ばれています。潮の干満を操る「満珠・干珠」の2つの玉で戦勝した神功皇后は、下関に凱旋して2つの珠を海に返したところ、2つの島が浮かび上がって「満珠島・干珠島」になったと言われています。どちらが満珠島でどちらが干珠島かについては諸説あり、2つまとめて満珠島・干珠島と呼ばれています。壇ノ浦の合戦においては、源義経率いる源氏の水軍の集結地でもありました。周防灘と言えば関門海峡に沈む夕陽のスポットでありますが、満珠・干珠を臨む豊功神社は、周防灘に昇る朝日のスポットとなっているようです。豊功神社社殿毛利氏の家紋である「一文字に三ツ星」があり、毛利秀元が櫛崎城を築城するにあたり、城内に鎮座したものです。豊功神社の周囲には櫛崎城の石垣なども残っており、周防灘から関門海峡を抑える要衝であったことが窺えます。
2012/07/25
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日本海に面する長門市の西側、旧油谷町の向津具半島の先端部近く、油谷湾に面した場所に楊貴妃の墓所があります。(ちなみに向津具と書いて「むかつく」と読みます)楊貴妃墓所のある向津具半島先端部の油谷湾楊貴妃の墓所は二尊院の境内にあり、「楊貴妃の里」として整備されています。楊貴妃の里、二尊院の境内境内にある楊貴妃像二尊院の墓地の中に柵で囲まれた場所があり、ここが楊貴妃の墓所とされています。そもそもなぜここに楊貴妃の墓所があるのか、現地の解説板には経緯が書かれていました。読むのも馬鹿馬鹿しいかもしれませんが。同じ向津具半島には「二位の浜」と呼ばれる場所があり、源平壇ノ浦の戦い後に安徳天皇の亡骸が打ち上げられたと言われています。二位の浜に限らず、山口県の日本海岸には「誰々が流れついた」などの平家の落人伝説が多々あります。まだこちらの方が信憑性があるくらいで、まさか楊貴妃まで流れ着いていたとは。
2012/07/11
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山口県の建造物のうち、国宝に指定されているものは三つあり、瑠璃光寺の五重塔・功山寺の本殿と住吉神社の本殿です。住吉神社海運の神様で知られる住吉社、大阪の住吉大社が総本社ではありますが、数ある長門国の神社の中で最も格式の高い長門国一宮です。住吉神社は日本書紀にも記述があり、神武皇后のいわゆる三韓征伐の帰り道に、住吉三神の神託を受けて創建されたと伝えられています。約1800年の歴史をもつ住吉神社境内には、日本書紀や古事記にも登場する大和朝廷の大臣、武内宿禰が植えたとされる楠があります。歴史のある神社は気の強い場所として知られていますが、住吉神社でもこの楠がパワースポットとされていました。こちらは比較的新しく、同じ下関出身の乃木希典お手植えの楠です。住吉神社は1370年に長門国守護である大内弘世によって再建され、拝殿は1539年に毛利元就によって建立されたものです。拝殿(国指定重要文化財)そして拝殿の向こう側に続く千鳥破風の社殿が国宝の本殿です。1370年の大内弘世による創建当時のものですさすがは長門国一宮、威厳のある社殿でした。
2012/07/10
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日本海に注ぐ阿武川は、分流して橋本川と松本川となり、その三角州の萩城の城下町が形成されています。西側の橋本川の河口付近に萩城があり、堀内や平安古などには上級武士の屋敷と町割が今も残っています。橋本川と松本川の分流点付近にある川島は、川の上流部にありながら下級武士が住んでいた場所でした。川島の案内図画像の右側が北の方角で、萩城は右下の方にあります。赤く塗られた道路は国道262号線で、旧萩往還にあたります。幼少期に萩に住んでいたことがあるのですが、「川島にいる時」とか「善福寺のあたりで」と、何度も耳にしてきました。あまり記憶にないのですが、家の前に川が流れてたのを覚えています。その善福寺の山門全く記憶にないのですが、善福寺は萩に城下町が造られる以前の永享年間(1429年~1441年)に創建された古刹で、元々は萩城のある指月山の山麓にあったそうです。毛利輝元が防長二カ国に入封、萩に築城するにあたって現在地に移転しました。川島には萩城から続く藍場川が流れており、江戸時代になって開削された用水路です。善福寺門前の藍場川その藍場川沿いを歩いているうち、何となく記憶が甦ってきました。そう言えば藍場川を泳ぐ鯉を捕まえて、とても怒られたことを思い出しました。だんだんと記憶が甦ってきて、とても懐かしい光景です。川沿いの土塀もなんとなく覚えています。藍場川の水は澄んでいて、川底もはっきりとわかる上に、鯉だけでなくハヤ(ウグイ)が泳いでいるのもよくわかりました。あまり記憶にないのは残念ですが、なかなかいいところに住んでいたものです。湯川家屋敷跡萩の中でも川島からは総理大臣が2人輩出されており、その1人が桂太郎です。桂太郎旧宅日本史で歴代内閣総理大臣の名前を覚える時、「イ・ク・ヤ・マ・イ・マ・イ・オ・ヤ・イ・カ・サ・カ・サ・カ…」と覚えたかと思います。最期の「カサカサカ」が桂太郎と西園寺公望で、「桂園時代」と呼ばれた内閣総理大臣です。そして川島から輩出された内閣総理大臣のもう1人は、陸軍元帥でもあった山縣有朋です。山縣有朋生誕地ところで内閣総理大臣を輩出した都道府県では山口県がトップにあり、伊藤博文・山縣有朋・桂太郎・寺内正毅・田中義一・岸信介・佐藤栄作・安倍晋三・菅直人といった面々です。(うち萩の出身は山縣有朋・桂太郎・田中義一です)川島は堀内・平安古・浜崎のような「重要伝統的建造物群保存地区」には指定されていませんが、萩の城下町を散策するならば、ぜひお勧めしたい場所です。萩城下町関連の記事萩城→こちら萩城下町→こちら堀内の町並み→こちら平安古の町並み→こちら
2012/07/03
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幕末の長州萩で吉田松陰を輩出したことは、その後の長州の歴史を決定付けたと言っても過言ではないかも知れません。その萩にあって、生誕地や松下村塾と並んで、吉田松陰にゆかりの深い場所が野山獄です。野山獄跡野山獄は萩城から東へ約1km、橋本川と松本川の三角州に形成された萩城城下町の中にあります。元々は長州藩士の屋敷のあった場所だったのですが、とある事件によって長州藩の牢獄となりました。1645年9月17日の夜、長州藩士野山六右衛門の屋敷に、同じく長州藩士で西隣に住む岩倉孫兵衛が酒に酔って切り込み、野山氏の家族を殺傷する事件が起こりました。岩倉孫兵衛は死刑となりましたが、野山氏も取りつぶしとなり、その屋敷跡に作られたのが野山獄です。野山氏にしてみれば、とばっちりもいいところかも知れませんが、切り込んだ岩倉氏の屋敷跡も牢獄となり、道を挟んで野山獄と岩倉獄が並ぶことになりました。道を挟んだ向かい側の岩倉獄跡投獄者の身分によって上牢と下牢に分けられ、野山獄が上牢で岩倉獄が下牢だったようです。吉田松陰はこの野山獄に2回投獄されていますが、1回目は1854年に日米和親条約締結のため、再びペリーが江戸に来航した時でした。金子重輔と共にポーハッタン号に乗り込んで密航を企てたのですが失敗、自首して江戸の伝馬町牢屋敷に投獄された後、長州に送還されて野山獄に投獄され、金子重輔は岩倉獄に投獄されています。吉田松陰生誕地にある吉田松陰像金子重輔と共に下田沖のペリー艦隊を見つめている像です。この時、吉田松陰は獄中で囚人に講義を行い、獄中の記録を「幽囚録」に残しました。そして1855年に出獄となった後、松下村塾を開いています。2回目の投獄は1858年のことで、幕府が勅許なしに日米修好通商条約を締結したことから、老中である間部詮勝暗殺を企てた容疑でした。井伊直弼による安政の大獄もあって、江戸の伝馬町牢屋敷に送還され、老中暗殺計画を自供したことが決定的となりました。吉田松陰関連の記事生誕地→こちら松下村塾(松陰神社)→こちら伝馬町牢屋敷→こちら小塚原回向院→こちら松陰神社(世田谷)→こちら
2012/06/30
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古来より国際航路の玄関口であった港町下関、平成になってからは唐戸周辺の再開発によってカモンワーフや海饗館などが造られ、ウォーターフロントエリアも随分と様変わりしてきました。それでも一歩内陸に入ると、雑居ビルが立ち並ぶ昭和の雰囲気が残っており、「唐戸銀天街」などの雑然としながらも寂れた雰囲気には、ノスタルジーさえ感じます。ところで下関や門司ではなぜか高雄の旗津半島や基隆の光景を思い出すのですが、新旧入り混じった同じ港町だからでしょうか。平成と昭和が入り混じる街並の中、南部町付近には明治や大正時代の建築物も所々に残っており、街並に溶け込んでいるのが不思議です。唐戸交差点に並ぶ旧秋田商会ビルと南部町郵便局旧秋田商会ビル1915(大正4)年に竣工した西日本初の鉄筋鉄骨コンクリート造りで、1階内部は純洋風、2,3階の内部は和風の書院造となっており、屋上には日本庭園がある和洋折衷の建造物です。秋田商会は1905(明治38)年に創業したし商社で、日露戦争後には台湾・朝鮮半島・満州へも進出していました。現在は下関観光情報センターとなっており、「金子みすゞ詩の小径」のスタート地点でもあります。旧秋田商会ビルの横に建つ洋風建築が南部町郵便局、現在も郵便局として使われています。丸い赤ポストが新しくも見えてきます。1900年に当時の赤間関郵便電信局として建てられたもので、下関では最古の洋風建築であり、現在日本の郵便局の建物としては最古の建物です。唐戸交差点の反対側には赤レンガの建物があり、こちらは旧英国下関領事館です。下関英国領事館(国指定の重要文化財)残念ながら平成25年12月まで修復工事中です。下関は外国人居留地が置かれた場所ではありませんが、海上交通の要衝である下関に領事館の開設を具申したのは、アーネスト・サトウでした。1901(明治34)年に初代のイギリス領事館が開設され、業務拡大によって1906年によって移転、新築されたのが現在の領事館です。唐戸交差点からは離れていますが、南部町にはポツンと洋風建築が残っていました。1920(大正9)年に竣工した旧三井銀行下関支店で、旧山口銀行本店です。旧さくら銀行の勤務時代、昔は下関に支店があったはと聞いたことがあります。合併して三井住友銀行となった時、旧住友銀行の下関支店が新銀行の支店となったため、現在では三井住友銀行の下関支店が別の場所にありますが、三井としては70年ぶりの下関支店復活でしょうか。
2012/06/20
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梅雨の中休みで天候もまずまずとあって、「少し歩いてみるか」と、向かった先は下関です。スタート地点は唐戸の亀山八幡宮、ここは下関から京都までの山陽道(西国街道)の起点でもありました。鳥居には昭和八年の刻印がありました。鳥居脇に建つ山陽道起点の道標旧山陽道(現在の国道9号線)関門海峡を間近に見る亀山八幡宮ですが、幕末には長州藩によって砲台が置かれました。朝廷からの攘夷決行の期日である1863年5月10日、長州藩は関門海峡を通過するイギリス・アメリカ・フランス・オランダの艦船に砲撃を加え、下関戦争が勃発しました。亀山神宮境内の砲台もその1つで、ここから関門海峡に向けて砲撃が始まりました。砲撃の指揮を執ったのは久坂玄瑞、吉田松陰の松下村塾門下生では四天王の1人に数えられ、松下村塾では高杉晋作のライバルでもありました。亀山八幡宮境内からみた関門海峡すぐ向かい側には唐戸市場とカモンワーフがありますが、当時はもっと近くに海岸線があったことと思います。高杉晋作と同じく、久坂玄瑞も明治維新を見ることなくこの世を去りましたが、もしも存命ならば明治政府の要職を担っていたかも知れません。関門海峡を航行する船舶と汽笛を聞きながら、久坂玄瑞と同じ地に立っていることは、史跡めぐりの醍醐味を感じると共に、とても感慨深いものがあります。ところで亀山八幡宮には吉田松陰の松下村塾門下生に関するエピソードがもう1つあります。亀山神社の境内には茶屋である「お亀茶屋」があったのですが、そこで働いていた芸者が木田梅子で、後の内閣総理大臣伊藤博文の夫人、伊藤梅子です。高杉晋作の功山寺の挙兵によるクーデターの後、高杉晋作と行動を共にした伊藤俊輔(博文)も、長州藩俗論派(保守派)によって命を狙われる身となりました。亀山八幡宮境内に逃げ込んだ伊藤博文を匿ったのが木田梅子でした、その伊藤博文とゆかりが深いのが、境内にある「世界一のふくの像」です。「下関に『世界一』がなければ、他にどこにあるのだろう?」と言ったところですが、豊臣秀吉がふぐの食用を禁止して以来、300年経ってふぐの食用を解禁したのが伊藤博文でした。ちなみにふぐ料理の公許第一号は、亀山八幡宮から旧山陽道を東に200mほど行ったところにある「春帆楼」、日清戦争後の下関条約の交渉が行われた場所でもあります。幕末・明治初期の舞台となった亀山八幡宮ですが、その歴史は古く、下関戦争から1,000年ほど遡った859年に創建されました。ひがしに行教が宇佐神宮から京都の石清水へ八幡宮を勧進するにあたり、途中で停泊した亀山に宮を設けたのが始まりとされています。(八幡宮としては、石清水八幡宮よりも古いことになります)亀山八幡宮社殿亀山八幡宮は長門国三ノ宮でもあります。東に500ほど行った場所には壇ノ浦と赤間神宮がありますが、社格も歴史も亀山神宮の方に軍配があがるかも知れません。関連の記事唐戸市場とカモンワーフ→こちら山陽道~赤間関→こちら春帆楼(日清講和記念館)→こちら赤間神宮→こちら壇ノ浦古戦場→こちら【送料無料】新・平家物語 全16巻セット
