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三保半島の先端部はお気に入りの場所の1つで、クルマを停めて海岸沿いを歩くことがよくあります。一応ここが三保半島の最先端です。駿河湾に突き出るような格好をした三保半島先端部からは、すぐ対岸に清水港の港湾部を眺めることができます。観覧車のある所がエスパルスドリームプラザだと思いますが、夜になるとガントリークレーンの光が海面に浮かんで、とても幻想的です。半島の先端部から三保の松原の方へ海岸沿いを歩いて行くと、途中には白亜の清水灯台があります。清水灯台例によって海上保安庁と燈光会のおなじみのデザインの案内板です。三保半島先端部の見どころは、何といっても清見潟や興津越しに見る富士山でしょうか。ここはお気に入りの富士見スポットの1つです。夕暮れ時は、夕陽に赤く染まる富士を見ることができます。2008年12月それにしても10年前と同じ船が停泊しているように見えるのは気のせいでしょうか。黒潮の流れる太平洋岸にありながら、ここは波も風も穏やかで、海鳥の鳴き声だけが聞こえてきます。時折清水港に入港する船舶が目の前を通過していきますが、そのエンジン音さえも心地よく響いてくるような静寂さで、何度来ても飽きない場所です。
2019/08/07
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三浦半島南側の城ヶ島では、1月13日から2月3日まで「城ケ島水仙まつり」が開催されています。この時期の水仙は南房総の代名詞だと思っていて、房総半島まで行こうと思っていたところです。同じ神奈川県で水仙が見られると知って、城ヶ島まで少し足を延ばしてみました。城ヶ島の東側は「城ヶ島公園」として整備されていますが、断崖や磯などの変化に富んだ自然地形が残っていました。高台にある展望台から眺めると、荒磯の中に建つ安房埼灯台を見ることができます。城ヶ島の東端、安房埼灯台高台にある展望台に登ってみると、目の前には太平洋が広がっていました。相模湾越しに見る富士山三浦半島南岸の絶壁と剣埼浦賀水道を挟んだ向こう側に見えるのは鋸山でしょうか。三浦半島と房総半島は浦賀水道を挟んで目と鼻の先のような感じですが、かつては三浦半島が「相模国」で、房総半島は「上総国」と「安房国」に分かれていました。現地の解説板によると、相模国の三浦半島にありながら「安房崎」の名前が付いているのは、その南房総の「安房国」を望むからだとされています。安房埼灯台安房崎から見た房総半島右側の双耳峰は「南総里見八犬伝」ゆかりの「富山(とみさん)」で、その左側は伊予ヶ岳だと思います。戦国時代には相模の北条水軍と房総の里見水軍が、浦賀水道の制海権を争った場所でもあります。現代のこの時期、「対岸」南房総の「水仙ロード」や「とみやま水仙遊歩道」でも、三浦半島と同じように水仙が咲き誇っていると思うと、戦国絵巻も遠い昔のように思えてきました。城ヶ島公園の水仙
2019/01/14
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日本で最初の西洋式灯台が観音崎に点灯したのは1869年の2月のことで、観音埼灯台が初点灯してから今年でちょうど150年になります。観音埼灯台の2番目に点灯した西洋式灯台が、房総半島最南端の野島崎にある野島埼灯台です。野島埼灯台は一般でも参観できる観光灯台となっており、灯台の上まで登ることができます。太平洋船舶に電波で方位を示すレーマークビーコンが見えています。(GPSが発達した現在では、その役目を終えました)野島崎の海岸線房総半島の方を振り返ると、里見氏初代里見義実の白浜城が見えていました。曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」にも登場する実在の城です。灯台ではおなじみ、海上保安庁と燈光会による解説板で、どの灯台でも同じデザインです。併設する資料館には、レオンス=ヴェルニーの像も建っていました。横須賀のヴェルニー公園にその名を残すフランス人技師で、横須賀製鉄所(横須賀造船所)のみならず、観音埼・野島埼・城ヶ島灯台などの西洋式灯台を建設した人です。元々船乗りになりたいと思っていたことがあって、灯台めぐりも趣味の1つです。資料館の受付の女性(海上保安庁の職員?)と灯台の話をしていると、灯台マニアだと思われたようで、マニア向けのフリー雑誌「灯台どーだい」(部数限定)をくれたりしました。「灯台マニア」という言葉を初めて聞いたのですが、灯台好きではあるものの、マニアではありません。(本当のマニアは神子元島灯台とか、平気で行くのだと思います)野島崎は何度か訪れていて、その度に立ち寄る場所があります。「見晴亭」の「アジづくし定食」ここに来るといつも思うのですが、アジフライってこんなに美味しいものだったでしょうか。
2019/01/04
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東京オリンピック・パラリンピックの開催まで、あと2年となりました。オリンピックと言えば、ということで千葉県銚子市の犬吠埼の南側にある君ヶ浜海岸にやって来ました。オリンピックと直接の関係はないのですが、ある映画のオープニングシーンに出て来る風景は、君ヶ浜海岸によく似ています。ここをイギリス代表の陸上選手が練習で走っていたのでしょうか。映画「Chariots of Fire(炎のランナー)」の最初の方では、イギリス代表の陸上選手たちが砂浜を走るシーンが出てきますが、それだけならばどこにでもある風景かと思います。その選手たちが走り抜けて行くのを、砂浜に立つ老紳士と子供と犬が見つめているのですが、砂浜の海岸線の先は断崖となっており、その上には塔のような建物が建っています。君ヶ浜海岸も先に断崖があり、その上には犬吠埼灯台が建っています。実際にはどうでしょうか。(この動画の最後のあたり)ところでこの映画のテーマソング、ヴァンゲリスの「炎のランナー」は、名曲中の名曲だと思います。「炎のランナー」は映画もさることながら、まずはこのテーマソングで有名かも知れません。映画はリアルで観ていないのですが、中学生の頃にコナミの「ハイパーオリンピック」というアーケードゲームがあって、そのネームエントリーでは炎のランナーのテーマ曲がFM音源で流れていました。(40代の人には定規で連射していた時代がわかるでしょうか)2012年のロンドンオリンピックの開会式では、やはりこの曲が演奏されていました。(ブリティッシュイングリッシュのアナウンスにしびれますが、伴奏はあの人)個人的にはIOCの公式テーマソングとしてもいいほどの曲だと思います。
2018/08/04
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戦国時代の浦賀水道では、小田原の北条水軍と房総の里見水軍が、まさに制海権を争っていました。陸の戦いでは、二度の国府台合戦で里見氏(房総連合軍)は北条氏に敗れますが、その後は水軍力を強化した里見氏が優勢となり、対岸の三浦半島に上陸することもありました。三浦半島の最南端にある城ヶ島がその上陸地点で、北条氏の三崎城はまさに目と鼻の先にあります。城ヶ島灯台から見た三崎港と三崎城跡マグロや金目鯛の水揚げで知られる三崎漁港も、かつては里見水軍に備える北条水軍の基地でした。城ヶ島には城ヶ島灯台と安房埼灯台の2つの灯台があり、城ヶ島の西側にある城ヶ島灯台は、観音埼灯台や野島埼灯台などと共に、日本で最初に造られた西洋式灯台の1つです城ヶ島灯台そしておなじみのデザイン、燈光会の解説板です。初代灯台の設計は、他の西洋式灯台と同じやはりレオンス・ヴェルニーによるものです。今回の城ヶ島は灯台もさることながら、地魚を楽しみにしていました。サザエの壷焼きの後は、金目鯛の煮付定食と、身近で手頃に地元の海鮮料理が食べられるのがいいと思います。
2018/07/06
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東京湾に細長く突き出していて、羽田空港を離着陸する飛行機の機窓から見ると、海岸線が目立って分かりやすいのが富津岬です。富津岬は起伏のない平坦な土地が広がっており、岬の先端部にある展望台から眺めると、その様子がよくわかります。岬の先端部から見た内陸側(房総半島側)東京湾には東京港・川崎港・横浜港・千葉港などの国際港に加え、軍港の横須賀港や京葉シーバースなどがあります。これらの港に入出港する全ての大型船舶は、富津岬と観音崎の間にある「浦賀水道航路」を航行していきます。この時はちょうど自動車運搬船が、目の前の浦賀水道航路を航行していました。船体に「GLOVIS」と書かれており、HYUNDAI(現代)の船舶のようです。さらに富津岬の沖合には、人工島である「第一海堡」と「第二海堡」があって、浦賀水道航路の航行をさらに複雑にしています。第一海堡東京湾防衛のため、1881年(明治14年)に築造が開始され、1890年に完成しました。現在は無人島で立ち入りも禁止されていますが、かつては砲台が置かれ、太平洋戦争の終戦まで使われていたそうです。横須賀の海岸線に目を凝らすと、東京湾唯一の自然島である猿島も見ることができました。猿島(カメラは望遠です)猿島にもかつては砲台が置かれていました。晴れた冬の日などは対岸の三浦半島や富士山がよく見えるのですが、この日はあいにく霞んでしまっていました。横浜みなとみらい21さすがは「ランドマークタワー」とあって、いい目印になります。久里浜の横須賀火力発電所富津岬は何度か訪れたことがあるのですが、やはり夕暮れ時が綺麗だと思います。展望台(2009年12月)東京湾に沈む夕陽(2009年12月)富津岬からの夜景も美しく、水面に浮かぶ工場の明かりが幻想的です。「日本の白砂青松100選」
2018/07/05
