秀作、ウェルメイドと評される映画がある。端正で、お行儀の良い映画。安心して観ていられる健全な映画。スクリーンを涙で滲ませてくれたら、もっと良いのにと観客はそう思う。
1900年。アメリカへ航海する豪華客船。ひとりの黒人機関士が、ピアノの上のレモン箱に置き去りにされた赤ん坊を見つけるところから、主人公の物語が始まる。発見された年にちなんでナインティーンハンドレッド(1900)と名付けられた男の子は一度も船を降りたことなく育った。それだけのことなら、親探しの旅へと展開していったに違いない。
だが、彼には天才的なピアノの才能があった。楽譜を見ずに即興で奏でられるメロディーは、船内のすべての人を魅了し、感動の虜とさせた。船で知り合い親友となったトランペット奏者のマックスは、世界の人々にその才能を披露するため、船を降りろと説得する。
なぜなら、古くなりすぎた豪華客船は、長い航海に終止符を打ち、爆破されることになったからだ。自由と理想を求め、アメリカへ渡る乗客たちの開放感とは裏腹に、マックスの説得も虚しく、1900は豪華客船と共に滅びる。
ところで、1900は、ひとり芝居の戯曲として書かれた原作の主人公だ。もちろん、実在の人物ではない。だから、この物語を平叙文では綴れない。どうしても真実味を欠いた絵空事になってしまうからだ。
では、イタリア人監督のジュゼッペ・トルナーレは、どう描いたか?
トルナーレは、トランペット奏者のマックスに狂言回しの役をになわせ、1900の回想をフラシュバックを織り交ぜながら語っていく。つまり、御伽噺の語り部というわけだ。オーソドックスというよりは、手垢の付き過ぎたこの手法は、時として観客の感情移入を疎外する。あまりにも説明過多だからだ。
ジャズピアニストの巨匠とのピアノ対決など、けれんみたっぷりの場面を用意するが、逆にあざとさが目立ち、賞狙いの匂いも鼻につく。圧倒的に素晴らしいエンニオ・モリコーネの音楽と、ピアノのシーンを引き算したら、とても観れたものではなかっただろう。
例えば、この作品を同じイタリア人監督のベルナルド・ベルトルッチが演出していたなら、「人生」を航海する術を知らない1900を、「生きるべきか、死ぬべきか」のハムレットを想起させるような、深みのある人物として造型していたに違いない。
また、豪華客船という母の胎内で永遠の時を刻みたい、1900の無意識を繊細な演出で浮かび上がらせていたはずだ。
残念ながら、ジュゼッペ・トルナーレは、その極みには達しておらず、観客は、いまひとつ酔うことができずに映画館という船から降りるしかない。
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