2012/06/16
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かつては「回天坂」と呼ばれた坂の上には当時兵舎が置かれており、現在は「回天記念館」が建てられています。神社の参道を思わせるような通路の両脇には「烈士碑」、回天戦没者の名前と出身地が刻まれたプレートが並んでいました。悪化する戦局を打開するべく、黒木博司大尉と仁科関夫中尉が考案したのが、魚雷に人が搭乗して操縦する兵器でした。(後に黒木大尉は回天訓練中に事故死、仁科中尉は回天搭乗で戦死)当初海軍はこの発想には否定的で、日露戦争でも名を馳せた永野修身軍令部総長にいたっては、口頭で「それはいかん」と明言して却下したそうです。それでも黒木大尉の血書の嘆願書などの働きかけによって、「搭乗員の脱出装置なしでは採用しない」との条件付で、「人間魚雷」の試作が開始されました。結局脱出装置は搭載されないまま製作が進められ、1944年8月になし崩し的に正式採用され、「天を回らし、戦局を逆転させる」願いから「回天」と命名されています。回天の復元模型従来の魚雷を搭乗用に改造したものです。魚雷を人が操縦すると言ってもリアルには理解できませんが、ミサイルの命中度を上げるために、人が操縦すると言ったらどういう兵器になるでしょうか。映画「出口のない海」でも出てきた回天を搭載した一等輸送艦の模型大津島には回天の訓練基地が造られ、終戦までに延べ1,375名の搭乗員が訓練を受けました。その年齢は17歳から28歳、大多数は20歳前後だったそうです。回天の戦没者は搭乗員・整備員を合わせて145名、回天記念館ではその回天の歴史の紹介と、戦没者の遺品の数々が展示されていました。訓練の合間に描いたスケッチなど寄せ書きや楠木正成の湊川の戦い「七生報国」の鉢巻など。当ブログのプロフィール画像にも利用しているように、楠木正成は武将として最も尊敬する人物ですが、実はこの歴史観には違和感を感じています。それでも戦局が悪化する中、日本を守るべく自ら回天の搭乗員となった方々の思いには、敬服するばかりでした。回天搭乗員が残した遺書も展示されており、その思いの数々には目頭が熱くなってきます。土井秀夫海軍中尉が両親に宛てた遺書松田光雄二等飛曹(没後少尉)の遺書上西徳英海軍一等飛行兵曹(没後少尉)が家族に宛てた遺書昭和20年8月11日沖縄南東海域にて戦死(享年18歳)お父さんお父さんの鬚は痛かったです。お母さん情けは人のためならず和ちゃん私は海です青い静かな海は常の私 逆巻く涛は怒れる私の顔敏子すくすくと伸びよ兄さんはいつでもお前を見てゐるぞ忠範よ、最愛の弟よ日本男児は御盾となれ他に残すことなしここでご紹介できるのはほんの一部ですが、その歴史と共に遺した思いは忘れてならないものだと思います。関連の記事大津島~回天の島→こちら
2012/06/06
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徳山港の沖合い約10kmほどの所に大津島があり、徳山港の防波堤のような格好で、南北に約10kmほどの長さを持つ島です。大津島へは徳山港から定期旅客船が出ており、途中同じ大津島にある瀬戸浜港・刈尾港に寄港しながら、大津島の南端にある馬島港まで、約30分の所要時間でした。マリンブルーに輝く穏やかな瀬戸内海を眺めながらの、ちょっとしたクルーズではありましたが、徳山湾と大津島の歴史を思うと複雑な気持ちとなり、神妙な面持ちで海を眺めていました馬島港に着いてみると、待合所と浮き桟橋があるだけの、まるで漁港のような小さな港でした。大津島の方も観光用のお店が並ぶわけでもなく、お年寄りと軽トラが集まって防波堤で釣りや話をしているような、そんな長閑な島でした。そんな大津島にはかつて特攻兵器「回天」の基地があり、若い搭乗員たちが日夜訓練を行った場所でもあります。かつての基地の模型(回天記念館)回天の整備工場のあった場所は小・中学校の敷地となっていますが、塀や石段などに当時の面影が残っていました。当時から残る校庭脇の石段搭乗員の訓練にも使われたこの石段は、「地獄の石段」と呼ばれていたそうです。また兵舎(現在の回天記念館)に続く急な坂道は、「回天坂」とも呼ばれていたそうです。小・中学校の敷地にはかつて回天の整備工場があり、港の反対側にの海に向かってトンネルが延びていました。全長約200mのこのトンネルは、回天をトロッコに乗せて海まで運んでいたものです。搭乗員もこのトンネルを抜けて、回天に乗り込んで行きました。トンネルを抜けた先には周防灘の海が広がっており、出口脇には「魚雷発射場跡」の碑が建っています。「この地より 海の砦として 若ものは征く」魚雷発射場昭和14年に建設され、通常の魚雷発射試験場だったものを、回天の発射訓練場にしたものだそうです。現在もその発射場のピットを見ることができました。ここから訓練のため、回天が「発射」されたそうです。回天は乗り物ではなく兵器としての扱いなのか、「出航」ではなく「発射」の表現が使われていました。回天の訓練においては、習熟度に応じて単純直線往復、大津島半周、大津島一周などがあり、他にも停泊艦襲撃、航行艦襲撃などの訓練を行っていたようです。かつての回天基地の遠景と訓練海域全国各地から集まって来た回天の搭乗員、瀬戸内海を見るのが初めての人もいたかも知れません。回天の中からはその海を見ることはなかったでしょうが、訓練の合間に見ていただろうこの海が、もしも慰めになっていたなら幸いです。この後はいよいよ回天記念館、搭乗員の方々の切なる思いが伝わってきます。関連の記事旧海軍徳山燃料廠→こちら旧光海軍工廠→こちら呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)→こちら
2012/06/04
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周南は周防灘の瀬戸内海でも屈指の工業地帯であり、徳山駅付近の山陽新幹線の車窓からも、海岸沿いに林立する工場群をよく見ることができます。太崋山から見た徳山港と周南コンビナート戦前までの徳山には旧海軍第三燃料廠が置かれ、終戦後はその跡地に出光興産の製油所や日本曹達工業(徳山曹達→現トクヤマ)・東洋曹達工業(現東ソー)などの化学工場が建設され、現在の周南コンビナートとなっています。大津島行きのフェリーから見た周南コンビナート太崋山の山麓に並ぶ出光興産の石油タンク旧第三海軍燃料廠は、1941年4月6日、沖縄へと出航する戦艦大和が、本土最後の給油を受けた場所でした。特攻出撃にあたって、燃料は片道分しか補給しなかったと言われていますが、実際には帳簿外の重油を集めて、往復分の燃料を搭載して出撃したとも言われています。海軍燃料廠沖(大津島フェリーより)いずれにしても同じこの海から、大和を旗艦とする第二艦隊が出航していきました。徳山港沖にはLPGが南へ舳先を向けていましたが、どうしても過去の艦隊とオーバーラップしてしまいました。
2012/06/03
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右田ヶ岳城に続いてこの日2つめの山城は、右田ヶ岳から佐波川を挟んで東へ約4km、双耳峰の矢筈ヶ岳にある敷山城です。右田ヶ岳から見た矢筈ヶ岳矢筈ヶ岳の登山口までは狭いながらも車道がついていて、200mほど標高を稼ぐことができました。矢筈が岳の登山口から敷山城跡まではさらに標高差100mほど、道のりにして400mほどの距離にあります。ところで「敷山城跡」とはなっているものの、元々は「敷山験観寺十二坊」の寺院跡でした。建武新政の太平記の時代に「敷山の戦い」の舞台となったため、戦闘拠点としての敷山城の名称があるものと思われます。登城道の途中には、土塁や腰曲輪の跡らしきものが見受けられました。土塁(?)跡験観寺の時代からあるものかどうかは不明ですが、鎌倉時代の中世山城の虎口のようにも見受けられます。腰曲輪(?)跡斜面に築かれた削平地ですが、位置からすると物見台があったのでしょうか。しばらく木々の間を抜けていくと突然視界が開け、目の前には「梵字岩」と名付けられた巨岩がありました「金輪聖王 天長地久 文永二年乙丑五月」と刻まれており、1265年の建立となります。建立から9年後の1274年に元寇(文永の役)が起こっていることから、元の侵略に対して国家の安全を祈願したとも言われています。梵字岩からは眺望が開けており、かつての周防国の中心地、国府のあった防府の市内を望むことができました。手前に石桶のような物がありますが、こちらは「昭和十二年」の銘があって、かなり後世のものでした。梵字岩から少し登ると石段が現れて、横に「敷山城跡」の碑がありました。石段の先には削平地と鳥居と祠があり、ここが敷山験観寺本堂跡であり、敷山城の本丸となります。ここが験観寺十二坊の最頂上、現在も僧坊の礎石の跡が残っていました。矢筈ヶ岳の八合目にあり、標高461mの矢筈ヶ岳山頂までは比高差150mを残すだけですが、ここで撤退して引き返しました。験観寺が戦いの舞台となり、城郭として機能したのは1335年のことで、足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、九州で挙兵をして再び京都に攻め上った時でした。この時、周防国府の役人であった摂津助公清尊、検非違使の助法眼教乗は後醍醐天皇方につき、周防国の武将を集めて挙兵したのが、この敷山城です。足利尊氏の命によって、石見国守護である上野頼兼が敷山城を攻撃、摂津助公清尊と助法眼教乗は敗北を喫して自刃しました。現在でも毎年8月になると、「敷山の戦い」の慰霊祭が行われています。
2012/05/29
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山口市・防府市の山陽地方には、この地方特有の花崗岩の岩山が点在しています。防府市北部にある右田ヶ岳もその1つで、付近を並走する山陽新幹線・山陽自動車道・国道2号線からもその山容を眺めることができます。旧山陽道から見た右田ヶ岳その右田ヶ岳には城跡があり、全山が城郭だとされています。手前に花崗岩のピークが見えますが、本丸はその背後の山頂にあるようです。最近は体を動かしていなかったこともあり、城跡めぐりという言うよりも、山登りを目的右田ヶ岳に登ってみることにしました。(登山靴に履き替えて、装備も軽登山用です)右田ヶ岳の山麓に天徳寺の境内があり、ここが登城道(登山道)のスタート地点です。天徳寺山門1192年に源頼朝によって開基された古刹です。しばらくは木々の間を抜ける歩きやすい道が続いていたのですが、やがて花崗岩の岩肌を登るようになりました。途中に観音堂があり、花崗岩に刻まれた三十三体の磨崖仏を見るようになりました。大正時代に寄進によって刻まれたものです。この辺りからは植生も低い潅木に変わって、岩山の急登攀となってきました。その分眺望も開けてきたのですが、ここに城跡があったとはまだ信じられませんでした。(登城するだけで一苦労だったと思います)山麓に目を向けると、所々に曲輪のような削平地の跡が見受けられ、存外山麓部に城郭があったのではないかと思ったほどです。岩の間を抜けたり、岩をよじ登ったりと、登城ではなく完全に登山です。変化に富んだ岩肌を三点支持で登って行くのは、なかなか面白かったのですが、それも最初だけでした。花崗岩に歩幅のリズムを狂わされ、かなり苦戦をしました。(体を動かしていなかったツケが一気に回って来たのが最大の理由ですが)天徳寺からスタートして1時間、まさに這いつくばるようにして山頂に到着です。右田ヶ岳山頂右田ヶ岳城は西峰・中峰・東峰に分かれており、右田ヶ岳城の本丸は山頂の中峰ではなく、西峰にあるようです。本丸のある西峰標高は中峰よりも低いものの、鞍部に降りてからさらに登る格好になるので、西峰は断念しました。この花崗岩の岩山に築城するとは、よほどの物好きか狂気の沙汰としか思えません。それでも中峰の山頂に立つと、周防国の国府である防府市街が一望できました。周防灘からは風が吹き渡り、登城を開始した時には騒々しかった山陽新幹線や山陽自動車道の通過音も、ここまでは届かなくなっていました。旧山陽道や三田尻港を一望に見下ろすこの場所は、要衝と言えば要衝なのですが、いまだに城地選定の理由がわかりませんでした。右田ヶ岳城の歴史は古く、鎌倉時代末期に右田氏によって築城されました。右田氏は大内氏の庶流で、代々大内氏の一族として右田ヶ岳を本拠地としています。戦国時代に入り、厳島の戦い後に毛利元就が防長に侵攻して来ると、高嶺城の大内義長は、右田隆豊・野田長房を右田ヶ岳城に置いて、毛利氏の侵攻に備えていました。1557年、若山城に侵攻した毛利元就の説得により、右田隆豊は毛利方に付いて右田ヶ岳城を開城していました。大内氏一族までも味方に取り込むあたり、さすがは謀略家の毛利元就です。
