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先日梅田を歩いていますと百貨店のウインドウがクリスマス仕様になってましたが、今年のテーマはアリスでした。 でもちょっと違和感、原作『ふしぎの国のアリス』は枠物語の枠部分が春のカントリーサイド、ふしぎの国も春~夏の風情なので…続編『鏡の国のアリス』の方が枠部分が冬で、クリスマスには合うのにな、と要らぬツッコミを心の中で入れつつ、しっかり立ち止まって素敵な展示を眺めたのでした。 今や大人にも大人気のアリス、ティム・バートンの映画「アリス・イン・ワンダーランド」が記憶に新しいけど、とにかく多くの作品のモチーフに使われているほか、原作にも評論や研究書が山ほど出ていますよね(高橋康也とか…きちんと読んでませんが)。「ナンセンス(ノンセンス)文学」「シュールリアリズム」「前衛的」などのキイワードも見られます。 でも私にとっては、子供の頃から親しみ過ぎてかえってこのブログで語るのを忘れていた、児童ファンタジーの古典。あえて「児童」と思うのは、主人公アリスがおませな少女そのままの感性・思考・行動で、当時(19世紀後半)彼女の身近にあった事物が登場するワンダーランドを旅するからです。 はるか昔、私がディズニーアニメで最初にアリスを知った時は、脈絡がなくてつまらないと幼心に思いました。ディズニークラシックのアリスは、最初と最後が妙に説明的(アリスが最初から飼い猫ダイナにふしぎの国を語ったり)な一方、ふしぎの国自体はその奇妙さで視聴者を圧倒するのに焦点が置かれているようです。 しかし、岩波少年文庫で原作を読んでみると(画像は現在のもの。私が読んだのは田中俊夫訳で「ふしぎ」がひらがなでした)、ちゃんと筋が通っていると思われたばかりか、アリスの独白部分は自分そっくりだし、物語中で歌われる歌詞も面白く、何度読んでも飽きませんでした。 つまりアリスと似たような年齢だった私は、このお話のすべてをちっとも奇妙だと思わなかったのです。 たとえば冒頭部分、姉の読む本を覗いてアリスは思います、 「絵も会話もない本なんて、いったいなんの役に立つのかしら」――ルイス・キャロル『ふしぎの国のアリス』田中俊夫訳 以下の引用はこの本 当時の私はこの意見に大賛成。常に新しい読み物がほしかった私ですが、本屋さんや大人の本棚の立派な本を手に取ってもたいてい字ばかりで、読もうとしてもわけがわかりません。こんな物を好む大人とはおかしなものだ、と思っていました。ほんとに子供だったのです! ところが、すぐ次にはアリスは、 ヒナギクで花輪をこしらえるのもおもしろいけれど、わざわざ起きていって、花をつむだけのことがあるかしら と考えています。なんだかモノグサな大人の逡巡ですね。こんなふうに、アリスの心は幼い部分とませた部分を行ったり来たりしています。個人差もあるでしょうが、女の子なら幼稚園年長さんぐらいになると時々大人びた考えが芽生えるものです。子供だからいつも幼いわけではないんですね。 さてそこへ白ウサギ登場。穴に入るし白いので飼いウサギかその野生版のアナウサギです。ウサギはいつもせわしく鼻をひくひくさせてるし、野外では臆病ですぐ穴に向かって逃走する、かと思うと立ち止まって座り立ちして耳を立てて様子をうかがったりして、…その仕草が、「懐中時計をとり出して、時間を見て、また…いそいでゆく」のにぴったり来ます。 当時イギリスのカントリーサイドで普通に見かけたウサギが、強迫観念に駆られたように急いでいても、アリスは別におかしいと思わなかったのでしょう。 それから、ウサギ穴の奥で地下へ下降するアリス。このブログで時々取り上げた、階層を突破するエレベーター空間の、原点ですね。アリスの縦穴は楽しくて、壁の棚から「オレンジ・ママレード」と書いた紙のついたつぼをひとつ取ってみたりする。この行動も、子供なら絶対やりそう! あとから本文にも出てくるように、飲食物(特にお菓子や甘い物)にはいつも敏感に反応するんです。でもからっぽだと分かっても(下の誰かに当たるといけないから)放り捨てたりせず棚に戻す、賢く上品なアリス。 ふだんきちんとしつけられ、読書もしている証拠に、彼女は「私をお飲み」と書かれた瓶を見つけたときも、「毒」と書いていないかまず調べています。もちろん何も書いてなくても毒である可能性もありますが、そこまでは頭が回りきらず、結局飲んでしまいます。 賢いのか抜けているのか、大人っぽいのか子供っぽいのか、アリスには(というか少女というものには)こういったアンバランスさが常にあって、そこが私とそっくり! と子供の頃の私は嬉しかったのです。 作者は、気まぐれで小理屈をこね、しかし周りをよく観察し、礼儀や知識を先取りもし、自分にツッコミも入れるという、おませな少女の実態をほんとうによく知っていたに違いありません。 他のキャラクターやその行動も、みんな「mad」(現在ではへんてこりんな、などと訳されているようです)だと言われますが、狂気というより、遊びの中でわりと子どものやりそうな、言いそうなこともあるように思えます。 たとえば、政治的風刺がこめられているとも言われる「ドヤドヤ競走」(caucus race)。子どもたちって、誰かがよく急に「競走!」と言って勝手に走り始めたりしませんか(「となりのトトロ」のお父さんも突然「家まで競走!」と言って走り出す)。他の子も「えー」とか言いながら思いっきり走る。で、適当にゴールしたり、イヤになると「やーめた」と止まったり。だけど結構楽しい。細かいルールはなくとも、一番!とか言いながら、賞品は欲しいから、その場にある物を適当に賞品にする…そういう子どもたちの行動をもっともらしく描写したのがcaucus raceだと私には思えました。 異世界に入って最初は泣いてばかりだったアリスも、自問自答したり自分を叱ったり鼓舞したりするうち、だんだん慣れて大胆になっていきます。自分との対話や独り言は彼女の精神的安定にすごく寄与していて、作者が本文で言うように「一ぷうかわった子ども」ではなく、誰しも覚えがあるのではないでしょうか。 登場人物は全員「mad」なので会話がかみ合わず、読者もアリスも途方にくれたりイライラしたりしますが、これは子どもが初対面の他人、特に大人としゃべる時と似ているように思います。白ウサギがアリスを女中と間違えていきなり命令口調で話しかけたように、見知らぬ大人から(その子にとっては)とんちんかんなことで叱られたり、自分の感じたことを説明しようとしてもその都度、 「というのはどういう意味じゃ?」、 「いや、どうもわからない」、 「そんなことあるもんか」、 「いや、ちっとも」、 「なぜ?」 ――すべて毛虫のセリフと言われてしまう。そのくせ諦めて去ろうとすると、 「おまち! 話して置かねばならないたいせつなことがある。」と呼び止められます。尊大で口うるさい親戚のおじさんみたいです! アリスは辛抱強く相手をして、ようやく体の大きさを変えられるキノコをゲットします。えらい! カエル頭の召使いも、帽子屋と三月ウサギも、アリスから見た使用人や、いつもお茶を飲んでいるのを見かけるお客たちのよう。ところでこの二人が、アリスの立ち去るのもかまわず眠りネズミを急須に押しこんでいる(テニエルの)挿絵が私は大好きです。急須が眠りネズミにぴったりな大きさなのでちょっとやってみたくなります! やんちゃなよその子たちが周りのことそっちのけでやりそうないたずらだ、と思いました。 きりがないのでこの辺で終わりますが、こんなふうに、キャラクターたちはみんなアリス(少女)から見た身の回りの人々のようで、彼女は彼らにうまく対処しつつトランプの国へたどり着きます。おこりんぼの女王なんか、そう、こういう人いますよねーって感じ。最後にアリスはもとの大きさになり、小さなトランプたちに毅然とした態度を取って(もう泣いたりせず、まるで一人前の大人です)、現実世界に帰還します。 最後のところでアリスの姉がうたた寝に、キャラクターたちは皆身の回りの事物であったというような種明かしをしています。ふしぎの国は身の回りのものでできていたのです。そして、後年になって知ったことですが、キャラクターたちにはモデルとなったらしい人物がいて、それはアリスの主治医だったり家庭教師だったりします。 はちゃめちゃな狂気、混沌の世界、と言われることもあるふしぎの国ですが、実はアリス(そして少女一般)から見た身の回りの世界で、逆に言えば、現実の日常世界の中でアリス(そして少女一般)が、強烈に異質な存在なのでしょう。 [思春期の少女たちは]大人たちとは、言葉が通じないと感じることが多い。…お互いに「異種」の存在であると感じる。 ――河合隼雄『猫だましい』(ただしアリスは思春期前ですが) 「神秘的で純で過激で残酷 してまたはかなくも美しい少女の姿をした何か」 ――佐藤史生「楕円軌道ラプソディ」(アリスへのオマージュが出てくる) だからこそ、アリスとふしぎの国はこんなに長い間、多方面に影響を与え続けているのだと思います。
November 26, 2024
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ようやくシーズン2を全部観ました。前にも増してどの場面も暗いので(物語が暗い展開になってきたからでしょうけど)、目をこらさないと誰が何をしてるやらわかりません。 (→ネタバレあり)シーズン1の私なりの要約は「皆と離れても信じる道をゆく主人公たちが、物語を進め歴史をつくる」でしたが、今回の感想を一言でいうなら、「最期におのが過ちを悟っていい人になる」でしょうか。 もちろんラスボスのサウロンをはじめ、(サルマンらしき?)悪い魔法使いやヌメノールのアルファラゾンなど、次へ続く悪役たちはますますワルの度合いを高めて行ってますが、このシーズンで退場する人々は退場間際に自分の愚かさに気づいて多少なりともいい人になって散っていきます。 こういう結末は、誰を/何を信じて良いのか分からない、裏切りと期待外れ続きのストーリーの中でいっそう輝きを放ち、視聴者の心をつかむ!というわけでしょう。 生き延びる人々の中で相変わらず見所があったのが、ヌメノールの女王ミーリエルとドワーフのディーサです。欲にまみれた男どもが右往左往する時も、まっとうな常識を貫いてゆるぎません。もちろん、女性キャラがみんなそうではなく、時代に翻弄され迷い揺れ動く者もいます。ガラドリエルもそうだし、新たに出てきた避難民のエストリドなんかも。 トールキンだけではありませんが、古典的なファンタジーのキャラクターは、どうしても最初から悪玉は見るからにワルっぽく、善玉は人質でも取られない限りいつも正義を行う、的なところがあります。でもこのシリーズでは、混迷の世にあって選択を誤ったり迷ったりするキャラクターが特徴的ですね。 ケレブリンボールなんか、おのが才能を追求しそのためにサウロンにつけこまれちゃいます。彼は最初から領地の統治や雑事は同胞に任せておけばよかったですね。サウロンことアンナタールの欺しの演技も見事でしたが、それを自力で看破したケレブリンボールさんは、最期まで(呪いの予見をしたりして)、ノルドールらしく立派でした。 ドワーフ王ドゥリン3世は指輪によってモリアの富への執着が高じていきますが、これもいかにもドワーフらしい(「ホビット」のトーリン/ソーリンなんか指輪なしでも強欲にとり憑かれてた)。バルログを掘り出した途端に迷妄から覚めて立ち向かい、もろともに山の深部に埋もれてしまいます。バルログを掘り出すのは第3紀じゃなかった?という原作からのツッコミを入れたくなりましたが、踏みとどまっておきます。バルログは実は「サウロンの悪意によってとっくに目覚めていたかもしれない」という記述が追補編注釈にありますから…きっと、ドゥリン4世以下の面々はバルログのことを後世に戒めておいたのに、性懲りも無くドゥリン6世がまた掘り出した、のでしょうね… そして、突然イケメンになり話の分かる賢さを見せ、最期にいい人の片鱗を見せたのが、アダルさんです。雰囲気が変わったのは、実は俳優さんが変わったからですが、悪役とはいえ微妙な終わり方でした。トールキンならこういうキャラクターはつくらないでしょうね。 ともあれ、原作の第2紀を超圧縮した感じで話が進みますが、まあ二次創作ですから仕方ないでしょう。 そうそう、トム・ボンバディルが出てきて(かなりとってつけたような登場)びっくりしました。俳優さんのお顔はイメージ通りでしたが、いや、なんかストーリーにはめ込むと違和感だらけ。ただし、歌はすばらしかったです。何度も聴いてしまいました。
November 7, 2024
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宮崎駿「君たちはどう生きるか」(観てないんですが)の下敷きになった物語、そして作者がアイルランド人!というので、読んでみました、ジョン・コナリー作『失われたものたちの本』。 異世界に行って主人公が成長する王道ファンタジーですが、全編暗めで生々しく残虐なシーンも多いです。最近はやりのダークやホラー、私はかなり苦手なんですが、(以前にも書いたとおり)成長期には”死”や血みどろのイメージがつきものなので、ここは耐えて読み進みます。 主人公デイヴィッドは12歳で、このブログでは何度も注目してきたプレ思春期。この時期には孤独に陥ったり死の恐怖を味わったり、また鮮烈な生の喜びや友情を知ったりします。大人になるためのイニシエーションですね。 けれど舞台は第二次大戦の空襲下のロンドン、母は病死し父は再婚、継母に子供ができ、家は引っ越す――という試練ずくめの状況で、孤立無援のデイヴィッドは、失神したり本の囁きを聴いたりするようになります。 やがて彼の見る夢や幻、そして自室にも、「ねじくれ男」が侵入してきます。 マザー・グースに「There was a crooked man」(ねじくれ男)というのがありますが、私は外見がくねくねの滑稽な男を歌ったものと思っていました。ところがこの物語に出てくるねじくれ男は、心がねじくれて嘘つきで、子供をさらう、恐ろしいキャラクターです。「トリックスター」とも呼ばれますが本来のそれより邪悪なタイプ。それもそのはず、(→ネタバレ)じつは彼こそがラスボスなのです。 デイヴィッドは、亡き母の声を聞いてさまよい出た庭に爆撃機が墜落してきた拍子に、異界へトリップします。そこはおとぎ話の景色や登場人物が、奇妙で醜悪にねじくれて登場してくる世界でした。狼と交わった赤ずきんから生まれた人狼、肥満した暴君のような白雪姫と共産主義かぶれの小人たち、魔女である眠り姫の住む殺人的な茨の城などなど。 河合隼雄によると、もともとのおとぎ話に残虐な要素がある(たとえば、赤ずきんと祖母は狼に食われておしまい)のは、 …人生における戦慄をあらためて体験せしめる。 …子どもが成人になるためのイニシエーション(通過儀礼)において…[中略]畏怖と恐怖の感情を持って体験した死と再生のプロセスは、彼らの「実存条件の根本的変革」をもたらすのである。――河合隼雄『昔話の深層』 ということだそうです。この物語ではその戦慄や恐怖をおとぎ話以上にリアルに描き、デイヴィッドや読者の前に突きつけてきます。リアルすぎて悪夢のようです; 竈のあまりの熱さに老婆の体に付いた脂肪が溶け、娘が吐き気を覚えるほどの悪臭を放った。老婆は皮膚から肉が剥がれても、肉から骨が剥がれても暴れ続け… ――ジョン・コナリー『失われたものたちの本』より、「ヘンゼルとグレーテル」の異聞と思われる話 あるいは、動物がかわいらしく擬人化されて服を着、言葉を話す絵本や童話がよくありますが、この物語では代わりに、派手な衣装を着たおぞましくリアルな人狼や、残酷な女狩人によってスプラッタの末つなぎ合わされた人頭獣身の生き物などが登場します。 特に人狼はとっても不快で恐ろしいです。私はふとスティーブン・キング&ピーター・ストラウプの『タリスマン』に出てくる凶悪な狼人間エルロイを思い出しました。この本も12歳の主人公ジャックが重病の母を救うために体験する冒険譚ですが、不快感や苦痛が真に迫りすぎて読むのがつらい感じでした。 『失われたものたちの本』でも、デイヴィッドのほかに、彼が読んだ古い童話本の所有者だったジョナサン少年も、欄外にダークな別バージョンを書きこんだり、赤ずきんの狼の挿絵を塗りつぶしたりしています。じつは、彼の恐れた悪夢の狼が、異世界に人狼となって出現したのでした。 特に男の子の(と私は感じますが)プレ思春期の不安定な心の中では、幼年時代にキレイにデフォルメされて親しんだあれこれが、本来の暴力的で赤裸々な姿を現してきて、混乱や恐怖や嫌悪をひきおこすのでしょう。 この物語には性的な描写もけっこうあって、デイヴィッドは生理的に嫌悪したりします。こういう描写は子どもの読者に対してどうなんだろう?とも思えますが、作者はあえて、例えば父母が寝室で何をしているか悟った時の、12歳の子どもの心理をリアルに描いているのでしょう。 そうして、恐怖と苦痛と血みどろの死に満ちた道のりを、泣いたり吐いたりしながらたどるうちに、少年は少しずつ成長し自立していきます。そして精神的にある一線を越えた時、彼は少年ではなく大人になるのです; デイヴィッドの怒りが恐怖を飲み込み、逃げだしたい気持ちを吹き飛ばしました。その瞬間、彼は少年から男に代わり、大人へと続く道が本当に始まったのでした。――同前書 少年が大人になる時、それはたとえば映画「太陽の帝国」(スピルバーグ)のジム少年(日本軍占領下の上海で両親とはぐれサバイバル体験をする)や、「銀河鉄道999」(松本零士)のラストで「♪地平線に/消える瞳には/いつしかまぶしい/男の光」と歌われた鉄郎なんかも、そうでした。 ともあれ、壮絶な苦難を経て、デイヴィッドは体も精神も強くなるだけでなく、異世界のことわりを理解し納得して、敵に打ち勝ちます。苦難はあまりに大きく人生の悲しみを知って痛手は負いますが、そのぶん人生を理解して思いやりのある大人になるのです。 うん、納得のいく大団円・後日譚まできっちり説明してくれて、ほっと読み終えることができました。スプラッタに耐えたご褒美を、私ももらった感じです。
