のんびり・ゆっくりダイエット

のんびり・ゆっくりダイエット

2024/12/04
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カテゴリ: 国内旅行




長男から11月25日(月)に大阪に出張が入ったから
23~24日を帰るわとLINEが・・

ちょっと遠いけど日帰りで原爆記念公園に行かへん?

せっかくだからついでに一泊して宮島にも行こうかと返信すると
いいね・・の返信

すぐに宮島のホテルを探して予約を入れておきました・・
ノブは仕事で都合がつかないので行けなかったのですが・・

長男は頑張って早起きして6時台の新幹線で10時半ころ帰宅してきました・・
ちょっと休憩して11時に自宅を出発・・
山陽道路を通って約3時間の車移動です・・
運転は長男が助手席にはクマさんが・・
私は後ろでのんびり・・

途中お昼前に瀬戸パーキングで昼食をと思ったのですが混んでいて・・
おにぎりやパン・棒に巻き付けて揚げた天ぷらなどを買い済ませました・・

広島でPを探してうろうろして止めたのが14時20分





国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(平成6年法律第117号)に基づき
国として原爆死没者の尊い犠牲を銘記し
恒久の平和を祈念するとともに
原爆の惨禍に関する全世界の人々の理解を深め
被爆体験を後代に継承することを目的として
被爆地である広島に設置された施設です・・

爆心地から見た被爆後の街並みを表現している平和祈念・死没者追悼空間(画像下)








このあと広島平和祈念資料館へ・・
人がいっぱいでチケットを購入するのに大勢の方が並んでいました・・
長男は看板を見てネットでチケットを購入してくれました・・

中に入ってまず思ったことは
悲惨な写真が1枚もないと言うこと・・
ボロボロになった衣服や焼けただれた三輪車などは展示されていました・・
写真でなく絵に書いたものばかりの展示でした・・
なぜそう感じたのかというと
息子たちが小学生の頃に長崎の原爆記念公園に連れて行ったことがあるんです・・
絶対の見せておかないとと思って連れていきました・・
その時に悲惨な写真が沢山展示していたのを覚えていたので
不審に思ったのです・・

あとから知ったのですが
アメリカが来てからそういった写真が取り除かれたようです・・
実際にボランティアでお手伝いしていた方から聞いた話しです・・

以前は展示した写真を見て気分が悪くなり外に出た方もいたようです・・
その時はその話を知らなかったので
なんでないんだろうくらいにしか思っていなかったのですが・・
なんで??という思いが強く残りました・・

アメリカが来たあとから取り除いたと知ってなぜという思いが強くなりました・・
あの酷さをアメリカ人に見せるべきだ・・
全世界の方に見てもらわないと悲惨さが伝わりきれません・・
実際の写真を目にして広島・長崎が
一瞬にして灰になってしまった現実を知るべきです・・
建物も人間も溶かしてしまうほどの悪魔の凶器である現実を・・

ネットで投下後の画像を検索しても
削除されてしまっていて見ることができません・・
原爆にあった被害者の悲惨な姿を見ることができない・・
そんなことがあって良いのでしょうか・・
怒りを感じます・・

クマさんが館内の従業員の女性に10フィート運動って知ってますか?と聞くと
その女性の方は知りませんでした・・
ちなみに

10フィート運動(テンフィートうんどう)は
日本で1980年(昭和55年)から開始された草の根運動の一つ・・
第二次世界大戦(太平洋戦争)での広島市・長崎市への原子爆弾投下直後に
アメリカの米国戦略爆撃調査団が両市で原爆記録フィルムを撮影したことから
このフィルムを日本が買い戻して記録映画を製作し
反核と反戦の世論作りに役立てるための運動です・・
フィルムは全部で8万5千フィートあり
アメリカ国立公文書記録管理局などに保管されているこのフィルムを
市民1人1人からの3000円ずつの募金により
10フィートずつ買い取ることが名称の由来です・・
「10フィート映画運動」ともいいます・・

広島大学平和研究センターの当時の研究員であった永井秀明
後にこの運動の事務局長となる岩倉務らを中心として展開
1982年(昭和57年)に第1作『にんげんをかえせ』
次いで第2作『予言』が完成・・
同1982年に行われた欧米ツアーで
ヨーロッパとアメリカ各地の8か国14都市で公開され
原爆犠牲者の無念さと核兵器の廃絶を観客たちに訴えました・・

フィルムに収められていた被爆者の1人である沼田鈴子が同行し
自ら壇上で反戦と反核を訴えたこともあり
各地で大きな反響を呼びました・・
その後も第3作『歴史 核狂乱の時代』が完成し
日本国内・国外で上映され続けました・・
『にんげんをかえせ』は
アメリカン・フィルムフェスティバル1984年度ブルーリボン賞受賞・・
『予言』は同フェスティバル1983年度レッドリボン賞受賞・・
また運動自体も1980年度・日本ジャーナリスト会議特別賞を受賞しました・・

アメリカのある高校で講演をしたとき
最初は笑ってふざけていた学生たちが次第に静かになり
最後には泣き出したという話しを聞いたことがあります・・
知らされていないんですね・・
自分たちの国が犯したことを・・
原爆の恐ろしさを・・
一瞬にして死の灰とかす悪魔の凶器であることを・・