2012/05/27
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阿武川が分流する橋本川と松本川の三角州に形成されたのが萩の城下町です。江戸時代の地図が使えると言われる萩市内では、「重要伝統的建造物群保存地区」が3ヶ所選ばれており、平安古地区・堀内地区と、浜崎地区がその3ヶ所になります。(萩市では佐々並市が重伝建に選ばれていますが、こちらは旧旭村で平成の大合併によって萩市となりました)阿武川から分流して西側で日本海に注ぐ橋本川の河口付近に萩城と堀内・平安古があり、浜崎はその反対側、東側で日本海に注ぐ松本川の河口付近にあります。その松本川と日本海に面した浜崎には、当時は藩の御船倉が置かれ、軍船や御座船が格納されていました。長州藩御船倉この日は特別に御船倉の内部が公開され、CG映像で当時の様子が紹介されていました。同じ萩の城下町でありながら、堀内・平安古と浜崎の性格は異なっており、町並みにも違いが見られました。武家屋敷の並ぶ武家町の堀内・平安古に対し、浜崎は西廻り航路の寄港地であり、港町として発展した町並みです。廻船問屋や土蔵など、武家町とは景観が違った商家町の町並みが残っていました。(ところで同じ萩市の重伝建である佐々並市は萩往還の宿場町としての性格を持っており、これまたわずかに景観が違っています)山村家住宅本通である「浜崎本筋」に面した側は店棟となっており、浜崎本筋を曲がった側には塗籠となまこ壁がありました。山村家前に限らずこの日の浜崎には人があふれていたのですが、年に一度の「おたから博物館」の日で、長州藩御船倉もこの日だけは内部が公開されています。その山村家前は特に人が多く、観客席まで設けられていました。観客席の先に目を向けるとおなじみのマスコットキャラクターがいて、「あれ?まだいたの?」といった感じでした。昨年2011年の「おいでませ山口国体」のマスコットキャラクター「ちょるる」です。(防長方言がわかる方には、このマスコットキャラクターの名前の由来がわかることと思いますが、「きらら」でもよかったのではないでしょうか)実は観客席が設けられていたのは「ちょるる」見たさではなく、奇兵隊のパレードが目的のようでした。浜崎本筋も賑わっていて、県内各所の特産が集まっていました。虫籠窓の商家毎年5月の第3日曜日は浜崎の「おたから博物館」の日で、この数々の旧家に残るお宝が公開される日です。「坂本龍馬の筆入れ萩焼」とか「伊藤博文の書状」などなど、さすがに萩と言った感じですが、浜崎にある吉田松陰先生の菩提寺である泉福寺にもお宝が公開されていました。吉田松陰直筆の書状(許可をもらって撮影しています)獄中で詠んだ和歌こんなお宝が普通に展示してあるのですが、なんでも鑑定団に出すといくらまでいくのでしょうか。他にも萩城下町の古地図などもあり、道案内にはその古地図を指しながら「野山獄はここですね」とか、今もそのまま通用するところがさすがに萩の城下町です。関連の記事堀内の町並み→こちら平安古の町並み→こちら萩城(2011年5月)→こちら萩城城下町(2011年7月)→こちら(古萩地区中心です)「重要伝統的建造物群保存地区」
2012/05/21
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萩の城下町と言えば、土塀で囲まれた路地に特産の夏みかんのある光景が代表的でしょうか。その光景はどこにあるかと言えば、萩城城下町の中でも「堀内」地区とその南隣の「平安古」地区に、その代表的な光景を見ることができます。その「堀内」・「平安古」共に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されており、隣町同士がそれぞれに選ばれた珍しいケースです。それでも江戸時代の町割りでは、「堀内」と「平安古」の性格は異なっており、堀内が萩城三の丸の城内にあるのに対し、平安古は外堀を隔てた城外にあたります。当時の三の丸と城外の間の外堀にはいくつか橋が架かっていましたが、堀内と平安古の間に架かる平安橋だけが現しています「。平安橋(現存)元々は木橋でしたが、1764年~1771年の明和年間に、他の城下の橋と同様に石造りに変わったそうです。三の丸の外堀左側(南側)が平安古で、右側(北側)が旧三の丸の堀内です。平安橋から城内に入ったすぐの場所に、当時は平安古門の総門と見張り小屋が置かれていました。平安古総門跡北の総門、中の総門と並ぶ三の丸の総門の1つでした。夜中は門が閉ざされ、日中でも通行手形を持たないものは通れない厳重さだったようです。その平安古総門から先がいよいよ旧三の丸の堀内で、江戸時代へのタイムトラベルの入口でもあります。ちょっと寄り道をして、平安古総門の先のT字路から分岐する「追廻し筋」を行ってみることにしました。追廻し筋長い一本道が続いていますが、その名の通り城内に侵入した不審者を追い込む道だったのでしょうか。そして追廻し筋の先にあるのが、萩の城下町を象徴的する「鍵曲(かいまがり)」です。その鍵曲の土塀の上に目を向けると、特産の夏みかんが木々の間に実をつけていました。これもまた城下町萩を代表する光景です。さすがに不審者も鍵曲で逃亡をあきらめたこととは思いますが、なお逃げ切れたとしても、その先はT字路になっており、なまこ壁と出格子窓が立ちふさがっています。うっかりこのT字路を左に曲がって逃げたりすると、橋本川の川岸に追い込まれるようになっていました。このなまこ壁は現存する口羽家のもので、表門の一部でした。口羽家表門武家屋敷の門が現存しているだけでも珍しいのですが、さらに門の中に入ると、武家屋敷そのものが現存していました。口羽家から堀内の中心部へ戻ろうとしたのですが、T字路や袋小路を行ったり来たりで、毛利輝元の町割りに翻弄されていました。萩城の三の丸でもある堀内には上級武士が住んでいたこともあり、現在も武家屋敷や塗籠の土塀が続いています。二宮家長屋門児玉家長屋小田原や掛川など、城下町ではなまこ壁の建物をよく見かけましたが、現存するものを見るのはここだけでした。「江戸時代の地図が使える」とも言われる萩の城下町ですが、T字路や袋小路など、随所に江戸時代の町割りが面影を残していました。幕末の萩城下の歴史に思いを馳せると、まるでタイムトラベルをしているような気分になってきます。現代の中に江戸時代が残っていると言うよりも、江戸時代の中に現代があるような、そんな印象的な町並みです。関連の記事平安古の町並み→こちら萩城(2011年5月)→こちら萩城城下町(2011年7月)→こちら(古萩地区中心です)「重要伝統的建造物群保存地区」
2012/05/20
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全国に93ヶ所ある「重要伝統的建造物群保存地区」のうち、山口県では5ヶ所が選定され、そのうちの4ヶ所が萩市にあります。萩の城下町は江戸時代の地図がそのまま使えると言われ、路面こそアスファルトで舗装されているものの、鍵曲がりやT字路・袋小路など、江戸時代の町割りを現在も見ることができます。萩城のみならず城下町全体が防衛拠点として機能しており、萩城三の丸の南側にある「平安古(ひやこ)」地区も、江戸時代の町割りが残る「重要伝統的建造物保存地区」の1つに選ばれています。平安古の城下町では現代の住宅も数多く見られますが、所々に旧家や土塀、石垣などが普通に残っていました。萩城三の丸へ続く路地石垣の一部が残り、路地の向こうには萩城詰丸の指月山が見えています。江戸時代から残ると思われる長屋門(今も人が住んでいるようでした)複雑に折れ曲がった見通しの悪い路地にも、江戸時代の町割りの名残を見ることができます。平安古の「鍵(かい)曲がり」土塀に囲まれた路地を行くと、足音がよく響きました。これも防衛上の工夫の1つなのでしょうか。現代の住宅地の中も路地が複雑に折れ曲がっており、この辺りにも江戸時代の町割りの跡を見ることができました。萩の城下町には維新の立役者たちの史跡が数多くありますが、平安古にも幕末の長州で名を馳せた人の史跡がありました。天保の改革で藩政改革を行った村田清風の別宅久坂玄瑞生誕地吉田松陰の門下生では高杉晋作・吉田稔麿・入江九一と共に四天王の1人に数えられ、高杉晋作と共に松下村塾の双璧を成した人物です。1864年禁門の変で負傷して自刃しましたが、存命していれば倒幕の立役者となっていたことでしょう。現在は三条実美による追悼の碑が建っています。平安古の城下町だけでも防衛上の配慮が数多く見られました。関ヶ原の戦い後に120万石から36万石に大幅減封となって萩に本拠地を移した時から、すでに長州は倒幕に向けて動いていたのかも知れません。関連の記事萩城(2011年5月)→こちら萩城城下町(2011年7月)→こちら(古萩地区中心です)「重要伝統的建造物群保存地区」
2012/05/19
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本州の最西端、山口県下関市の南西部は、関門海峡よりもさらに狭い小瀬戸と呼ばれる海峡(水路?)で隔たれています。最大でも200mほどの運河のような水路ですが、その先は島になっていて「彦島」と呼ばれています。フグの競りで知られる南風泊市場も彦島にあり、巌流島も彦島の一部となっています。火の山公園から見た彦島(左の端の方です)彦島から見た火の山と壇ノ浦の関門海峡この本州の最先端にくっついたような小さな彦島ですが、歴史の成り行きによっては外国となっていた可能性がありました。1863年5月10日、朝廷から江戸幕府に下された攘夷決行の期日に、長州藩は関門海峡を航行するイギリス・フランス・アメリカ・オランダの船舶を砲撃し、下関戦争が勃発しました。その後の連合国軍の報復によって長州藩は敗退し、砲撃から3ヶ月後の8月になって、長州藩と連合国軍との間で、講和を結ぶこととなっています。その連合国との講和に臨んだ長州藩の全権大使が「宍戸刑部」でした。大役を担っていたにもかかわらず、宍戸刑部の名前は歴史に登場してきませんが、本名は高杉晋、通訳を務めたのが松下村塾の弟弟子である伊藤俊輔(博文)です。「宍戸刑部」の高杉晋作は、連合国軍の要求する講和条件を悉く受け入れました。その条件は砲台の撤去のみならず、関門海峡の自由航行、貿易の自由化、薪水の補給、船員の上陸許可、さらには賠償金300万ドルの支払まで含まれています。(賠償金の支払については、「幕府の命令に従った」との立場で全て幕府に請求を向け、イギリスもこれを信じていました)かなり一方的な講和条約でしたが、高杉晋作が唯一拒否した条件が「彦島の租借」でした。下関戦争の2年前、高杉晋作は上海の渡航して欧米列強による実情を見ていたこともあるでしょうが、後に彦島沖を航行した伊藤博文は、「あの時高杉晋作が租借問題をうやむやにしていなかったら、彦島は香港に下関は九龍半島になっていただろう」と回想したと言われています。彦島の「老ノ山公園」から見た響灘の日本海
2012/05/08
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山口県の北西部、響灘の日本海に面した土井ヶ浜では、昔から人骨が出土すると言われており、江戸時代の文献にもその記載があるようです。それまでは元寇で敗退した蒙古兵の遺骨とされていましたが、1931年の調査によって時代はもっと遡ることが判明しました。さらには1958年からの調査によって、約2,100年前の弥生人の遺骨であるとともに、大規模な埋葬遺跡であることが判明しました。現在土井ヶ浜遺跡は「土井ヶ浜弥生パーク」となり、「人類学ミュージアム」が建設されています。人類学ミュージアムでは、土井ヶ浜遺跡の紹介だけでなく、縄文時代からの日本人の形質やルーツについて紹介、展示されていました。内容が内容だけに、展示物にはスケルトンが多くなっています。土井ヶ浜の砂に埋葬されていたため、保存状態が良いそうです。同じく土井ヶ浜遺跡から出土した土器まぎれもなく弥生式土器です。遺骨と共に出土した貝製の装飾品巻貝を加工したもので、貝の装飾は南方から伝わって、遠く北海道でも出土例があるそうです。ところで山口・九州・沖縄の弥生人はその特徴から、「北部九州・山口タイプ」、「西九州タイプ」、「南九州・南西諸島タイプ」の3タイプに分類されるそうです。このうち「西九州タイプ」には縄文人の特徴が見られる一方、土井ヶ浜遺跡の「北部九州・山口タイプ」には縄文人の特徴がなく、日本に弥生文化をもたらせた渡来人だとされています。それでは「渡来人はどこから来たのか?」の問いに対しては、まだ明確な説がないようです。 少なくとも2,300~2,500年前の人骨を調査する必要があるのですが、朝鮮半島や中国大陸での出土量が少ないため、まだ比較研究が進んでいないようです。いずれにしてもこの弥生人が日本人のルーツの一つであることには間違いはなさそうで、ルーツについて思いを馳せていると、ミュージアム内に休憩所「ほねやすめ」がありました。土井ヶ浜遺跡の発掘現場はドーム状の囲いで覆われており、ドーム内には出土した遺骨が並んでいました。ヒーリングミュージックが静かに流れ、スケルトンにも見慣れたところなので、むしろ神秘的な雰囲気です。土井ヶ浜の埋葬遺体は、一度埋葬したものを掘り起こして再び埋葬する「複葬」と呼ばれる方法で埋葬されています。頭蓋骨だけを集めて複葬したもの自分たちの祖先の骨を一箇所に集めて、仲間意識を強めるためだったと考えられていますが、祖霊神信仰の原型がここにあったのでしょうか。その他にも特徴的な埋葬方法が数々見られるのですが、いずれも顔を北西の方向に向けていました。そしてこの土井ヶ浜の弥生人たちですが、ある時期に忽然と姿を消したそうです。それでも2,000年以上も前、確かに「日本人」がここで生活を営んでおり、2,000年の年月を考えると、ご先祖様である可能性はかなり高いと思います。