September 28, 2024
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期待外れ第3弾。異色で面白いとの評判を聞いていたので意気ごんで見た(ついでに原作も少し無料で読んでみた)『ダンジョン飯』(九井諒子)です。 つきぬけた変人の主人公ライオスを始めキャラクターは多彩、迷宮の描写や設定が細かくマニアック、迷宮深く潜るにつれて深まる謎と邪悪な気配、そして毎回の迷宮魔物料理。魅力がいっぱいの物語です。なんですけど・・・なぜか私は物足りなさを感じてしまいました。 原因の一つは私的なことで、もともと料理が好きでないので、はやりの飯テロ的作品としてはあまり楽しめない。料理シーンやレシピ解説が出てきたら飛ばして読んでしまうタイプ。食材ゲットと食べるシーンは楽しいけど。 でも『空挺ドラゴンズ』の龍は幻獣でもおいしそうなのに、ダンジョン飯の魔物料理は正直あまり感動しない、なぜでしょう。『空挺ドラゴンズ』の龍は幻獣だけど魔物じゃないから、かな… 『ダンジョン飯』の魔物は、魔物のわりにすごく現実の日常食材に似すぎていて、料理嫌いの私はセンシが丁寧に調理しているのを見て、あーめんどくさそう、とうんざりしてしまう。歩き茸をタテに切るか横に切るかも、なーんだ、ふつうの茸をおんなじじゃん、と思ってしまう。普通の茸と同じ断面の様子なら、なんで足が動いて歩くのか? 筋肉や神経は? いや魔物だから魔力で歩いてるというなら、魔力らしい神秘的な雰囲気が漂うとか(独特の香りはするそうだが)。神秘的であってもなくても、魔力で歩く茸を普通の茸なみに調理して食べるのは、マルシルじゃないけどやばすぎる気がします、いくらおいしくてもね。おいしさに負けて食べ続けたら魔物化しそう(しない、と言ってるけど)。 そういうふうに、設定がわりと理詰めなので、私はかえってつっこみたくなっちゃうのかも。 たとえばゴーレムの畑。センシが農業していて、生態系とか自給自足とかSDGsな感じですけど、説得力があるからこそ次々疑問がわきます。チルチャックも言ってましたが、光合成の光をどこから得ているのか? 迷宮自体の光源が謎ですが、これも魔法の光なのか、見たところ迷宮は真っ暗闇ではなくほのかに明るいですね。でも普通に光合成するキャベツやにんじんを育てるには暗すぎると思うのに、これも魔法のキャベツやにんじんなんでしょうか? あとゴーレム立ってたら、畑になってる背中から常に光が射さないと育たないだろうし、重力の問題もあります。野菜の芽はみんなゴーレムの頭の方へ伸び、根っこは足の方へ伸びてしまうのでは? それともゴーレムはずっと腹ばいで寝て暮らすのかなあ? 給水の時は普通に立ってたけど。 もし、迷宮内は魔力に満ちていて地上の自然法則とは違い、不思議や不思議ゴーレムの体から魔法の野菜が生えるのです、というだけの説明だったら、私はその方が、「おおさすが迷宮、すごいな!」と感動すると思うのですが・・・。 最後に、迷宮では死んでも蘇生可能なルールがあるのですが、それにしても妹がドラゴンの中で消化されたり、再生したけど魔物になったという危機に、脳天気すぎる主人公たちがちょっと引っかかります。もちろん毎回悲愴感漂っていたら物語としては面白くないかもしれないけど、なんかゲームをやってるような軽さが(ギャグやユーモアとは別の、絵空事みたいな軽さが)あるような気がします。 もっとも深い階層へ進むにつれてシリアス度は増していってるので、アニメ第三期は少し期待かな。いや、もっと気負わずゲームをやってるように楽しんで読め/観ればいいのかもしれませんが。
August 21, 2024
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有名作家の有名作品なのになぜ? 本っ当に期待外れだったのが、『かがみの孤城』。アニメを観たのですが、ファンタジー的にお粗末すぎでは? 原作は違うのかと少し調べてみたのですが、やっぱり読む気になれませんでした。 ツッコミどころ満載なのですが、(以下ネタバレ)たとえば、なぜミオはオオカミの面をかぶって「赤ずきん」に言及し皆を威圧するような言葉遣いをするのでしょう。きっと定刻をすぎると皆を食い殺しに来るというオオカミとの関連性があるのね、もしかしてミオ=オオカミで、リオンの妹のやさしいミオと、恐ろしいオオカミとの二面性があって、それが物語のカギになるのか? と期待したら、そんなのなかった。 そもそも定刻を超えて居残ると食われるというのが、なぜ「七匹の子ヤギ」なのか? 七匹の子ヤギはそういう話ではないけど、深いところで何かつながりがあるのか? と期待していたら、なかった… 皆が通ってくる鏡にはどんな意味があるのか? 自分の映像の中に入るわけだから、やはり自分自身の真の姿を見つめ直すとかそういう意味が…と期待したけど、別に鏡ならではの特性とかなかったし。 タイムラグのある異世界ものはありふれているのに、みなが全然気づかないのも不自然(パラレルワールドと言うあたりで、服装や言動からすぐ分かると思うのですが)。私なら鏡をくぐり抜けたら、ドールハウスのお人形の服装になっちゃう、という設定にするだろうな…とか。 原作は連載しながら創っていったらしいのですが、なんか圧倒的に練りたりない感じがするのはひょっとしてそのせいなんでしょうか。 あと、登場人物の中で腹立たしかったのが、こころの親友もえちゃんです。絶対に見捨ててはいけないところで、こころを見捨てましたね! いじめグループが怖かったのなら、帰宅してからこころに電話するとか手紙出すとか、いくらでもフォローできたはずなのに、それもしませんでした。最低です。こういうことはタイミングが大事なので、最後に手紙出したり和解していますが遅すぎますね。もえちゃんはそこんとこ、全然わからないまま去って行きますね。 もえちゃんにも精神的葛藤があってなかなかこころを助けられなかったのなら、そこをもっと描いてほしかったです。もえちゃんこそ、いちばん反省して乗り越えて、友人を見捨てず助けられるよう、変わるべき人物だと思うのですが! (もし、私の推測に反して原作はもっと完成度が高いのなら、読まないでけなしてごめんなさい。)
August 8, 2024
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暑さで外出も苦行の今日この頃、読書とかTVで映画・アニメ鑑賞とかに最適・・・なんですけど、ちょっと最近ばたばたしてるのと、期待外れが続いてネタに困っているHANNAです。 で、期待外れなあれこれを順に書いてみます; まず、「驚異の動物行動学入門」と銘打ったアシュリー・ウォード『動物のひみつ』。いや、とっても面白かったんです。多種多様の生き物の行動を紹介するだけでなく、それと比べて人間の社会性を考察。でもきっちり科学者の視点で書いてあって。私はもともと「ファーブル昆虫記」に始まってローレンツや河合雅雄などを愛読していたのですが、この分野の最近のめざましい研究成果については、この本で初めて知ることも多かったです。 では何が不満かというと、そう! 面白すぎて足りない…! たとえば冒頭、コウモリが吸血した血を仲間に分ける行動を紹介。仲間が空腹だとどうやって知るのか? それとも空腹な個体が満腹な個体に何かアピールするのか? 具体的にもっと詳しく知りたい、いかにして観察したのか、なども深く知りたいと思うのに、次の生物の話へ進んでしまいます。 たぶんいちいち詳しく書いていたら1冊の本にはおさまらなかったのでしょうね。この本は電車の中で読みましたが、そういうスキマ時間的読書には向いてるかも(タイパがよい、とも言う)
August 7, 2024
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橋の上から「帰らずの沼」こと血洗いの池の静寂を堪能した(写真左)あと、池をめぐる小道をぐるぐる、あちこち歩き回ってみました。舗装されてはいませんが、あるていど整備されていて、木の枝や藪に邪魔されることなく歩けます。けれど季節がら、手の届くところに伸び放題の葛(クズ)のつるや、咲きなだれるアジサイ、斜面をうめつくすドクダミなどがあり、野性味あふれていました。 ・・・やがて沼の南がわをくらくつつんでいる木立ちの影にはいりました。(写真右) まばゆい太陽の光になれていた先生には、一瞬、暗黒の世界におちこんだように感じられます。 ――舟崎克彦『ぽっぺん先生と帰らずの沼』より 以下、引用はすべてこの本 西南の、池のY字形の最奥は浅くなっていて、コイでしょうか、灰色の大きな魚がたくさん見え、中には背中を水上に出してまで泥の浅瀬をパシャパシャ泳ぎ回るものもいました。その小さな水音がまた、静けさの中に響きわたるのです。 日あたりのよい方へちかづくにつれて、水中はだんだんと明るさをまし、朽葉のうず高くつもっていた沼底はなめらかな泥にかわってゆきます。 「あれがきっとこの沼のヌシだ……!!」(写真左) と、先生のセリフを思わずつぶやきながら写真を撮りました。 それから、池を離れてさらに深い木立ちの中へと続く南の道は、物語では先生の研究室があったとされるあたりです(写真右)。カゲロウに変身した時、カワセミになった時、そしてイタチになった時も先生がたどった森の道です。 先生は研究室の横手に生えている大イチョウの下かげを息もたえだえにくぐりぬけると、沼の方へくだるほそぼそとした道にそってとびつづけます。 カゲロウだったとき、ひん死の体にムチうちながらくだってきた道を、先生はいきおいよく風をきりながら、さかのぼっていました。 大ケヤキ、大イチョウなど、当時から大木が生えていたことがうかがえますが、半世紀以上が過ぎた今や、2人がかりでも囲めないほどの太い幹、倒れるほどのけぞっても梢が遠い巨木が何本も何本もありました。一つ一つにちゃんと名札がかかっていて、ケヤキの他にシラカシが多く、マツもありました。 左手の分かれ道には芭蕉の句碑などもありました。さらに左先の「乃木館」「御榊檀」は、明治時代に学習院の院長をつとめた乃木希典の居室や庭だそうですが、ここはちょっと畏れ多い感じなのでちらっと見て写真は撮りませんでした。物語では「もともとは、学長の宿舎」「オサカキ台」という説明のもと、守衛さんの家としてイタチの先生がヒヨコを捕らえたりした所です。 さらに森の本道を南へ進むと厩舎と馬場がありますが、ここは見学できない、と西門で聞かされていましたので、一段低い所にある馬場を木の間隠れに垣間見て通り過ぎました。物語では先生が解き放った馬たちが、キャンパス内を大暴走するのですが、馬場に馬の姿は見えませんでした(残念!)。 そのかわり、毒を食べたイタチの先生があえぎながら横たわった野球グラウンドは見えました(写真左)。 このあと私は中央の建物群の方へ進み、古めかしくも立派な学舎をいくつもめぐって、中庭にぽつんと安置されたとがったオブジェのような物を発見。説明板を読みますと、これこそ、物語の地図で「ピラミッド教室」としるされた大きな中央教室の名残りだそうです。学習院のシンボル的なユニークな建物でしたが、2008年に取り壊され、とがったてっぺん部分だけがこうして展示されているのです(写真右)。 中央研究棟や北1号館などの建物群に囲まれた中庭には、先述の大ケヤキ、大イチョウ(写真左下)と呼べそうな巨木がきれいに保護されてあちこちに立っていました。 さらにイタチの先生が女学生をやり過ごした、旧図書館も趣がありました。 そしてついでに、ぽっぺん先生が年を召されたらこんなだろうか、と思うような風貌の人物を見かけたことを付け加えておきます。教官の方でしょうか、教務関係の方でしょうか、どなたかはわかりませんが、白髪に鼻髭、顎髭をたくわえ、黒縁の丸メガネ、白いシャツにサスペンダーつきの黒いズボンの紳士でした。さすが独活大学、いえ、学習院。なんだか感動してしまいました。 ここまで1時間ほど歩き回って、快晴だったのですっかり疲れましたが、最後にもう一度、帰らずの沼を見て行こうと思った私は、急いで食堂の南の小道から沼の東端へ出ました。すると目の前の小道を、銀灰色に光る太いヘビが一匹、するするするりと横切って行きました。最後にすごいのが見られた!と、振り返りながら、沼すなわち血洗いの池をあとにしました。 キャンパス見学できそうよ、池に行くなら虫除け必携、などと教えてくださった友人KさんとKさんのお知り合いのかた、ありがとうございました! ここに載せきれなかった写真もたくさんあるので、そのうち整理してどこかに格納しようと思っています。
June 20, 2024
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前の日記の「出発! おはなし展」のため上京したついでに、どうしても行きたかった聖地に巡礼してきました! 子供の頃から大好きだった舟崎克彦『ぽっぺん先生と帰らずの沼』の舞台となった、目白の学習院キャンパスです。そもそもは2018年、A新聞夕刊の「各駅停話1221 山手線目白」という記事でここの「血洗いの池」が帰らずの沼のモデルだと知りました。血洗いとは、堀部安兵衛の伝説由来の名だそうですが、残念ながら私は忠臣蔵はあまり詳しくありません。 ぽっぺん先生の物語では、帰らずの沼は「独活(うど)大学」にあるとされ詳細な地図(右)までついているのですが、初読当時小学低学年だった私はそれを作者の出身大学と結びつけることができませんでした。 それから半世紀。記事のおかげで帰らずの沼が実在したと知り、学習院大学のHPにあるキャンパスマップを見ますと、なんと! ほんとにそっくりじゃありませんか。 物語そのものについては以前書いたことがあるので、今回はめいっぱい聖地巡礼記録を書き留めます。 駅前すぐの西門から入ります。守衛さんの所で訪問者名簿に記入すると、マップをひろげて丁寧に説明してくださいました。 物語の発端、「食堂」へ向かいます。左写真の大きな木の向こうがテニスコートそして食堂(輔仁会館)です。物語では夏休み前日のカンカン照りの日なんですが、私が訪ねたのも暑いくらいの快晴でしたから、季節感はOKとします(蝉しぐれがあれば完璧だったんですが)。 ところが私は、食堂の正面や中に行くのを忘れました。興奮のあまりまっすぐ帰らずの沼つまり血洗いの池へ向かったのです。桃色のウスバカゲロウを追ってぽっぺん先生があとも見ずに木立ちの中へ踏みこんだように(右写真)。 [食堂の]前庭の西がわには、こずえをさしかわしておいしげる樹林が、夏の陽をさえぎってそそりたち、こんもりとした下生えのかん木をしたがえながら、ゆるやかな斜面を、かえらずの沼の方へひろがっています。 ――舟崎克彦『ぽっぺん先生と帰らずの沼』より 以下、引用はすべてこの本 沼の周囲はびっくりするほどうっそうと茂っていました。物語にあるとおり、「ちりしいた朽葉の何重にもかさなった斜面」「木立ちの下かげにはびこるかん木のしげみにゆくてをじゃまされて」といった感じです。やがて、 先生のゆくてには、青緑色の藍藻におおわれた沼の水面が、木立ちごしにけだるそうな光をたたえています。(左写真) 物語と違って池には橋が架けられていました。わりと水面に近い橋で、ここに立つとボートでこぎ出したかのように、自分が沼の景色のただ中に入り込めます。 この池は湧水だそうで、橋の北側にある丸く囲った所あたりが湧き出し口のようです。無人の静寂のなか、時折ポン、ポン、プクリ、と水の湧き出る音が聞こえます…それはまるで、 ひっそりかんとしずまりかえり、なにか自分のうちがわからわきあがってくるしずけさに、じっと耳をすませているかのようです。(写真右) とは言っても、池をとりまく原生林のような木立ちはキャンパスの西の端で、見えないけれどすぐ外の道を通る人声や電車の発着の音も聞こえたりします。そうでなければちょっと怖いような大自然です。 水面にはアメンボ、水上にはシオカラトンボやムギワラトンボが大量に動き回っていました。シオカラトンボはまだ若く、胴体が青でなくて黄色いものもたくさん。もっと夏になれば、カゲロウになったぽっぺん先生を狙ったオニヤンマなども飛ぶのかもしれません。 高い樹林に日光をさえぎられてどんよりとくらい南がわと、強い日ざしを浴びてエメラルド色に光る北半分に、色わけされた沼――。 その南の方を見ると、おお、先生がやはり変身したカワセミが止まっていたような杭がちゃんとあります(左写真。ちょっと見えにくいけど) カワセミです。木のくいにとまったカワセミが、するどいくちばしをかたむけながら、こちらのほうに、じっとねらいをつけています。 先生をねらっていると思ったくいの上のカワセミは、水面にうつった自分自身のすがただったのです。 クヌギの倒木(カゲロウの先生が最後にそこから水に落ち、カワセミになった先生がメスのカワセミと寄り添ってとまった)はさすがにありませんでしたが、そこかしこに、水につくほど枝をしだれさせた大木が水鏡となって上下対称の像をむすび、そこへ風が吹くとはらはらと葉っぱが散ったりして、映画の一場面みたいです。 つづく
June 17, 2024
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6月3日から渋谷で開かれていた「児童文芸 出発!おはなし展2024」は10日に無事終了しました。 多くの方に来ていただき、ほんとにありがとうございました! 私も最後2日間は会場にて他の出品者さんたちのすてきな作品を楽しむことができました。 イベントが終わりましたので、絵を担当してくださったうえすぎしんやさんの許可を得まして、拙作「そうじきザウルス」のイメージ画をここにご披露いたします。 オイルパステルで、夢あふれるカラフルな立体感のある仕上がりとなっております。特にもこもこの雲の、おいしそうな感じにご注目ください! !画像には著作権があります。無断転載はおやめください! 文のほうは、私のホームページ内にありますので、興味のある方はどうぞ下のリンクから。 「HANNA'S HOLLOW HILLS」内、自作物語のコーナー「Travellers' Tales」の目次 このページからは、ずーっと以前に児童文芸絵本展に出品した創作絵本「ジュンくんの出発」(絵は井上緑さん)などもご覧いただけます。
