
2016/09/12 月曜日
なにかを必死に希求する枝たち。ひとはこうした自然の風景に自分を重ねて見るものなのだろう。
生きる意味を問うことはそもそも問いの立て方を誤っている。われわれはそれに関与できないのだから。
生きる意味と生きる価値
信州蓼科高原、とりわけ北八ヶ岳中腹標高1,700mの当地では、すっかり秋めいています。
毎朝6℃近くまで冷え込み、最高気温も14℃ほどの9月中旬です。
秋にこの森を去って行く渡りの野鳥たちも準備に余念が無いようで忙しく無く飛び回っています。
野生のニホンジカやキツネやタヌキやリスたちも来たるべき厳寒の冬に向けて生き残るための活動を始めているようです。
このいのちたちがどれほど過酷な生存競争の中で命をつないでいるかをわたしは知っています。
大空を飛翔する鳥たちは決して自由を謳歌しているわけではなく、森の小動物たちも天敵の脅威におびえながら、ひとときのいのちを生きているのです。
ぼくらだって同じです。
生きる意味を問うことはそもそも問いの立て方を誤っている。われわれはそれに関与できないのだから。
しかし、生きる価値に関してならばわれわれは問うことができる。われわれは積極的にそれに関与できるから。
しかしそもそも、ひとはなぜ生きるのだろう。ひとはなぜ死ぬのだろう。
われわれの知っているこの世界がそのようなものだから、としか言いようがない。
われわれはそれに従うほか無い。
今日の写真:"希求"
160901-DSC03783-4d
SONY α7R, Leica Elmarit R35mm F2.8
from 蓼科高原ペンション・サンセット
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岡田@隊長さん