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今回の北海道では、銀行時代の入行同期とずっと一緒でした。二人とも銀行を辞めて久しいものの、何となく足はかつての金融街、「北のウォール街」に向いていました。元バンカー同士が金融街に行くと、会話も少し違ってきます。旧日本銀行小樽支店「こんなすぐ近くに日銀の支店があったら、嫌やったやろな~」「せやな~、何かあったらすぐに呼び出されそうやもんな~」などと。旧日銀の小樽支店は金融資料館となっていて、一億円の札束を持ち上げることができます。お互い一億円の札束は新人時代に扱ったことがあって、「こんなもんやったっけな~?」と、特別な感慨はありませんでした。(ジェラルミンの箱に入った一億円はかなり重いですが)北のウォール街で現在も営業している銀行はなく、クラシックな建物と「旧〇〇銀行小樽支店」の名前がノスタルジーを感じさせます。旧北海道拓殖銀行小樽支店拓銀が経営破綻した時、まだ若手のバンカーでした。経営破綻当時、私が住んでいた独身寮の隣には拓銀さんの社宅があって、そこの子供たちからは無邪気な笑い声が聞こえてきたりして、本当に辛かったです。旧第一銀行小樽支店旧第一銀行→旧第一勧業銀行→現みずほ銀行そして我々が目指した先はこちらです。旧三井銀行小樽支店自分たちが入行した時は、「さくら銀行小樽支店」でした。現在も中に入ることができますが、有料なので遠目に店内を眺めていました。「あれが金庫やな~」とか、石造りのカウンターを見ながら「あそこにUBT(旧さくら銀行の三井系端末)が並んどったんやろか?」とか、「支店長室はめっちゃ豪華やったらしいで」など。万が一、上司や先輩を裏切ることがあったとしても、絶対に裏切ってはならない、「さくらの同期」でした。金融再編にはそれぞれのドラマがあると思いますが、さくら銀行が住友銀行と合併して三井住友銀行になった時、ちょうど私の妹が住友銀行に勤めていて、その瞬間から同僚になってしまいました。
2018/07/04
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北海道余市町と言えば、一昔前では「ヤンキー母校に帰る」の義家弘介さんの母校、北星余市高校が思い当たりました。その時のドキュメンタリー番組のナレーションでは、余市町について「ウイスキーとリンゴくらいしか産業がない」などと紹介されていたのを覚えています。今となっては、余市と言えばウイスキーでしょうか。ニッカウヰスキー余市蒸留所正門大樽看板蒸留棟まさにスコットランドの蒸留所みたいな感じです。貯蔵庫他にも数多くの建造物が創業当時のままに残っており、マッサン夫婦の偉大さを思い知らされました。ところで、工場内にある「ニッカ会館・レストラン 樽」では、無料でウイスキーを試飲できます。私は入口で渡されたステッカーを胸に張っていました。係の人が間違ってお酒を勧めないためだそうです。ということで、工場内のお店で買ったのが、ウイスキーと木樽入りコーヒービーンズのミルクチョコ&ホワイトチョコです。国産ウイスキーミニチュアボトル4種ギフトセット 響17年山崎12年白州12年スーパーニッカ
2018/07/02
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根室半島の先端、納沙布岬の近くに「温根元」の地名があり、「大きな湾」を意味するアイヌ語、「ヲンネモト」に由来しています。温根元漁港に続く海岸沿いにあるのが、根室半島チャシ群の1つ「ヲンネモトチャシ」です。原生植物群の中、細い道が海岸へと続いていました。群生の向こうに案内碑みたいなのが見えています。案内碑のある辺りに行ってみると、土塁のような跡がありました。見えている防波堤が温根元漁港で、その先には納沙布岬のオーロラタワーも見えています。オホーツク海の水平線上に歯舞諸島が見えることもあるそうです。アイヌの砦であったチャシは、千島列島・樺太・東北地方の一部に見られ、16世紀~18世紀に造営されたことが確実視されています。祭祀に利用されることも多く、部族同士の談合や漁業の見張りなどにも利用され、単に軍事施設としての機能だけではなかったようです。チャシは北海道に500ヵ所あり、中でも根室市の32ヵ所は保存状態もよく、密集しています。現地の案内板より日本城郭協会「日本100名城」