2012/05/05
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幕末になると、西洋式兵器製造の必要性から、佐賀藩、水戸藩、長州藩などの雄藩や代官所のあった伊豆韮山において、反射炉が造られました。その反射炉のうち、伊豆韮山と長州藩の反射炉が現存しており、萩の反射炉は萩城城下町から東に外れた小高い丘陵上にあります。雄藩を中心に進められた自力による西洋技術の導入と、その後の急速な近代工業化の遺産として、平成20年12月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の1つとして世界遺産暫定リストに追加されました。反射炉は大砲の砲身の鋳造に必要な溶解炉で、燃焼室の炎や熱を天井で反射させ、金属を溶解させていました。炉内を高温に保つためには高い煙突が必要で、現在はその煙突部が残っています。中国地方特有の花崗岩製で、高さ11メートルあります。今年の3月頃まで復元修理中でシートに覆われていたのですが、改めて全容を見ると不気味な感じで、近代化の息吹を感じるどころではありませんでした。この反射炉は佐賀藩の反射炉を参考にして造られたようですが、資金的な問題から実用化はされず、試験的に使われたと言われています。
2012/04/16
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周防灘の瀬戸内海沿岸には「妻崎開作」・「中野開作」(宇部市)など、「開作」の付く地名があります。開作は長州藩独特の言葉ですが、周防灘の干潟の干拓のことで、長州藩の直轄事業として行われました。中でも1668年に行われた高泊湾の「高泊開作」は、400ヘクタールに及ぶ最も規模が大きいものでした。この干拓事業の時に造られた海水を排水するための樋門が現在も残っています。潮の干満を利用して排水する仕組だったようですが、遠浅の海を田に変えてしまうので、気の遠くなるような事業だったことでしょう。長州では「三白政策」の下、米・塩・紙の「三白」の生産が積極的に行われました。開作もその事業の1つでしょうが、関ヶ原の戦い後に37万石とされた石高も、実収では80万石あったとされています。
2012/04/04
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歴史はその時その時の偶然の積み重ねで、後から振り返ってみて必然性が出てくるものだと思っています。源頼朝に始まる封建制度に終止符を打ち、中世・近世日本から近代日本へと歴史が変わった明治維新にしても、崩れ落ちそうな積み木を積んでいくような偶然の積み重ねではなかったでしょうか。ところで「第一次長州征伐」と「第二次長州征伐」という歴史上の出来事があり、1864年と翌年の1865年の1年の間に起こった出来事です。いずれも幕府が長州藩を「征伐」しようとしたことですが、第一次と第二次では同じ長州藩でも全く相手が違っており、結果も全く異なるものでした。第一次長州征伐の時、長州藩の実権を握っていたのは攘夷派などの急進派ではなく、幕府に従順な「俗論派」(保守派)でした。さらには唯一攘夷を決行した下関戦争(四国連合艦隊砲撃の報復)の結果、長州藩にはもはや幕府と戦う力もなく、この時は長州藩の完全な不戦敗に終わっています。ところが翌年の「第二次長州征伐」(山口での呼び名は「四境戦争」)では、高杉晋作や大村益次郎の前に幕府軍は敗北を喫し、やがて日本は倒幕へと動き始めました。「征夷大将軍」という武力の長を戴く武力政権が、その家来である1つの藩に逆に征伐されたとあっては、「もはや世も末」といったところでしょうか。(もちろんその過程には西郷隆盛や坂本龍馬など、雄藩の動きがあったればこそですが、これも積み木を積むような偶然の積み重ねだと思います)第二次長州征伐(四境戦争)での倒幕の立役者が高杉晋作ですが、高杉晋作には幕府の前に戦う相手がいました。その戦うべき相手が長州藩の「俗論派」(保守派)で、高杉晋作がとった行動がクーデター(功山寺の挙兵)でした。高杉晋作率いる奇兵隊などの諸隊と、長州藩俗論派の間で激戦となったのが「大田・絵堂の戦役」で、こちらでは明治維新最初の戦いとも言われています。旧美東町大田は秋吉台カルスト台地の東側、ちょうど山陽と山陰の中間点付近にあり、大田川のほとりにある神社「金麗社」に本陣が置かれました。松下村塾では高杉晋作の弟分である伊藤俊輔(後に伊藤博文)や山縣狂介(後に山県有朋)も、高杉晋作と行動を共にして、この金麗社で作戦会議を行っていたそうです。萩から旧山陽道船木宿へと抜ける街道の要衝にあり、長登銅山のすぐ東側の呑水峠では、諸隊と長州藩俗論派の激戦となりました。長登銅山と呑水峠の方向結果として高杉晋作や伊藤俊輔(博文)、山縣狂介(有朋)はこの戦いに勝利し、萩へ進軍していきました。そして長州藩を倒幕へと統一し、第二次長州征伐での勝利、倒幕へと続いていきます。この大田が「明治維新発祥の地」とも言われますが、この戦いで敗北していれば明治維新も違うものになっていたでしょうし、時代は下って内閣総理大臣伊藤博文や同じく山縣有朋もいなかったことでしょう。十一番目の志士 下 文春文庫 新装版 / 司馬遼太郎 シバリョウタロウ 【文庫】
2012/03/28
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東光寺と並んで長州藩毛利氏の菩提寺となっているのが大照院で、1656年に長州藩初代の毛利秀就の菩提寺として建立されました。(毛利輝元は長州藩の初代として数えられていないようです)鐘楼門(国指定重要文化財)1747年の火災によって、創建当時の伽藍が焼失してしまい、こちらは1750年に再建されたものです。 庫裏(国指定重要文化財)本堂同じ毛利氏の菩提寺でありながら、東光寺は黄檗宗で大照院は臨済宗と、宗派が異なっています。また東光寺の毛利氏廟所は3代から11代までの奇数代の藩主の墓所となっており、大照院は初代毛利秀成の後、2代から12代までの偶数代の藩主の廟所となっています。(理由はよくわかりません)それでも夥しい数の灯篭は、東光寺も大照院も変わりませんでした。毎年お盆になると灯篭に一斉に火が灯される「万灯絵」が行われます。
2012/03/09
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松下村塾(松陰神社)や吉田松陰生誕地のある萩市東部の山麓にあるのが東光寺で、長州藩主であった毛利氏の菩提寺でもあります。藩主の菩提寺と言えば封建制度の象徴のような感じですが、後にその封建制度を打破するきっかけとなる場所がすぐ近くにあるというのも、皮肉な感じがします。東光寺は長州藩第3代の毛利吉就によって、1631年に開山されました東光寺総門扁額にある「護国山」が東光寺の山号で、1693年の創建当時のものとされています。江戸時代のものが現存しているだけで第一級の文化財だと思うのですが、山口に来てからはさほど珍しくもなくなってきました。鐘楼1694年に第4代の毛利吉広によって寄進されたとされています。三門江戸時代の終わり頃、1812年に長州藩第10代の毛利斉煕によって建てられたもので、東光寺の中では比較的新しい建造物です。そして本堂がこちら大雄宝殿1698年に第4代藩主の毛利吉広によって建立されたものです。東光寺の境内奥にあるのが長州藩毛利氏の墓所ですが、その手前には第一次長州征伐で切腹となった毛利氏家臣の墓所があります。坂本龍馬の仲介による薩長同盟が成立する前、1864年の禁門の変(蛤御門の変)で長州藩が朝敵とされた第一次長州征伐の時、事件の責任をとって切腹した国司信濃・益田右衛門介・福原越後の三家老を始めとする廟所です。禁門の変では久坂玄瑞などの有能な長州藩士を失いましたが、歴史を振り返ってみるとここも近代日本の前の尊い犠牲でもす。ちなみにこの後で高杉晋作のクーデターが起こり、坂本龍馬の仲介による薩長同盟も成立した後、聞いて呆れる「第二次長州征伐」では幕府軍を壊滅させ、倒幕に向けて世の中が動いていきました。そして毛利氏の墓所です。おびただしい灯篭の数ですが、長州藩士にとって藩主とはいかなる存在だったのでしょうか。
2012/03/08
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江戸時代の日本において、武士以外の人たちから成る軍隊を創設することは、まさに奇抜なアイデアだと思います。その奇兵隊が私設軍隊ではなく、長州藩の正規軍だったことは、幕末の日本史では記憶するべきことか知れません。奇兵隊が結成されたのは1863年のことで、長州藩だけが攘夷を決行した下関戦争の後のことでした。奇兵隊の目的は外国艦隊からの防衛でしたが、本拠地は白石正一郎という商人の屋敷に置かれていました。白石正一郎邸宅跡現在は中国電力の敷地になっています。白石正一郎は裕福な商人で、薩摩の西郷隆盛や土佐の坂本龍馬とも親交があったそうです。それでも高杉晋作や久坂玄瑞に資金援助を続けているうち、自らの資金繰りも逼迫したと言います。白石正一郎が攘夷祈願のために奉納した大歳神社の鳥居歴史は偶然の積み重なりだとは常々思うのですが、高杉晋作が吉田松陰の下で学んでいなかったら、また奇兵隊に白石正一郎がいなかったら、歴史は違うものになっていたことでしょう。関連の記事功山寺→こちら
2012/01/22
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山口市内を見下ろす標高338mの鴻ノ嶺山の山上にあるのが高嶺城で、戦国時代に築かれた山城です。山口市内から見た高嶺城遠景山頂部近くに削平地があるのがわかります。鴻ノ峰へのアプローチは2通りあるようで、東側の山麓にある山口大神宮の境内から登る方法と、西側の山麓にある木戸神社から登る方法があります。山口大神宮から見た高嶺城遠景掲題の背後から鴻ノ峰に続く細い道がありました。西側からはテレビ電波塔までの舗装道がついているようなので、山口大神宮からのアプローチはやめて、西側の木戸神社の方から登って行きました。木戸神社その名の通り祭神は木戸孝允(桂小五郎)で、木戸孝允の旧宅があった場所に建立されました。旧宅のあった土地や山林を村民の学資に充てる遺言を残し、感謝の意を込めて建てられた神社です。木戸神社からテレビ塔までたどり着くと、テレビ塔の横には独立した曲輪の跡が残っていました。虎口の跡もはっきりと残ってい増ました。テレビ塔から城郭へと続く細い道を歩いて行くと、尾根の斜面に沿ってさらに曲輪の跡が続いていました。高嶺城の縄張り図地形を上手く利用して曲輪を配してありますが、毛利氏の時代に拡張されたとも考えられます。本丸は尾根から独立した山頂部分にあり、周囲に腰曲輪が配されていました。城跡碑のある曲輪にたどり着いたのですが、これも腰曲輪の1つのようで、本丸はまだ先にありました。本丸へ到る道おそらく空堀に土橋が架けられていたのではないでしょうか。本丸直下の腰曲輪本丸の周囲に空堀はありませんでしたが、一部石垣も使われていたようで、石積みの跡も残っていました。本丸周囲は藪で覆われていたため、近づくためには藪こぎをする必要がありました。爬虫類のいない季節とはいえ、これ以上近づくのは無理です。本丸からは山口市内が一望の下にありました。それにしても新しいサビエル記念聖堂がよく目立ちます。この戦国山城の縄張りを実際に見てみると、吉田郡山城に似ているように思ったのは気のせいでしょうか。高嶺城は大内氏最後の当主である大内義長によって、1557年に築城されました。山口をして「西の京」と言わしめ、大内氏館に見られるように栄華を誇った大内氏ですが、まさか戦闘に備えた山城を築くとは思ってもいなかったことでしょう。(詳細は厳島の戦い、大寧寺の変、功山寺にて)毛利氏の支配下となった後で城郭は改変されたようですが、現在残る縄張りはどう見ても毛利氏時代のものだと思います。しかしながら江戸時代の一国一城令によって、高嶺城も廃城となりました。
2011/12/14