June 15, 2024
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児童文芸家協会主催の、童話や絵本のテキスト+イメージ絵画 の発表会が今日から渋谷で開かれています。 ずっと以前も創作絵本のテキストなどで出展させてもらったことがあるのですが、今年、数十年ぶりに絵本のテキストで出展しています。 お近くにお越しの節は、ちょっと覗いてみてください! 私の作品は「そうじきザウルス」というタイトルで、絵はうえすぎしんやさんです。
June 3, 2024
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例によってTV録画で「すずめの戸締まり」を今ごろ見たHANNAですが、新海誠の前2作よりは好きになれました。震災の残したものへの取り組み方とか、色々感想はありますが、何より”椅子”がかわいくて、意味深で、印象的でした。 小さな木の椅子は、主人公鈴芽が幼いころ、母に手作りしてもらった誕生日プレゼントです。震災以来脚が1本なく、高校生の彼女にはもう小さいので、最近は部屋の片隅に置かれていた模様。 ちょっと壊れた子供の木の椅子というと、松谷みよ子の「おし入れにいれられたモモちゃん」が思いだされます。モモちゃんは椅子を放り投げて壊してしまいます。ママに怒られおし入れの中で異世界ヘ転移した彼女は、ねずみのおひめさまとなりますが、玉座のかわりに置かれていたのは壊れた椅子でした。 「おひめさまがおよめにおいでになるとき、もってきたいすですよ。」 ――松谷みよ子『モモちゃんとプー』よりおばあさんねずみのセリフ モモちゃんは椅子とともに異世界に来ていたのですね。古びて壊れてもう小さい椅子ですが、 「モモちゃんのいすよう。あかちゃんのときから、おすわりしていたいすよう。」 ――同前書とありますから、彼女にとって自分(アイデンティティー)の居場所であることが分かります。 鈴芽も、子供の椅子とともに旅に出ることになります。「閉じ師」の草太が、封印の猫神「ダイジン」によってこの椅子に変身させられたからです。 (ところでダイジンこそこの物語の狂言回しというか、典型的トリックスター。原初的なパワーといたずらで周りを引っかき回しながら物事の進展に深く関わり、最後には犠牲となる神話的英雄ですね) 鈴芽の保護者である叔母さんは、鈴芽が家出した! と慌てるわけですが、子供の椅子を持って家出するというと、今度は絵本『ピーターのいす』(E・J・キーツ)です。妹が生まれ、自分の椅子が妹用になってしまうのをおそれたピーターは、椅子を持って出奔するのです。 ここでも、自分専用の椅子は子供にとって自分自身の居場所なのですね。だから家庭内で自分の存在が危うくなった時、ピーターは椅子を持って家出するのです。 鈴芽の椅子も、おかあさんが作ってくれた点、”誕生”日プレゼントだった点で、鈴芽自身の存在意義=アイデンティティーの象徴といえそうです。それが、壊れたまま小さいまま、つまり震災のあの日のまま部屋の片隅にある。 部屋が鈴芽の心だとすると、心の中の椅子はもう鈴芽自身が座ることもできない。まして他の人を座らせることもできない。自分自身の落ち着き場所もなく、他人を受け入れることもできない心。 ここでビートルズの有名曲「ノルウェーの森」が浮かんできました; She asked me to stay And she told me to sit anywhere So I looked around And I noticed there wasn’t a chair ――Norwegian Wood より一部 女の子の部屋に招かれて「どこでも座って」と言われたけど、見回しても椅子がなかった、という歌詞です。単に70年代の若者文化的な部屋だったのかもしれませんが、歌詞の主人公は彼女の部屋=心に、自分の居場所がない、そして彼女自身もきちんと落ち着くことのできない状態(歌詞のあとの方で鳥にたとえられている)であることを、悟らされる感じです。 これが村上春樹の『ノルウェイの森』へと響いていくと、ヒロインの直子(名前の字からして、ピュアでまっすぐだけど妥協できない感じ)の心の中に、主人公ワタナベの居場所がなく、直子自身も精神的に落ち着けないというふうに思えます。彼女が自分自身(の居場所)を探し求めるかのように、東京の町(学生運動の時代で、乾いて荒廃した感じ)をひたすら歩き回る場面が印象的でした。常世の、震災後の荒廃した景色(これも隔絶された世界)の中で母(=自分の居所=椅子)を探す幼い鈴芽にも、ちょっとだけ通じるところがあるように思います。 結局、あの話では、緑したたるサナトリウムの閉ざされた世界だけが直子の安らぐ居場所だったようで、その対比が切ないですね。 けれども、鈴芽の場合はダイジン(トリックスター)の介入により、震災で静止した彼女のへやの椅子に、草太が憑依することになります。座れなくても、動いたりしゃべったりでき、触るとあたたかい椅子。生命と変化を感じさせます。 この時から、鈴芽の居場所・存在意義は、草太である、ということになったようです。私が見ていて心地よかったのは、鈴芽が草太に恋愛感情をいだくのではなく、自分の分身のように一緒に生き生きと旅をしていくところでした。 草太が椅子として封印の要石になった時を境に、鈴芽は初めて椅子なしで立ち、行動し、草太を他人として尊重し恋愛感情(とはまだ言い切れないけど)を抱きます。彼女は独り立ちしたのですね。 それを知ってダイジンは要石に戻ります。トリックスターの役目は停滞した物事を推し進めて新局面を開き、その贄となることなのでした。 というふうに、何だかすっきりと見終われて、よかった、よかった。 大迫力でそれなりに美しいミミズも、荻原規子の『あまねく神竜住まう国』のドラゴンを思いださせて、恐怖というより「畏怖」を呼び起こす荒ぶる神様なんだな、とか思いました。 かっこいい大猫が、草太の祖父かと思ったら東の要石だったのは、予想ハズレ!でした。
May 28, 2024
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ジブリから分かれたスタジオポノックの第1作「メアリと魔女の花」ですがーー、キャッチコピーが良くなかったので、そして先日TVで観てみたらほんとにキャッチコピー通り、「魔女、ふたたび」、つまり二番煎じで、つまんない感じがしてしまいました。 日本だとどうしても「魔女の宅急便」のキキとジジが突出しているため、メアリはその真似みたいに見えるのでしょう。でも、箒に乗って黒猫を連れた魔女とは西欧圏の魔女の定番なので、それは真似というよりオーソドックスで、大変結構だと思うのです。 気になったのは、同じ新米魔女としてキキとの違いを出そうとのでしょうか、メアリが「トトロ」のメイみたいになってしまっていることです。好奇心のかたまりのやんちゃで天然な子供。それが冒険をして責任感とか思いやりを身につけて・・・みたいな、これが何か、キキよりありきたりな展開なので、期待が裏切られてしまうのです。 魔法大学エンドアの描写も、普通にポップでファンシーで、遊園地とかゲームの世界とかで見飽きた感がありますね。魔法学校というとまたどうしても「ハリー・ポッター」を先に知りすぎているし。ポップでファンシーよりお化け屋敷ぽい方が、魔法学校にはふさわしい雰囲気ですよね。 でも、もとジブリのそうそうたる方々が創ったのだし、何か魅力の核心があるはず。そう思って、原作を読んでみました。というのも、原作はわりと古い(HANNAの子供の頃の)作品で、ノスタルジックなインスピレーションを感じたのです。 映画以前に訳本も出ていますが(上右画像)、私は表紙絵(右)が気に入った原作「The Little Broomstick」を電子版で読みました(電子書籍だと難しい単語の解説や辞書をすぐ見ることができて、便利です)。 で、感想ですけど、古き良きイギリスの田舎(カントリーサイド)と古き良きおとぎ話(fairy tale)、そしてレトロモダンな(70年代の作品ですから今読むとそう思える)感じも混じった、ステキな逸品でした! 主人公メアリはやんちゃではなく、ごく普通(plain=「平凡」ですね)の、おとなしくて真面目で目立たない少女です。原作の眼目は、貧乏くじを引いて田舎に預けられたと嘆く普通の子メアリが、魔女の花と箒を見つけて、一晩だけ普通でない秘密の冒険をする、そのすばらしさにあります。 物語の舞台は、アニメでは描き切れていない気がしますが、英国ならではの田舎の古い館で、灰色の秋の午後から始まっています。シュロップシャーとありますから、もうウェールズに近いですね(私の大好きな「ドリトル先生」の家もシュロップシャーです)。 赤れんが屋敷と呼ばれ、庭には芝生、樹木、ツタ、そしてブロンズ色などにしおれたキクに、深紅や琥珀色のダリアなどのある花壇。そして生垣から広大な森へ。荒涼として人気なく、空は灰色の外套、または真鍮の色。さしこむ日光は淡い金色。これらの色合いだけでも、本格英国調の渋い風景画みたいです(私はめるへんめーかーの絵を思いだしました)。 住んでいる人も、いかにもです。耳の遠いおばさまは刺繍をしているし、女中さんは訛って呪文のように聞こえるレシピをつぶやきながら料理をします。方言ぽい英語は、言ってること自体は簡潔なのでなんとなく意味が分かります。 庭師のゼベディさんもすごい訛りで味があります。彼の風貌の細やかな描写もすばらしいですが、中でも、コマドリのような明るい年取った目、というのが嬉しいーーこういう目は、ケルト伝説の妖精の目によく出てくる目なんです。 原作のメアリはとても行儀良く、どちらかというとおどおどしているのですが、屋内では静かにと言われ、台所でも庭でも手伝いを断られたり失敗したりして、一人森へ向かいます。これも典型的ですが、10歳というプレ思春期の子供にとっては、家族と離れ、家と離れ、手持ち無沙汰で一人ぶらぶら行った先に、ファンタジーは待っています。 以前にも描きましたが、英国そして日本の昔の風景は、そのまま異界や魔法をはらんでいるのが、すばらしいです。オークの根方の水たまりにアザミの綿毛が浮かんでいたり、キノコがあったり、緻密な描写のうちに、だんだんと神秘的な感じが強まっていき、黒猫ティブが現れてメアリを魔女の花へと導きます。 視覚的な描写のほかに、音も、かさかさ言う落ち葉、ひゅうひゅううなる嵐の晩に妖怪じみた怪しい音が色々してきたり、雰囲気があります。 翌日、メアリはまだ屋敷の日常に居て、見つけた箒で、吹き散らされる落ち葉を集める手伝いを一生懸命しようとします。そしてーー、自分から冒険に乗りだしたというよりは、魔女の花で活性化した小さな古い箒に誘拐されて、空へ飛びたちます。 魔女の花「夜間飛行」は日本語の字面にするとおしゃれですが、英語 fly-by-night は、調べてみると「夜うろつくもの」「夜逃げする人」「信用できない、あやしい者」なんて意味です。 この冒険をお膳立てした黒猫ティブの名も、中世フランスの動物寓話『狐物語』に出てくるずる賢い雄猫ティベールがもとだそうで、魔女の使い魔ではなく、猫らしい孤高の賢さを持っています。 (ギブの方は映画では雌猫と思われますが、実は gib の意味には去勢された雄猫、というのがありました!) ちなみにメアリがさらわれるようにしてやってきたエンドア大学の校長は魔女ですが、エンドアの魔女 witch of Endor とは旧約聖書に出てくる霊媒師。 こんなふうに、原作だと固有名詞の背景なんかも探れて楽しいです。各章のタイトルも、すべて、マザーグースなどの童歌や慣用句が使われています。マザーグースは、エンドア大学で生徒が習っている呪文の中で、奇妙にゆがめられた替え歌となり、それはマンブルチュク校長とドクター・ディーの危険な「生物を変身させる研究」で生み出された奇形の生き物たちを暗示しています。 エンドアの描写も古風な風変わりさで、ポップでファンシーよりはぐっと渋めです。まあ、主人公も舞台背景もそんなでは、やはり日本の子供たち向けの映画にはしにくいでしょうね、地味すぎて。 フラナガンの箒談義や、後半の息をつかせぬ箒のデッド・ヒートは、この物語のレトロモダンな面白さです。特に箒談義には百貨店のハロッズなどが出てきて、日本の子供にはわかりにくいでしょうね。 エンドアからの脱出行と逃亡は、映画のように複雑なくり返しはなく、魔法合戦もありません。ただただ小さな箒が頑張って飛び、途中から少年ピーターも加わって単純でわかりやすいトリックを使ったり、低空飛行したり、それでもハラハラドキドキの迫力です。 現実世界近くまで来ると、霧が出現。局所的な濃い川霧で、妖精譚に出てくるお定まりの異界との境界ですね。疾走するシカや群れ飛ぶ小鳥たちなんかも、イギリスの大自然!です。 そんなわけで、イギリス好きな人にはお薦めしたい原作でした。 ついでに、もっと古典的な魔女と黒猫と箒の話、こちらはイギリスの都会のお話『黒ねこの王子カーボネル』もあります。読み比べるといっそう楽しいかもしれません。
May 1, 2024
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最近もっとも気になるコミックス『プリンタニア・ニッポン』の第4巻がさきごろ出ました! 以前にも日記に書いたのですが、"さびしいあたたかさ"を心地よく感じるSFです。癒やし系ペット「プリンタニア」と、希薄で繊細な登場人物たち、そして見え隠れする終末後の世界設定が、絶妙に混じりあってじわじわ来ます。 以下ネタバレ! 第4巻では、この世界の子供たちが教育課程で必ず行う「凪の劇」が紹介されます。それは主人公佐藤46(また書きますけど、砂糖・白、というか佐藤四郎くんですね)を始め「現行人類」の、ルーツを物語るいわば神話でした。 神話というと、たとえばキリスト教等の創世記で、原罪(神に服従せず知恵の木の実を食べた等)と楽園喪失が語られますが、これは人間が人間である以上必然的な運命とも思えます。なんとなれば、禁を破っても本質を見極めたいという知への欲求、それこそが人間の特性で、いろんな神話や伝説に語られてきました。 この物語の「現行人類」も、生みの親であるシステム「大きな猫」に服従せず、猫が設定した安全領域の壁を破って外界に出て行ったのです。 自らの目で確かめたい ーー迷子『プリンタニア・ニッポン』4巻 と言って。(何だかトールキン『シルマリルリオン』でノルドールが神々の国から中つ国へ自主的追放となる話を思いだしてしまいました。) そして最後の旧人類マリアは「大きな猫」の制止をきかず彼らを助けに行って「残兵」に連れ去られ、さらにマリアの専属AI?ハリスもマリアを追っていき、破壊されてしまいます。さらに破れ目から「残兵」が侵入し安全領域は危機に瀕しました。 それでも禁を破った彼らを”悪者”とはとらえず、 進むことが/私達の償いです ーー同1巻 共に在るために/進むことが私達の償いなのです ーー同4巻 真理は我らを/自由にする 知ることで/広がることもあるし省みることもできる ーー同4巻 彼らを最初外に出さなかった「大きな猫」は、人類を守るためにプログラムされたシステムであり、しかもシステムなりの感情?でしょうか、 猫は再び失うことが嫌でした ーー同4巻などと動機が語られ、禁を課した判断も”悪”ではないとされています。さらに、破局のあと、猫は彼らへの理解を深め、外に出ることに同意しました。 残された「現行人類」である佐藤たちは、この壮絶な神話を子供の頃から劇として思考基盤にすりこまれています。だからでしょうか、彼らは私たち(というか、昭和な読者であるHANNA)からすると、非常に繊細で臆病でこわれやすい感じがします(ひょっとすると令和の若者たちはみんなこれぐらい繊細なのかもしれませんね)。だから登場人物全員がいとおしい。きっとプリンタニアたちもそんな気持ちで現行人類に寄り添っているのでしょう。 ”悪者”のいない物語。佐藤たちを脅かす「残兵」も、もとは旧人類が自衛のために?創ったロボット兵器のようで、「彼岸」の奥の幻影では、 お帰りなさい/・・・帰還をお待ちしていました ・・・お守りします ーー3巻などと、自国民にとっては心強い警護ロボであったことがうかがえます。 "悪者"はいなくとも、世界は破壊され、旧人類は失われ、その喪失と後悔を抱えて現行人類は未来を切り開かねばならない。劇のあと、塩野1が危険な外地へ知識を得に行く決意をし、皆は心配しつつそれを止めないのが、象徴的でした。 価値観の多様化の叫ばれる今日この頃に即した、せつなくさびしいけれど、よるべなくはかないけれど、まだまだかたよりや不足があるけれど、一生懸命であたたかい、そんな世界の物語。 そうそう、色々と次に来る種明かし(この物語流にいうと、開示される情報)を想像して楽しむこともできます(以下勝手な予測をふくむ); 1,かなり衝撃の「おまけ」つき。はなから怪しかった永淵さんは、ほんとの永淵さんでないことが判明。過去の壮絶な体験ののち、親友永淵の遺志を継いだのですね。劇の時ひとりでさびしがる永淵さん、ぼろぼろの白衣の上半身を大切にする永淵さん、泣けます! 2,プリンタニアたちが「うえがぐるぐる」してる、危険かどうかは「きてみないとわかんない」と言ってるのは、過去の破壊に際して宇宙空間に逃れた旧人類が帰還しようとしているのでは! 劇中の猫の「旅の友」というのは彼らのことかも!