2017/08/30
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函館→新千歳→中標津と乗り継いで、道東へとやって来ました。中標津空港からはレンタカーを使って、向かった先は根室半島のオホーツク海側です。ずっとこんな風景が続いていました。根室市内には32ヵ所の「チャシ跡」が残り、うち24ヵ所が「根室半島チャシ跡群」として、国の史跡に指定されています。そして日本城郭協会からも「日本100名城」に選定されています。その24ヵ所のチャシ跡の中でも、実際に現地に見に行くことができるものは、2ヵ所しかありません。そのうちの1つが、「ノツカマフ1・2号チャシ」です。ノツカマフチャシの遠景そもそも「チャシ」とは「柵囲い」を意味するアイヌ語で、砦・祭祀の場・見張り場など、多目的な用途で使われていたとされます。ノツカマフチャシの案内図原生植物の生い茂る中、海岸へ続く一本の細い道をたどって行きました。とてもこの先に何らかの遺構があるとは思えません。しばらくすると原生植物の向こうに標識が見えるようになり、その先に三日月堀のような空堀の跡がありました。はるばる訪れた根室半島でしたが、遺構としてはこれだけです。オホーツク海から吹いてくる風が、さらに冷たく感じられたのは気のせいでしょうか。日本城郭協会「日本100名城」
2017/08/29
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函館から松前城を経由して海岸線を走ること150kmで、上ノ国町にやってきました。標高159mの夷王山の山腹には、中世の和人館である勝山館の跡があります。夷王山山頂から見た館跡方向下に降りて大手口に回ってみると、空堀が残って曳橋が復元されていました。大手虎口大手空堀大手口の土塁勝山館の縄張はシンプルで、大手口から搦手口まで「中央通り」の一本道があり、その両側に建物が並んでいたようです。中央通り住居跡搦手口は大手口よりも高い位置にあり、門が置かれて空堀が巡らされていました。搦手から見た大手方向搦手門(復元)搦手の空堀大手口よりも傾斜のある薬研堀になっています。室町時代の北海道は、京都に近い日本海側を上ノ国と呼び、太平洋側を下ノ国と呼んでいたようです。本州からは津軽方面の戦いで敗れた和人が移り住み、1450年ごろには志苔から上ノ国まで十二の館がありました(上ノ国十二館)。1456年のコシャマインの戦いでは、十二館のうち残ったのは花沢館と茂別館だけとなり、花沢館の武田信広がコシャマインのとの戦いに勝つと、以後は蠣崎氏を名乗って台頭してきました。武田信広(蠣崎氏)が夷王山の山麓に館を築き、新たに本拠地としたのが勝山館です。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/08/28
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北海道で唯一の日本式城郭が松前城です。三の丸から見た二の丸三の丸虎口の天神坂門(復元)二の丸の外堀二の丸虎口三の丸・二の丸の他に東郭を備えており、隅櫓と土塀の跡が残っています。東郭隅櫓跡東郭土塀跡本丸から先に行くには、入場料が必要となります。本丸入口明治に入って松前城は取り壊されましたが、天守、本丸御門、本丸表御殿は残されていました。本丸には三層三階の天守が建っていましたが、昭和24年の火災によって焼失し、昭和36年に外観復元されたものです。天守亀甲積みの珍しい石積みと共に、天守台には戊辰戦争の時の弾痕が残っています。天守からの眺望目の前は太平洋です。本丸御門(現存、国指定重要文化財)本丸御門(外側から見たところ)本丸表御殿玄関(現存)表御殿の玄関は小学校の正面玄関として残されていました。松前城は普通に堅固な城郭のように見えますが、実は縄張に欠陥があるとされています。松前城が現在残る近世城郭に改修されたのは、天下泰平が250年も続いた1854年のことでした。縄張を行った軍学者、市川一学もセオリーだけで縄張を行ったと思います。松前城はロシアなどの外国船の襲来に備えて造られたため、艦砲射撃など海のある大手口からの攻撃には堅固な造りとなっています。しかしながら「搦手から敵は攻めて来ない」とのセオリーにより、搦手の防備は薄くなっていました。搦手二ノ門(復元)1868年の戊辰戦争では、新撰組の土方歳三が率いる旧幕府軍に搦手口から侵入され、数時間で落城してしまいました。個人的には「新撰組=テロリスト集団」と考えています。それでもテロリスト土方が縄張の欠陥を見抜いていたとすれば、やはり才があったのかもと思います。日本城郭協会「日本100名城」