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随分と話は前後しますが、上関番所を後にして上関海峡を渡り、長島から室津半島に戻って来ると、周防灘の海岸沿いに「上関郷土史学習館」瀟洒な建物がありました。別名を「四階楼」と言い、実は1879(明治12)年に建てられた木造の建築物です。現代でも4階建ては鉄筋コンクリート造りが大半で、木造の4階建ては見たことがありません。創建当時で考えると、かなり斬新な建物だったかも知れません。四階楼の建築者は長州藩士の小方謙九郎です。経緯は色々とあるものの、小方謙九郎はスキーを初めて導入し、NHKドラマ「坂の上の雲」にも登場する長岡外史(的場浩司)の実の父親だそうです。なぜ上関に4階建てなのかはよくわかりませんが、明治に入って早々にこの建築物が建てられたことが斬新で驚きです。
2011/12/09
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1943(昭和18)年6月8日、戦艦陸奥は謎の爆発によって、安芸灘の瀬戸内海にある柱島沖で沈没しました。船体や遺留品は、昭和45年より引き揚げが開始され、周防大島の東端にある陸奥記念館に展示されています。陸奥記念館の入口横には引き揚げられたアンカーが展示してありました。陸奥が爆枕した柱島の方向今も艦首と艦尾の一部が水中に残っているそうです。これまで陸奥の引き揚げ品については、大和ミュージアムや船の科学館などの展示で目にすることはありましたが、これだけ数多くの遺留品が展示されているのは、陸奥記念館だけかも知れません。大和ミュージアム入口前に並ぶ陸奥の引き揚げ品柱島の連合艦隊停泊地で起こした大爆発の原因については、自然発火・スパイによる放火・自殺説や駆逐艦による誤爆など、諸説あって未だに不明です。この原因不明の爆沈によって、乗組員1,471名のうち、1,121名の命が失われました。陸奥記念館では陸奥の船体のみならず、乗組員の遺留品などが数多く展示されていました。(館内の展示品の撮影は許可されていますが、ブログへの掲載は禁止されているため、ここではご紹介できません)遺留品の数々は乗組員の身の回り品などあって、惨劇がリアルに伝わってきます。さらにビデオ放映のバックには「海ゆかば」が流れており、余計に哀愁が漂っていました。
2011/10/31
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室津半島と長島の間にある上関海峡は、周防灘の瀬戸内海の要衝にあって、古来より海上交通の要所とされてきました。室津半島の先端にあり、砲台が置かれていた上関海峡朝鮮通信使上関来航図江戸時代には計12回朝鮮通信使が来航し、瀬戸内海最初の寄港地が上関です。上関は外交の重要拠点でもあり、学者や文人による文化交流の拠点でもありました。現在の上関船着場毛利氏と共に移ってきた村上水軍の軍港でもあり、村上水軍が朝鮮通信使の水先案内(パイロット)と警護を務めたそうです。長州藩公営の迎賓館である上関御茶屋が置かれ、西国大名や幕府役人・朝鮮通信使などの宿泊・接待が行われた一方で、船舶の取締や通行税の徴収を行う上関番所も置かれていました。移築復元された上関番所赤間関(下関)の番所にならって建てられたとされています。また上関は回航する北前船の寄港地であり、東西の積荷の交換などが行われ、物流のターミナル基地でもありました。長州藩にとっては交易の利益が財源でもあり、「越荷会所」が置かれて積荷の検査や徴税が行われていました。越荷会所跡現在も上関には旧家が並び、往時の外交・文化・物流都市の名残がありました。関連の記事上関御茶屋→こちら上関海峡(上関砲台)→こちら上関城→こちら
2011/10/27
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旧西国街道(山陽道)に限らず、大名や幕府役人などが宿泊する「本陣」は、宿場町の中でも最も格式の高い場所です。防長二カ国の山陽道では、本陣よりも格式のある「御茶屋」が置かれている宿場町もあり、本陣が民営の宿泊施設なのに対し、御茶屋は長州藩公営の宿泊施設でした。西国の参勤大名を初めとして、幕府役人や朝鮮通信使などの来賓の宿泊や接待にも利用されていました。下関・中関と並んで海上交通の要衝であった上関にも御茶屋が置かれ、上関は海路の宿場町としても栄えていた場所です。その上関御茶屋跡は熊毛南高校上関分校の敷地となっており、正門の石垣が一部残っていました。正門石垣跡上関御茶屋跡三千坪の敷地面積があるそうです。江戸時代に朝鮮通信使が来航した12回のうち、11回は上関に寄港しています。上関御茶屋跡から見た上関船着場朝鮮通信使上関来航図この大船団の瀬戸内海最初の寄港地が上関です。上関御茶屋では外交のみならず、学者や文人の交流も行わていました。
2011/10/25
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白砂と青松が続く虹ケ浜海岸と室積海岸の間には、製鉄所や工場の立ち並ぶ工業地帯があります。戦前まで光海軍工廠のあった場所で、戦後になって民間企業の工業用地として利用されるようになりました。島田川の対岸から見た光海軍工廠跡(製鉄所の施設が見えています)光海軍工廠は昭和15年10月1日に、当時の熊毛郡周南町に開設されました。光海軍工廠の開設を機に、周南町から光町へと名称が変わり、現在の光市へと続いています。かつて海軍工廠の正門があった場所には今も「正門町」の名称が残り、現在は民間工場の入口となっていました。製薬会社の工場ですが、現在も海軍工廠の建物が一部使われています。海軍工廠のすぐ西側には島田川の河口があり、河口付近からはかつての「艦船ポンド」の跡を見ることができました。かつての海軍工廠の目の前には周防灘が広がっていますが、呉港から出撃した連合艦隊の集結地でもあったそうです。光海軍工廠には「回天」の基地も置かれ、回天の出撃28回/148基のうち12回が光基地から行われたとの記録があるそうです。光市文化センターには、訓練用の回天の頭部が展示してありました。終戦後光市内の海岸に埋没していたものを、掘り起こして保存したものです。広島県呉市の大和ミュージアムに展示されている「回天」光海軍工廠は終戦前日の昭和20年8月14日に、マリアナ諸島より飛来したB29の編隊157機によって爆撃され、738名の犠牲者を出すと共に工廠施設の約72%が損壊しました。光市文化センターにあるアメリカ軍の航空写真「HIKARI NAVAL ARSENAL」と書かれ、「TARGET NO」や緯度・軽度と共に、写真上に爆撃目標が円形で記されています。目標は4ヶ所あり、主に本部庁舎や工場が目標とされていました。また、7月に書かれたアメリカ軍のレポートも展示されており、「日本の最も重要な工廠の一つ」と書かれた上で、「この目標の破壊は、日本にとって最も新しくかつ大きなプラントを失うことを意味し、日本の戦争遂行能力に深刻な打撃となろう」と記されていました。
2011/10/16
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日本三名橋の1つに数えられる錦帯橋と、錦川の清流を挟んだ城山の山頂に見える岩国城の天守、この構図は観光案内などでよく見かける光景です。実は岩国城の天守は復興模擬天守で、この天守が後に物議を醸すことになりました。岩国城は錦川が大きく蛇行して囲む横山にあり、山麓部と山頂部に城郭がありました。ちなみに旧山陽道は玖珂宿から欽明路峠を越えて、岩国城からずっと離れた場所を通っています。しかも岩国城のある横山背後の搦め手方向になるため、岩国の城下町を通っていません。旧山陽道の旅人が岩国城の城下や錦帯橋へ行くには、一旦街道から外れて寄り道をする必要がありそうです。城下町から岩国城へは、錦帯橋を渡らなければ行けないようになっていました。錦帯橋を渡った横山の山麓には岩国藩の居館が置かれ、現在その跡は吉香公園として整備されています。1674年に岩国藩第三代の吉川広嘉によって完成して以後、昭和25年のキジヤ台風で流失するまでの間、錦帯橋は一度も流失することはありませんでした。吉香公園内にある吉川広嘉像藩主の居館があった山麓部には、内堀や武家屋敷なども一部残っていました。香川家長屋門錦雲閣と内堀岩国城の櫓を模して、明治になってから建てられたものです。佐々木小次郎像。佐々木小次郎の出生については諸説ありますが、吉川英治の「宮本武蔵」では周防国岩国とされています。また岩国にはアオダイショウが突然変異した「白ヘビ」がおり、吉香公園内で飼育されています。天然記念物に指定されています。爬虫類が大の苦手なので、いくら天然記念物で縁起物でも、じっと眺めることはできませんでした。天守のある横山山頂へは徒歩で登ることもできますが、ロープウェーが往復しており、錦帯橋とセットでチケットを買うと割引となります。ロープウェーの中から見た吉香公園ロープウェー山頂駅から見た岩国市街地蛇行する錦川の向こうには、瀬戸内海に浮かぶ島々や四国山地が一望できました。ロープウェーの山頂駅から本丸までは登城道を上っていきますが、途中には石垣や土塀で囲まれた曲輪の跡がありました。野面積の石垣虎口付近の石垣本丸に入ると南蛮風の天守がすぐ目に入りますが、実はこの復元天守が後に岩国城の運命を危うくするところでした。この天守は昭和37年に復元されたものですが、本来の天守閣があった場所とは違う位置に建てられており、本来天守閣があった場所には、ちゃんと天守台が残っていました。天守台こちらも一部復元です岩国城は「復元整備に問題あり」とのことで、(財)日本城郭協会の「日本100名城」から危うく落選するところでした。(「復元整備」とは、間違いなく天守のことだと思います)しかしながら「総構」が評価され、見事100名城に選ばれています。(「日本100名城公式ガイドブック」より)横山山頂の城郭は詰城として築城されたものだと思われますが、その天守台の周囲を探索してみると、戦国山城のような遺構が残っていました。搦め手方向の空堀跡土塁もはっきりと残っており、総構は納得です。1600年の関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、防長二カ国に減封されたため、本拠地も広島城から萩城へと移してきました。(この時に毛利家存続のために奔走したのが、毛利の分家で毛利元就の「三子教訓状」にある毛利両川の1つである吉川家です)吉川家の当主である吉川広家も毛利本家の移封に伴って米子から岩国に減封となり、ここで岩国城の築城を始めました。築城当時の天守は1608年に完成したものの、わずか7年後の1615年に「一国一城令」によって山頂部の城郭は破却され、天守台を残すのみとなりました。(物議を醸した割には短命で終わったようです)復元天守が元々の天守台に建てられなかった理由ですが、錦帯橋からの見栄えがよくなかったからだそうです。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/10/09
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室町時代の山口は京都を凌ぐほどの繁栄ぶりで、「西の京」とも呼ばれた経済・文化の中心地でありました。当時は日本一とも言われる経済基盤を持つ大内氏の庇護の下、多くの文化人も山口を訪れて、「大内文化」と呼ばれたほどです。栄華を誇った大内氏と西の京山口でしたが、大内義隆の時代に勃発した「大寧寺の変」によって全てが変わったと言っても過言ではないかも知れません。1551年に大内氏の重臣である陶隆房(晴賢)が謀反を起こし、大内氏館のある山口へと侵攻してきました。陶隆房軍1万人に対して大内義隆軍は2千人しかおらず、陶軍の包囲の前に大内義隆は長門の大寧寺に逃れ、自刃して最期を遂げています。大寧寺の山門跡大寧寺の奥には、その大内義隆主従の墓所がありました。大内義隆の介錯をつとめた冷泉隆豊も大寧寺の経蔵で自刃し、自らのはらわたを天井に投げつけたと言われています。経蔵跡大寧寺の変で大内氏は事実上滅亡したのですが、西の京山口も戦火で焼失したために文化財の数々を失ったばかりか、大内氏の下で行われていた貿易が途絶えたために日本の経済にも混乱をきたしました。政治・文化・経済とあらゆるものを変えた大寧寺の変でしたが、陶隆房の謀反の背景には文治派と武断派の対立があったと言われています。尼子晴久の本拠地である月山富田城の包囲戦で敗退して以来、大内義隆は政治への関心が薄れ、政務を文治派に任せるようになりました。文治派と対立する武断派に陶隆房がおり、陶隆房も讒言に乗って謀反を起こしたとされています。大寧寺の変の後、陶隆房は大友氏から当主を迎え、大内義長が大内氏の当主となりました。しかしながら1555年の厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就によって討たれると、大内義長も毛利元就の侵攻の前に功山寺で自害し、名実ともに大内氏は滅亡しています。大寧寺は毛利氏によって再建され、大内義隆の墓所の他にも江戸時代の長州藩重臣の墓所が並んでいました。その墓所の1つで「えっ?」と思ったのですが、案内板には「上杉憲実墓所」とあります。江戸時代の長州藩重臣の墓所で上杉氏はなかなか結びつかないのですが、関東管領の上杉憲実と長門大寧寺が結びつけるのはもっと困難で、「上杉憲実と同姓同名の人がいたのか」と思ったほどです。150年にわたって続いた関東の戦国時代を紐解いていくと、室町幕府の足利将軍家と鎌倉公方足利氏の対立に行き当たり、その京都と鎌倉の調整に奔走していたのが関東管領上杉憲実でした。結局は永享の乱が勃発して長い戦国の時代へと突入していくのですが、その中で上杉憲実は何度も政界から身を引きつつも呼び戻され、つねに戦乱の中に身を置いていました。ついに上杉憲実は出家をして政界から逃れたのですが、行きついた先が大内氏の山口だったようです。その後の北条氏の台頭と、北条氏に対抗する武田・上杉・佐竹・里見の各氏が繰り広げた関東の戦国絵巻を思うと、長門にいながら関東の戦国城跡の数々が思い出されました。防長のみならず中国地方の歴史を変えた大寧寺、ここに関東管領の墓所があることに対しては、不思議な縁を感じます。関連の記事大内氏舘→こちら厳島古戦場→こちら平井城(群馬)→こちら