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商用とは言え、初めて訪れる小樽は楽しみにしていました。小樽と言えばやはり運河です。さすがは古くからの港町で、運河沿いにはレトロな近代洋風建築が並んでいました。運河プラザ(旧小樽倉庫)日本城郭だけでなく、近代洋風建築もお気に入りの建造物です。旧小樽倉庫やはり港町には赤レンガ倉庫が似合います。運河には「浅草橋」という馴染み深い名前の橋があり、その橋を渡った後はいよいよ金融街に入っていきました。
2018/07/03
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商用で小樽に行くことがあり、次の日は休みなので積丹半島まで足を延ばしてみました。ところが倶知安地方の天気予報は降水確率60%となっていて、せいぜい「積丹グレー」を期待していたところです。(太平洋高気圧の張り出しが例年より早く、関東ではこの日に梅雨明けしましたが、そのため梅雨前線が北海道に停滞していました)前日の小樽では雨模様だったため、「積丹グレーならまだいい方かも」とすっかり諦めムードでした。(目的がうに丼に変わりつつあったところです)それでも島武意海岸に着いてみると、気象庁の予報官もびっくりの晴天で、まさに「積丹ブルー」が目の前に広がっていました。海の透明度もさることながら、空気の透明度も抜群で、海岸線の岩を見渡しても遠近感がありませんでした。すでに海岸線で森林限界を超えているため、まるで北アルプスにいるような感覚です。(向こうが奥穂高で、手前がジャンダルムみたいな)
2018/07/01
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静岡の清水から、東名高速ではなく国道150号線に入り、さらに先を目指しました。海岸沿いの国道というのは、ただ運転しているだけでも気持ちのいいものです。国道150号線は「いちごライン」の愛称があり、窓を全開にして走っていると、太平洋の潮の香りと共に、沿道のイチゴ畑からはイチゴの甘い香りが入ってきました。そんな150号線を走りながら、目指した先は御前崎です。御前埼灯台の遠景海岸線に出ると、「静岡県最南端の岬」とありました。石廊崎を訪れた時、「最南端」の文字だけが印象に残っていて、てっきり石廊崎の方が南だと思っていました。(「静岡県最南端の『岬』」とあるのがミソでしょうか。静岡県の最南端は石廊崎の沖合にある神子元島で、「岬」なら御前崎ということだと思います)御前埼灯台の下には、「地球が丸く見えるん台」と呼ばれる場所があります。「地球が丸く見えるん台」から見た海岸線そして太平洋です。この日は割と波が穏やかな方だったと思います。沖合の水平線上をクルーズ客船と思しき船が西に向かっていたので、40倍ズームで撮影してみました。遠目にはわずかにクルーズ客船に見えたのですが、後で画像を見てみるとコンテナ船でした。コンテナが満載ですが、これから日向灘を抜けて東南アジアやヨーロッパ方面に行くのでしょうか、それとも関門海峡を抜けて中国大陸に向かうのでしょうか。(この大きさなら、ギリで関門海峡は通過できそうです)御前崎は「海の東海道」とも呼ばれ、江戸時代には日本史ではおなじみの菱垣廻船や樽廻船が沖合を航行して、江戸と上方の物流を担っていました。それでも沖合での座礁や難破が多いため、1635年に行灯型の灯台「尾火燈明堂」が御前崎に設置されました。現在も御前埼灯台の横に尾火燈明堂が保存されています。尾火燈明堂そして明治時代に入った1871年、リチャード・ブラントンの設計で建設されたのが、西洋式の御前埼灯台です。どこの灯台もそうですが、やはり白亜の灯台は青空によく映えると思います。御前埼灯台は一般公開されているのですが、この時は時間が早すぎてまだ開いていませんでした。そしてどの灯台でもおなじみのデザイン、燈光会の案内板です。ちなみに前回石廊崎を訪れた時の案内板がこちらです。石廊埼灯台がN34°36′10″、御前埼がN34°35′45″と、御前埼の方がわずかに南にあるようです。そして石廊埼灯台が「毎16秒に白1閃光赤1閃光」なのに対し、御前埼灯台は「10秒毎に白色を1閃光」となっています。さらには石廊埼灯台の明るさが6.1万カンデラに対し、御前埼の方は56万カンデラと、桁違いの明るさです。夜間航路を航行するプロの船乗りにとっては、同じ灯台でも石廊埼と御前埼は一目瞭然なのかも知れません。GPSが発達した時代で、御前埼でもレーマークビーコンが廃止されましたが、現在も灯台は夜間の航路の道標となっていると思います。(GPSに不具合があった時、夜間航路では灯台の閃光だけが頼りかも知れません)この後は再び国道150号線「いちごライン」を戻り、いよいよ権現様に向かいました。タイヤをミシュランのパイロットスポートに換えてあげたので、私の「彼女」フェアレディZもご機嫌でした。いまどきゼットに乗る人も少ないと思うのですが、横浜ナンバーのZ33(1つ前のタイプ)で、テールランプに特徴があるので、もし見かけたら声を掛けてあげて下さい。(渋滞待ちの間など、対向の人に気軽に声をかけられることはよくあります)私に限ったことではありませんが、ゼットのドライバーは煽り運転や左からのぶち抜きなど、悪質な運転はしないので、悪しからず。(クラフトワークの「アウトバーン」や、電気グルーヴの「シンカンセン」を音楽で流している時は、ついアクセルを踏んでしまいますが、ご容赦ください)海上保安庁「日本の灯台50選」[CD] 電気グルーヴ/VITAMIN
2018/06/03
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観光灯台と言えば、灯台の近くに駐車場があって、魚介料理のお店が並んでいるイメージでしょうか。伊豆半島の最南端、石廊埼灯台でも同じような光景を想像していました。駐車場の料金所では、「灯台へはここから山道を歩いて20分ほどかかりますが、宜しいでしょうか?」と聞かれました。もちろん異論はないのですが、想像していた光景とは随分は違っていました。他の観光灯台と違って、石廊埼灯台は一般公開はされていません。石廊埼灯台日本の灯台50選にも選ばれています。それでも灯台ではおなじみ、燈光会の案内板が建っていました。デザインはどの灯台も統一のようです。石廊埼灯台は周りを断崖に囲まれており、当たり前と言えば当たり前ですが、とても見通しのいい場所にあります。遊覧船で岬めぐりもできるようですが、この日は欠航だそうです。南側に目を向けると、黒潮に乗ってコンテナ船が航行していました。これから浦賀水道を通って東京湾に入る船でしょうか、何隻か船が続いていました。灯台から先は石室神社の参道になっていて、断崖の上に拝殿がありました。社務所もあって、宮司さんが常駐していたのは驚きです。石室神社のさらに先、石廊埼の先端部には祠があって、熊野神社が祀られていました。石廊崎の先端部熊野神社の祠石廊埼は伊豆半島の最南端の断崖上にあるものの、静岡県の最南端ではありません。静岡県の最南端は、石廊埼の沖合9kmにある神子元島です。神子元島と神子元島灯台神子元島灯台も日本の灯台50選に選ばれていますが、アプローチの難しさは石廊埼灯台の比じゃないと思います。
2018/05/24
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横浜山手には「フランス山」と呼ばれる丘陵があり、「港の見える丘公園」として整備されています。港の見える丘公園入口ところで「フランス山」の由来ですが、幕末の1863年まで遡ります。1862年の生麦事件など、攘夷派による外国人襲撃が相次いだため、フランスは居留地の自国民保護と居留地防衛のため、山手居留地に海兵隊を駐屯させました。軍隊が撤退した後、1894年にサルダの設計でフランス領事館の新築が開始され、1896年に完成しています。1923年の関東大震災で倒壊した後に再建され、公園には今もその建物の一部が残っています。フランス領事館跡井戸に使われた風車横浜港を見下ろす公園の一角には、「U・W」の旗が翻っていました。U・W旗国際信号では、「ご安航を祈る」の意味があります。港の見える丘の名前の通り、横浜港大黒ふ頭とベイブリッジを眺めることができました。昨今のクルーズ船の大型化に伴い、ベイブリッジを通れない船が増えており、やむなく大黒ふ頭に停泊するクルーズ船もあるようです。(ちなみにレインボーブリッジはベイブリッジよりも低いため、横浜港に入港できない船は、東京港に入港することができません)
2018/02/04
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泡盛の銘柄の由来ともなっているのが、読谷の残波岬です。座喜味城から見た残波岬「残波」の製造元である比嘉酒造は、ちょうど座喜味城と残波岬の間にあります。残波岬は断崖絶壁上にあって、打ち寄せる荒波が泡盛「残波」のロゴにもなっています。ところで那覇空港から北向き(RWY36)に離陸する時、右手に見える嘉手納の滑走路の延長線上を通過するまでは、高度1000ft(約300m)の高度制限があります。(もう亡くなってしまいましたが、知人の元日本航空キャプテン殿は、「高度1000ftだよ。離陸したらすぐに推力を絞らないといけないので大変。」と話していました)その飛行制限があるため、那覇空港を離陸した後、右の眼下に残波岬の断崖をよく見ることができます。そしてひと際よく目立つのが、白亜の残波岬灯台です。遅ればせながら、本年も宜しくお願いします。わざわざ訪れないような城跡や史跡ばかりをご紹介していますが、各地に足を運ばれた時、「そう言えば」と何かの時に思い出して頂き、見聞の一助になれば幸いです。残波プレミアム 30度/1800ml【沖縄】【泡盛】
2017/12/22