2017/08/27
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コシャマインの名前を聞くのは、高校の日本史以来でしょうか。日本史の参考書などにはただ一文、こうあります。「1457年、アイヌの大酋長コシャマインの率いる反乱が起こり、道南地方の館が襲われた。」当時は「コシャマインの乱」という言葉をただ記憶しましたが、考えれば何とも中央政権側から見た書き方で、現在では「コシャマインの戦い」と言うようです。その「道南の館」こそが志苔館で、函館空港のすぐ南の太平洋沿いにあります。いかにも中世の館らしい縄張で、一重の堀を巡らしただけの構造でした。虎口空堀跡居館跡特に防御の工夫がされているわけでもなく、ただただ館跡といった感じです。函館の観光スポットでここを訪れる人はまずいないかと思いますが、実は太平洋を独り占めできる穴場かも知れません。本丸から見た函館山道南の館跡の歴史は意外と古く、南北朝時代まで遡ります。津軽方面の南北朝で敗れた豪族たちが、道南で館を築いたそうです。松前藩の歴史書である「新羅之記録」によると、室町時代の道南には12の和人館があり、小林太郎左衛門良景が築いた志苔館もその一つとされています。そして1457年、和人とアイヌの口論をきっかけにして、コシャマイン率いるアイヌの戦いが勃発しました。志苔館の横には、和人と阿伊努(アイヌ)の両方の慰霊碑があります。解説版にはこう書かれていました。「ここに コシャマインの戦いにおいて亡くなりし館主和人御霊 阿伊努御霊 双方を同一座にお祭りしたものであります」もしもここを訪れていなかったら、「コシャマインの乱」は単なる字面だけだったかも知れません。まずは歴史を知ることはもちろん、実際に訪れて何かを感じることも大切だと、改めて思いました。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/08/26
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五稜郭から北へ4kmほどの場所に、同じ稜堡式城郭の四稜郭があります。四稜郭の入口付近五稜郭のような石垣造りではなく、総土塁で造られていました。四稜郭内部現地の案内図を見ると、全体図は蝶の羽のような形でした。稜堡部分(内側から見たところ)大砲を運んだと思われるスロープが残っています。稜堡部分(外側から見たところ)外側には空堀が巡らされていますが深さはなく、土塁もあまり高さはありませんでした。堅固さでは五稜郭にはほど遠いため、未完成のまま終わったのかと思ったほどです。四稜郭は1869年の箱館戦争の時、旧幕府敗走軍によって築造されました。五稜郭の背後を固めるのが築造の目的で、旧幕府脱走軍の約200名と付近の村民約100名を動員して、昼夜兼行で急造されたそうです。新政府軍によって箱館総攻撃の時は、四稜郭にも新政府軍の攻撃が開始されました。旧幕府敗走軍は松岡四朗次郎の下で四稜郭を防御していましたが、五稜郭と四稜郭の間を新政府軍によって分断されたため、四稜郭放棄して五稜郭に敗走しています。関連の記事五稜郭→こちら億歳金城(台湾・台南市)→こちら(同じ四稜郭の稜堡です)
2017/08/25