2011/09/29
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毛利博物館での特別展示が地元のニュースで放映されていました。毛利博物館の収蔵品には前から興味があったので、これを機会に行ってみることにしました。毛利博物館は旧毛利邸に併設されており、毛利邸・毛利氏庭園とセットでも見て回ることができます。毛利博物館入口の毛利邸門旧毛利邸1916(大正5)年に完成したもので、大名ではなく公爵毛利氏の旧邸です。唐破風を備えた入口は、一見すると江戸時代の大名御殿のような感じでした。毛利邸大広間大正天皇・昭和天皇も宿泊した客間外観はクラシカルですが、浴室には給湯設備が備えられ、全室がインターホンで結ばれるなど、当時としては最新の技術が取り入れられていたようです。毛利邸の奥に併設されているのが毛利博物館で、公爵毛利家に伝わる20,000点の収蔵品の一部が展示されています。館内は撮影禁止なので紹介はできませんが、雪舟の「四季山水図」をはじめとして国宝が4点も収蔵されています。収蔵品一覧は→こちらそうそうたる品々が並んでおり、それだけでもかなり引きそうですが、必ずしも常設展示ではないそうです。「三矢の教え」で喩えられる毛利元就の「三子教訓状」を楽しみにしていたのですが、収蔵庫にあるそうで、展示されていませんでした。(まさに御蔵入り・・・)他に展示されているものも興味深いものばかりで、毛利元就直筆の吉田郡山城の籠城戦の日記などが展示してあります。豊臣秀吉の下で五大老を務めた毛利氏ならではですが、豊臣秀吉直筆の本領安堵状や秀頼のことを託した遺言状などもあって、かなりしびれました。毛利輝元が徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景の五大老の花押入りの書状もあったりして、立ちすくんでいたように思います。(個人的には、関ヶ原の後で送られた井伊直政と本多忠勝連名の花押入り書状の前で、かなりの時間立ち止まっていました)毛利博物館でのシビレが治まらないまま毛利邸を後にし、隣接する毛利庭園にも行ってみました。庭園から見た旧毛利邸瀬戸内海を借景として造られた庭園ですが、元々水平線の少ない瀬戸内海で、さらに埋め立てが進んでおり、なかなか絶景とまでは行きませんでした。当時は江戸時代の毛利水軍の本拠地であった中関なども見わたせたことでしょう。
2011/09/23
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赤間関から旧山陽道を上って長府宿に差し掛かる頃、街道沿いに功山寺の総門が見えてきました。功山寺は鎌倉時代末期の1327年に創建され、開基は当時の長門・周防の守護であった北条時直とされています。室町時代に入ると足利尊氏も崇敬して、寺領を寄進していました。1773年に長府藩主毛利匡芳によって再建された山門本堂(仏殿)は1320年の創建で、国宝に指定されています。室町時代の周防の守護大名であり、「西の京」とも呼ばれた大内文化を発展させた大内義隆が陶晴賢の謀反によって自刃すると、陶晴賢の後押しで大内氏当主となったのが大内義長でした。厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就によって討たれると、毛利元就は大内義長の山口へと侵攻してきました。追われた大内義長が立て篭り、自刃したのが功山寺です。功山寺の墓地の片隅に、その大内義長の墓所がありました。栄華を誇った大内氏もここで滅亡しています。毛利氏の時代になった1602年に長府藩主初代毛利秀元の菩提寺となり、毛利秀元の法号に因んで功山寺と改名され、以後は長府毛利家の菩提寺となっています。幕末になると、功山寺は再び歴史の舞台に登場してきました。1863年8月18日、いわゆる「八月十八日の政変」で公武合体派のクーデターにより長州藩は朝敵とされ、尊皇攘夷派の公卿7名は長州藩士と共に京都から長州に落ち延びたのですが、この時三条実美以下七名の公卿が滞在していたのが功山寺の書院です。朝廷から幕府には長州征討の勅命が下り、第一次長州征伐へと発展していきました。第一次長州征伐で長州藩は保守派が主導を握っていましたが、その長州藩に対してクーデターを起こし、長州藩を倒幕へと動かしていったのが高杉晋作です。高杉晋作が挙兵した場所が功山寺であり、境内には高杉晋作の「回天義挙」像が建っていました。この時挙兵に参加したのは84名だけで、その中には松下村塾の後輩である伊藤俊輔(博文)がいました。その後は高杉晋作の挙兵に山縣狂介(有朋)率いる奇兵隊も呼応し、長州藩は倒幕で統一されました。第二次長州征討では近代兵式によって幕府軍を打ち破り、時代は倒幕へと進んで行きました。
2011/09/17
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乃木神社と言えば千代田線の駅名にもある乃木坂の乃木神社が有名かと思いますが、赤坂の乃木神社は乃木希典邸のあった乃木大将終焉の地に建てられたものです。一方で山口県下関市の長府にある乃木神社は乃木希典の実家に建てられたものです。ちょうど子供剣士たちが武運を祈願しているところでした。赤坂の乃木神社は悲壮感あふれるものでしたが、こちらは実家とあって、さほどでもないように思いました。復元された乃木希典の生家父母から教えを受ける乃木希典が人形で復元されており、やはり赤坂の乃木神社とは少し違うようです。乃木希典と言えば203高地、境内にも203高地の松の碑がありました。日露戦争後にステッセル将軍から贈られた壽号の像それでも壽号の隣に建つ像は、やはり悲壮感あふれるものでした。乃木夫妻像関連の記事乃木神社(東京・港区)→こちら
2011/09/16
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墓参りの記事が続きますが、村上武吉の次は、時代は下って大村益次郎の墓所です。その大村益次郎の墓所は、出生地である山口市鋳銭司にあります。大村益次郎は近代的な様式兵法を駆使し、第二次長州征伐や戊辰戦争などで倒幕への大きな功績を残しました。また明治維新後は軍制改革を唱え、日本陸軍の創設者ともされています。明治に入った1869(明治2年)、大村益次郎の急進的な軍制改革に反感を持つ士族によって襲撃され、その負傷が原因となって大村益次郎はこの世を去りました。左足を切断する大手術を受けた後、切断した左足を恩師である緒方洪庵の墓所に埋めるよう遺言し、大村益次郎の左足だけは大阪の緒方洪庵の墓所に埋葬されています。関連の記事適塾(大阪)→こちら
2011/09/12
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意外な場所に意外な人の墓所があったものです。瀬戸内海では淡路島・小豆島に次いで三番目の面積を有する周防大島、その東の外れの方に内入という小さな集落があり、ここは村上武吉が晩年に居館を置いていた場所です。土塁跡?村上武吉の館跡は元正寺の境内となり、山門もない小さな本堂の脇に墓所がありました。村上武吉の菩提寺でもある元正寺の本堂古い土塀で囲まれた村上武吉の墓所能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏の村上水軍全軍の総帥であり、平たく言えば海賊の棟梁ではありますが、村上武吉は文武両道に秀でた教養人でもあり、ルイス=フロイスをして「日本最大の海賊」と称されていたそうです。三大奇襲戦の1つに数えられる厳島の戦いでは、毛利元就の援軍として厳島の海上封鎖を行い、毛利元就は大逆転勝利を収めました。以後、村上水軍は毛利軍と共にあり、毛利氏VS織田信長の木津川の戦いでは九鬼水軍との海を繰り広げ、文禄・慶長の役では毛利軍と共に朝鮮へと出兵していきました。関ヶ原の戦いにおいても毛利氏と同じ西軍につき、村上水軍も瀬戸内海沿岸の攻撃など、水軍としての働きを見せています。関ヶ原の戦い後に毛利氏が防長二国に減封となると、村上水軍も活躍の場を失い、徳川幕府の下では朝鮮通信使の海上警護などを行っていたそうです。瀬戸内海の制海権を掌握し、最後まで瀬戸内海を舞台としていた村上氏ですが、やはりその真骨頂は潮流の変化が激しい瀬戸内海で培われた操船技術でしょうか。水軍に限らず武将が書物を著すことは滅多にないのですが、村上武吉は兵法書を多く書いており、その1つである「村上舟戦要法」は、日露戦争の日本海海戦においても参考にされたようです。村上武吉が晩年に選んだ周防大島ですが、かつての本拠地である能島に似ていたからだとも言われています。
2011/09/11
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福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並んで、防府天満宮は「日本三天神」の1つに数えられています。祭神はもちろん菅原道真ですが、菅原道真の墓所に創建された太宰府天満宮よりも古く、菅原道真が没した翌年の904年に創建されました。この大鳥居は1629年に建てられたもので、山口県特有の花崗岩で造られています。大鳥居は初代萩藩主である毛利秀就によって寄進されたものですが、大鳥居の他にも毛利氏や長州藩士の信仰を集めていたことがうかがえました。大鳥居脇にある「萩狛犬」1862年に寄進されたものですが、萩狛犬は太宰府天満宮や北野天満宮にも寄進されました。1864年の京都の禁門の変では、長州藩士が敗走する中、京都守護職にあった会津藩によって北野天満宮に鳥居が奉納されました。鳥居の横にある萩狛犬を会津藩士が見つけ、「長州獅子、汝まだ去らざるか」と北野天満宮に萩狛犬の撤去を要求しました。会津藩士が実力で萩狛犬を倒そうとしたところ、にわかに雲行きが怪しくなって雷鳴がとどろいたため、会津藩士は菅原道真のたたりだと恐れて逃げ帰ったそうです。大専坊1537年に毛利元就が防長の大内義長を攻めた時は、この大専坊を参謀本部としていました。圓楽坊跡1587年に細川幽斎(藤孝)が連歌興行を催し、1598年には石田三成がここに宿泊した記録があります。拝殿の正門拝殿拝殿の近くには、防府天満宮の由緒などを記した「菅公廟の碑」がありました。1715年に建てられたもので、菅原道真が大宰府に赴任する途中で防府に4ヶ月滞在したこと、菅原道真の弊去後に周防国司土師信定が社殿を建立したこと、大内義隆・弘世が社殿を改築、造営したことなどが書かれているそうです。碑文の内容が全てわかると、台座の亀が感動して動くとされています。碑文はさっぱり読めず、もちろん亀も微動だにしませんでした。ところで山口では鱧がポピュラーで、スーパーでも湯引きが驚ろくほど簡単に安く手に入ります。防府のある西瀬戸は鱧の漁獲量が日本一で、「天神鱧」の名前が付けられています。それにしてもこの夏は鱧の湯引きをよく食べました。
2011/09/10
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フランシスコ=ザビエルが日本初の宣教師として来日したのは1549年のことで、初の上陸地は鹿児島でした。その後平戸や博多を経て、布教の地に選んだのが大内文化で栄える西の京山口です。下関唐戸市場にあるザビエル上陸記念碑ザビエルは二度山口を追われており、堺・京都・平戸などを転々とした後、三たび山口で布教活動を行なっています。ザビエルが山口で布教を始めてからちょうど400年にあたる1952年に、記念として建てられたのが「サビエル記念聖堂」ですが、今からちょうど20年前の1991年9月5日に火事で全焼してしまいました。1998年に各方面からの援助によって、現在のサビエル記念聖堂が再建されています。以前の記念聖堂とは全く異なった外観ですが、50mを超える二本の塔が特徴的で、遠くからでもよく目立ちます。大内義隆によって布教が認められ、山口には日本で最初の教会堂が建ち、その跡地は現在ザビエル記念公園となっています。井戸端で布教するザビエル像当時の状況を考えると相当な困難があったと思われますが、キリスト教の影響は大きく、2ヶ月で500人の信者が集まったそうです。