原爆死没者慰霊碑(げんばくしぼつしゃいれいひ)

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」ということばが刻まれています。
71年前の1952年平和公園の建設に伴って原爆慰霊碑はつくられました・・
その歴史をひもとくと碑文のことばにある
「過ちは繰り返さない」の主語が誰を指しているのかは
長く議論の対象となってきたことが見えてきました・・

東京裁判に関わったインドのパール判事は
原爆慰霊碑ができた年に広島を訪れ「原爆を落としたのは日本人ではないのに
碑文は表現が不明瞭だ」などと指摘しました・・
パール判事のみならず一般の市民や有識者からも疑問の声があがり
碑文を取り替えるかが注目を集めたこともありました・・

当時の広島市長から依頼を受けて考案したのは
広島大学の教授だった雑賀忠義です・・
英文学が専門で自身も被爆者でした・・

ことばに込められた思いがうかがえる資料が広島市の公文書館に残されていました・・
碑文の英訳を雑賀教授が決めたことを広島市に伝える手紙です・・
「過ちは繰返しませぬから」の部分について
次のように記されています・・
「For we shall not repeat the evil」

さらに雑賀教授は碑文に高い理想を込めていたことが
公文書館に残されていた別の資料から分かりました・・
碑文の意味について解説した原稿には
「人類のなしえなかった仕事をしようと光明を見出す」とつづられていました・・
碑文の主語を「私たち全世界の人々」と捉える雑賀教授の考えは
その後広島市の公式見解として残ることになりました・・4
碑文を考案した本人は、主語を「we」「私たち」と捉えていました・・

広島大学平和センターの川野徳幸センター長は
被爆から78年がたっても核兵器が使われる危険性が消えない今だからこそ
碑文の意味を考える姿勢が重要だと話しています・・








原爆の子の像

原爆の子の像は広島県広島市の広島平和記念公園内にあります・・
佐々木禎子(像のモデル・原爆による白血病で死去)の
幟町中学校の同級生らによる募金運動により作られた像です・・
制作者は菊池一雄さんで1958年5月5日完成しました・・

像の真下にある石碑には、

これはぼくらの叫びです
これは私たちの祈りです
世界に平和を
 きずくための





内部には鐘があり
中に吊られている折り鶴を象った金色の錘が風を受けて揺れると
風鈴のように鳴る仕掛けになっています・・





元安川

たくさんの被災者が熱さと水を求めて飛び込んだ川です・・
死体で溢れかえっていたそうです・・





原爆ドーム

平成8年(1996年)12月ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で
核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されました・・

原爆ドームは大正4年(1915年)に
広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ
広島県美術展覧会や博覧会も催されていました・・
設立当初は 「広島県物産陳列館」という名称でしたが
その後「広島県立商品陳列所」・・
昭和8年(1933年)には「広島県産業奨励館」に改称されています・・

設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏で
構造は一部鉄骨を使用した煉瓦造・石材とモルタルで外装が施されていました・・
全体は3階建で正面中央部分に5 階建の階段室
その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル・短軸約8メートル・高さ4メートル)が
載せられていました・・
その頃の広島は都心部のほとんどは木造2階建ての建築であり
こうした大胆なヨーロッパ風の建物は非常に珍しく
川面に映えるモダンな美しさ とあいまって広島名所の一つに数えられていました・・

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分・・
人類史上最初の原子爆弾が炸裂したのは
広島県産業奨励館から南東約160メートル・高度約 600メートルのところです・・
爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン・風速は440メートルという凄まじいもので
建物は爆風と熱線を浴びて大破し 天井から火を吹いて全焼・・
爆風がほとんど垂直に働いたため
本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの
館内にいた人はすべて即死しています・・
戦後
旧産業奨励館の残骸は頂上の円蓋・鉄骨の形から
いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました・・

昭和28年(1953年)に広島県から広島市に譲渡され
昭和41年(1966年)7月には広島市議会が原爆ドームの保存を決議を行い
その後
風化が進み国内外での善意の募金により3回の大規模な保存工事が行われました・・
また
世界遺産リストへの登録を求めて市や市議会・・
広範な市民運動の結果平成7年(1995年)6月に国の史跡に指定され
文化庁からユネスコに登録申請・・
平成8年(1996年)12月世界文化遺産へ登録されました・・

現在では被爆当時の惨状を残す姿がノーモア・ヒロシマの象徴として
時代を越えて核兵器の廃絶と
恒久平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになっています・・





動員学徒慰霊塔

高さ12メートルの鉄筋コンクリート造・・
有田焼の陶板張り仕上げに平和の女神の像
八羽の鳩を配した末広がりの五重塔になっています・・

戦争で亡くなった学徒たち・・
動員学徒・・第二次世界大戦中・勤労奉仕に動員された大学生・高校生・中学生・・
全国で三百数十万人と言われています・・
そのうち戦禍に倒れた学生は1万数千人・・
原爆死した学生は7000人余りと言われています・・
未来・希望・明日がある若者たちにとって本当に無念だったと思います・・

色んな思いを抱え
16時20分宮島口フェリー乗り場に向けて出発・・

続く・・


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Last updated  2024/12/04 05:43:09 PM
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