April 2, 2024
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前回に続いてサンリオ文庫の表紙(竹宮恵子)を載せます。理知的で時々難解なル=グインにも、こんなみずみずしい作品があったのですね! という感想もひき続き。表紙絵も若いですね。 『ロカノンの世界』を踏まえた第2作『辺境の惑星』と第3作『幻影の都市』には、同じ惑星ウェレル(りゅう座のガンマ星の周りを回っているとされる)に移住した人々が出てきます。 この2作はある意味対照的で、『辺境』は惑星ウェレルが舞台だが、主人公(の一人)は地球からの移住者の子孫。地球人だけれどウェレルで生まれウェレルしか知りません。 『幻影』は地球が舞台だが、主人公はウェレルからやって来た、『辺境』の主人公の子孫。この子孫はウェレルの先住民との混血の結果、黄色い瞳をしたウェレル人ですが、地球に到達した時に記憶を失い、地球で生活した記憶しかありません。 『辺境』では、ウェレルに移住した地球人たちが、本国や「全世界連盟」との連絡が途絶したあと、どのように生き延び、先住民と融合していったかが描かれます。他者との理解と融合は、ル=グインのテーマの一つだと思いますが、やはりそれは彼女の属したアメリカという国が、異なる文化・人種の人々が努力して作り上げた国であること、また彼女の父がアメリカの先住民との関係性を研究した人だったこと、などを思うと、うなずけます。 移住した一握りの地球人たちは最初、自分たちだけで住み、いわゆる”上から目線”で、先住民と必要以上交わろうとしませんでした。結果、彼らは人種的に衰退し、技術や文化も退行してしまいます。 しかし、主人公アガトが、先住民の娘ロルリーと恋に落ちたのをきっかけに、二つの民は協力して敵から町を守り、過酷な冬に備えます。 アガトは気マジメ君だしロルリーは「端境期生まれ」の変わり種ですが、そんな二人のなんともステキなラブロマンスが展開。あと、老耄してなおカッコイイ先住民の族長とか、衰退しつつ矜持を保つ地球人たちとか、ヒロイックな登場人物たちがいっぱいです。 おまけに地球人たちは自分でも知らぬ間に、生物学的にウェレルに適応していきます; 「・・・死産や流産は・・・過剰適応のせいか、あるいはむしろ・・・〔ウェレルに適した〕様式になってきた胎児が、母親と両立しえないためだろう」 ――ル=グイン『辺境の惑星』脇明子訳(ハヤカワ文庫) そして、適応した地球人は先住民と融合するだろうという予測のもと、皆で団結、困難を克服、明るい未来を向いて物語は終わります。SFとしてはちょっとできすぎな終わり方は、ファンタジー的・神話的といえるかも。 いっぽう、『幻影』では、全世界同盟の共通の敵である異星人(シング)が地球を支配している時代が描かれます。支配といっても一握りの彼らは自分たちだけで「幻影の都市」に住み、「上から目線」で地球人たちをだましています。舞台はアメリカ大陸ですが、地球文明はすっかり退行し、人々はまるで開拓時代のような暮らしをしています。かと思うと武器だけはSF的で、野蛮に人間を狩る種族などもいます。 正しい情報を得られない人々が、自分たちでも気づかぬうちに、どんなに衰退し無知蒙昧になってしまうか。フェイク・ニュースや偏った知識などがアメリカ社会を分断し退行させているように思える今日この頃、これはル=グインの未来への警告であったようにも思えます。 主人公は記憶喪失のフォークですが、彼はアメリカ大陸を横断するあいだに、断片的に残っている昔の知識や考え方(ル=グインの好きなタオイズム)に触れてゆきます。そのおかげで、やがて幻影の都市で異星人と相対したとき、彼は異星人の偽装を見破ることができました。彼はウェレル人である元の自分の記憶を取り戻し、異星人についてこんな感想を持ちます; 初めてこの地〔=地球〕へ来て以来、嘘言を押し通してきた千二百年という日々、自分たちにとって全く意味をなさない心と、永遠に実りをもたらすことのない肉体とを持った種族〔=地球人〕を支配するという決意のもとに、遙かなる星から来た流浪者もしくは海賊もしくは帝国興隆者。・・・孤独な、孤立無援の聾唖者たち。《おお、何たる孤独……》 ――ル=グイン『幻影の都市』山田和子訳(サンリオSF文庫) 異星人たちは、先住民と交わってともに発展しようとせず、純血と孤高を保つがゆえに、両者はともに孤立無援で衰退していく・・・『辺境』のウェレル人とは真逆の運命です。 というふうに、対照的な前作と比較しながら味わって、現代にも通じる批判や警告を読み取ったりすると、これはSFだなあと感じられます。 でも、主人公が真の自分を求めて探索行をし、敵の嘘を見破り、過去と現在ふたつの自我を統御し、宇宙船を奪って故郷の星へ帰還する、というストーリーを追いかけると、ワクワクドキドキ、ファンタジーだな、とも思われます。
March 16, 2024
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なつかしいサンリオ文庫の表紙(竹宮恵子)を掲げてみました。ハヤカワになってからの表紙は萩尾望都ですから、SF漫画家の大御所二人の表紙絵があるわけで、さすがアーシュラ・ル=グインのSF処女作です! どちらの表紙にもあるように、地球とは異なる惑星で、翼のある猫のような大型獣「風馬」(ハヤカワでは「風虎」)を駆って旅をする人々が出てきて、もうそれだけでファンタジック(ちなみに原書ペイパーバックの表紙に描かれている風馬はおどろおどろしいです)。 ル=グイン独自のハイニッシュ・ユニバースという宇宙史を舞台にしています。私が初めて読んだハイニッシュ・ユニバースもの『闇の左手』では、宇宙連盟からの使者も、惑星「冬」の住民側も、政争や領土争いのなか、理解不足、誤解、反発、焦燥、後悔など、精神的葛藤が続きます。もちろんそれだけに、それらを乗りこえて使者ゲンリー・アイと現地人エストラーベンが理解し合うクライマックスは感動モノなのですが、全体的に、異種間の相互理解の難しさを思い知らされる感じです。 それに比べて、処女作である『ロカノンの世界』は、重苦しい状況のなかでも、連盟からの使者ロカノンと、惑星の住民たちとが、協力し思いやり、努力しあって仲間として行動していくストーリーなので、明るく安心して読み進めます。作者の若々しい理想主義、かもしれませんね。 「…穴熊なんて呼んじゃいけないな」ロカノンは良心的に言った。…民族学者としてこういう言葉には抵抗すべき立場だったのだ。 ――ル=グイン『ロカノンの世界』青木由紀子訳 言葉だけでなく、ロカノンはその惑星特有の色んな種族に出会うたびに、できるだけ先入観や偏見のないような考え方・振る舞いをしようと努力し実践していきます。いためつけられても、「ご親切にあずかりたい」と言い、「わたしは平和のうちに来り、平和のうちに去る者だ」と眼力のみで戦い、つねに冷静に、相手はどんな人々でどんな感じ方・考え方を持っているかを考えて対処しようとします。同僚を皆殺しにされ唯一の生存者として連盟に危機を告げねばならない身の上なのに、自暴自棄にもならず諦めず、実にあっぱれです。作者自身の父(高名な文化人類学者)に少し似ているのかもしれない、などと思います。 この作品が書かれた1960年代はもちろん、現在でも、アメリカでも世界でも、不理解と差別が悲劇をうみ続けていることを思うと、ロカノンの態度はすばらしく、全力で応援したくなります。 また、実際に全面的に彼を応援する現地の青年貴族モギエンの、なんとカッコイイこと。見た目の描写はもとより、立ち居振る舞いが騎士道的というかサムライ精神というか、ほれぼれします。自分と敵に厳しく、部下と友には寛大で、死の予兆を感じても騒がず恐れず自分の生き方を貫いていきます! また、光の妖精的な種族や、対する闇の小人的な種族でさえ、それぞれの信条と生き方に従って、礼節を守り堂々と多種族と相対していきます。 伝説や神話、伝承詩などをちりばめて、ロカノンは次々に現地人の仲間を失いつつも、旅を続けます。目的地に近い南大陸の未踏の地をゆくにつれ、旅はどんどんファンタジー色を強め、クエスト的になり、(ネタバレ→)ついに彼は隠者のような種族の導きによって「心話」つまりテレパシーを会得します。 それまでこつこつと研究や努力を重ねて異種族を理解しようとしてきたロカノンが、このときを境に、一足飛びにテレパシーで他人の心の声を聴くことができてしまう。敵地にしのびこむ切り札としてとっても便利なのですが、便利さを上回る情報過多が彼を襲います。インターネットやSNSにさらされた現代人にも似て、彼のメンタルは他人の心のつぶやきに翻弄され、初めてズタズタにやられてしまうのです。 テレパシーなどなしに相互理解を築いてきた仲間を次々失い、敵の大量の心の声にうちのめされる、これがロカノンのクエストの成功の代償でした。 そう思うと物語の結末は、明るく達成感に満ちたハッピーエンドではありません。『指輪物語』の結末においてクエストを達成したフロドが、メンタル的に癒やされない傷を負って現世から去って行くように、ロカノンも達成後長くは生きられず、連盟からの救助船が来る前にその地で没したことが語られます。異郷に捧げた彼の人生の重みを感じるとき、単なる冒険活劇ではないこの物語の深さに感動します。
February 24, 2024
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昨年(2023年)の超話題作。次々と続編も出ているので、とりあえず第1巻電子版を入手しました。『はてしない物語』風の表紙だし、本当はハードカバーが欲しいところですが、最近本棚にゆとりがないので・・・ 前半は普通に、後半の怒濤の展開は怒濤の速さで読んでしまいました。異世界、歴史物、そして繊細な自己形成やロマンスの魅力がぎゅっと詰まった青春小説でもあります。 荻原規子の勾玉シリーズ以来かなあ、どんどんまっすぐ読み進めるこの充足感! 前半はおもに異世界の紹介という感じ。巻頭の2枚の地図が示すように、大きな異世界の枠組み(中世の西欧風)の中に、その世界から見ても異世界と思われるユニークな小国レーエンデ(山に囲まれ湖があって法皇の傭兵で…スイスみたい、と最初私は思いました)があるため、読者は段階を踏んで二重に奥まった異界へと誘われます。 最初は風物の描写や説明が多くなりがちですから、読者はちょっとぎくしゃくしながらついていきますが、これは初めて見る世界、会う人々に目を見はりぎくしゃくする、初々しい主人公ユリアも同じで、だんだんになじんできます。 地名が出てくるたびに地図を繰ったりしながら、この異世界になじんでいく感じが、ファンタジー好きにとっては、まずは快感です。 レーエンデ国は内陸にありますが満月の夜に時として幻の海が出現し、幻の魚が泳ぎます。ほかの部分に魔法や超常体験がなく、かっちりと理にかなった手ざわりの異世界なので、この神秘がきわだって印象的。 ・・・それは絹の光沢を帯びていた。手触りさえ感じられそうなほど濃厚で滑らかだった。銀色の薄衣がうねり、たゆたい、渦を描く。大蛇のように地を這い、身悶え、鎌首をもたげる。(中略)まるで滔々と流れる大河、飛沫き逆巻く急流のよう・・・ ―― 多崎礼『レーエンデ国物語』 いい感じですねえ。森に現れる銀色の霧が次第に大河、急流、海に感じられ、古代魚が泳ぐ。そう思ってふり返ると、ふだんから時々銀の泡が飛んだり、梢のざわめきが潮騒に聞こえたりしていましたっけ。 スイスみたい、と思ったもう一つのわけは、トゲのある大きな古代魚が、スイス・アルプスで発掘される化石の魚や魚竜を思い起こさせたから。アルプス山脈は大昔、海(“幻の海”テティス海)だったので水生生物の化石が出るそうですが、レーエンデも太古には海だったのかも、それをいうなら陸地ができる前はどこだって海だった、その太古の海が時空を超えてよみがえるのが「幻の海」という現象なのかもしれません。 それからまた、別の見方をしますと、幻にせよ水というのは(ユングなどによれば)無意識の象徴です。理知的な自意識の日常世界に突如として押し寄せて、根源的で感性的で理屈に合わない圧倒的なエネルギーで、世界や意識に変化をもたらし再生を促します。 私的には以前から、たとえば、宮崎駿「崖の上のポニョ」で大きな月のもとあふれた海の圧倒的な存在感(古代魚も泳いでました)や、上橋菜穂子「守り人シリーズ」の水界ナユグの幻想的な描写、水の精霊の卵を宿した皇子などに、異界としての水の再生のエネルギーを感じました。また、あしべゆうほ『クリスタル・ドラゴン』にも、不意にやってきた「幻の波」に乗って常若の国の世界樹のもとへ行く話がありましたっけ。 レーエンデの「幻の海」も、現実世界(といっても外枠の異世界です)や意識界が停滞したとき、それを補うようにパワーアップする無意識・ファンタジー界なんでしょう。やがて世界と主人公たちを変化・再編成へと導く――これぞファンタジーの底力そのものですね! 意識界の停滞について。魅力的な登場人物たちは、それぞれが未来に対して「詰んで」います。政略結婚から逃げてきたものの自分の生きる道が見えない主人公ユリア。生まれと業病(幻の海の刻印ともいえる銀呪病)のために若くして人生の終点が見えているトリスタン。視力を損なってもはや英雄として戦場に立てないヘクトル。「幻の海」はその行きづまりを別次元で打開するきっかけとなっているように思えます。 ユリアが、無意識界の中心・再生する自己の象徴ともいうべき赤子を宿したあと、現実世界でも状況がどんどん変わり進んでいきます。後半のたたみかけるような簡潔で怒濤の展開に、加速をつけて回り始めた運命の歯車の変転パワーを感じ、一気に結末まで駆け抜ける爽快感がありました。 もちろん、読者としては幻の海や赤子の正体など、さらなる説明が欲しいし、後日譚も簡潔すぎて色々知りたいことがいっぱい。 あと、冒頭にくり返された「革命」という言葉が、どうも宙にういたままの気がするんですが(終章まで読んでも、「内戦」とか「独立戦争」はあるけど、ユリアの生涯に起こった出来事はどれも「革命」じゃないですよね)、ユリアは「革命の始原者」とあるから、解明は続巻に引き継がれているのかしら。 早く続きを読まなくちゃ、のHANNAでした。
January 8, 2024
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あけましておめでとうございます。 もう何年目になるかなのこのブログ、今年も備忘録的にのろのろと続けていければと思います。 読んでくださる方がおいでなら、よろしくおつきあいくださいませ。 色塗り手抜きの私のドラゴン(左)と、イラストソフトを使った娘のタツノオトシゴ(右)です。彼女は幼い頃から大好きな「水の生き物図鑑」をかたわらに短時間で作っちゃいます。 12年前の絵柄と比べると基本的には変わってないお絵かきがツールによってものすごい進化を遂げているのがわかります。 反対に私は寄る年波?が感じられる絵になってしまいました。 ともあれ、できるだけ穏やかで健やかな年になりますように。高望みはしませんが、できるだけ、ね。
January 1, 2024