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東経145度49分、本土最東端にやって来ました。これまで自分が降り立った本土最東端は、ついさっきまでいたヲンネモトチャシ(暫定)だったので、あっさり記録を更新しました。ここから眺めると、水平線上に歯舞群島の水晶島が見えました。四島のかけはし「納沙布岬」のさらに東には、「納沙布岬灯台」があります。結構な東です。納沙布岬灯台根室半島では北側と南側の海岸線沿いに道があり、北側が「オホーツク海回り」で南側が「太平洋回り」でした。ということは、根室半島先端の納沙布岬灯台でオホーツク海と太平洋が分かれることになります。こちらがオホーツク海こちらが太平洋ところで、これまで自分が降り立った日本の最端では、今回で中標津空港が最北端となり、納沙布岬が最東端となりました。ちなみに最西端と最南端は、依然として大学の探検部時代に訪れた八重山諸島の西表島です。西表島の浦内川河口付近が最西端で、亜熱帯林を抜けた反対側の仲間川河口付近が最南端です。
2017/08/31
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城跡めぐり・旧街道めぐりだけでなく、マイナーながらも何となく続けているのが灯台めぐりです。ということで、今回は三浦半島の南端、城ヶ島にある城ヶ島灯台です。やはり白亜の灯台は美しいと思います。城ヶ島灯台の歴史は古く、江戸時代初期の1648年に幕府によって灯明台が置かれたことに始まります。当時はかがり火で海面を照らしており、それでも30km先から灯明が見えたそうです。そして明治に入った1870年(明治3年)、洋式のレンガ造りの灯台に改築されました。設計者はやはりフランス人技師のレオンス・ヴェルニー、観音崎灯台や野島埼灯台など、東京湾に洋式灯台を造った人で、横須賀の旧製鉄所(現在の米軍横須賀基地)の隣に「ヴェルニー公園」として今も名を留めています。ところで当たり前と言えば当たり前ながら、灯台からは見通しがいいのが何よりです。太平洋の水平線上に浮かぶ伊豆大島房総半島ちょうど白浜から野島崎のあたりが正面に見えていました。城ヶ島に限らず、犬吠崎や大王崎(志摩半島)など、なぜか灯台に続く沿道の風景はよく似ており、狭い道の両側に土産物店や海産物の料理店などが建ち並んでいます。とある海産物料理店の前でメニューに見入っていると、「朝獲れがありますよ。よかったらどうぞ」と声を掛けられました。そして、朝獲れの中から選んだのがこちらひらめの刺身(プラス450円で定食)しっかりと身がのっていて、特に脂ののったエンガワが絶妙でした。さらに自家製のひじきに煮付けが定食についたのですが、身も太くてしっかりとしたひじきでした。あまり砂浜を見かけないので、「どこで獲れたひらめだろう?」などと思いつつ、磯料理の定番も追加しました。サザエの壷焼きひらめもひじきもサザエもとりわけボリューム感があって、これが城ヶ島のサカナなのでしょうか。
2012/12/16
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房総半島の海岸沿いを通る道路には愛称が付いており、「内房なぎさライン」(国道127号線)、「外房黒潮ライン」(国道128号線)、そして房総半島南端部を回る「房総フラワーライン」があります。房総フラワーラインは館山から洲崎・野島崎を経由して千倉まで、太平洋の海岸沿いを通っています。洲崎灯台から野島崎灯台まで、自転車で走ってみることにしました。スタート地点の洲崎灯台実は野島崎まで行ける自信はなく、まずは平砂浦にある南房パラダイスまでは行こうと思っていました。南房パラダイスのある平砂浦までは、県道257号線が房総フラワーラインとなっています。途中には安房国一宮である洲崎神社があり、体力を温存したいと思いつつも、鳥居をくぐって150段の石段を登って行きました。洲崎神社の石段から振り返ると、目の前に広がる太平洋を望むことができました。右手に太平洋を垣間見ながら、最初はなかなか快適なサイクリングでした。平砂浦が近づいたあたりから、防砂林に遮られて海は見えなくなり、防砂林が続くだけの単調な道になってきました。路肩には砂が積もっていて、うっかり踏み込むとスリップしそうな感じでした。ところで、ゴール地点を目指してひたすら自転車を漕いでいる時や、頂上を目指してひたすら山に登っている途中など、ある曲が突然頭に浮かんで離れなくなる時がしばしばあります。この日も自転車に乗りながら、ある曲が頭から離れなくなってしまいました。本日の一曲は、♪はるか~草原を、一つかみの雲が、当てもなく彷徨い、飛んでゆく~♪と、なぜか「草原のマルコ」でした。おそらくスタートの洲崎灯台で、草が風になびくのを見てしまったのが原因と思われます。♪山もなく 谷もなく 何も見えはしない♪草原のマルコがずっと頭から離れないまま、やがて南房パラダイスに到着しました。南房パラダイスに来るのは2回目なのですが、最初の1回で満足したので、今回は中に入りませんでした。ちなみに中はこんな感じです2008年11月南房パラダイスは平砂浦の東端にあり、防砂林を横切って海岸に出てみました。サーファーが数多くいましたが、平砂浦はサーフの釣りのメッカでもあります。それでも暗黙の了解なのか、釣りとサーフィンのエリアははっきりと分かれていました。平砂浦から見ると、水平線上に伊豆大島の全景を見ることができました。画像では見えるか見えないかですが、肉眼でははっきりと大きく見えました。平砂浦でまったりと海を眺めていると、つい引き返したくなるのですが、踏ん張って先に進むことにしました。(♪さあ、出発だ♪ということで。。。)平砂浦を過ぎると、県道267号線に代わって国道410号線が房総フラワーラインを引き継ぐこととなりました。国道410号線からは海岸にも近くなり、やがてはるか先に野島崎灯台も小さく見えるようになりました。太平洋の風にさらされつつも、ようやく野島崎に到着しました。数々の磯料理のお店が建ち並ぶ中、「あじづくし定食」の看板を見て一軒のお店に入りました。あじづくし定食現在ではポピュラーな「なめろう」は、元々は房総が発祥です。なめろうを焼いた「さんが焼き」、そして定番のアジフライでした。アジフライはサクサクとしながらジューシーで、アジフライがこんなに美味しいのは意外でした。調理場のご婦人方は漁師の奥様達でしょうか、さすが魚の美味しい食べ方をよくご存知です。関連の記事洲崎灯台(2008年11月) →こちら洲崎神社(2008年11月) →こちら南房パラダイス(2008年11月) →こちら野島崎灯台(2009年10月) →こちら白浜城(2009年10月)→こちら
2012/10/04
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火の山山頂から響灘の日本海を見ると、六連島の手前の海岸近くに人工島のような埋立地が見えました。響灘(玄界灘)の水平線と夕陽と六連島と、そして謎の人工島とグーグルアースで確認してもやはり人工島が建設中のようで、完成すると下関港の国際ターミナルとなる「長州出島」だそうです。響灘(玄界灘)の水平線と夕陽と六連島と、そして「長州出島」と正体がわかったので、コードネームを「謎の人工島」から「長州出島」に変更です。「長州出島」とはまた思い切ったネーミングですが、やはり貿易の窓口である国際ターミナルの島とあって、長崎の出島をパクった大いに参考にしたのでしょうか。山口県では、沖合いの島と本土の間や突端部同士の間にはまず橋が架かり、「あそことあそこ(長州弁では『あすこ』)に道路が出来れば便利」となれば、そこに道路が出来てさらにはトンネルを掘る、そして轍が出来れば修復、といった具合に、必ずどこかで道路のインフラが整備されている印象があります。(渋滞よりも道路の工事情報ばかりで、工事をしていない路線を探すほうが難しい)そんな山口県でも人工島を造るのは初めて見ますが、瀬戸内海ではなく日本海にできることは大いに意義があるように思います。ここに物流と旅客のターミナルが完成すると、中国大陸や朝鮮半島とのルートが短縮されるだけでなく、関門海峡を通過しなくて済むので大型船の発着が可能となります。あとは本土側で受入体制が整うかどうかでしょうが、海岸線を通る国道191号線では大渋滞を引き起こすことは容易に想像ができるところです。やはり短絡道路を造ってトンネルを掘るしかないのでしょうか。
2012/08/02
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関門海峡のルートとして、自転車を連れて渡るとなると、唐戸・門司港間の関門航路か壇ノ浦・めかり間の関門人道トンネルに限られてきます。関門人道トンネル門司側入口他の関門トンネルとは違って、エレベーターで海底部に降ります。国道2号線の表記があり、すぐ真上を関門国道トンネルが通っているため、上の方からタイヤの摩擦音が聞こえてきました。関門人道トンネルは長さ780mで、中央部は海面下58mにあります。福岡県と山口県の県境この真上は壇ノ浦の関門海峡です。歩行者は無料ですが、自転車は20円を下関側で支払い、自転車に乗ったまま通ることはできません。結局自転車を押しながら下関に到着めでたし、めでたし下関側で再びエレベーターで地上へ上がり、扉が開くと目の前には見慣れた壇ノ浦の光景がありました。再び源平の総大将、源義経と平知盛像のあるみもすそ川公園です。関門人道トンネル下関側入口壇ノ浦からは再び国道9号線沿いを走り、スターと地点の関見台公園まで戻ってきました。思えばサイクリングとば言いながら、まともに自転車で走ったのは関見台公園~壇ノ浦間と門司港~めかり公園だけでした。関連の記事関門海峡サイクリング~下関~→こちら関門海峡サイクリング~関門航路~→こちら関門海峡サイクリング~門司~→こちら
2012/07/30
