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黒田の殿様が節婦お政を出した松尾大黒屋分家嘉右衛門に白銀14枚を下され祭祀を営ませたことで、大々的に節婦として宣伝された。そして、戦前の帝国教育はお政を教科書に取り込んだため、宗像の歴史家の入り口となった。お政の研究は、この百年間で昭和14年・宗像高等女学校発行のものが一番優れている。以下、宗像高等女学校発行本を基本的に引用する。「お政11歳の時、嘉右衛門夫婦は婚礼前の行儀見習と言う事で黒田侯の納戸頭を務むる明石久衛門行憲と云う武家屋敷に禿奉公に出した。彼は藩主の信任厚く文武両道に秀でた立派な武士で11歳から18歳に至る7ケ年間の彼のもとにおける教化は後世節婦お政としての美名を残すに至った素地を作ったのである。~~その頃勝浦に豪農の大庄屋・半五郎というものがいて、その息子を源五郎といい早や20歳を迎えたのでよい嫁を迎えて~~、たまたまお政の風評を聞いて是非嫁にと所望し~~、」それでも、お政・半五郎の接点が弱い。出光系図では、接点が明白。恵比須屋本家の孫セイが永嶋半五郎の嫁となっている。半五郎が3代続いて、源五郎がお政の相手だ。当時、松尾大黒屋と出光恵比須屋は一統と称すほど、いとこ結婚を幾重にもしていた。弘化5年の系図上で4回の婚姻がみられる。だから、半五郎は母親の実家(恵比須屋)の親類の大黒屋から嫁取りをと周りも応援したはず。お政(18歳)、2年越しの源五郎からの求婚の末の婚礼の日の夕暮れ、管竹取りに外に出て、裏の土蔵の中に蓆を敷き、その上に端座して2通の遺言を側に置き、かねて用意の剃刀を以って見事にのど元切って自害した。1. 遺言(嘉右衛門夫婦あて) 「私事幼いときから父母に別れ、今の父母のご自愛によって成人した御恩は海山より大なるものと存じ上げます。このたびの縁談は父母の為にもよく、一家の繁栄の為に早速お受けするはずでございますが、ご存知の通り幼いときに定められた長次郎様へ嫁ぐことが誠の道と考え、まして長次郎様には近頃家も衰えて落ちぶれ果てたのを見捨て、他に縁付いて、独り栄華を極めることは私の心がとがめ、又長次郎様の顔も立て親親の遺言を守れば現在の父母に不幸となります。よって我が身一つに罪を負って覚悟を定めました。先立つ不幸はお許し下さいませ。」2. 遺言(長次郎あて) 「一筆申し上げます。私事強いて勝浦へ嫁入りすることを迫られ早や日取りも定まり悲しさで胸ははりさけるばかりでございます。昨日も色々と父母に事理(ことわり)を申し上げたが一向に聞き入れもなく、私から頼んだ人までが勝浦へ行くことを本意と勧められ、貴方の所へと勧める者は一人もなく、まして貴方の御身の方が御痛わしく、どうして私一人道ならぬ縁を結んで身に錦をまとうことができましょう。もしそうしたならば世の人はきっと後から私を義理知らずと疎んじますことでございましょう。この悲しさは我が身一つに罪を負い自害を致しました。」 水莖の跡も美しく真心こめて認められてあった。お政の死は一村を驚嘆させた。殊にお政に義理を欠かせ無理やりに許婚の縁を切らせようとした半五郎(お政の相手の源五郎の父親、大庄屋)および村役人、庄屋(当時の赤間村の庄屋は藤吉)は、嘉右衛門とはかり、お政を狂死としてつくらったが、その汚名はまもなくそそがれ、お政逝って16年、文化14年の秋、黒田侯の知るところとなってお政の貞烈を賞し白銀14枚を下され、祭祀を営ませ、勝浦の半五郎およびそれに組した庄屋たちはそれぞれ罰せられてその職を取り上げられた。宗像市史には、大庄屋の一覧が正確に掲載されている。通史編(近世)p1049. それによると、大庄屋伊豆善右衛門、大庄屋永島源五郎(お政の相手)は共に、文化14年に職を取り上げられている。代わって、徳重触の大庄屋には、赤間村の蛭子屋卯右衛門(1817~1818年)が、そして勝浦触の大庄屋には宮司村阿部忠右衛門(1817~1821年)が任命されている。蛭子屋卯右衛門のたった1~2年の在任はおかしいではないですか。神谷目鼻の「常盤草」には、庄野道仙、蛭子屋卯助がしっかりと名前を残されている。節婦お政の物語の悪漢である。庄野家は馬医者、恵比須屋は半五郎の妻の実家である。代々庄屋をしている。生業は酒作り、しかしお政事件発覚で酒造業取り上げられ宿屋に転換、以降赤間村の庄屋はしてない。ただし、徳重村へ出庄屋となる。蛭子屋は、4家が栄えていて分家に酒屋蛭子、醤油屋蛭子、お茶屋えびすがあった。大庄屋卯右衛門が任命されたとき、調査がそこまで及ばなかったのでしょう。ところがその後の密告で大庄屋辞退に追い込まれ、息子の卯惣太(大庄屋1819~1820年)を推挙するも、訴追の進展は防げなかったと推測する次第です。昨日夜7時半~10時まとめました。コミュニティ赤間の歴史・観光ガイドブックの原稿。できたら、ご批判下さい。A5版2ページ。
2004年10月11日
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昨日の生け花は、母のメガネに適いませんでした。変なのを置いているから取り替えたと母の弁。わきゃわかりません。昨夜7時半~10時20分、公民館でコミュニティの歴史・観光ガイドブックの編集委員会。10月末までに原稿提出。区からの原稿依頼も別口であり。高校教員のチャンスをもらったのに大忙し、英語のレベルアップもせにゃなりませぬ。不動産の客の相手もせにゃなりませぬ。
2004年10月10日
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ばたばたと、10月が過ぎてます。もう、中旬ってな感じ。シュウメイ菊とガーベラをお楽しみください。10月になって、蔦が岳登山はまだ1回(10月1日のみ、キノコの写真はその時のです。)年間200回達成できるか?