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文化庁が制定した重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)の地区名称では「函館元町末広町」となっており、函館山側の元町地区と函館港側の末広町地区の両方が含まれています。赤レンガ倉庫のある港町は日本にもいくつかありますが、いずれも歴史と伝統のある貿易港や軍港の象徴かと思います。金森赤レンガ倉庫ジョルジョ・デ・キリコの「通りの神秘と憂鬱」みたいだったので撮ってみましたが、全然違いました。(そもそもメタフィジカルな風景をカメラで撮るのは無理だと思います)函館港の西波止場に行ってみると、初めて訪れた場所なのにノスタルジーを感じます。思わず下関港(山口)の「カモンワーフ」と、基隆港(台湾)を思い出しました。(よく考えれば、単にウッドデッキつながり)東浜桟橋は「北海道第一歩の地」とされていて、1910年に若松埠頭が出来るまではここが北海道の出入口でした。西波止場から見た東浜桟橋方向東浜桟橋青函航路の一般輸送はすでに1873年(明治6年)に始まっていました。「この桟橋に直接接岸するのはさすがに無理かも」と思っていたら、当時の連絡船は沖合に停泊し、艀がこの桟橋と連絡船を行き来したそうです。
2017/08/24
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八幡坂から基坂の方へ歩いていくと、「箱館」の地名の由来ともなった元町公園に着きました。八幡坂の上から見た函館港津軽から来た河野政通が、宇須岸(ウスケシ)と呼ばれていた場所に館を築いたのがこの場所で、その館が箱の形に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになりました。元町公園入口(背後にあるのは函館山です)そして元町公園の上にある洋館が旧函館区公会堂です。旧函館区公会堂(国指定重要文化財)1907年の大火で町の会所が焼失したため、1910年に新たに造られた建物で、建設費の大半を負担したのが、函館の豪商相馬哲平氏でした。元町にはその相馬哲平の旧相馬邸が残っていました。旧相馬邸「箱館」の由来となった宇須岸館の後、松前藩によってここに箱館奉行所が置かれました。五稜郭の築造によって箱館奉行所は移転しましたが、明治に入ると開拓使函館支庁・函館県庁・北海道庁函館支庁が置かれ、その建物が一部残っています。旧北海道庁函館支庁庁舎旧開拓使函館支庁書籍庫元町公園からは、長崎に次ぐ歴史を持つ貿易港、函館港が一望できました。海上保安庁と海上自衛隊の船が並んでいます。海上自衛隊の方は680の番号から、掃海艇の「ながしま」でした。
2017/08/23
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ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊、いわゆる「黒船」の来航と開国要求により、最初に開港されたのが箱館と下田でした。(長崎と併せて、いずれも幕府直轄領なのがミソです)元町公園のペリー提督来航記念碑後ろに見えるのは函館山です。開港後は各国の領事館が置かれ、旧イギリス領事館は「開港記念館」として公開されています。旧イギリス領事館外国人居留地が置かれた元町末広町には、古くからの国際都市の名残があり、「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建)に指定されています。ますは教会群のある辺りから散策を始めました。カトリック函館元町教会1859年にフランス人宣教師が仮聖堂を建てたのが始まりで、1877年に大聖堂が完成しています。3回の大火で類焼した後、現在の大聖堂は1924年に再建されました。カトリック函館元町教会から通りを挟んだ先には、函館聖ヨハネ教会と函館ハリストス正教会が並んでいます。日本聖公会函館聖ヨハネ教会1874年に英国聖公会の宣教師が始まりで、1878年に大聖堂が建てられました。現在の大聖堂は火災の後、1921年に建てられたものです。函館聖ヨハネ教会と並んでいるのが、函館ハリストス正教会です。函館ハリストス正教会「主の復活聖堂」(国指定重要文化財)1859年にロシア領事館の付属聖堂として建てられたもので、現在の聖堂は大火で類焼した後、1916年に再建されました。ローマカトリック・英国国教会・ギリシャ正教の教会が同じ場所に建っているのも珍しいですが、カトリック函館元町教会の向かいには、東本願寺の函館別院があります。聖ハリストス教会から八幡坂の方へ歩いて行くと、途中には遺愛幼稚園の建物がありました。アメリカ人宣教師のM.C.ハリスによって開かれた日日学校(Day School)が遺愛学院の始まりだそうです。
2017/08/22