2011/09/06
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東大寺の大仏や日本初の銅銭である和同開珎など、奈良時代から銅を産出していたのが「長登(ながのぼり)銅山」です。「長登」の地名は「奈良登」が変化したという伝説があり、「奈良登」の地名は奈良の都に銅を送ったことに由来していると言い伝えられていました。その伝説を裏付けるかのように、昭和47年に須惠器が発見されて、ここが古代の銅山跡であることが分かりました。さらには東大寺大仏の銅を化学分析したところ、大仏の原料である銅は長登銅山産であることが判明したそうです。鉱山に生える特殊なシダ「ヘビノネゴザ」(別名「金山草」)平成になって発掘調査が本格的に行われ、奈良時代から平安時代にかけての銅精錬遺跡と共に木簡が出土し、銅山であったと同時に長門国直轄の役所跡であったこともわかっています。大切竪坑跡長登銅山は秋吉台のすぐ東側にあり、カルスト台地からは約3kmほどの距離にあります。約3億年前に石灰岩が形成された後、約1億年前には火山活動によるマグマの噴出で花崗岩が形成されました。石灰岩と花崗岩の接触部には銅・銀・鉄・鉛・コバルトなどの鉱物が形成され、長登銅山へと続いています。銅山の長い歴史を思うと、奈良時代はつい最近のような感じですが、1300年前にどうやってこの銅山が発見されたのか、またどのようにして銅の生産技術を手に入れたのか、不思議に思うところです。古代の精錬法の体験コーナー
2011/08/27
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勝山城は別名「勝山御殿」とも呼ばれ、長州藩の支藩である長府藩の藩庁として、幕末に築城された近世城郭です。激動する幕末の長州にあって、長府藩の藩庁を櫛崎城から移転させるため、勝山城が築城された経緯があります。縄張り図を見ると、丘陵部の斜面に沿って曲輪が配された連郭式のシンプルな縄張のようです。縄張り図それでも本丸の周囲には石垣が巡らされており、石垣が残っていました。二の丸から見た本丸の石垣本丸本丸内にも低い石垣があったのですが、こちらは築城時からあるものかどうかわかりません。本丸からみた二の丸と三の丸の跡本丸の周囲を回ってみると、所々に石垣や土塁のようなものがありました。本丸の先にも詰丸があったのかも知れません。土塁跡?近寄ってみようにも、よからぬことが書いてあるので断念しました。長州藩が1863年に関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えると、その報復に備えるため、長府藩の藩主である毛利元周は藩庁を関門海峡に近い櫛崎城から移転させることにしました。海から離れた勝山に新たに城郭が築かれ、藩命によって「勝山御殿」と呼ばれました。「勝山城」と呼ばなかったのは、幕府の目を警戒してのことだと思われます。(この強かさは初代毛利元就公以来、連綿と続いているものなのでしょうか)実際に見る限りでは御殿などと悠長なものではなく、まさしく立派な城郭だと思います。それにしても勝手に藩庁を移転させたり築城したりするなど、もはや幕府の権威などは何とも思っていなかったのかも知れません。
2011/08/03
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「三大なんとか」はあらゆる分野にあるようで、水戸の弘道館・岡山の閑谷学校・萩の明倫館をもって三大学府と呼ばれているそうです。何をもって「三大」とするかは議論の分かれるところですが、そもそも「三大学府」よりも「三大藩校」と呼んだ方がいいかも知れません。長州藩の藩校である明倫館は、1719年に第3代藩主の毛利吉元によって創設され、元々は萩城内の三の丸にありましたが、幕末の1849年に第13代藩主毛利敬親によって萩城下町の中心部に移設されています。聖廟の入口に建てられた「観徳門」1849年に明倫館が移設された際に建てられたものです。1849年の新明倫館の敷地は約1万5000坪もあったようで、建物面積約1万1000坪に加え、3,000坪の練兵場も備えていました。藩校明倫館の跡は、明倫小学校の敷地となっています。明倫小学校の校舎の前には、2基の明倫館碑が残っていました。1741年に6代藩主毛利宗広が明倫館創設の由来を記して建立したもの(左)と1849年に毛利敬親が新明倫館の開校を記念して建立したもの(右)です。後の長州の歴史を考えると、藩校である明倫館よりも吉田松陰の私塾である松下村塾の功績の方が大きいかも知れません。関連の記事萩城→こちら萩城城下町→こちら
2011/08/02
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江戸時代の地図が現在も使えると言われる萩城の城下町ですが、調査によれば道路の約91%が未拡幅で、伝統的建物の約89%が現存すると言われています。その萩城の城下町を実際に見て回ろうと、まずは萩城外堀にある北総門をスタートしました。萩城の城下町は阿武川が橋本川と松本川に分流する三角州に京成され、萩城は三角州の北西側にあります。萩城のある市街地北西側には「堀内」の地名も残っており、上級武士の屋敷が並んでいました。福原家の長屋門道幅も当時のままに残っており、緊迫した幕末の情景が想像できる気もします。周布政之助の旧宅周布政之助なくしては、高杉晋作を初めとする松下村塾の塾生の活躍もなかったことでしょう。繁沢家の長屋門上級武士の屋敷が並ぶ堀内に対し、下級武士の屋敷は松本川と橋本川の分流点に近い場所にあり、川島と呼ばれています。堀内と川島の中間点辺りには、商人の屋敷が並んでいたようです。菊屋家旧宅久保田家旧宅商人街のあたりには、幕末の長州を語る上で欠かすことのできない人達が住んでいました。高杉晋作生誕地木戸孝允(桂小五郎)旧宅そして長州萩の出身と言えば、この人もそうです。吉田松陰門下生であり、明治になって首相や陸軍元帥となった山県有朋の像
2011/07/30
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防長の瀬戸内海には海上交通の関所が置かれ、都に近い東から順番に上関・中関・下関がありました。(上関や下関は上関町や下関市の地名で現在も残っていますが、中関は現在の防府市にあり、中関港としてその名前が残っています)航行する船舶から帆別銭(通行料)を徴収しており、瀬戸内海を支配していた村上水軍(能島村上氏)が上関に関所を設けて通行料の徴収を行っていました。その能島村上氏が拠点を置いていたのが上関城で、現在は上関歴史公園として整備されています。復元された冠木門村上氏の家紋である「丸に上」が描かれています。曲輪の跡物見台跡上関城の眼下には「鳩子の海」で知られる上関の周防灘や豊後水道の穏やかな海が広がっていますが、毛利氏VS大内氏・陶氏との争いの中で、瀬戸内海の支配権をめぐる争いが繰り広げられた舞台でもありました。1551年に大内氏の家臣であった陶氏の廻船が、将軍に献上する米を積んで、宇賀島(現在の浮島)を本拠地とする宇賀島水軍を警護につけ、上関を銃撃しながら強行突破していきました上関城からは早船を出して、能島・来島・因島の三島村上水軍に危急を知らせ、村上水軍の本拠地からも兵船を出して、安芸蒲刈の瀬戸で陶・宇賀島軍の船団を迎撃しました。この時に陶氏は能島村上氏を上関城から追放し、宇賀島水軍が上関を拠点とするようになりましたが、後に能島村上氏が上関城を奪還しています。このことからも、毛利氏VS大内氏・陶氏の瀬戸内海の制海権をめぐる対立の中で、毛利氏と村上水軍の結びつきや、瀬戸内海の制海権をめぐる構図も窺えます。実際に毛利元就が陶晴賢を討った厳島の戦いにおいては、村上水軍は毛利氏の援軍につき、宇賀島水軍は陶氏の援軍についていました。1588年に豊臣秀吉によって海賊停止令が出されると、村上水軍は瀬戸内海の支配権を失って、上関城も廃城になったと言われています。村上水軍を海賊と呼ぶことには抵抗があるのですが、略奪行為などはあったにしても、通行料を徴収しながら水先案内人(パイロット)を務めていたとも言われています。いずれにしても、潮流の変化が激しい瀬戸内海を熟知していたことで、瀬戸内海の支配を確立していたのだと思います。上関と室津半島の間周防大島と本州の間の大畠瀬戸
2011/07/17
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国道9号線を関門海峡方面に走っていると、「関見台公園(鯨館)」と書かれた案内標識が出て来ます。あまり気に留めていなかったのですが、実はここが城跡だと聞いたので、尋ねてみることにしました。城跡の案内看板もなく、完全に公園として整備されているようなので、曲輪か空堀の跡でも見つかればラッキーくらいに思っていたのですが、公園の上の方に行くといきなり石垣が現れたのでびっくりしました。石垣を見ると隅石が扇の勾配となっており、相当な築城技術だと思われます。最初は戦国時代の出城くらいに考えていたのですが、実は天守台まである近世城郭でした。天守台には礎石の跡もあったので、建物が建っていた可能性があります。眼下には関門海峡が広がっており、天守台の横には「鯨館」がありました。関見台公園には海響館が出来る前の下関市立水族館があり、鯨館も下関市立水族館時代からあるもので、下関に本社を置いていた大洋漁業(現マルハニチロHD)の寄贈によるものです。元々の櫛崎城は、大内氏の家臣であった内藤隆春によって築城された戦国城郭でした。江戸時代になって毛利氏が長門・周防の防長2ヶ国に移封になると、毛利秀元が櫛崎城を改修し、本拠地を山口城から移してきました。石垣も毛利氏時代のものだと思われます。その後の櫛崎城は一国一城令によって廃城となりましたが、麓に居館が置かれて長府藩の藩庁として機能していたそうです。
2011/07/11
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少なくとも「いつ・誰が・なぜ」の3つを意識しながら城跡を見ているのですが、その3つともわからないのが神籠石(こうごいし)です。(そもそもこれが城なのかどうか・・・)663年の白村江の戦いで、百済救援のために出兵した倭国が唐・新羅の連合軍に敗れると、天智天皇は西日本に12の山城を築城したことが、日本書紀や古事記に残っています。こちらは「古代山城」とか、朝鮮半島の影響を受けているので「朝鮮式山城」とも呼ばれ、太宰府防衛のために築かれた大野城がその例になります。一方で朝鮮式山城と同じく山頂付近を石垣の壁で囲んだ建造物が存在し、こちらは「神籠石」と呼ばれています。朝鮮式山城が文献により場所も記述されているのに対し、文献に登場しないのに遺跡だけが存在するのが神籠石で、吉備の鬼ノ城なども神籠石に分類されています。石城山神籠石は山口県光市の北部にあり、石城五峰の1つである標高357mの鶴ヶ峰を頂点として、石城五峰を囲むように列石が並んでいます。石城山遠景なぜここに神籠石があるのかも不思議に思うところです。列石は総延長約2.5kmで山腹を取り囲み、東西南北には門が配置されています。石積みで囲んで東西南北に門があるのは朝鮮式山城にも見られるのですが、都市を城壁で囲んで東西南北に門を置くのは、中国大陸の影響を受けているように思います。(台湾で見た台北府城・台南府城・左営旧城なども城壁で囲んで東西南北に門がありました)石城山神籠石の列石は今もよく残っており、山腹に沿って連なっていました。近代や近世になって造られた石垣かと思うほどの高い技術だと思います。列石は南側が高く、北側が低く配置されており、その標高差は約90mもありました。朝鮮式山城と同じ時期だとするならば7世紀に造られたことになりますが、この石積みの技術には驚きました。西門の石積みこれだけのものを築くには、相当な権力者でなければ無理だと思います。北門の石積み谷を横切る場所には水門が設けられ、山頂から水を流していたようです。東水門暗渠が造られ、今も水が流れていました。石城山の神籠石が発見されたのは明治42年になってからのことで、それまで九州にしか存在しなかった神籠石が本州でも発見されました。神籠石については定説がなく、「神域説」と「山城説」の論争があったのですが、この石城山神籠石については山城とする説が有力となっています。個人的にも石城山神籠石は山城だと思うのですが、石城山はとても神秘的な感じで、市街地からそんなに遠くないのに、野生のニホンザルを見かけたりもしました。実際に石城山には石城神社があり、創建は574年と伝えられることから、神籠石よりも古い可能性があります。石城神社随身門石城神社本殿(重要文化財)祭神は大山祇神・雷神・高?神で、大山祇神と言えば海の神・戦いの神です。現在の社殿は1467年に大内政弘の再建と言われています。また、石城神社境内近くには第二奇兵隊が本陣を置き、石城山を練兵場として利用していました。奇兵隊本陣跡本陣の周りには土塁や空堀の跡があったのですが、これは奇兵隊時代に造られたものだと思います。石城山が山城だとしても、朝鮮式山城と同じく唐・新羅の連合軍に備えて7世紀に造られたものかどうかの疑問が残ります。また、唐・新羅の連合軍に備えて造られたとしても、なぜこの場所だったのかも不思議に思うところです。石城山からは瀬戸内海を見渡すことができ、瀬戸内海からの侵入に備えたとは言えるかも知れません。東側の柳井方面西側の周防灘見通しがいいとは言え、山城を築くにあたっては、防衛するための何かが必要かと思います。後に周防の国府が置かれた防府は60km以上西に離れた場所にありますし、奈良の大仏などの原料になった長尾銅山は100km以上も離れており、山口・防府あたりにはもっと築城に適した山がいくつもあります。石城山の南側には古墳が点在し、有力な豪族がいたと思われますが、大陸・半島から逃れてきた渡来人が築城したとも考えられます。実際に石城山を訪れてもさらに謎は深まるばかりで、海側に出て象鼻ヶ岬を眺めながら、つくづくと考えてしまいました。