2004年10月09日
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高校の修学旅行は、東京と日光が主であった。東京では自由時間が数時間あった。地下鉄に乗って、東京タワーに行って帰った。2度目の東京は、早稲田大学の受験だった。国鉄の荻窪から降りて、バスに乗って、杉並区の下宿に行くとき、初めてワンマンバスを経験した。スイッチを押すと、降りる者がいるというサインだとは知らなくて、降ろしてもらうのに困惑した。3度目は、九州大学の学生のとき、友人と2人で片道の切符だけで、早稲田大学の近くの友人の、そのまた友人の下宿に行って寝泊りした。早稲田大学は、学生が占拠していて、大隈講堂と大学の建物には違うセクトが対立し、時々、石の投げ合いがあった。私は寿司屋で夜、働かせてもらって、昼食は早稲田大学の食堂で食べた。学生運動たけなわであったが、食堂は閉鎖もされず、営業していた。サラリーマン人生は、大阪で過ごしたが、出張で東京に行く機会(大林組、東急電鉄、東急土地開発のアメリカでのジョイント・ベンチャーのお金の移動に関し日本銀行に行った、勿論付き添い。)があり、今教員人生で、生徒と共に修学旅行で3年に1度行く。東京はみんなの都市だ。教員人生の中で東京都八王子市(私学共済会館?)に出張する機会があって、余った時間の中で、日曜日、ふらっと一人旅で東京駅から皇居まで、そして江戸城の天守閣跡地まで歩いた。皇居の周りはジョギングや自転車乗りが盛んであった。日曜日の散歩に一番いい所ではないだろうか?※今回(平成16年10月4日)、というわけで、中央線には覚えがあった。快速じゃないと駄目。絶対、普通には乗るべからず。※ゆりかもめに乗ってお台場に行ったのは、平成12年。大成火災保険(9.12でつぶれた保険会社)の研修生のとき。※池袋サンシャイン60の水族館に行ったのは、11年前の教員の時。※教員の修学旅行引率では、ディズニーランドのついでに、東京見学があった。海の博物館や江戸歴史博物館など、いろいろ見せてもらったよ。東京はみんなの町だ。4,5,6日の写真は、こちら
2004年10月08日
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母との東京旅行、4日、5日、6日。4日;中央大学。多摩モノレールの中央大学前から大学に入って、学校の雰囲気を堪能、そして正門を出て長男のアパートへ。正門から徒歩15分。すごい田舎です。4日、5日とも雨。宿泊は、立川パレスホテル。豪華。JR立川駅から伊勢丹、松坂屋、そして立川パレスホテル。モノレールは、立川北駅が最短。5日;上野の東京都立美術館へ。 我が家の親戚の佐藤慶太郎の銅像が地下に収納されたままかどうか確認したかった。ただそれだけ。 芥川賞作家の平野啓一郎はその佐藤一族。私とは10親等。佐藤慶太郎は私と7親等。そして、東大の史料編纂所。石畳の重厚さに感動。文学部食堂は大衆食堂風(たたみ敷きがありました。)なんかしら、知的な女性に弱い私。母と、東大の味噌ラーメン390円を堪能。夜は、東京ドームを徘徊。6日;後楽園。東京ドームの隣。私は300円。母は150円。徳川光圀の命名也。そして六本木ヒルズ。ライブドアと楽天が同居しているビルを見学。駐車場入り口かなって思いましたよ、チェックがあって、一部の許可された人しか入れない。オフィスだったんですね。当然、53階(森美術館)、52階(展望台)まで行きましたよひとり1500円。東京ドームでは43階へ、エレベーターのみ楽しみました。最後、もうひとつ行けるってことで、池袋のサンシャインに母を連れて行こうかと提案。帰りが空港に近い方がいいという返事で、恵比寿ガーデンプレイスに決定。それも、運動のため、地下鉄2つ分、歩きましたよ。40分と思ってたら、なんと1時間かかりました。39回の展望台兼食堂街(テン オフ エビス)は、4時過ぎなのに準備中の看板、閑散としてましたよ。ま、うちのアパート・ガーデン恵比須の名前とたまたま同じような有名地という理由で訪ねた所、はっきりとどんなところか判明。嬉しい限りです。そして、7時の飛行機。帰宅して風呂上りのニュースで、11時40分の地震ニュース。きわどいところでした。写真を見たい方は、エビスヤ掲示板ひとつだけ写真付けときます。
2004年10月07日
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今から、東京。急ぎます。ごめんなさい。カラカサタケ名称?最後のキノコの名前が分かりません。教えてね。
2004年10月04日
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金木犀が台風16号で太い枝が折れました。それでも生きてます金木犀。21号で花びらが大分散らされましたが、それでもまだまだ花盛り。何度か、うちの中庭見た人、おられますよね。ここでアップした写真ですが。今日は、蔦が岳できのこの女王を写してきました。蔦が岳9時50分~11時15分、明日、写真7枚一挙公開またまた、歴史のガイドブック頼まれました。今度は区から。それで、今日は午後はずっとそれにかかりきり。10月5日も東大資料編纂所にお出かけ。趣味ですから。4日は、お坊ちゃま君に会ってきます。
2004年10月01日
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