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若い頃、タイトルの「リアノン」(ケルトの女神の名)「魔剣」、そして舞台が火星、それだけで買った文庫本です。 読み始めてみたら、ここでのリアノンは古代火星の堕ちたる神(しかも男神)だというので、なんだかがっかり…けれど、ストーリー展開が速くて小気味よいので、後半けっこう楽しめました。 この表紙絵もそうですが、物語は古き良きテクノカラーなハリウッド調の冒険活劇。舞台が火星なのも、単にエキゾチックなロマンの香りがするから、かも。たとえば大航海時代の植民地とかでも同様の話がつくれそうです。 始まりは火星の無法都市。主人公カースは典型的タフ・ガイ。 呪われた神リアノンの墓を暴くと、SFというよりマジカルな、泡立つ暗黒のタイムマシンを発見。不思議の国のアリスがうさぎ穴を落ちていくごとく、いやそれより凄い恐怖と苦痛をともないつつ、暗黒を落下?して、カースは古代火星へ。 先日、科学ニュースで火星の緑色の夜空の写真を見ました。私のありきたりな想像では火星の空は赤いと思ってましたが、ただの先入観でした。異世界の自然て地球の常識からかけはなれていて、それだけでファンタジックですよね。 この物語の古代火星世界では、海が乳白色に輝いているという設定です。翼のある種族や海を自在に泳ぐ種族もいます。 そしてヒロイン登場、一見サディスティックで高慢な軍装のプリンセス、ユウェインです。 カースは、三枚目の盗賊だが重要な理解者ボガズの助けを得るも、奴隷となりガレー船を漕ぐ羽目に(ああ、「ベン・ハー」みたい)。でも大丈夫、反乱を起こして船を乗っ取ります。 さらに、ユウェインの国を援助する、邪悪な蛇種族も登場。呪われたリアノン神から超科学の一端を教わり、世界征服を企んでいます。そもそも彼らに要らぬ知恵をつけたという罪で、リアノンは仲間の神々から罰せられ墓に封印されたのでした。 カースは超科学の宿るリアノンの魔剣で船上の蛇族を殺しますが、やがて上陸した自由連邦みたいな国コンドールで、巫女的な少女エマール(表紙絵の女性です)から告発されます; 「あなた自身が<呪われしもの>リアノンなのだから!」 「リアノンがあなたの眼を通じて見守り、舌を通じて語るのよ」 ――リイ・ブラケット『リアノンの魔剣』那岐大訳 カースは墓所でリアノンに憑依されていたのでした。おまけにそのリアノンは、自分は改心した、蛇族を滅ぼして罪をつぐないたい、などと言い出すのです。だまされるな!と激高する人々。カースは意志力で必死に自分の中のリアノンを押さえこみますが、コンドールの人々はリアノンの依り代であるカースを殺そうとします。さあ、どうするカース。 ここからが面白かった。逆境を逆手に取った大芝居をうち、カースは蛇種族の根城に侵入しハラハラドキドキ危機一髪で逆転劇。ネタバレをしますと、リアノンはほんとに悔い改めて良い神さまになり、蛇族をやっつけちゃうのです。えー、そんな簡単に改心とかあり? 近ごろの、闇落ちが流行のダークなファンタジーに慣れた心には、根源的悪を体現するリアノンがあっさり善玉になっちゃうので、あっけにとられます。だって、叛逆の堕天使サタンと同じ立ち位置だったんですからね。それが、キチンと反省して罪をつぐない、神さま仲間のもとへ戻るって…? でも、素直な心で喜ぶべき結末なんでしょうね。 カースは実は犠牲者だった勇ましいユウェインを連れて、もとの火星(白かった海も干あがり町は猥雑で滅びに向かっている)に凱旋します。タイムトラベル的にはリアノンの改心はどうつじつまが合うんだろう?と思いますけど。魔剣をかかげて美女とともに未来へ向かうヒーロー、新たな旅立ち。 でも、明るいエンディングを喜ぶ一方、ふと考えてしまいます。リアノンて、神々の知恵の一端を下位の種族に教えた罪に問われた点に注目すると、サタンというよりプロメテウス(人類に火を教えた罪に問われ罰せられたギリシャの神)ですね。ということは、超科学を教えられ悪用して世界征服をたくらみ、とうとうその超科学で滅ぼされた蛇族って、じつはわれわれ人類のこととも思えてきます。 明るく力強いストーリーをも、やっぱりダークに読んでしまうのは、時代でしょうかね・・・
December 18, 2023
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キャッチコピーいわく「“冒険の終わり”から始まる…後日譚ファンタジー」。タイトルも印象的ですね、『葬送のフリーレン』。私ははじめ、クエストで犠牲者が出て弔いをしたり、遺品を故郷に届けたりする話、かと思いました。いや、違います! 過去の冒険のメンバーの一人、長命で不老のエルフが、仲間たちが年老いて死んだりした後で、昔日の魔王討伐の探索行を辿り直すというストーリー。後日譚である点がこの物語を白眉にしていると言われてますが、なぜそもそも後日譚がメインなんでしょう。 読み進むとすぐわかるのは、魔王討伐から80年経って、魔王の部下(七崩賢)が復活してきている。魔王をやっつけて世界平和!と思ったけれど、それはしばらくの間しか続かなかったわけです。 敗北とそれに続く小休止の後、影は必ず別の形をとって、ふたたび勢いを盛り返す ―――トールキン『指輪物語 旅の仲間』よりガンダルフの言葉 悪が復活して再び不幸や争いが生じるなら、「勇者」も再び探索や戦いをせねばならない。その中で、以前の体験が思い出されたり蒸し返されたり、再発見されたりします。よく考えると、歴史ってそうやって繰り返されていくんですよね。 だからこれ、シリーズ物やファンタジーでは定番。前日譚/過去編/エピソード0、後日譚/続編/○○の逆襲…、冒険・探索物語には、背景に善悪対立の歴史がつきものです。どの物語も、以前の出来事から見れば後日譚であり、後の出来事から見れば前日譚。「スターウォーズ」を思うとよくわかりますね。シリーズを通して、善と悪とがシーソーゲームのように隆盛し敗北し復活し逆襲する。 とすると『葬送のフリーレン』の特徴はただの後日譚ではなく、長命なフリーレンが過去の冒険を振り返りつつ新たなメンバーとともに後日譚の冒険でも活躍すること、とも言えそうです。 でも二度目のクエストというのも実は珍しくはなくて、たとえば古英語の叙事詩「ベーオウルフ」のヒーローは若い頃に怪物退治を行い、年老いてから竜と戦う二部構成で、年齢による前半後半の違いが対比されます。 『ホビットの冒険』・『指輪物語』も、指輪をめぐるクエストとしては、60~70年を経て繰り返されます。最初の主人公ビルボは老いて甥フロドに主人公と指輪とを譲りますが、フロドはビルボの足跡を追うように旅を始めますから、フリーレンの二度目の旅と少し似ています。 また、どちらにも参加するガンダルフは、長命・不老(初見から老人ですが)でそれゆえに知識・経験・胆力どれをとってもピカイチの魔法使いという点でもフリーレンと似ています。 ただ、最初から人々のよき理解者だったガンダルフとは違って、フリーレンは、冒険によって「変わり」ました。長命ゆえに人間たちの生き様を理解しようとせず、部外者づらをして何事にもさめていた彼女が、勇者ヒンメルが老いて死んだとき、突然感情があふれて涙を見せます; 「…だって私、/この人の事/何も知らないし… …なんでもっと/知ろうと/思わなかったんだろう…」 ――山田鐘人・アベツカサ『葬送のフリーレン』 ここで私は古いコミックスを思い出したんですけど、 「どうして/もっと知ろうと/しなかったんだろう わたし/あの人を/好きだった」 ――小椋冬美『リップスティック・グラフィティ』 これは女子高生の心の叫びで、「あの人」とは、恋人未満で別れてしまった学校の先輩。予期せぬ涙が急にあふれる、とても初々しい、思春期の少女の姿です。・・・フリーレンとそっくりな表情とセリフ…フリーレンてば、外見もそうだけど精神的にもJKレベル? もちろん、エルフですから人間の基準で判断してはいけないんですけど。 そのあと、回想シーンなどから、ヒンメルは冒険の日々にフリーレンを好きになり、時々アプローチを試みていたらしいことが、読者には分かってきます。しかしフリーレンは彼の言動に注意を払わず、彼が老死した時点でも彼の気持ちを理解していないのです。「わたしあの人が好きだった」という気づきもないとは、人間の基準にてらすとJKより未熟だといえましょう。弟子フェルン(16歳)から「にぶい」と言われ、そこそこオジサンのザインからも「ガキ」扱いです。 性懲りもなくミミックな宝箱に頭をつっこむところ、寝相の悪いところ、頭をなでられたりなでたりするところ、みんな子供の仕草や特徴ですね。それが、千歳をこえるエルフらしい達観した態度と共存して、おかしなギャップ(と魅力)をかもしだしているようです。 達観している時のフリーレンは自分でも「だらだら生きていた」と言ってますが、精神的に何百年も子供だったことを、成長し始めた時点から振り返ると、さぞかし単調な日々だったと自覚することでしょうね。 10年間の冒険では短すぎ、メンバーが老死して初めて精神的成長を始めたフリーレン。後日譚は、フリーレンの成長物語としてもみることができそうです。 核家族とかSNSの普及とかコロナ等々により、最近の人々は対面のコミュニケーションが不足がちで、人間関係も希薄になりがちと言われます。他人との距離の取り方がわからない、空気が読めない、邪魔(足手まとい)だから友人(弟子)は要らない、これってフリーレンだけでなく現代人にありがちな心の状態でもあるようです。 およそ1000年も孤独な精神的引きこもりだったフリーレン。後日譚にしてようやく、歩み始めたわけですね。コロナが終わってようやく、人との関わりを構築し始める若い人々のように。 孤独ということは、フリーレン以外の勇者メンバーにも、わりと当てはまっています。 冒頭シーンで、王都へ向かうヒンメルたちの周りに誰もいません。王都にはすでに彼らの凱旋が知らされているのに、勇者一行を迎えに誰も来ていませんし、途中の道連れとか、近郊農民が喜んで寄ってくるとか、そういった描写がない(わざと省かれている?)。 王都ではパレードや祝祭がありますが、やっぱり誰も彼らと親しく交わりません。王様からはねぎらいの言葉をもらいましたが、賓客となって高官たちと会話したり、宴につらなったりもしていません。ヒンメルたちは祝祭のすみっこで、自分たちだけで飲み食いし語り合っているだけ。人々は彼らに群がるでもなく、冒険譚を聞くでもなく、彼らのことはそっちのけで楽しんでいます。だから、凱旋場面はなんだか寂しい。 ヒンメルはもともと王都の人らしいのに、家族とか親戚とか友達とかが迎えてくれなかったのか? そして50年後、彼の家をフリーレンが訪ねますが、彼は独居老人ですね。お葬式には人々が集まっていますが、特に親しい人は一人も出てきません。50年経ってもヒンメルの交友関係は、勇者仲間だけだったんでしょうか。 ハイターもしかり、晩年には孤児フェルンだけが家に居て、周りには誰もいなかった模様。隠居したといっても、聖都から偉い人とか後輩司祭が訪ねてきたりしないんでしょうか。 アイゼンも、魔族に一族を殺された生き残りなので最初はひとりぼっちだったでしょうが、50年後も(シュタルクが弟子だった以外)やっぱり家族もご近所さんも出てきません。 オーソドックスな物語なら、ヒーローが冒険を終えた後は、生涯の伴侶を得て家族が増えたり、旅先で心を分かち合う友が増えたりして、交友関係が充実すると思うのに、この物語では、みんな孤独な人生のようです。 「ハリー・ポッター」の後日譚のように、主人公がハリーの子供に引き継がれたりしないんですねえ(ただしハリー・ポッターも仲間内だけでやたら結婚してて交友関係が広がってないですが)。 もちろん、詳しく描かれていないだけで、実際には知人友人いてもいいけれど、それは重視されず省かれているんでしょうね。家族だの仲間だの大勢の絆で盛り上がるというのは、今の時代に合わないのでしょうか。そういう意味では、「葬送のフリーレン」は、中世風異世界ファンタジーなのに現実の今の時代を反映した特異な作品だと思います。 ストーリーは続いていて、少しずつ人間関係、交友関係も広がったり深まったりしていくようです。これからも楽しみですけど、HANNA的には、魔法の資格選抜試験のあたりがちょっと億劫で中だるみしてしまいました(学校とか試験とかトーナメントとかの話って、好きでないのです)
October 12, 2023
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ほのぼのしたアナログ調の絵柄がすてきな、岩本ナオ「金の国水の国」。コミックスを読み、プライムビデオで映画も観てみました。 原作のストーリーやキャラクターはもとより、絵本のようなやわらかい線の特徴を保った、優等生な映画でしたね。細かい変更はありましたが(敵対するA国B国にちゃんと名前がある、国境に城壁がある、などなど)、どれも理解しやすくなっていて、子供でも楽しめる感じ。 実は設定的にもいろいろ突っ込みどころはあるんですが・・・、交易で栄えているというA国、自国は砂漠と涸れつつあるオアシスで、産物がなさそうですが、中継貿易専門でしょうか? 原作冒頭の地図だと隣のB国以外の国が見えませんけど、B国とは交易してないんだし、具体的にどうやって儲けているのでしょう。 B国は以前A国との戦争に敗れて以来、貧しいということですが、水があり森林があり海もあるのですから、A国よりはよほど農林水産業が発達していそうです。水運を利用すれば、A国と国交がなくとも他の国(どこにあるにせよ)と交易もできそうなのに、なぜ貧しいままなのでしょう。 あと、大多数が無宗教的な現代ニッポンの作品ではありがちだと思うのですが、神様とか宗教の扱いが適当です。この物語も、そもそも二国の仲違いの仲裁をして、いちばんの美女をB国に嫁にやり、いちばんの賢者をA国へ婿にやれ、という神託を下した神様(または宗教指導者)がいたはずなのに、冒頭だけであとはまったく触れられていません。形だけにせよ2国ともが従った神様の権威はどうなっているのでしょう。2ページ目以降、神様に祈る場面もなく、宗教指導者も出てきません。 描かれている風物からすると、特にA国はイスラム圏のようにも見えますが・・・ けれど、そういうことをあれこれ追及すべきではないのかも。たぶんこのお話はおとぎ話というか、寓話というか、余計な条件をそぎ落として単純化してあるのでしょう。 支配者層の意地の張り合いで長年不仲だった2国を、それぞれの国のごく常識的な男女が中心となって和解させる、というのがそのシンプルな筋。 どうしても昨今のご時世から、ロシアとウクライナとか、ロシアとNATOとか、南北朝鮮とかの対立を思ってしまいます。国の体面(というより支配者たちの体面)のために、人々が惑わされ、戦争にかりたてられ、生活基盤を壊され、果ては犠牲者になってしまう、この愚かしさ。 対立抗争を終わらせるのは、軍事力よりも経済力よりも、市井の人々の健全な常識と思いやりである、ということを、シンプルでピュアなメルヘンに触れることによって、多くの人が認識すればと思います。 この物語によれば、一見お飾りのチャラ男であるイケメン俳優の左大臣も、一見王をたぶらかし私腹をこやすだけの右大臣も、一見ぜいたくで高慢な第一王女も、一見もうろくして頑固な国王も、じつは根っからのワルでもバカでもなく、それぞれの立場でそれなりに考えたり頑張ったり悩んだりしているのです。B国の族長も、嫁に来た設定の王女サーラを結局奪いもせず飲み比べを提案し、自分が負けて祝いのご馳走をあげてしまったのも、じつはわざとなのかもしれない、なんて思います。 そして何があっても持ち前の落ち着きと思いやりとマイペースを崩さなかったテンネンのサーラ姫、立派ですね。ナランバヤルもざっくばらんで、やはり落ち着きと思いやりがありました。気がつくとみんなが二人を応援して、みんなが善人になっている。読者もまた。