2011/06/08
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防長には戦国時代の城郭が極端に少ないように思うのですが、北条氏とそれに対抗する武田氏・上杉氏・里見氏・佐竹氏など、戦国時代を代表するような面々が争奪戦を繰り広げた関東に比べると、案外こんなものなのかも知れません。ところで防長二ヵ国(山口県)の戦国大名と言えば毛利氏の名前が挙がってきますが、毛利氏が防長に移ってきたのは関ヶ原の戦い以後のことで、萩城の築城に至っては江戸時代に入ってからと、すでに戦国時代は終わりを告げていました。それでは戦国時代の防長(山口)はどうだったのかと言うと、鎌倉時代からの守護として、山口を「西京」と呼ばれるほどの文化都市に発展させた、大内氏が君臨していました。「大内文化」とも呼ばれるほどの栄華を誇った中で、戦国時代の下克上的な動きを見せたのが、大内氏の重臣であった陶晴賢(隆房)です。その陶晴賢の本拠地が周南市にある若山城で、標高217mの山頂に本丸を持つ山城です。山上に至るまでの間には陶晴賢と若山城の賛辞が並んでおり、この評価には意外な感じがしました。登城道入口の碑山上までは荒れているものの、アスファルトの道が続いており、自動車で登ることができます。「防長最大規模の山城」とありましたが、戦国山城としては普通な感じがしました。縄張りもシンプルな連郭式で、曲輪の周囲に竪掘が周到に巡らされている以外は、あまり堅固な印象はありませんでした。二の丸と三の丸の曲輪縄張図でも二の丸と三の丸は地続きになっていますが、曲輪の間に堀切などの跡はありませんでした。二の丸から見た周南の瀬戸内海二の丸から本丸に至る間には曲輪がよく残っており、「壇床」と呼ばれる段々状の腰曲輪がありました。一つ一つの曲輪の面積は狭いため、城兵を配置するというより、本丸を攻めにくくするために造られたように思います。壇床の周囲の斜面をみると、同じように腰曲輪の跡を見ることができました。微妙ですが、斜面に沿って削平地があります。本丸には土塁や堀切があるでもなく、ただ山頂部に削平地が広がっている感じです。本丸の城跡碑これも築城主の性格なのでしょうか。若山城は1470年頃に陶氏7代の陶弘護が、津和野城の吉見氏の進攻に備えて築城したとされています。陶氏は防長の守護であった大内氏の重臣で、守護代として若山城を本拠地としてきました。大内氏の中でも主導権を握り、繁栄を支えてきた陶氏でしたが、陶隆房(のちに晴賢)の時代の1551年に、主筋にあたる大内義隆に対して謀反を起こし、大内義隆を自害に追い込みました。陶晴賢は謀反に備えて、この時に本拠地の若山城を改修しています。謀反の理由としては、大内義隆が文化に傾倒する中で、武断派の陶晴賢が先を案じて蜂起したと言われていますが、文治派との対立の中で讒言に乗ったとも言われています。いずれにしても陶晴賢の人物象としては直情的で独善的な印象がありますが、謀略にかかって主筋を滅ぼしてしまったことに気づくと、大いに嘆いて悔んだともいいます。(文治派と対立するところなども、福島正則みたいな人物だったのでしょうか)その陶晴賢ですが、再び謀略の手に乗ることとなり、今度は自らの身を滅ぼす結果となるのですが、今度は相手が悪く、謀略家として名高い毛利元就でした、陶晴賢は毛利元就の謀略にかかり、1555年の厳島の戦いで数に勝る陶軍は敗北を喫し、陶晴賢も最期を遂げています。陶晴賢が毛利元就に敗れた後、若山城も廃城となって、防長二カ国は毛利氏の支配下となっていきました。
2011/06/07
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江戸時代の初期に出された一国一城令の下で、ここに城があるのはおかしな話かも知れません。山口城は一国一城令の下で築城されたものですが、現在の山口県では長門国に毛利氏の萩城、周防国に吉川氏(実質的には毛利氏)の岩国城があって、明らかに一国一城令に違反しています。一国一城令下の江戸時代とは言え、山口城が築城されたのは幕末の1864年で、しかも幕府に無断で築城して、本拠地を萩城から移転したものです。幕府にすれば、勝手に築城して本拠地を移転するなど、言語道断だったことでしょう。当の毛利敬親が本拠地移転と新城築城の理由を端的に言うならば、「萩城では何かと不便」ということになるのでしょうが、この「不便」には攘夷だけでなく倒幕も含まれていたのでしょうか。その山口城の跡ですが、群馬県庁が前橋城の跡に建てられているのと同じように、山口県庁が山口城の跡にが建てられています。現在の山口県庁には、当時の遺構として表門と水堀が残っていました。明治の山口藩庁時代も使われた薬医門形式の表門水堀の跡土塁がわずかに残り、水堀には鯉が泳いでいました。表門を抜けると、現在の県庁の庁舎の横にレトロな建物がありました。大正時代から残る旧山口県庁舎です。大正時代の方が国指定の重要文化財で、江戸時代から残る門が山口県指定の文化財です。山口城は幕末になって築城されたもので、城郭としては最も新しい築城の部類に入ることでしょう。しかしながら毛利敬親は幕府に対して、山口城を「城」ではなく「屋形」だと言い張ったそうです。実は「何をもって城とするか」について、現代になっても明確な定義は確立されていません。参考までに当時の江戸幕府や毛利敬親にも、何をもって城だと言っていたのかについて聞いてみたいところです。個人的には「土塁(石垣・土塀)や堀などの防御設備を持ち、戦闘員が『常駐』していた拠点」(さらに狭義に言うと、鎌倉時代から江戸時代に造られた建造物)だと定義しているのですが、私の中では山口城は城だと思います。
2011/06/06
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岩場の続く北長門の海岸線の中にあって、萩市街地の海岸線には菊ヶ浜の砂浜が続いています。菊ヶ浜から見た指月山(萩城)瀬戸内海の虹ヶ浜海岸と並んで、日本海の菊ヶ浜は山口県の代表的な砂浜海岸で、「快水浴場100選」にも選ばれています。笠山を正面に臨み、火山島群が水平線上に浮かんでいます。穏やかな砂浜の続く菊ヶ浜ですが、幕末になると風雲急を告げるようになりました。1863年5月10日に長州藩は攘夷を決行、関門海峡を通過するイギリス・オランダ・フランス・アメリカの4カ国艦隊を砲撃し、下関戦争が起こりました。外国船からの報復攻撃に備えるため、長州藩は沿岸各地に土塁の築造を命じ、菊ヶ浜にも土塁が造られました。土塁の築造にあたっては、武士の妻や奥女中の功績が大きかったことから「女台場」と呼ばれましたが、現在もその女台場の土塁が残っています。この時に築造された土塁で現存しているのは、菊ヶ浜と象鼻ヶ岬の石塁だけだそうです。土塁の築造にあたって歌われた「男なら」は、現在も山口県の民謡として歌われています。1.男なら お槍担いで お中間となって 付いて行きたや下関 国の大事と聞くからは 女ながらも武士の妻 まさかの時には締め襷 神功皇后の雄々しき姿が 鑑じゃないかな オーシャリシャリ2.女なら 京の祗園か長門の萩よ 目もと千両で鈴をはる と云うて国に事あらば 島田くずして若衆髷 紋付袴に身をやつし 神功皇后のはちまき姿が 鑑じゃないかな オーシャリシャリ3.男なら 三千世界の鳥を殺し 主と朝寝がしてみたい 酔えば美人の膝枕 醒めりゃ天下を手で握り 咲かす長州桜花 高杉晋作は男の男よ 傑いじゃないかな オーシャリシャリ3番の「三千世界の烏を殺し…」は高杉晋作の都々逸が元になっているとも言われています。
2011/05/17
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萩城は萩市の北西部にあり、日本海に突き出た指月山と日本海を向背に持つ縄張りとなっています。東側の菊ヶ浜から見た指月山萩城が築城されたのは、関ヶ原の戦い後に毛利氏が長門・周防2ヶ国へと移封になった後で、すでに徳川家康によって江戸幕府が設立された時でした。各国大名の配置にあたって、徳川家康は薩摩の島津と長門の毛利氏を仮想敵国としていたようですが、実際に毛利氏の萩城を見るとこちらも十分に戦闘を意識して築城された印象があります。建物は明治になってから解体されて残っていませんが、二の丸は石垣と土塀で囲まれており、当時は隅櫓が建っていたそうです。枡形の残る二の丸大手門おそらく渡り櫓が建っていたことと思います。二の丸周囲の石垣(城内から見たところ)武者走りの跡が残っていますが、石垣の上には土塀があったことと思います。二の丸の石垣は海へと続いており、石垣の間からは日本海を眺めることができました。二の丸北総門付近の外堀二の丸の外堀が日本海へと続いています。二の丸東門の枡形ここも櫓が建っていたと思われます。本丸も石垣と水堀で囲まれており、入隅と出隅が複雑に並んだ形をしています。二の丸から見た本丸外堀二の丸から本丸へは土橋が架けられており、土橋を渡ったところに本丸大手虎口があります。本丸大手口の土橋背後に指月山が見えています。本丸大手虎口の枡形明治の初めまでは天守も建っていたのですが、明治7年の廃城令により天守も解体されたため、現在は天守台が残っているだけです。天守古写真によると、5層5階建ての望楼型天守が建っていたようです。1608年に完成した天守で、創建時から明治まで残っていたのは奇跡だと思います。石垣に張り出した俯射を備え、他の一部の城に見られるような象徴としての天守ではなく、完全に戦闘拠点として造られたような気がします。その後の萩市は戦災や自然災害を受けることもなかったので、廃城令で解体されなければ、現存していたことでしょう。天守台天守台から見ると、入隅と出隅が複雑に入り組んだ本丸外堀の様子がよくわかりました。本丸にも御殿などの建物は残っていませんが、茶室「花江茶亭」が残っていました。花江茶亭幕末の時代、13代毛利敬親は茶事にことよせて、ここで家臣とともに国事の密議をこらしたそうです。明治になってからは本丸に「志都岐神社」が建てられ、志都岐神社には毛利氏初代の毛利元就から毛利氏代々が祀られています。志都岐神社の拝殿前にある石橋は、長州藩の藩校である明倫館にあった万歳橋を移築したものです。本丸を後にして、詰丸のある指月山へと登ってみました。詰丸への登城口付近まで本丸の水堀が巡らされており、隙のない感じがします。指月山の標高は87mあり、萩市内からはよく目立つ山なのですが、原生林で覆われているため、眺望はありませんでした。萩城の詰丸は、曲輪と空堀くらいのものかと思っていたら、山頂付近に石垣と土塀が現れたのでびっくりしました。詰丸には曲輪が二つあり、いずれも石垣と土塀で囲まれていたようで、枡形の虎口が残っていました。土塀には狭間が切ってあり、籠城戦を想定した縄張りとなっています。詰丸の本丸二の丸には番所があり、平時でも6~7名が見張りに立っていたそうです。二の丸にはため池を造って貯水し、水の手も確保されていたようです。改めて萩城を見ると、幕府へ気を遣いつつも、着々と倒幕への拠点が造られていたような、そんな印象がありました。1600年の関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、領地を中国8ヵ国から周防・長門の2ヵ国へと大幅削減されました。そして広島城から移ってきて、萩を本拠地として築城を開始しました。1863年に藩府を山口に移すまでの260年の間、萩城が毛利氏の本拠地だったのですが、本拠地を守り続けることには、相当な苦労があったことと思います。当初毛利輝元は、築城の候補地として防府・山口・萩の3ヵ所を選びました。その3ヵ所のうち、萩を本拠地とする決定を下したのは、皮肉なことに徳川幕府です。(毛利氏を山陰の僻地に追いやる意図があったものと思われます)もしもこの時の決定が防府や山口だったら、幕末の歴史は全く違うものになっていたかも知れません。二の丸虎口にある毛利輝元像関連の記事萩城城下町→こちら(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/05/16
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