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江戸時代の「箱館」は幕府直轄地であり、五稜郭には箱館奉行所が置かれていました。箱館奉行所(復元)西洋の稜堡式城郭ながら、内部には和風の建物が建っています。箱館奉行所(裏側から見たところ)かつての五稜郭内には、箱館奉行所の付属建物が20数棟建っていました。手前より土蔵(復元)・板庫(復元)・兵糧庫(現存)板蔵(復元)建物跡西洋式の稜堡城郭に日本式の建物が並ぶ姿は、まさに和魂洋才といったところでしょうか。1854年の日米和親条約締結によって箱館港が開港されると、江戸幕府は箱館に奉行所を設置しました。この時に置かれた奉行所の場所は、函館元町の基坂付近にありました。基坂箱館奉行所のあった元町公園ここでは海から近くて防御に不向きのため、箱館奉行所を移転する必要があり、新たに造られたのが五稜郭です。五稜郭を設計したのは、箱館奉行配下で諸術調所教授役であった武田斐三郎です。五稜郭にある武田斐三郎顕彰碑顔の部分が光っているのは、触ると頭が良くなると言われているからだそうです。1857年に築造が開始され、1864年に竣工して箱館奉行所も移転となりましたが、1868年の明治維新によって幕府の奉行所としての役目を終えています。明治になって箱館府が置かれましたが、戊辰戦争では榎本武揚の旧幕府軍の本拠地となり、五稜郭が箱館戦争の攻防戦の舞台となりました。1869年の旧幕府軍の降伏により戦争は終結し、戊辰戦争もようやくこの箱館で終結しています。日本城郭協会「日本100名城」
2017/08/21
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城の防衛上、曲輪の隅の死角をなくすことはもちろん、城内からの反撃を集中させることは、洋の東西を問わない命題だったようです。従来の日本の城郭建築では、石垣を屏風折れに積んだり、出隅や入隅に隅櫓を築いたりすることでその課題を克服してきました。西洋の城郭建築では、稜堡を築くことでこの課題に対処しており、五稜郭もその西洋技術を踏襲しています。五稜郭の模型(五稜郭タワーにて)結果として幾何学的な機能美を造り出すこととなりました。北西側の稜堡(内側から見たところ)北西側稜堡の先端部北側の稜堡先端部先端部に造られたスロープは、大砲を運び上げるためのものです。五稜郭には虎口が3ヶ所あって、うち南側の大手口の「二ノ橋」と北西側の「裏門」が残っています。裏門の虎口にある裏門橋大手口と同様、裏門にも石垣が積まれ、「見隠塁」によって城内に直進できない縄張となっています。見隠塁切込接ぎの石積みですが、大手口のような武者返し(刎ね返し工法)はありませんでした。裏門付近の外堀従来の日本の城郭建築にも見られる「入隅」と「出隅」です。裏門付近では水堀の外堀に加え、内側にも空堀が掘られていました。空堀二重土塁大手門と裏門の入口以外に石垣は見られず、それ以外はいわゆる「掻き上げ」です。
2017/08/20
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和洋折衷とは言いますが、日本の城郭建築もここに極まった感があります。函館空港着陸機の機窓から見た五稜郭五稜郭タワーからも五稜郭の全景を見渡せるのですが、今度は大きすぎて画像に収まりません。その名の通り五つの稜堡を備えた稜堡式城郭ですが、南側の「大手口」には日本城郭の「馬出」に相当する「半月堡」が造られています。半月堡の入口「一の橋」にある城郭碑半月堡の稜堡上から見た一の橋半月堡の石垣石垣上部に「武者返し」の刎ね出しが見られます。これまで他に武者返しの石垣を見たのは品川台場(東京)だけだったのですが、この夏は人吉城(熊本)でこの工法に遭遇しました。人吉城外曲輪の石垣(2017年7月)半月堡と「本丸」の間にある「二の橋」南東側稜堡から見た半月堡半月堡から大手口を入ったところには、かつて門番所が置かれていたそうです。正面入口正面入口の石垣にも武者返しの刎ね出し工法が見られ、石積みも切込接ぎの最新式になっていました。石垣の下部が黒く焦げているように見えるのですが、もしかして箱館戦争の跡でしょうか。
2017/08/19
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