September 10, 2023
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TV放映を観ました。原題は短く「UP」。予告などを観た時は、ヘリウム風船で飛ぶ家が、あり得ないけどステキと思っていましたが、なるほどカールじいさんは風船売りが職業だったのですね。だから大量の風船をうまく操って飛べるんだ! 物語序盤はちょっと切ない展開。カールとエリー、共通の夢を持つ二人が出会って結婚し、夢の実現へ向けてコツコツ貯金したりするのに、人生ままならず、あれやこれやのうちに二人は年を取ります。夢をかなえられぬままエリーに先立たれ、思い出のつまった我が家からも立ち退くと決まったカールじいさん。UPどころか人生DOWNするばかりです。 追い詰められたじいさんは老人ホームから迎えが来たその時、一発逆転! 大空へ家ごと「UP」して夢の場所(パラダイスの滝)へ出発します。こんな無茶な大技が使えるのなら、なぜもっと早く(エリーが生きているうちに)そうしなかったのでしょう。オーソドックスなファンタジーものなら、若い二人で大冒険をしたでしょうに。 けれど、若い頃二人は夢をめざしながらも、楽しく日々を過ごし、無茶はしませんでした。夢のための貯金は、他に必要なことが出てくるとたびたび取り崩されます。日常生活を犠牲にしたり、借金をしたりしてまで夢に猛進しようとは、しなかったのです。私は――そして多くの人が、共感できるのではないでしょうか(もちろん夢のために艱難辛苦、多大な犠牲を払う人もいるし、それはそれで凄いけれど)。 カールじいさんのように、穏やかな方法で夢に近づこうとすると、実現する前に年をとったりパートナーを失ったりすることもあります。けれど、独居老人になった彼は、仕事もリタイヤしているようだし、近所も再開発で一変してしまい、今までの暮らしにとどまる必要がなくなっています。もう夢しか残っていない。言い換えれば、夢だけは持ち続けた彼に、遅まきながら思いがけない旅立ちの機会がやってきたのです。 興味深いのは、カールじいさんが、迎えの人にまず大きなスーツケースの荷物を渡すところ。何が入っていたかわかりませんが、少しばかり物を手放しているようですね。手放して、身軽になってこそ、出発できる。 まぎれこんだ少年ラッセルを乗せ、このあと空飛ぶ家はパラダイスの滝めざして南米へまっしぐら。嵐も乗り越え、着陸です。それから、ラッセルとのかみ合わないやりとりや、妙な鳥、妙な犬などにわずらわされながらも、カールじいさんは浮く家をロープで引っ張って、今度は頑固なまでに夢へ猛進。風船のしぼむ前に早く早くと、杖をつきながら、すごい執念ですね。そう、老人には残された時間が少ない自覚があるので、あせってしまうのです。 それから、またショッキングな出来事があります。滝の近くでカールじいさんは、自分と亡き妻の夢の原点というべき、憧れの探検家チャールズ・マンツに出会って感激。ところが前時代の遺物みたいなこの探検家は、自身の夢(新種の鳥を生け捕って凱旋する)に固執するあまり、他の旅行家たちを排除してきたようで、カールじいさんをも殺そうとするのです。 マンツは、以前とりあげたコナン・ドイル作『失われた世界』のチャレンジャー教授を彷彿とさせる人物です。チャレンジャーは南米で発見した翼竜の骨を持ち帰るも、インチキ呼ばわりされて激怒し、新たな探検を敢行して生きた翼竜をとらえ、証拠としてロンドンで報告会の会場に放つのです。 マンツも南米の珍鳥の骨をインチキ呼ばわりされ、今度こそ生きた鳥を連れ帰ろうと何十年もその地に住まい、(設定によると)もう94歳! カールじいさん(78歳)とのじいさん対決が面白いのですが、二人は頑固さでは似ているようでいて、対照的なところもあります。夢のためには人殺しもするマンツと、夢に固執しながらも無茶はしない(ラッセルを見殺しにしたりしない)カール。 当たり前ですが、いくら夢が大事でも、いくら有名人でも、人間として良識をなくしてはおしまいです。おまけに他人の夢(カールじいさんの家)を燃やそうとするなんて、絶対やっちゃだめですね。地道な一般人のカールじいさんの方が勝利するのは当然といえましょう。 憧れの探検家にいわば裏切られてしまったカールじいさん。でも、夢を捨てたわけではない、この時こそは最後の猛進のタイミングだったのです。すべてを放って、夢の地(パラダイスの滝の上)に家を着地させ、中に入って家具を整え、妻エリーの椅子の隣に据えた自分の椅子にどっかと座ります。これでやっと、夢はかないました! エリーの残した思い出のノートをめくるカールじいさん。どうしても、ここまでやらなきゃ気が済まないし、これでいいんです。ここまで固執したからこそ、ノートの後半にエリーの遺したメッセージが意味を持ってきます: 「楽しかったわ。ありがとう」 夢はかなわなくても、一緒に夢を追った日々こそが、充実して、尊かったのですね! 無理せず二人のペースで大事に歩んできたから言える実感。 「新しい冒険を始めて」 納得するまで夢を追いかけたからこそ、次へ進むことができるんですね。 そこでカールじいさんは心に区切りをつけ、立ち上がります。座る人のないエリーの椅子には、ラッセル少年の夢である、バッジのいっぱいついた肩ベルトが置いてあります。カールじいさんはそれを持ち、ラッセルのもとへ向かいます。 今までとは態度を一変して、大切な思い出の家具を全部捨てて軽くし(また断捨離してますね!)、新しい冒険(ラッセルと珍鳥の救出)へとUPします。執着の人マインツが乗り移った空飛ぶ家を捨て(さらに断捨離!)、「ただの家だ」と言い切るところ、ほんとにすがすがしいですね。 そしてカールじいさんには、ラッセル少年をパートナーに、新たな人生が始まります。老人が子供と出会って心を通わせるとき、年長者から若い世代へ、確実に受け渡される精神(エリーのバッジ)があるように思われます。自分の夢だけに固執しすぎ犬たちに命令ばかりしていた孤独なマインツとの違いは、最後にもきわだちます。 超高齢化社会の現代、どんな老人になるか、よく考えなきゃいけないなと思われされる作品でした!
August 14, 2023
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タニス・リーというとちょっとダークで絢爛豪華なファンタジー作家さんでしたが、彼女が自分の作風のパロディとして書いたような、「なろう系」的で軽~い異世界転生ファンタジーが、『白馬の王子』です。 タイトルからしておちょくっています。オーソドックスなロマンチック・ヒーロー大好きの友人は、むかし、タイトルと中山星香の表紙絵に惹かれてこの本を読み、「だまされたっ」と怒っておりました。 冒頭から、主人公は、白馬で荒野を旅する自分の名前も目的もわからず、 「・・・いっさいがっさい忘れちまうというのは――ええと記憶ソーヒツだっけ?」 「記憶喪失ですよ」馬がしゃべった。 「やっ、おまえは口がきけるのか!」・・・ 「そんなこと、できるわけないでしょう」と馬。「馬が口をきくなんて話が、どこにあります?」 「そうだな」 ――タニス・リー『白馬の王子』井辻朱美訳と、やりとりもまるで漫才なのです。 気乗りしないまま彼は姫から剣をもらい、陳腐な怪物から逃げ回り、いやいやながら真鍮のドラゴンを倒し、文句を言いつつクエストを続けていきます。その間に、ハート型の月が昇ったり、ドーナツ型の太陽が出たりします。作者、ふざけ放題って感じ。 しかし、彼の旅が進むにつれ、荒野だけだった世界にはさまざまな彩りの風景や生き物が出てきて、あたかも空白な彼の記憶を新たな事物で満たしていくよう。そして彼は自分が<待たれていた救い主>だと知らされます。 世界を救うため外から召喚されたヒーロー。これこそ異世界ものの王道であり真髄ですね。児童文学の古典では、ナルニア国ものがたりの『ライオンと魔女』も、『はてしない物語』もそうです。硬直した社会の改革には、外部からの刺激が必要、ということでしょうか。 鍛冶師が魔剣をくれるし、老賢者は主人公自身の失われた記憶=魂が入っている卵をくれる。気のふれた魔女がそれを奪う。トリックスター的な木の精の少年は、究極の敵「ヌルグレイヴ」がやって来ると言う。・・・というふうに、だんだん彼のやるべきことが見えてきました。しかし、 ふつうこうした異世界へのまきこまれ型主人公は、はじめこそおたおたしていますが、とちゅうからはけっこうその気になってノリ出してしまうことが多いのに、彼はあくまでシラけています。 ――訳者あとがきという具合です。けれど、実はそれが肝心で(→以下ネタバレ)、記憶喪失の部外者だからこそ「ヌルグレイヴ」(じつは「絶望」の実体化だった)に取りつかれず、「歓喜」を生みだすことができたのです。 とはいえ、このオチはちょっとチート(いかさま)、最近のなろう系っぽい。 と思っていると卵は無事にもどり、孵化して、彼は記憶を取り戻します。 「・・・ぼくはとても貧乏で、とても年をとっていて、無一物でひとりぼっちだった。・・・」 ――『白馬の王子』 つまり、主人公は現実世界で野垂れ死に、この異世界に来たらしいのです。 考えようによっては、異世界は彼の内なる世界(魂)そのもので、それは荒野だったり月が三つあったりハチャメチャです。彼は主人公(=ヒーロー、つまり白馬の王子)として自分で自分の人生の<救い主>となってやり直し、現実人生で打ち勝てなかった孤独や荒廃や無秩序、特に「絶望」を克服しなければならなかったのでしょう。 事故死したり、過労死したり、自死したりして始まることも多い最近の転生ものの、これはプロトタイプといえそうです。
August 3, 2023
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アニメ版の時から気になってたんですが、似てますよね!? 挿入歌「アンダー・ザ・シー」と、1985年のチャリティーソング「We Are the World」(USA for Africa)。印象に残るサビの部分がそっくり! いや、別にいいんですけど。 この歌やアニメでは、人魚をはじめ海の住民は、陸の人間のことを、魚貝類を殺して食べてしまうから悪者、みたいに思っています。アニメではセバスチャンが危うく食べられそうになり、宮殿のシェフとドタバタ追いかけっこをする・・・面白いけれど、じつは笑っては済まされない大きな障害となって、アリエルとエリックの恋路に立ち塞がる感じです。 いつも思うんですが、食う食われるの関係を持ちこむと、動物を擬人化した物語は破綻しがち。海の中でもサメはアリエルたちを(たぶん食べようと)追い回すシーンもあります。サメは人間と同様悪者なんでしょうか? なんて突っこみだすと物語が成り立ちません。 そして最後に人間になったアリエルは、これから一生、魚は食べないんでしょうか? エリックは魚を食べるんでしょうか。それらは未解決のまま物語は終わるのです。 今回の実写版ではどうだろうと気にしていましたが、あまりその問題には触れず、セバスチャンとコックのエピソードもなくなっていました。 それより、海の世界と陸の世界とを和解させ平和をもたらすという外交上の功績をあげたことで、アリエルとエリックは祝福されています。 そのほか、人魚姫たちはプリンセスだからといって贅沢三昧遊んで暮らすのでなく、世界の海を見張り、難破船を片付けるという重要な仕事を担っています。人魚姉妹は見た目にもさまざまな人種を思わせ、平等と平和主義をアピール。 さらに白人ぽいエリックは漂着した拾われ子で、国王は女性で白人でなく、国も中米の島国ぽい景色や人々や風俗になっていました。ほんとに、ものすごく気を使ってつくりましたね、ディズニーさん。これこそほんとに「We Are the World」の精神です! 脱帽。
July 15, 2023
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インディ・ジョーンズのシリーズ最終作がいよいよ上映! とのことで、過去作品もテレビ放映されていましたが、私は3番目「最後の聖戦」が好きです。西洋のファンタジーで一大勢力を誇る「アーサー王もの」の重要アイテム「聖杯(グラール)」をめぐる物語ですから。 「最後の聖戦」の聖杯は飲むと永遠の命が授かるという設定でしたが、今回とりあげる『常世の森の魔女(原題だと「心の聖杯」)』では、イエス・キリストの磔刑を笑った女クンドリーが、呪われて千年も生き続け魔女となっています。 クンドリーはもともと、ワグナーのオペラ「パルジファル」の登場人物です。聖杯守護者アムフォルタス(傷ついた漁夫王)に薬を持ってくる(第一幕)のに、悪の魔術師クリングゾル(=クリンゾール)にあやつられパルジファル(=パーシヴァル)を誘惑する(第二幕)、善悪両面を持つとされるそうです。そもそもアムフォルタスが負傷したのも、クンドリーが誘惑したからなのです。 魔術師に支配されたせいでクンドリーはこの物語のすべての悪を引き起こし、呪われ錯乱し、最後には魂の救済を得るけれどそれはすなわち死ぬことでした。善でありたいと願いながら悪に染まり、苦悩と献身のはてに死して救われる、つまり多くの人間の一生を象徴しているとも言えそうですが、・・・普通に考えるとなんだか、どうしようもなく気の毒な役回りですよね。 『常世の森の魔女』では、このクンドリーの生涯が語られます。悪の手先になったいきさつ、なぜキリストを笑ったのか、どのようにアムフォルタスを誘惑し後悔し、苦しんだか、など。 作者の創造のかなめは、クンドリーがアムフォルタスをたらしこんだ時に、千年来で初めて恋心を抱いたので、必死に彼を救おうとするところ。アムフォルタスも、陥れられて、傷と恥辱と後悔しかなくなったというのに、クンドリーが最後に見せた苦痛と後悔の表情を信じて、彼女への愛と赦しを心に確認する・・・つまり純愛ものなんですね。 ところが、このロマンチックな設定、私にはどうもピンと来なかったです。 まず、キリストの時代から千年も高級娼婦をしてきたクンドリーが、なぜいまになって初恋みたいにアムフォルタスへの愛にめざめるのか、その実感がわきません・・・確かにアムフォルタスは彼女を貴婦人として大切にしましたが、千年の経験のうちには同様に彼女にいれこんだ男性も一人や二人いたでしょう。何が彼女の琴線に触れたのか、・・・まあ恋愛ですから理屈抜きの運命的な出会いだったんでしょうか。それならもうちょっとそれらしく、特別な何かが描かれてほしかったですね。 アムフォルタスも、彼女に会う前から、聖杯守護者としての人生に息苦しさを感じて十字軍従軍時代の生活を懐かしむばかりで、どうも魅力に乏しい感じ。 ともあれ、クンドリーは魔術師クリンゾールによって過去につき返され、呪われた千年の生涯をくり返す羽目に陥ります。そこで、彼女は、自分の行動によって過去を改変してキリストの受難を阻み、ひいてはアムフォルタスの恥辱というのちの歴史を起こりえないようにしよう、と努力します。遠大で無謀な、神をも恐れぬ計画ですが、彼女は必死です。そして案の定、普通の人間と同じに見えながら彼女より器の大きいキリストを前にして、彼女はその運命を変えるために動くことは結局できませんでした。絶望するクンドリー; その瞬間、傷口から毒が噴き出すように哄笑が湧き上がった ーースーザン・シュウォーツ『常世の森の魔女』嶋田洋一訳 この場面はなかなか説得力があります。小手先だけで運命を変えようしても、無理だとさとった時の無力感が絶望の笑いとなってしまったのですね。 でもつまり、クンドリーの個人的な愛の心だけでは、呪いは解けなかったということです。 そして「憐れみにより賢者となった愚者」パルジファル(=パーシヴァル)の登場となります。 オペラの筋書きを言えば、クンドリーが彼を誘惑しようと語りかけキスをしたことで、彼はおのれの役割に目ざめて聖杯の奇蹟を起こし、アムフォルタスやクンドリーの魂を救うのです。物語の方でも、救い主はパーシヴァル。原話のテーマである宗教的救済が踏襲され、二人の純愛は、無力でした。 というわけで、宗教劇にロマンスを持ちこんだ物語としては、ちょっと中途半端なんじゃないかなー、と思ったHANNAでした。