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関門汽船を門司港で降り、北九州市は門司区、関門海峡の「門」に来ました。門司港の一帯は、かつての港町の光景そのままに門司港レトロの観光地区となっています。門司港レトロと海峡プラザ桟橋の目の前にも門司港駅のレトロな駅舎があります。1914年から現存する駅舎アインシュタインも宿泊した旧三井倶楽部鉄道ファンの方には旧九州鉄道本社ビルがおススメです。現在は「九州鉄道記念館」となっており、懐かしい車両の数々が実物展示されています。ところで門司の食と言えば「焼きカレー」、カレーライスをオーブンで焼いたもので、海峡プラザには焼きカレーの幟が並んでいました。同じ北九州市発祥では小倉の焼うどんがあり、同じ福岡県発祥では博多の焼ラーメンがあります。普通に食べてもいいような気がするのですが、福岡県は名古屋並みに食のワンダーランドなのでしょうか。ちなみにアーケード商店街やパンチパーマなどは同じ北九州市でも小倉が発祥ですが、門司港の方は「バナナの叩き売り」の発祥で、現在は路地の片隅に発祥の碑が建っていますそんな門司港レトロをしばらく自転車で散策した後、今度はめかり公園に向けて再び出発しました。九州鉄道記念館前からめかり公園までは、トロッコ列車「潮風号」も走っています。潮風号(2011年4月)途中出光美術館駅・ノーフォーク広場駅を経て、関門海峡めかり駅までの観光列車です。ノーフォーク広場海岸線から対岸を見ると、下関はすぐ目の前にあります唐戸桟橋もすぐ目の前なのですが、ちょうど大型タンカーが航行しており、あるかぽーとに覆いかぶさっていました。門司港レトロを過ぎると普通の町並みに変わり、こちらは昭和の雰囲気を残していました。和布刈(めかり)神社の鳥居が見えてきました。その先の古城山には門司城跡があり、めかりPAもあります。この辺りは律令時代の646年に門司関が置かれ、京都と大宰府を結ぶ重要な拠点でもありました。門司関址碑関門海峡を散策するならば、下関よりも門司の方がアクセスもいいと思うのですが、下関の海岸沿いは国道9号線の4車線道路になっているのに対し、門司の方では「観潮遊歩道」が整備されており、海岸線を歩いて散策することができます。関門橋の先に壇ノ浦と火の山が間近に見えています。壇ノ浦の対岸にあるのが地名の由来でもある和布刈(めかり)神社で、「ワカメを刈る」ことが名前の由来となっています。ワカメは芽を出し自然に繁栄することから幸福を招くとされ、奈良時代の710年にも和布刈の神事で刈ったワカメを朝廷に献上された記述があり、現在も元旦に宮司がワカメを刈る神事があります。海峡に臨む鳥居と細川忠興が奉納した灯篭観潮遊歩道から見ると、今回のスタート地点である関見台公園を望み、周防灘の瀬戸内海が広がっていました。関門海峡を散策するなら、門司の方がおススメです。夏休みに旅行を計画しているならば、下関と門司を回ってみるのもいいのではないでしょうか。関連の記事関門海峡サイクリング~下関~→こちら関門海峡サイクリング~関門航路~→こちら門司港レトロ→こちら九州鉄道記念館→こちら関門海峡のPA→こちら門司城→こちら
2012/07/29
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関門海峡を横断するルートとしては、中国自動車道と九州自動車道を結ぶ関門橋、国道2号線の関門国道トンネル、鉄道では山陽本線の関門トンネルと山陽新幹線の新関門トンネルがあります。いずれも橋かトンネルになるのですが、自転車同伴となると関門国道トンネルの下を通る関門人道トンネルに限られてきます。実は関門海峡にはもう1つルートがあり、下関の唐戸桟橋と北九州門司港に関門汽船の定期航路があります。カモンワーフの先、あるかぽーとにある唐戸桟橋唐戸桟橋からは門司港への定期航路以外にも、巌流島への定期航路や、門司港レトロクルーズの観光航路が出ています。「しものせき水族館『海響館』」もあるかぽーとにあります。あるかぽーと東防波堤から見た関門海峡唐戸市場とカモンワーフ唐戸に来るとなぜか高雄の旗津を思い出すのですが、何となく雰囲気が似ているようにも思います。唐戸と門司港の間には関門汽船の航路があり、20分に1本の割合で運航されています。料金は片道390円で自転車は1台につき200円の追加料金がかかります。今回は新造船「かんもん」で、乗組員は2人とも二十歳そこそこの女性クルーでした。おそらく商船系の学校を出ているのでしょうが、この若さで海技士免状を持っているのは羨ましい限りです。そのキャプテンは唐戸桟橋の狭い突堤内で180度反転した後、フルスロットルで関門海峡に飛び出して行きました。激しい潮流に加え、大型船舶が行き交う海峡を横断するには、一気に突っ走るのが一番安全かも知れません。関門海峡の真ん中から見た壇ノ浦の早鞆ノ瀬戸交通量の多い4車線道路を横切るようなものでしょうが、潮流の激しい時や大型船舶の航行中などは、迂回することもあるようです。潮流が最も速い時は、まるで川が流れているように潮の流れがわかるのですが、この時はいたって緩やかな流れでした。(ちょうど潮目が変わる頃だったので)船舶の交通量も少なく、一直線に門司港へと向かって行きました。途中で船体に「Dole」のロゴが入ったバナナ運搬船の前を通過して行きました。唐戸と門司の間は直線で1kmもなく、約5分で門司港に到着です。入港直前に船が横切ったのですが、プロペラを反転させて見事に着岸です。関連の記事関門海峡サイクリング~下関~→こちら巌流島→こちら
2012/07/27
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一度は自転車で走ってみたいと思っていた関門海峡沿いの国道9号線、どうせなら関門海峡をぐるりと回ってみようと、まずは関門の「関」、下関の関見台公園(櫛崎城跡)からスタートしました。関門海峡とは言えまだ海域は広く、振り返ると周防灘の海が広がっていました。満珠島・干珠島が見えています。周防灘から関門海峡へ、船舶も一列縦隊になって航行しています。やけに黒煙を吹き上げる船舶があったのですが、まさか石炭を燃料としていることもないでしょうから、重油のオイルフィルターに異常があるのでしょうか。車道を走っていると気が付かなかったのですが、防波堤の先は人工海岸ではなく、自然海岸となっていました。ようやく壇ノ浦の早鞆ノ瀬戸、関門橋が見えてきました。関見台公園から唐戸市場まで、国道9号線が関門海峡の海沿いを通っています。幕末に砲台が置かれた前田砲台付近幕末の1853年、幕府が朝廷に約した5月10日の攘夷決行の期日に、長州藩は関門海峡を通過する英・仏・蘭・米の4カ国の連合艦隊を砲撃した時、その砲台が置かれていました。関門MARTISの潮流信号「E」・「5」・「↓」と交互に点滅しており、この時は玄界灘(日本海)から周防灘(瀬戸内海)へ、東向きに5ノット(時速約10km)で、潮流は遅くなるとのことです。最近になって関門海峡の航行ルールが変わり、潮流と逆向きに航行する船舶は、潮流プラス3ノットの最低速度から、潮流プラス4ノットになりました。最低速度の制限があるのも珍しいことですが、潮流に逆らえずに押し流される船舶もあるようです。これまで潮流信号の最大は9ノットというのを見たことがありますが、壇ノ浦の潮流は最大10ノット(時速約20km)に達するそうです。陽射しは厳しいものの、海峡を吹き渡る追い風にも乗って、快適な海峡サイクリングでした。関門橋も近くなってきました。そして壇ノ浦のみもすそ川公園に到着長州砲が海に砲口を向けています。源平の総大将、平知盛と源義経像今回のルートでは、ぐるっと回って再びここに帰って来る予定ですが、関門橋の真下をくぐってさらに先を目指して行きました。関門橋下関側の橋脚立ち止まって見たのは初めてですが、改めて見るとど迫力でした。関門橋をくぐって壇ノ浦を過ぎると、幕末に奇兵隊が屯所を置いた極楽寺、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る赤間神宮、そしてその隣には日清戦争の講和条約(下関条約)が締結された春帆楼(日清講和記念館)と、平安から明治に到る歴史街道といった感じです。平家一門の墓所もある赤間神宮赤間神宮を過ぎると、山陽道の起点であり、金子みすゞともゆかりの深い亀山八幡宮があります。亀山八幡宮亀山八幡宮の向かい側にあるのが、唐戸市場とカモンワーフ、今回の下関側の終点です。関門海峡の「関」はここで終わり、これから対岸の北九州市門司区、「門」へと向かって行きました。関連の記事櫛崎城(関見台公園)→こちら満珠島・干珠島→こちら関門MARTIS→こちら壇ノ浦古戦場→こちら赤間神宮→こちら亀山八幡宮→こちら金子みすゞ詩(うた)の小径→こちら唐戸市場とカモンワーフ→こちら山陽道~赤間関→こちら火の山公園→こちらサンデン交通ロンドンバス→こちら
2012/07/26
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三方を海に囲まれた山口県にあって、海岸沿いの道の中でもお気に入りの場所が3ヶ所あります。・国道188号線、光市室積~田布施町麻里府の間の周防灘・国道9号線、下関市壇ノ浦~唐戸の間の関門海峡・国道191号線、萩市越ヶ浜~阿武町奈古の間の日本海いずれも車では何度も通った場所ですが、いつかは自転車で走ってみたいと思っていた場所です。国道188号線はすでに走ってみたので、今回は日本海の国道191号線を自転車で走ってみることにしました。国道191号線は山口県下関市~広島市中区を結ぶ国道ですが、下関から島根県益田市までは日本海沿岸を通るため、同じ区間の国道2号線に比べて約80kmほど大回りする格好になります。今回は国道191号線の「道の駅阿武(あぶ)町」から「道の駅萩しーまーと」まで、約10kmのサイクリングでした。「道の駅発祥の地」の看板があり、道の駅の実験施設として開業した経緯があるそうです。「なぜ阿武町が?」とも思うのですが、道の駅のすぐ目の前に防波堤があり、間近に日本海を臨むことができる絶好の場所にあります。国道191号線の萩市~益田市の間は、「北長門コバルトライン」の別名があります。なかなかいいネーミングだと思うのですが、日本海のイメージとは違って、瀬戸内海のような穏やかな海が広がっています。台風が接近中で風は強かったのですが、海面は穏やかでした。国道191号線と並走して、山陰本線が走っています(「本線」の名前が付いていますが、泣く子も黙る単線非電化です)沖合いに目を向けると、テーブル型をした大島が見えていました。大島のみならず、沖合いには笠山の噴火によってできたテーブル型の島が点在しているのを見ることができます。大井漁港を過ぎた辺りから、その笠山も見えてきました。笠山の麓にある明神池あたりでサザエでも食べようかと思ったのですが、萩しーまーとまで近くなって来たので、もうひと踏ん張りして、そのまま191号線を下っていきました。笠山を過ぎて越ヶ浜にさしかかると、国道沿いに温泉旅館が建ち並ぶようになりました。笠山に近いこの辺りは、萩の温泉の源泉地でもあります。源泉地の付近にある萩マリーナのヨットハーバー萩マリーナからは長門市仙崎の方向を望むことができ、青海島を正面に見ることができました。青海島の向こう側には、楊貴妃墓所のある向津具半島も見えています。国道191号線は北浦街道とも呼ばれ、所々には旧街道の面影を残しています。幕末になると長州藩によって恵比須ヶ鼻造船所が建設され、藩の洋式軍艦も製造された場所でもあります。現在恵比須ヶ鼻の造船所付近には、萩海上保安署が置かれています。2月に就航した巡視艇「はぎなみ」萩海上保安署は、仙崎にある第七管区海上保安本部の所属になります。恵比須ヶ鼻造船所と並んで「九州・山口の近代化産業遺産群」として世界遺産に暫定登録されている反射炉の前を過ぎると、いよいよ道の駅萩しーまーとに到着しました。道の駅萩しーまーとは魚市場に隣接しており、漁協によって運営されています。おまかせにぎり10貫萩の「瀬つきアジ」や「剣先イカ」も入っており、なかなか貴重な組み合わせでした。関連の記事笠山(2011年9月)→こちら萩反射炉(2012年4月)→こちら道の駅「萩しーまーと」(2012年2月)→こちら
2012/07/18
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「日本の夕陽100選」にも選ばれている「きららビーチ焼野海岸」、梅雨の晴れ間に立ち寄ってみました。ちょうど日没の頃(19:30)ですが、太陽は雲に隠れていました。こちらへ来てから、夏の日の長さには驚きました。7時を過ぎても太陽が照っており、8時を過ぎても空にはまだ明るさが残っています。きららビーチ焼野海岸(2011年4月)→こちら
2012/07/09
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金子みすゞの故郷として、地元では脚光を浴びている長門市仙崎は、下関に次ぐ山口県第二位の水揚高のある漁港の町です。金子みすゞの詩は下関で書かれたものが大半ですが、生まれ故郷の仙崎の詩もあります。朝焼け小焼けだ大漁だ大羽鰮(いわし)の大漁だ浜は祭りのようだけど海の底では何万の鰮のとむらいするだろう金子みすゞ~大漁~仙崎は太平洋戦争後の引き揚げ港でもあり、博多・佐世保・舞鶴・浦賀に次いで、約40万人が仙崎港に帰還してきました。現在は第7管区海上保安本部の仙崎海上保安部が置かれ、5月31日に巡視船「おおみ」が就航しました。「海猿」の仙崎大輔も第7管区海上保安本部だったでしょうか仙崎と言えば、小田原・仙台と並ぶ蒲鉾の産地でしょうか。蒲鉾に関しては山口県産が一番だと思っていて、他の産地のものを食べても首をひねってしまうようになりました。こちらのCMでは「おら~ やっぱり仙崎がええな」というフレーズがあるのですが、一方で「仙崎なんか目じゃない」と言う産地の人もいます。(同じ山口県です)私もその蒲鉾がスタンダードになってしまっているのですが、食べてみると「仙崎は目じゃない」派になるかも知れません。
2012/07/02
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下関の街を歩いて回るのは久しぶりだったのですが、「金子みすゞの詩の小径」を歩いてみて、「街歩きも色んな発見があって、なかなかいいもんだ」と思いました。「もう少し歩いてみるか」と、下関の散策マップを見ていると、「港がみえる丘の径(みち)」というコースがありました。古来より国際航路と港町で栄えてきた下関にあって、これは飛びつきそうなネーミングです。その「港がみえる丘の径」のスタート地点は高杉晋作と奇兵隊ゆかりの大歳神社、ゴール地点は金子みすゞゆかりの寿公園となっていました。わざわざ大歳神社まで行くのもどうかと思い、中間点近くにある日和山公園、丘の上からスタートすることにしました。日和山公園へ続く道下関は坂が多いと言われていますが、尾道に匹敵するような急坂が続いていました。日和山公園は桜の名所でもありますが、一番高いところには東行先生、高杉晋作の像があります。この東行先生は横を向き、下関の市街地ではなくてずっと東の方を向いていますが、どこを眺めているのでしょうか。その日和山公園ですが、お世辞にも眺望が良いとは言えず、わずかに関門海峡を垣間見る感じでした。「対岸」は九州です。日和山公園からの道は散策コースにしては荒れていて、草木が手入れされずに道を覆っていたりしました。民家や木々の間を縫う感じで、民家の軒下の歩道を歩くような場所もありました。(途中で道がわからなくなって地元の人に聞くと、「あすこにある階段は市道じゃけえ、あれを行きゃあええんよ」と、ばりばりの長州弁が返ってきました)藪に覆われた道を登ったり降りたりしながら、「港がみえる丘の径」とは裏腹に、所々に関門海峡を垣間見る感じでした。途中の覚弘院から見た関門海峡下関はぜひ訪れてもらいたい場所ではありますが、関門海峡を一望するなら火の山公園、海峡と航行する船舶を間近に見るなら壇ノ浦の「みもすそ川公園」をおススメします。ゴール近くの永福寺で一息ついていると、ちょうど沖合いをクルーズ客船が航行していきました。"Legend of The Seas"でしょうか、画像で見るとそうでもありませんが、海岸ギリギリを窮屈そうに通過して行きました。関門海峡でこれだけの大型船舶が航行するのを見ることはほとんどありませんが、汽笛をさかんに鳴らしており、ブリッジのクルーもかなり気を遣ったことかと思います。ところでこの永福寺、実は推古天皇の時代から1300年の歴史を持つ古刹でした。今となっては本堂もよくわからず伽藍跡だけが残る寺院ですが、百済からあの聖明王の王子が来朝した時、関門海峡の風景を愛でて観世音菩薩を安置したのが始まりだそうです。現在も「観音崎」の地名がありますが、この永福寺の観音菩薩に由来しています。坂ばかりが多くて眺望もさほど良くなく、とても「港がみえる丘の径」とはほど遠いものでしたが、ふと気付いたことがありました。まるで尾道のような下関の風情ではありますが、林芙美子の「放浪記」の冒頭部分、「海が見えた 海が見える 五年振りに見る尾道の海はなつかしい」のところが思い浮かびます。尾道水道を見て「海が見えた 海が見える」と、「海」へのノスタルジーを感じることは、普通の海ではありえないかも知れません。下関の丘の上から見る関門海峡は、尾道水道の海に何となく似ています。下関出身の林芙美子にとって、「尾道水道を見て、懐かしい関門海峡の海を思い出したのでは?」と思うのは、思いすぎでしょうか。関連の記事金子みすゞの詩の小径→こちら奇兵隊誕生地→こちら関連の記事(?)文学のこみちと尾道の海→こちら
2012/06/18
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関門海峡のすぐ西側、北九州市若松区の海岸線は工場の埋立地が続いていますが、そのさらに西側には、意外にも自然海岸が残っています。響灘に面した海岸線は「若松北海岸」と呼ばれ、砂浜や岩場が続く変化に富んだ光景が続いていました。その中に響灘に向かって突き出しだ岬があり、「遠見ヶ鼻」の名前がついています。遠見ヶ鼻にある妙見埼灯台江戸時代の1604年、江戸幕府の命によって黒田氏が遠見番所を置き、外国との密貿易の取り締まりや、難破船の救助にあたっていました。妙見埼灯台は昭和41年に建てられ、妙見埼の名称も後世になってつけられたものだそうです。北に向かって突き出した岬でもあり、妙見(北極星)に因んで付けられたのでしょうか。ところで響灘と玄界灘は概ね北九州市と宗像市を境にして分かれているようで、遠見ヶ鼻のあたりがその境目付近となります。東側の響灘本州の海岸線が見えています。西側の玄界灘水平線の向こうは対馬や朝鮮半島です遠見ヶ鼻の岬の根元付近には、縁結びの神様とされる「御嵜(みさき)神社」があります。元々は妙見埼灯台のある岬の先端部にあって、海に向かって建っていました。現在の地に移転された理由には言い伝えがあって、夫婦の男性の神様が遠見ヶ鼻の夕陽に見とれてしまい、嫉妬した女性の神様の八つ当たりで、沖では遭難事故が続いたそうです。そこで村人たちは夕陽が見えない現在地に移転し、陸に向かって社殿を建てたところ、その後は夫婦円満となり、縁結びや夫婦円満の神様として信仰されているとのことでした。
2012/06/15