June 30, 2023
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タイトルはセンダックの有名絵本『かいじゅうたちのいるところ』のもじりですね。なるほど。 だって、センダックのかいじゅうの独特の外見はおばちゃんおじちゃんだそうですから。そしてこちらの The Wild Ladies は、大阪のおばちゃんです。子育て幽霊だってアメをくれるところは、確かに大阪のおばちゃん。 世界幻想文学大賞(短編部門)。日本人で受賞はレア、すごい!、また、落語や歌舞伎などの古い怪談からインスパイアされた現代の幽霊譚、というのも、怖そうだけど面白そう! と期待しました。 ところが、最初のお話「みがきをかける」が予想と全然違っていたので、ちょっと気が抜けたといいますか、途方に暮れたといいますか。(以下ネタバレ少々) 主人公は彼氏にふられて脱毛サロンに行く。ずっと気にしてきたムダ毛さえなくなればハッピー、みたいに気分を無理矢理アゲようとしていると、「おばちゃん」が訪ねてきて大阪弁で彼女を叱りとばす。 「なに、毛の力、弱めようとしてんねん[中略]・・・その毛はなあ、あんたに残された唯一の野性や。[中略]毛の力はあんたのパワーやで」 ――松田青子『おばちゃんたちのいるところ』 うーん、永久脱毛に興味をもったことのない私には、ムダ毛のトラウマはよく分からないけど、恋にやぶれたら自分磨きを始める気持ちは分かります。ユーミンの「DESTINY」ですね(♪冷たくされて いつかは/みかえすつもりだった/それからどこへ行くにも/着かざってたのに)。いいんじゃない、何がきっかけでも前向きにみがきをかけるって・・・ でも、おばちゃんは、その方向性が間違っていると指摘するのです。自分の内なる野性の毛の力を高めよ、と。見てくれではなく、もっと根性を持て、と。 ただそれがなぜ安珍清姫(娘道成寺)と結びつくのか、イメージ的に破綻しちゃって、私はストーリー半ばで立ち止まってしまいました。物語中で主人公もつっこんでますけど、だって蛇になる話だから、毛をはやすんじゃなくてツルツルの方が合ってません? 永久脱毛して、ウロコでもはやす方が。 真っ黒な毛におおわれた主人公は、むしろ、狼とか熊とか猿とか、そういうワイルドさが似合うのに・・・ それと、実はおばちゃんは1年前に恋にやぶれて自殺していて、幽霊だったのですが、最初から最後までまったく幽霊らしさがなく、死んでいる必要性を感じませんでした。自殺未遂で生き直している、でいいじゃん。だって、大阪のおばちゃんはどこまでも現実くさく人間くさく地に足をつけて生きている人で、幽霊やファンタジーの対極に位置する気がする・・・と思うのは私が凡人なんでしょうか。 つまり、幽霊の雰囲気つまりはファンタジー的な非日常の雰囲気が好きな私は、どこまでも日常的な幽霊に、肩すかしをくらってしまったのでした。 他のお話もすべてそうで、幽霊でもキツネでも、出てくる怪異がすべて日常と同レベルなんです。こわさとか、不思議さ、底知れなさ、ゆめうつつなおぼろさ、現実から遊離した感じ、センス・オブ・ワンダーがない。 最後の、番町皿屋敷お菊が「さっさと転生して」(「下りない」)、「菊枝の青春」の主人公になって普通に暮らしてる、とわかったとき、ああ、この日常性は今はやりの転生ものなんだな、と気づきました。 最近の「ファンタジー」と分類される話には、日常にファンタジー性があるのではなく、異世界にファンタジー性があるのでもない作品が多いのです。 異世界の住人が日常に転生して日常を営む(『パリピ孔明』とかね)。または、異世界に日常性がある(いわゆる異世界転生もの)。ギャップの面白さや社会分析・批判はあるから、それはそれでいいんだけど、ファンタジー性はない。 そう思って読むと、これは怪談の語り直しという形を借りた、現代社会の(特に女性の生き方についての)話なんだと気づきました。 頑張って生きている女性たちの肩の力を抜いてくれ、うんうんと肯定してくれる、力強くも心優しい幽霊たちが次々と登場。その幽霊たちに対する女性たちのまなざしも、気負いなく差別なく親しみ深い。 アトピーがひどい状態の私を見る同級生たちの目は、私を怪物だと言っていました。 だから、お岩やお紺の醜く腫れ上がった顔を見ると、私は悲しくなったのです。[中略]どうして怪物扱いされなければならないのだろう。すっかり自分を重ね合わせて、彼女たちに同情してしまいました。 ――松田青子『おばちゃんたちのいるところ』 なるほど、そういう視点は新鮮ですね。私は怖がりなので、怪談ものを読むと、背筋が冷たくなる系の雰囲気に圧倒されるばかりで、冷静にお岩の容姿がどうとか、考えたことはなかったです。 ただ、お岩が醜くなくても、絶世の美女でも、化けて出たらそりゃあ顔つきは鬼気迫って恐ろしいでしょう。 ・・・と、どうしてもつっこみたくなるけれど、まあ、私から見ると最新流行的な怪談の新視点で、目からウロコ、勉強になりました・・・って、やっぱり毛よりウロコをびっしり生やす力を蓄えた方が、合ってると思うけどなあ、おばちゃん。
May 8, 2023
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いま兵庫県立美術館で「恐竜図鑑」展をやっていたりして(美術館で、です!)、先日はNHKで最新の話題(南半球の恐竜だとか、隕石衝突後も生き残っていた説だとか)を紹介した恐竜番組をやっていたりして、ちょっとブームな感じ。 というわけで、元祖恐竜マニア、レイ・ブラッドベリの『恐竜物語』を開いてみました。ブラッドベリの短編や詩のうち、恐竜に関するものを集めた1冊。色んなイラストレーターのつけた挿絵がふんだんにちりばめられていて、楽しさ倍増です。 「序/前書き」によると、レイ・ブラッドベリや彼の恐竜つながりの相棒レイ・ハリーハウゼンは、映画「ロスト・ワールド」(1925年)の恐竜の魅力にノックアウトされたとのこと。これは以前とりあげたコナン・ドイルの『失われた世界』の映画版ですね。 最初の物語「恐竜のほかに、大きくなったら何になりたい?」の主人公ベンジャミン・スポールディング少年(『たんぽぽのお酒』の主人公と姓が同じです)も、この映画の影響で、「大きくなったら恐竜になる」と決意します。 すると彼は変化し始めます。歯ぎしりをしたりして、恐竜ぽいオーラが出始めるというか、そのあたりはブラッドベリの描写が見事なのですが、とにかく本物の恐竜に少し近づき始めるのです。 人間だって進化の証拠に、脳みそには「爬虫類脳」と呼ばれる部位(脳幹や小脳)があるそうですから、ベンジャミン少年の奥底にティラノサウルスがひそんでいても不思議はないという気もしてきます。 以下ネタバレ→結局は、彼の「観察」を趣味とするおじいちゃんが、ベンジャミンの変化を止めて、将来の夢を「機関士」に変更させます。 面白いのは、タイトルの「恐竜のほかに~」が、最初は「恐竜以外なりたい職業はない」という反語的な意味で使われますが、最後にはおじいちゃんが同じ問いを発するのに、「恐竜を除外すれば、何になりたいか」という文字通りの意味に使っているところ。つまり、恐竜になりたいという願望はいちおう退けられたけれど、消えてはいない、むしろ他のなりたい職業とは別格となって、ベンジャミンの奥底に存在し続けるだろうな、とも考えられるのです。 このあと、有名な短編「いかずちの音」「霧笛」(もとは『太陽の黄金の林檎』に収録)があったり、恐竜の詩があったりして、最後の短編が「ティラノサウルス・レックス」です。 これは上記のレイ・ハリーハウゼンがモデルの主人公が、ミニチュア恐竜模型を作ってアニメーション映画を撮る話です。彼は自作のティラノサウルスを自分の「分身」として心血を注ぎこんで作りあげ、短編映画を制作しますが、強権的なプロデューサーは難癖ばかりつけて何度も作り直しをさせます。 またネタバレ→とうとうできあがったティラノサウルスの顔は、なんだかプロデューサー自身にそっくりでした。激怒するプロデューサー。ところが居合わせたある人物が、逆説的なことを言います; 世界を恐怖におとしいれるモンスター。ここには独立心、権力、気力、鋭い動物的な悪がしこさ、そういったものをひとまとめにした、孤独な、誇りたかい、すばらしくもまたおそろしい象徴がある。まことの民主主義者、主体性のきわみ、いかずちと稲妻のかたまり。恐竜すなわちジョー・クラレンス[=プロデューサー]、ジョー・クラレンスすなわち恐竜。人間のかたちをとった恐竜の帝王なんだ! ――レイ・ブラッドベリ「ティラノサウルス・レックス」伊藤典夫訳 そしてプロデューサーは上機嫌になり、映画も大成功、というわけです。 この皮肉な物語には、二つの形で最初の短編に対応しています。一つ、レイ・ハリーハウゼンはいわば、大人になった恐竜少年で、自分の分身の恐竜人形を作り動かし命を吹きこんで映画を作るという仕事をしているのです。つまり、レイ・ハリーハウゼン自身すなわち恐竜なのです。 二つめは、「ジョー・クラレンスすなわち恐竜」の文字通り、「大王」と呼ばれるプロデューサー、クラレンスはこの業界で憎たらしいほど権力を持ち、すべてを支配しています。彼の影響力たるや、彼を嫌うハリーハウゼンが無意識にティラノサウルスの顔を彼に似せて作ってしまうほどすごいのです。 こうして、この物語はベンジャミン少年の問いかけ「恐竜のほかに、大きくなったら何になりたい?」の答えとして、本書をしめくくっています! 主人公にも悪役にも恐竜がひそんでいたという結末。さすがレイ・ブラッドベリ!
April 3, 2023
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先のブログにあげた『うさぎは正義』の最新連載を見ていますと、主人公たちがたどりついた理想郷「うさぎの国」は、人工知能?による管理社会で、それをつくった人類は滅びた後でした。 メルヘンな物語の終盤になって現れた黙示録的展開に、ちょっとびっくり。 最近はやりの未来像なのでしょうか、AIに管理された平和な理想郷。 昔のあからさまなディストピア(ジョージ・オーウェルの『1984年』に代表される)や、悪夢のような生態系(『風の谷のナウシカ』や椎名誠『アド・バード』など)、暴力世界(『北斗の拳』とか)とは違い、平穏で居心地の良い未来世界(問題はあるにせよ)です。 癒やしの権化のようなモチモチの生物がたくさん出てくる『プリンタニア・ニッポン』迷子作 というコミックスも、そんな理想郷が建設されて間もない(再構築途上の)世界が舞台です。 3Dプリンターの進化形である生体プリンターが生み出したモチモチの生き物プリンタニアが、とにかく愛らしくて、すべてのペット動物の良いところを凝縮したようなかわいさです。キーワードは「癒やし」って感じです。 主人公の佐藤(「砂糖」に通じますね)が飼っているプリンタニアの名は「すあま」(と、「そらまめ」)。佐藤は感情の起伏の少ない、欲もなく覇気も足りない感じの、でもごく普通の人間(と思われた)。唯一の友人塩野(「砂糖」に対して「塩」ですね)は反対にちょっとチャラい陽気な発明家。 彼ら一人一人には「コンサル」と呼ばれるAIがついていて、生活全般をサポートし、評価し、性格改善までやってくれます。けれどがんじがらめに管理しているわけではなく、その名の通り頼りになる相談役という感じ。 近未来のAIとの共存て、こんなふうになるのかなあ、などと思いながら読み進むと、日常を描いた短編の中に、ちょろりちょろりと、この世界の設定が見え隠れしていきます。 彼らは「旧人類」の文化を継承しようとする「回顧祭」を開いたり、汚染領域があったり、「残兵」(旧世界のロボットらしい)の逃亡事件があったり。肉体を手放した(つまり肉体的に死を迎えたってことですよね)あとは「彼岸」に渡って意識が「石」に移される・・・ つまり、佐藤たちは、人類滅亡後、人類のつくったAI(「大きな猫」と呼ばれている)が再生した、新しい人類なのでした。そして、数も少なく、再構築された人工的な都市で、世界を再建しようという目的のために管理されながら育てられているのです。 言うなれば、佐藤たちこそ、プリンタニア(=機械が創った生体)なのです! 教育され、レベルに振り分けられ、仕事やすみかをあてがわれ、今度は癒やしのペット「プリンタニア・ニッポン」をあてがわれ・・・ 今のところ、男性ばかりで、女性は一人もいませんし、家族という概念もないようです。恋愛感情や家族のしがらみなど、濃くてコントロールしにくい感情や状況が、すっかり排除された、希薄な社会。まねごとの祭や宗教。それが、なんとなく心地よい日常として読者に紹介される。 でも、うそ寒いとか怖い感じはせず、ああ、そうなんだなー と自分のストレスも吸い取られていくよう。しいて言えば、さびしいあたたかさ、みたいな読後感です。 環境破壊とか戦争とか、人間関係のストレスとか、もうそういうものには辟易としてしまった現在の私たちが真に求めるもの、それは、こんな終末と再生なのかもしれません。 (そういえば、これに似た雰囲気をまとった物語に、池澤夏樹の『やがてヒトに与えられた時が満ちて…』があります。) 『プリンタニア・ニッポン』はいま3巻まで出ていますが、だんだん明らかになっていくこの世界像(プリンタニアの生みの親の、お調子者のケンチキおじさんは、実はどうも黒幕みたいです)が、知りたくもあり、知らない方がよいかもとも思えたり。 目が離せない作品です!