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九州と四国を隔てる豊後水道、中でも関崎(大分)と佐田岬(愛媛)の間は、佐賀関半島と佐田岬半島が突出していることもあって、急に狭くなっています。この間は特に豊予海峡の名称があり、「速吸瀬戸(はやすいのせと)」とも呼ばれる潮流の速い場所でもあります。道の駅「佐賀関」から見た豊予海峡水平線上に四国の佐田岬が見えています。ところで豊予海峡は豊後水道の一部になるわけですが、この「水道」と「海峡」の定義や違いがよくわかりません。今回大分市内から関崎までは、佐賀関半島の海岸沿いを通る国道197号線を利用しました。このまま国道が半島をぐるっと回っているのですが、佐賀関港を境に国道197号線から国道217号線に名称が変わりました。国道197号線の終点は佐賀関港ではなく、佐賀関港からは豊予海峡を渡り、高知市まで続いています。(地図を見ると、佐田岬の三崎港から再び197号線がスタートしています)九州と四国に同じ番号の国道が通っているのも不思議な感じですが、佐賀関港と三崎港の間は、「国道九四フェリー」が運航されており、海上の国道となっています。佐賀関半島の先端、関崎から見た豊予海峡と関崎灯台関崎と佐田岬を結ぶラインが瀬戸内海と太平洋の境界となっており、地図上では画像の左側が瀬戸内海、右側が太平洋になります。関崎から続く海岸は「黒ヶ浜」と呼ばれ、「日本の渚百選」にも選ばれています。黒い石によって形成され、その名の通り黒く見える海岸です。ちなみに黒ヶ浜の南には白ヶ浜があり、こちらは普通の砂浜海岸でした。ところで佐賀関と言えば、「関さば」・「関あじ」のブランドで知られています。サバを刺身で食べられるのも、佐賀関ならではでしょうか。ちなみに同じ豊予海峡でも佐田岬側は「岬さば」、「岬あじ」のブランドに変わって、値段も関さば・関あじよりも安いとのことです。ロイヤルガストロ 究極のブランド魚「関サバ」を姿造りでお届け!荒波で育った高級魚の身の締まりをご堪能下さい。佐賀関漁港認定の一流ブランド 関さば 姿造り 産地直送大分県佐賀関から直送の関サバを使用した鯖寿司です。関サバ寿司
2012/05/12
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世界最小の火山と言われる笠山からの日本海は、「美しい夕陽百選」にも選ばれています。笠山山頂の展望台に着いたのは18:50頃、まさに水平線に太陽が沈もうとしていました。1年365日、毎日太陽は沈んでいますが、日没の瞬間を見るのは何年ぶりでしょうか最後まで日没を見届けていましたが、最後は水平線手前の海の中に沈んだようにも見えました。しばらくすると空が群青色に変わり、水平線のはるか上には星が輝き始めました。
2012/04/28
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萩市の北長門海岸にある笠山と菊ヶ浜は、瀬戸内海のきららビーチ焼野海岸と並んで、「日本の夕陽100選」に選ばれています。菊ヶ浜に着いた時は19時を回っており、すでに日没からは30分くらいが経っていました。指月山(萩城詰丸)の向こう側に太陽が沈んだようで、指月山のシルエットが薄明の中に浮かんでいます。春の日本海は穏やかで、海岸線の明かりが海面にも映るようになってきました。世界最小の火山と言われる笠山の方向関連の記事菊ヶ浜(2011年5月)→こちら笠山(2011年9月)→こちら
2012/04/17
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西は関門海峡から東は周防大島まで、山口県の前に広がる周防灘の瀬戸内海、沿岸は有数の工業地帯でありながら、風光明媚な風景も数多く残っています。そこで周防灘で印象的だった景勝地を、八景にちなんで8ヶ所選んでみました。(かなり主観が入っており、最後の方はこじつけみたいですが・・・)1.関門海峡(下関市)壇ノ浦付近今年は巌流島の決闘からちょうど400年だそうです。櫛崎城(関見台公園)関門海峡手前の周防灘では、日本海や東シナ海へ抜ける船舶が一列縦隊になって連なっています。2.きららビーチ焼野海岸(山陽小野田市)「美しい夕陽百選」にも選ばれており、日没前は周防灘が黄金色に輝いていました。3.富海海岸(防府市)山口県の旧山陽道の中でも、瀬戸内海の海岸沿いを通るのは、富海宿付近だけです4.虹ヶ浜海岸(光市)周防灘を代表する砂浜海岸で、「日本のなぎさ百選」・「白砂青松百選」・「快水浴場百選」に選ばれています。5.室積海岸(光市)虹ヶ浜海岸と並んで周防灘の代表的な砂浜海岸です。6.象鼻ヶ岬と御手洗湾(光市)室積海岸から続く陸繋砂嘴はその形から象鼻ヶ岬と呼ばれ、「周防橋立」の別名があります。鼓ヶ浦と御手洗湾7.長島・室津半島(上関町)長島と室津半島の間に架かる上関大橋「鳩子の海」の舞台となった上関港は、朝鮮通信使の寄港地でもありました。周防灘に臨む長島には、上関原子力発電所の建設計画があります。8.大畠瀬戸(周防大島町)周防灘の東は周防大島までで、周防大島と本州の間にある大畠瀬戸を抜けると、安芸灘に入ります。周防大島は江戸時代に入って村上水軍が本拠地を置いていた場所で、大畠瀬戸も潮流の速い場所として知られています。
2012/04/07
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現在全国に30ヶ所ある国立公園のうち、1934(昭和9)年に最初に指定されたのが、雲仙国立公園、霧島国立公園、瀬戸内海国立公園の3ヶ所でした。その瀬戸内海国立公園の代表的な景勝地が鞆の浦で、「しまなみ海道」の続く芸予諸島の東側、岡山との県境近くの燧灘に臨む場所にあります。瀬戸内海国立公園が指定された当時の記念切手大日本帝国の時代、通貨単位も銭が使われています。切手のデザインにもなった仙酔島の名前の由来は、「仙人も酔ってしまうほど美しい」だそうです。仙酔島山紫水明」の言葉も仙酔島に由来しており、頼山陽が仙酔島を描写した言葉だそうです。鞆の津(鞆城本丸より)鞆の浦の先に広がる燧灘は、瀬戸内海にしては比較的島が少ない場所で、天気のいい日は四国の山々を眺めることができるそうです。 (瀬戸内海にしては珍しく、水平線も見ることができます)天気もあまりよくなかったせいか、個人的には鞆の浦よりも、尾道の沖合に広がる芸予諸島の方が瀬戸内海らしくていいように思います。古来より港町として繁栄してきた鞆の浦の町並も見て回りましたが、大河ドラマの「平清盛」の幟などは、全く見ることがありませんでした。
2012/04/02
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1年ぶりくらいに火の山に登ってみました。 関門海峡の東側、周防灘の瀬戸内海の方向隣にいた中国からの観光客は、この景色を見て「是?!!」と感嘆していました。対岸の門司側にある古城山(門司城)と火の山と間が最も狭く、関門橋が架かるこの場所が壇ノ浦古戦場でもある早鞆ノ瀬戸です。遠く関門海峡の真ん中に巌流島も見えています。西側、玄界灘の日本海の方向瀬戸内海、関門海峡、日本海が一望できる上、車でもロープウェーでも手軽に登ることができます。下関に来られることがあったら火の山はおすすめで、特にこれからの季節は関門海峡の夜景が心地よいと思います。2011年4月
2012/03/27
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春分の日も近づいてきて、随分と日が長くなってきました。関門橋の門司側にある「めかりPA」では、ちょうど日が沈むところで、時刻を見ると18:20を回ったくらいでした。関門海峡を挟んで九州は目と鼻の先にあり、気軽に行ける場所でもあるのですが、まだまだ九州北部はワンダーランドです。
2012/03/13
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津軽海峡が本州の北の果てならば、関門海峡は本州の西の果てになります。朝から雪が降り積もっていたのですが、下関では雪も解けて風も穏やかでした。壇ノ浦付近関門橋の九州方面への下りは大渋滞になっていました。唐戸市場付近下関は歴史的な見所が多い場所だと思うのですが、PRが足りないのか、大河ドラマ「平清盛」にもいまひとつ乗れていないような気がします。(ちなみに壇ノ浦の合戦の時、すでに清盛は亡くなっているはずです)さらに今年は巌流島の決闘からちょうど400年にあたるようで、あちらこちらにポスターが掲示されているのですが。下関の観光に一役買うことになるでしょうか。本州の反対側、津軽海峡は石川さゆりの「津軽海峡冬景色」があまりに有名ですが、関門海峡の方も負けてはいません。下関出身、山本譲二(またの名を「関門ジョージ」)の「関門海峡」歌碑でもやはり、関門海峡よりも「みちのく一人旅」の方が有名です。
2012/02/19
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愛媛県の今治市から広島県の尾道市まで、大島・伯方島・大三島・生口島・因島・向島と、まさに芸予諸島の島々をつたいながら瀬戸内海を渡って帰ってきました。正式には西瀬戸自動車道と名付けられていますが、自転車と歩行者用の通路もあって、自転車と歩行者は自動車では降りられない橋脚の島にも降りることができるようです。今治と大島の間に架かる来島海峡大橋来島海峡第一大橋から第三大橋から成る世界初の三連つり橋で、自転車と歩行者は途中の馬島などにも降りることができます。(来島村上水軍の本拠地であった来島は通っていません)鳴門海峡・関門海峡と並ぶ日本三大急潮流の1つで、海上交通の難所でもある来島海峡を上から見下ろしながら渡っていきました。来島海峡を通過中。島と島の間に架かる橋にも、つり橋や斜張橋などさまざまありました。大三島と生口島の間に架かる多々羅大橋完成した時は世界最大の斜張橋でしたが、現在は中国の橋に次いで2番目だそうです。多々羅大橋を通過中。大島と伯方島の間に架かる伯方橋こちらは普通のアーチ型の橋です。生口島と因島の間に架かる生口島橋因島と向島の間に架かる因島大橋名前に「大橋」が付く橋と、そうでない橋の基準がよくわかりません。瀬戸内海を表す言葉に「多島美」がありますが、「シルクロード」の名付け親であるドイツの地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンも、明治の初めに瀬戸内海を訪れて、「世界にこれ以上ない」と、その多島美を称えています。多々羅大橋と生口島(大三島より)しまなみ海道のある芸予諸島は、瀬戸内海の制海権を掌握した村上水軍の舞台でもあります。村上水軍ゆかりの地を訪れようと、なるべく島々に降りてみたのですが、とても回りきれるものではありませんでした。
2012/02/11
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日本における軍港としては、海軍鎮守府の置かれた大湊・横須賀・舞鶴・呉・佐世保の5港が代表的かと思います。現在も海上自衛隊の護衛艦軍の基地が置かれ、特に横須賀と佐世保にはアメリカ海軍第7艦隊の基地も置かれています。佐世保港(軍港)の遠景リアス式の佐世保湾の湾奥にある佐世保港は、天然の良港として1883年に東郷平八郎によって測量が開始され、1889年に佐世保鎮守府が置かれました。佐世保鎮守府から海上自衛隊佐世保基地に至る佐世保軍港の歴史を紹介しているのが、「セイルタワー」(海上自衛隊佐世保資料館)です。1Fから7Fまでが展示室になっており、一度7Fに上がってから順番に下りてくる順路になっていました。館内の展示品は撮影禁止なので紹介はできませんが、展示品の数々を見ると、「さすがは佐世保」といった感じです。ところで1Fの企画展示は「秋山真之の生きた時代」でした。セイルタワーのHP→こちら
2012/01/06
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遣隋使、遣唐使、朝鮮通信使そして参勤交代や北前船の航路であり、日本国内のみならず古来より中国大陸や朝鮮半島との交通路となっていたのが上関海峡です。山口県の南東部は瀬戸内海に大きく突き出した室津半島を形成しており、上関海峡を隔てて室津半島の先に上関(長島)があります。室津半島と上関の間に架かる上関大橋上関海峡は、防長二ヵ国でも中関(三田尻)・下関と並んで海上交通の要衝でもありました。海峡の距離は約170mで水深は10m、大型船の航行には不向きかも知れませんが、航路としてはここを通るのが近道かと思います。幕末の第二次長州征伐(四境戦争)においては、長州藩が上関海峡に砲台を設置し、幕府軍の艦船に対して海上封鎖を行った場所でもあります。現在の上関砲台跡には、吉田松陰が残した歌碑が建っていました。嘉永癸丑(1853年)十月十五日舟を発し家室を過ぎ室津に到りて泊す。詩あり云はく「故郷夢断えて涙潜々(たんたん)、舟子喚び(むせび)醒ます『是れ上関』」と。蓬窓怪しむなかれ起き来ること晩き(おそき)を。國去りて看るに忍びんや故国の山当時ではコスモポリタンであった吉田松陰にとっても、上関海峡は故郷の海そのものであったようです。その吉田松陰の弟子、高杉晋作も上関を句に詠んでいます。「室津上岡さおさしゃ届く なぜに届かぬ我が想い」吉田松陰の漢文と高杉晋作の句、この師匠からこの弟子が出たのも不思議に思います。
2011/10/22
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本州最西端は山口県下関市とはわかるのですが、下関市の中でも関門海峡の彦島付近だと思っていました。関門海峡から北へ30kmほど行った毘沙ノ鼻がわずかに西にあるため、こちらが本州最西端になるようです。響灘に面した毘沙ノ鼻は、本州で最も遅い夕陽となるようです。東京に比べてこちらは太陽の沈むのが遅いと思っていたのですが、感覚的には40分くらい遅い気がします。17:30を過ぎていましたが、まだ水平線の上に太陽がありました。雲がかかっていて日没まで見られそうにないので毘沙ノ鼻は後にしたのですが、海岸線に下りてきてもまだ太陽は沈んでいないようでした。秋分の日、推定の日没は18:10頃だと思われます。響灘・厚島展望公園
2011/09/24
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地元山口県の人に聞くと、海がきれいな場所として日本海側の角島、瀬戸内海側では上関の名前が挙がってきます。そして「鳩子の海」の名前も聞くのですが、こちらはNHKの連続テレビ小説の題名でもあります。山口県東部に突き出した室津半島の先端部と、そのさらに先にある長島に上関町があります。室津半島と長島の間に架かる上関大橋長島の北側(柳井側)長島の南側(周防灘側)最近は地元のニュースなどで上関の名前をよく耳にするのですが、中国電力の原子力発電所の建設が計画されています。原子力発電所の建設が予定されているあたり上関では反対派の「原発反対」の看板に混じって、「原電建設を妨害する人は上関に来ないで下さい。島民の多数は賛成しています」などの看板もありました。原発賛成派が多い中、福島の原発事故や中国電力の電力事情(電力が余っているので関西電力に35万kwの供給を開始)などで、事情も変わりつつあるようです。上関の原発建設については、地元住民以外は賛否を述べる権利がないと思っているので意見はありませんが、原発に限らず「鳩子の海」はこのまま残って欲しいと思います。それにしても「鳩子の海」はお菓子の名前だと思っていたので、実際に舞台があるとは知りませんでした。山口県銘菓鳩子の海 12個入
2011/07/16
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例年より早く梅雨が明けたので、早速クルマの後ろに自転車を積み込み、海岸へと出かけていきました。向かった先は瀬戸内海、周防灘に面する光市の室積海岸です。室積海岸は同じ光市の虹ヶ浜海岸と並んで山口県の瀬戸内海を代表する砂浜海岸で、虹ヶ浜と共に「日本の白砂青松100選」にも選ばれています。室積海岸から見た象鼻ヶ岬の方向旧光海軍工廠跡の工業地帯によって虹ヶ浜とは分断されていますが、象鼻ヶ崎に至る砂浜海岸が続いています。室積海岸で自転車に乗り換え、周防灘沿いに走る国道188号線を東へと向かっていきました。夏の瀬戸内海よりきれいな海を見たことがないのですが、太陽に輝く穏やかな海面も、磯の香りと共に吹き渡る風も、さざ波が繰り返す潮騒も、全てがノスタルジックで、ここを自転車で走っていることが信じられないくらいでした。
2011/07/09
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三方を海に囲まれた山口県にあって、山口の人にお薦めの海の風景を尋ねると、虹ケ浜や菊ヶ浜ではなく、角島の名前が挙がってきます。下関から海岸線沿いに赤間街道(国道191号線)を北上し、ちょうど海岸線が西向きに変わるところに角島の入口があります。角島へ渡る角島大橋山口県は道路に恵まれていて、一般道路も広くてきれいな印象があるのですが、この角島大橋も例外ではなく、海に架かる総延長1,780mの橋を無料で通行できます。その角島の夢ケ崎にあるのが角島灯台で、1876年に日本海で初めて建てられた灯台です。日本の灯台50選にも選ばれており、日本には6つしかない第一等灯台だそうです。日本海と言えば冬の雪景色の印象ばかりが強いのですが、暖流の対馬海流の流れる角島は温暖な植生で、南房総のような雰囲気でした。角島灯台公園さすがに朝鮮半島は見えませんが、夜になると水平線上にイカ釣り漁船の灯りが浮かぶことでしょう。角島ではイカやサザエなどのお店が多く並んでいたのですが、安いのでびっくりしました。他県ナンバーの車も多く(私も一応そうですが)、観光客相手だというのを差し引いても安いと思いました。
2011/06/01
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鷲羽山トンネルを抜けるといつも不思議な感覚になるのですが、視界が開けた瞬間に瀬戸内海の上を飛んでいるような感覚になります。鷲羽山トンネル鷲羽山トンネルから続く下津井瀬戸大橋下津井港と笠岡諸島鷲羽山展望台から眺めると、坂出まで続く瀬戸大橋の全景を眺めることができ、四国の坂出まで見渡すことができました。鷲羽山展望台から見た下津井瀬戸大橋坂出方面瀬戸大橋が開通したのは1988年でしたが、開通の翌年にマリンライナーで岡山から高松へと渡ったことがあります。その時は本州と四国の間を橋で渡っていることが信じられず、四国に入ってからも実感がありませんでした。ここに橋が架かっていなければ四国は遠く感じるのでしょうが、橋で繋がっていると四国が近く感じます。
2011/05/28
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北長門海岸国定公園の海岸線の中でも、青海島は代表的な景勝地かと思います。日本海の浸食によって形成された景観は「海上アルプス」とも呼ばれ、日本の渚100選にも選ばれています。対馬海流の暖流が流れるため、日本海側にありながら植生は太平洋側のような感じでした。それでも荒波の寄せる日本海側は、穏やかな瀬戸内海側とは全く違った景観です。十六羅漢
2011/05/15
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呉市沖合の瀬戸内海にある倉橋島は、瀬戸内海で淡路島・小豆島・屋代島(周防大島)に次いで4番目に面積の広い島です。(同じ呉市沖合にある江田島・東能美島・西能美島の3島は陸続きなので、これを1つと数えればこちらの方が4番目となり、倉橋島は5番目となります)本州と倉橋島の間にかる海峡は「音戸の瀬戸」と呼ばれ、海峡の幅は90mほどしかありません。音戸の瀬戸に掛けられているのが音戸大橋で、レインボーブリッジのように螺旋状に回りながら端を登っていく格好になっています。音戸大橋音戸の瀬戸は1167年に日宋貿易の航路として、平清盛によって開かれたと言われています。開削工事にあたっては1日で工事を終わらせるべく、一度沈んだ太陽を平清盛が招き返したという伝説があります。(いかにも当時の平氏の勢いを物語るような話です)現在は呉と四国方面の交通の要衝でもあり、潮流も速いために難所の1つとなっています。
2011/05/11
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焼野海岸から下関へと向かい、夜の火の山に登ってみました。こちらが日中の関門海峡の眺めです。こちらが夜の関門海峡の眺めです。航行する船舶や北九州空港の滑走路灯が海面に浮かび、日中とはまた違った雰囲気があります。途中で温泉に入ってから来たのですが、夏場は10時ごろまで登れるので、夕涼みにいいかも知れません。
2011/04/25
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日本の夕陽100選というものがあり、山口県からは日本海側と瀬戸内海側からそれぞれ選ばれています。瀬戸内海の夕陽はどこもきれいだと思うのですが、とりわけ山陽小野田市の「きららビーチ」の焼野海岸が選ばれたようです。♪瀬戸は日暮れて、夕波小波デジカメで撮影すると実際の印象と違うのですが、やはり瀬戸内海の夕陽はきれいです。(瀬戸の花嫁の舞台はもっと東の瀬戸内海でしょうか…)
2011/04/24
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「日本の渚100選」「白砂青松100選」「快水浴場100選」「森林浴の森100選」など、海辺にまつわる選定によく選ばれるのが光市にある虹ヶ浜です。虹ヶ浜の名前の由来は古く、海岸から見ると虹の架け橋のように見えることから、藩主によって命名されたと言われています。戦時中に海軍光工廠があったことから光市となりましたが、「光」と「虹」の語呂の良さもあるでしょうか。現在は工業地帯となっている海軍光工廠跡の方向100選などでは象鼻ヶ岬に続く室積海岸とセットになっていることが多いのですが、虹ヶ浜と室積海岸の間に旧海軍工廠の工業地帯と島田川の河口があって、砂浜が分断されるような格好になっています。 沖合すぐには関門海峡に向かう船舶が航行していますが、太平洋戦争時には沖縄に出撃する連合艦隊の集結場所でもあったようです。「出口のない海」の舞台でもあり、海軍光工廠と共に回天の基地があった場所でもあります。
2011/04/23
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瀬戸内海の砂浜と海軍工廠時代からの工業地帯の続く光市の海岸線には、峨嵋山の陸繋島が突き出した半島部があり、象鼻ヶ岬と名付けられています。羽田→山口宇部の機内から見た象鼻ヶ岬その名の通り象の鼻のように砂嘴が湾曲して、真ん中には湖のような形で御手洗湾が形成されています。陸側から見た象鼻ヶ岬と御手洗湾象鼻ヶ岬の砂嘴は、別名「周防橋立」とも呼ばれています。再び象鼻ヶ岬に来られるとは思っていなかったのですが、象鼻ヶ岬の先端近くにある小学校に入学し、父親の転勤で転校するまでの間、2年間だけここに通っていました。卒業していないので母校とはならないのでしょうが、校舎も30年前と全く変わっておらず、当時の記憶が甦ってきました。小さい頃の記憶は意外と確かなもので、象鼻ヶ岬に行く途中にもいくつか懐かしい光景があったりして、何度も寄り道をしながらここまでやって来ました。それでも記憶と違うのは、広いと思っていた道路や高いと思っていた建物が、今にすればさほどでもなかったことです。附属小学校は休み時間がやたらと多かった印象があり、思い出そうとしても休み時間の光景ばかりで、授業のことはほとんど覚えていません。授業は1コマが40分と短かった上、2時間目と3時間目の間に「グリーンタイム」と呼ばれる休み時間が30分ほどあり、さらに昼休みが1時間あったので、休み時間ばかりだったような印象です。そのグリーンタイムには校外に出てもよかったので、「今日は海に行こうか、山に行こうか」などと、目の前の御手洗湾に行ったり、背後の峨嵋山に登ったりしていました。(持って帰らずに学校の水槽で飼うことを条件に、釣りも許されていました)附属小学校近くの御手洗湾当時は難破して漂着した船があり、グリーンタイムになると「幽霊船」と言って、中に入って遊んだりしていました。グリーンタイムではおなじみだった、学校の背後にある峨嵋山にも登ってみました。30年ぶりの峨嵋山も懐かしかったのですが、当時はさほどの急な山だと思わなかったのに、大人になってみると随分ときつい登りでした。峨嵋山の山上からは、象鼻ヶ岬と御手洗湾の外側に広がる周防灘の瀬戸内海を望むことができます。とても懐かしい光景です。さざ波も立たない御手洗湾に比べると荒い海面のように思えるのですが、それでも太平洋や日本海に比べると、瀬戸内海は穏やかな海面です。何とも風光明美なところに学校があったものだと、今さらながらに思いつつも、象鼻ヶ岬の先端へと歩いて行きました。象鼻ヶ岬灯台山口県で最初に設置された灯台です。それにしても子供の頃は随分と大きな灯台に見えたものですが、今になって見ると随分と小さい感じがします。象鼻ヶ岬の先端部付近にある鼓ヶ浦東側の周防大島などの瀬戸内海の島々が浮かんでいます。象鼻ヶ岬には四国八十八か所に因んで「室積八十八ヶ所」と呼ばれる大師尊があり、全く記憶になかったのですが、大師堂がありました。大師堂弘法大師が唐から帰朝する途中で象鼻ヶ岬に立ち寄り、自像を刻んで安置したと伝えられています。幕末には沿岸防備のため、長州藩によって象鼻ヶ岬に台場が築かれ、現在も石塁が残っています。これは何となく記憶に残っていましたが、当時は何なのか全く知りませんでした。懐かしい象鼻ヶ岬の先端部を後にして、再び付け根の室積方面へ戻ることにしたのですが、途中には普賢寺と呼ばれるお寺があります。こちらも懐かしい普賢寺の山門普賢寺は何かとなじみのあるお寺でしたが、雪舟庭があるのは知りませんでした。雪舟庭雪舟の作と伝えられているそうです。普賢寺から室積方面へ戻る途中には「海商通り」と呼ばれる道があり、江戸時代には北前船の寄港地として栄えていたそうです。海商通り「中道」と呼んでいたので正式名称は知りませんでした。この「中道」は室積方面への近道なのですが、附属小学校の時は登下校で利用することが禁止されていたので、ほとんど通ったことがありません。(中道では寄り道をするから、というのが禁止の理由でした)海商通りから見た御手洗湾ちょうど小学校低学年くらいの子供がクロダイを釣り上げたのですが、寄り道したくなるのは先生の方だったのではないでしょうか。
2011/04/22
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関門海峡を渡るトンネルはいくつかありますが、歩行者と自転車専用もあり、下関から門司まで歩いて渡ってみることにしました。下関側のトンネル入口ちなみに歩行者は無料で自転車は20円の通行料がかかります。エレベーターで地下まで降りると、そこから海底トンネルの歩道が続いています。長さは780m、深さは海面下約60mにあります。途中で福岡県と山口県の県境を通過するため、本州と九州の間に立つような格好になりました。海面では潮流の激しい壇ノ浦の関門海峡を船舶が行き交っているのでしょうが、海底トンネルを歩いていると、普通の地下道を淡々と歩いている感じでした。再びエレベーターで地上に上がると、そこはもう九州でした。門司側の入口海峡の方を見ると、さっきまでいた下関が間近に見えていました。火の山も海の向こうにあります。関門海峡も反対側から見るようになり、確かに海峡を渡っていました。
2011/04/02
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火の山の標高は268mと決して高くはないものの、ビューポイントとして知られており、山頂にある火の山公園からは関門海峡と瀬戸内海・玄界灘を一望することができます。円形の展望台の中には「ふくの関」というふく料理の店があり、本場のふく料理かつシーズンも終盤とあって、早速入って見ることにしました。コースのてっさてっちりちなみに下関では「ふぐ」ではなく、縁起をかついで「ふく」と呼びます。円形の窓際に座敷の席が並んでいるのですが、何だか変な感じがするなと思っていたら、座席だけが回転していて、360度の景色を見ながら食事ができるようになっていました。台北から日本に帰っている時、まずはとらふぐ亭や玄品ふぐに行ったものですが、おそらく今シーズン最後のふく料理を関門海峡を眺めながら食すことができるとは、思ってもいませんでした。
2011/04/01
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旧海軍の港町と言えば、佐世保・横須賀・舞鶴と並んで呉が挙がってくるかと思います。戦前は呉鎮守府が置かれ、東洋一とも言われた呉海軍工廠がありました。その呉の港町の東側には「歴史の見える丘」があり、呉港や海軍工廠の跡を見下ろすことができます。歴史の見える丘に建つ記念塔海軍工廠の礎石や旧呉鎮守府の開庁当時の建材が使われており、「起工 明治二十二年四月」の文字があります。呉鎮守府のあった場所呉鎮守府の庁舎は現在も海上自衛隊呉地方総監部の庁舎として使われており、日曜日には一般公開されています。そして眼下にはIHIマリンユナイテッドのドックが並んでおり、ここが海軍工廠のドック跡です。戦艦大和を始めとした多くの艦船がここで誕生しました。呉港の沖合には江田島があり、旧海軍兵学校もここにありました。歴史の見える丘から続く北側の丘陵部には旧海軍墓地があり、現在は長迫公園として整備されています。各艦船ごとに慰霊碑が並び、大和の慰霊碑が中央に置かれていました。
2011/02/18
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