February 19, 2023
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あけましておめでとうございます。すっかり上手になった娘の絵と、私のつたないイラストでございます。娘はちゃんとイラストソフトで描いております。私の絵は、今回はもふもふ系にしてみました。モデルは・・・そう、とってもラブリーなコミックス『うさぎは正義』(by 井口病院)です! 連載を毎回楽しみに読んでいます。 ちょっと見にはもふかわいい主人公うさぎの「ボス」ですが、最初の方のストーリーでぐっと来まして、ご紹介しますと、ボスはオオカミを蹴り倒して部下にしてしまうのですが、なぜ勝てるのか。それは、狩る側の肉食獣は攻撃に失敗しても次があるが、狩られる動物であるうさぎは反撃に失敗すると即、死に直結するから、失敗は許されない。だから(生きのびている)うさぎの蹴りは必殺なのだ、ということ。 なるほどですねー。 実際に、ウサギは無力でふわふわして平和で仲良い動物と思われがちですが、アナウサギの群れでは、ウサギどうしの闘争は激烈で、けんか沙汰は結構命がけです。(詳しくはローレンツ博士の『攻撃』や、ロックレイ『アナウサギの生活』、河合雅雄のカイウサギの研究などを読むとわかります!) そんなわけで、うさぎ年。 ぴょんぴょんとびとびでも、このブログを続けられたらいいなと思います。
January 2, 2023
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1989年のSFX映画「バロン」をTV放映で久々に観ました。奇才テリー・ギリアム監督が当時の技術を駆使して再現した、ドイツの民話「ほらふき男爵の冒険」です。 DVDの表紙はジョン・ネヴィル演じるイケオジ(イケジジ?)バロンに似ず格好良くないので、右の画像はブルーレイ版の表紙です。 ジョン・ネヴィルのバロンは、原作本(何種類かあるようです)のドレーの描いたバロン像にほんとに似ていて、貴族的・紳士的、でもちょっと滑稽で色っぽい、何とも味のあるお顔。 これは原作が、貴族・紳士階級のサロン(クラブ)文学であることにも由来するのでしょう。実在のミュンヒハウゼン男爵が自宅サロンで、いわゆる「トラベラーズ・テイル(旅のほら話)」を語ったのを、書き留めたそうですから。 ほら話の内容は、シンプルで荒唐無稽、即物的だったりだじゃれだったり、今で言うと劇画調。男爵ったら、大砲の弾に乗っかって飛ぶし(このシーン、『ワンピース』にあったような)、目から火花が出るほどおデコを(わざと)ぶつけて、火縄銃に点火したり。くだらない作り話なのに、貴族的・紳士的に、品良く語るがゆえに、何だかだんだん聞き手は心地よくなってくるから不思議です。 そして映画ではバロンの朗々たる語り、大見得切りなど芝居がかった立ち居振る舞いもすばらしい! ストーリーは枠構造になっていて、アナクロなお芝居からスタートするのです。張りぼての大道具、派手なメイク、題目はもちろん、ほらふき男爵の冒険。 芝居が行われているのは18世紀(「理性の世紀」とわざわざ最初にことわっています)ドイツの小都市で、もうずっとトルコとの戦争が続いています。 ・・・って、オスマン・トルコは18世紀ドイツに攻め入ったことないんですけど! 設定がハナからウソです! でもそんなことはいいんです。要は、(現在の某国々のように)戦火にさらされていても、否、だからこそ、人々は面白おかしい空想物語の芝居を好んで観に来るということ。 町の長官ジャクソンは「理性」を体現するべく、戦時下の芝居を規制しようとしますが、そこへ本物のバロンが出現。舞台へ上がるや芝居をジャックして、トルコ皇帝とのエピソードを語り始めます。張りぼてや滑稽だった舞台装置や俳優が、バロンが優雅に身をひるがえしたとたん、鮮やかな実物(の映像)となってエピソードが展開していくのが、圧巻です。 芝居をする人々と観る人々の気持ちが合わさって、奇跡が起こり、本物のヒーローを呼び寄せたんですね。「プリキュア」の映画館で景品のペンライトをみんなで振りながら応援すると、それにこたえてプリキュアが勝利する、あの感覚。 でもエピソードを見ていくと、バロン自身よりその従者の面々の方が、超人的活躍をするのです。めっぽう銃がうまかったり、超高速で走れたり、息であらゆる物を吹き飛ばしたり、ものすごい怪力だったり。 あと忘れてはならないのが、危機に駆けつける愛馬ブケファロス(もとはアレキサンダー大王の乗った荒馬です)。野性の象徴って感じです。 これは、冒険物語にはよくあることですが、ヒーローにふさわしいスキルが複数のキャラクターに分化しているんですね。 ところが理性の時代なので、人々は常識にがんじがらめに縛られていて、その結果バロンも仲間も年老いて、超人パワーも忘れられています(そもそも芝居になるってことは、有名だけど過去のものなんですね)。最初のエピソードの終わりに舞台が爆撃されて壊れ、バロンが死にかけるのもそのためです。 彼を生に引き戻したのは、バロンの存在を信じるヒロインの少女サリー。彼女は町の救いを求め、彼を叱咤激励します。冒険に同行し仲間となって、若さや純粋さという、今の彼にはなくなったパワーを補充することで、彼を再び活躍の場に立たせるのです。 二人は月世界、火山の地底、海の怪物の腹の中などへ旅し、配下の超人たちを見つけて連れ帰ります。どれも理性から遠い深層心理的な場所で、超人パワーはその深奥で忘れられていたのです。 我々も、日常に疲れ果てたとき、心の奥底をさぐって、若い頃の気力体力、夢見た感性などを再発見すべきなのでしょう。 物理的スキルは目立たないバロンですが、仲間を束ねるリーダーとして、精神的なパワーは驚異的です。まず、騎士道なイケジジなのですべての女性にモテます。話術もたくみだし、何より命をかけて勝負にとびこむ度胸と勇気、これが他の仲間のパワーを十二分に発揮させる原動力になっています。 こうして小気味よくド派手な活躍でトルコ軍に勝利したバロンは、(ネタバレ→)しかし、凱旋行進のさなかに凶弾に斃れるのです。一転して涙のお葬式。 ところが、ここでも芝居という枠組みが、最後をきっちりまとめてくれます。お葬式にバロン自身の語りがかぶさり、気づくと人々はずーっと彼のほら話を聞いて(芝居を観て)いたのでした! ヒーロー、奇跡の復活。我を忘れて没入する空想世界の効用は、戻ってきた現実をも変えることにあります。 「Open the gate!」というバロンの呼びかけとともに、人々はジャクソンの制止を振り切って芝居小屋の扉を開け、町の扉を開け放ちます。こうして偏狭な心の扉をあけたとき、そこには敵はなく戦争もなく、大道具じみた異国風の天幕の残骸があるばかり。 そして英雄バロンは一人、輝きの中にさっそうと去って行きます。心憎いエンディング! この映画の制作は非常に困難をきわめ、費用もかさんで、収拾がつかなかったそうですが、なるほど当時がんばったSFXもCG主流の今どきの映画と比べると古くさく見えます。けれど逆にそれが、アナクロ芝居の外側にさらに映画と観客というメタフィクションな枠組みを感じさせ、重層的な見方を楽しめると思います。 つまり、バロンの芝居やバロンの物語によって目がさめた町の人々と同様、映画の観客も一歩引いた視点に目ざめることができます。 戦争は心の中にある、と確かユネスコ憲章にありましたけれど、我々もファンタジーに学んで偏狭な心を開け放ち、友愛と平和を少しでも実現したいものですね。来年こそは。
December 31, 2022
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復刊ドットコムのお知らせに、絵本『つきよにごようじん』復刊とありました。 NHK「みんなの歌」のトラウマ・ソングとして有名な「まっくら森の歌」の方は、このお知らせを読むまで知りませんでしたが、絵本は手元にあります。むかし初版本を、たしか大谷美術館(西宮市)の絵本展の売店で入手したのです。 幻想的な絵(本橋靖昭。この人が「まっくら森」世界の生みの親だそうです)も好みでしたが、ストーリーの書き方が不思議で・・・、説明がほとんどなく、うっかり読み進むと最後に、え?となるのです。で、もう一度読むと、よけいに謎めいた感じが強くなるのです。(以下、ネタバレ!) 森の番人が小屋を出て夜回りに行くのですが、絵の時計を見ると時刻は10時半。よい子は寝ている時間だから、年少読者はわくわくします。 すでに窓から小さい怪獣が覗いているし、小屋の中の小物にも怪獣ぽいデザインのものがあって、細部を見ていくと楽しい(『バムとケロ』シリーズなんかもそうですね)。 くもまがくれの つきあかり。 みかづきどきには ごようじん。 ――齋藤浩誠『つきよにごようじん』(以下もすべて) 背景に三日月が出ています。人面に見える木々や覗く小さな目。で、次のページなんですが、 がさ がさ がさ おおきなあしおと。 ひた ひた ひた しのびよる あやしげなあしおと。大小の怪獣にあとをつけられているように読めます。たしかにいろんなシルエットが番人の背後や周囲に覗いています。 続く数ページで、森の動物たちが「おおかみねずみに おおかみがえる、おおかみうさぎに…」と皆オオカミ化して、「ブレーメンの音楽隊」のように縦に積み重なったり、キバを向いてとびだしてきたりして、それなりに怖い! 番人も走って逃げています。 でも、実は追いかけてくるのは本来は小動物(やや大きな怪獣が1ぴきいますけど)ばかりで、「もりのちいさな へんしんおおかみ」なんですね。 森の外れに出ると、動物たちは本来の無害な姿に戻り、 いつのまにやら まんげつが、 もりを まあるく てらしだす。あれれ? 最初、三日月じゃなかった? ファンタジーだから月が変わるのかしら? と思っていると、(→核心ネタバレ)さっきより格段にすごい絵で、ふりかえった番人は、満月のもと、巨大な狼男に変身! 逃げ帰る小動物たち、ぼーと鳴くふくろう。これで終わりです。 この最後のどんでん返しが面白怖くて、子供には人気なんでしょうね。 ところで、月夜にご用心しなければならなかったのは、誰でしょう? さらに、読み返してみます。絵本の表紙裏には木がびっしりの地図があり、これも参考にしながら・・・、すると東?の方に「みかづきもり」があって、実は最初に出てきた三日月が、本当の三日月ではないことに気づきます。絵をよく見ると、森や雲のシルエットに邪魔されて、上ってきた満月が低いうちは三日月に見え、光もおぼろなのがわかります。 森にさすほのかな月光の効果?で小動物たちはオオカミ化しているのでしょうか。そして番人はこの程度の月光では変化しないので、必死に逃げているのでしょうか。 番人はさいしょから「おおおとこ」と呼ばれていて、「がさ がさ がさ おおきなあしおと。」は番人自身の足音だったようです。そして地図でいう「つきみのおか」まで来るとあたりは開けて満月は全貌を現し、月光をいっぱいにあびて・・・、おおおとこはついに狼男になるのです。こうなると最強で、もう逃げなくてよいわけです、 満月の狼男、定番ですがいちばん恐ろしい。 ついでに、「おおかみおとこ」から「かみ」を抜くと「おおおとこ」になるんですけど、確かに番人はスキンヘッドなんです・・・って、深読みしすぎかな? 最初と最後にしかめつらのふくろうが居て、すべてを見守っているかのようです。 “月夜にご用心”して読み進まねばならないのは、じつは読者だったりして。 シンプルな文章とストーリーなのに、何度も味わえる。そんな絵本です。 ところで、地図には、このストーリーには出てこない部分も記されています。番人小屋の西?に広がる「まっくらもり」や、川、海の中には「つきのはな」「かいぶつゴラゴラ」「きかいじかけのさかな」、すべてがとっても気になります。 もしかして絵本『まっくら森』には出てくるのかしら。残念ながらこちらは絶版のままです。これも復刊されますように!
December 17, 2022
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前回、このシリーズのダークな部分ばかり挙げましたが、一番恐ろしいのは、“体制”側が邪悪な《黒い魔法》側であるということです。大人はたいていその手先になったり惑わされたりして、敵に回ってしまいます。 そうでない大人(ルミの父や担任の先生、鳥博士)は無力で少数派。 唯一、第1巻『オレンジ党と黒い釜』では《時の魔法》の樹木の精霊「とき老人」が主人公たちを導きますが、最後は「黒い釜」を破壊するため自らを犠牲にします。――また衝撃の“死”が出てきました。(ところでこれは、ウェールズの伝説『マビノギオン』に出てくる、死者を再生させる大釜を破壊するエヴニシエンの物語と同じ結末です。) おまけに、第三の勢力であるはずの土着の《古い魔法》は、弱体化しています。この魔法を司る家系の源先生は、やることなすこと大時代的で滑稽な役回り。土地の精霊「土神」も、『魔の沼』では黒い沼の王に体をのっとられてしまったり、あまり頼りになりません。 このように、善なる《時の魔法》を信奉するオレンジ党の子供たちの闘いは味方も少なく、困難に満ちています。 「オレンジ党」の名の由来を語る短編「闇の中のオレンジ」には、《古い魔法》の「物言う泉」の水面に、オレンジの実のような盃が浮かんでいる、というくだりがあります。 孤立無援でクエストをする主人公たちの命の輝きを表すかのような、あるいは、宇宙の闇の中で輝く太陽(《黒い太陽》とは対極の、真実の太陽)のようなイメージです。 オレンジ党のメンバーは盃の形の光るバッジをつけていますが、盃というと、やはりイギリスやフランスの中世、聖杯伝説が思い起こされます。フランス文学者の作者は前作『光車よ、まわれ』で、闇に輝く光車の探索について「まるで聖杯をさがすアーサー王の騎士みたい」と使命感を表現しましたが、オレンジ党でも同様ですね。 第3巻『オレンジ党、海へ』では、《鳥の王の宝》が光車に匹敵する重要アイテム。これはもとは李エルザの祖父母に属する魔法石で、その中心は、やはり生命を象徴するような赤い玉です。 エルザは朝鮮の血をひき、また物語中にも朝鮮由来の登場人物や朝鮮語がたくさん出てきます。 そこで私は、アカル姫伝説を思いだしました。朝鮮の乙女と太陽神の娘で、赤い玉の化身です。それからまた、橘の伝説もありますね。日本神話で不老不死の妙薬として求められた、タチバナの丸い実は「ときじくのかくのみ」(常世の国の、光/かぐわしい果実)と呼ばれ、太陽のシンボルだそうです。 李エルザがこの宝玉/果実を使って、邪悪な《黒い太陽》をうちやぶり、時と海を越えて常世へゆくキム船長の帆船「金龍丸」へとみんなを導く、というのが、『海へ』のラストなのだと私には思えました; そしてあたしたち、あそこで最後にもう一度、死んだお父さん、お母さんに会えるのよ! ーー天沢退二郎『オレンジ党、海へ』 ただし、朝鮮に由来する人の中でも、吉田四郎は微妙な立場に立たされ、救われませんでした。祖父が宝玉を奪ってご神体にまつったという、大鳥神社の跡取りである彼は、鳥の王に使われたり、カモメや泉をおがむ老婆に変身したりしながら何とか誠実であろうとしますが、最初は夢の中とはいえ血まみれのケガを負い、最後はほんとうに失明してしまいました。 死とまではいかないものの、あまりにも厳しい結末が胸に残ります。
November 15, 2022
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近ごろは電子版でも読める、1970~80年代の「オレンジ党」の冒険3部作と、関連する短編集『闇の中のオレンジ』をご紹介。(2011年に4作目『オレンジ党最後の歌』が出ているらしいのですが、私は未読です) 小学6年生(いつも注目! 子供時代の終わり、最強の子供たち)が主人公で、シリーズ名通り3種類の魔法がせめぎあう設定。ただし、ダークです! 単に暴力的、悲劇的というより、不穏で後味の微妙な、忘れがたい印象を残すお話ばかり。 まず、個人的な感想ですが、見知らぬ荒々しい異界のようでありながら現実の日本と思われる舞台背景が、無気味。 モデルは千葉県らしく(作者は、物語とは無関係と断っていますが)、ああ、だから土地が広々として沼地や泉、落花生畑や牧場があるのですね。関西人の私にはなじみのない、原野、寄せ集めの森、荒れ地を開墾した畑、その中に忽然と現れる新興住宅地、広漠とした丘陵地帯。そこで次々ときみわるい出来事が起こるので、ちょっと悪夢じみています。 第1作『オレンジ党と黒い釜』では、転校してきた主人公ルミの日常を、黒泥や黒いナメクジのような怪異が浸食します。《グーン》の《黒い魔法》が残した穢れだというのですが、先日観たアマプラドラマ「力の指輪」にも、オークに穢された土地の牝牛が、黒い乳を出すシーンがありましたっけ。 穢れは5つの「黒い釜」として地中に封じられたのに、漏れ出て復活したのです。『闇の中のオレンジ』中の短編「《グーン》の黒い釜」では、土と水が汚染され作物が育たないと説明されています。植物の精霊たちは五郎と妹を連れ、ノアの方舟を思わせる古代船で時を超えて脱出しますが、おかあさんは、 もうだめ。畑はみんなだめ。黒いもの。子どもたちも行ってしまう。あたしにはもう何もできない。もう生きてけない。と書き残して首をつります。日常に突然現れる衝撃的な“死”。 2作め『魔の沼』では広がる黒い沼の怪異がメインです。行方不明の妹を探す中学生キヨシ(京志)が登場しますが、その妹は沼の王の養女にされ、黄泉の国のような異界にとらわれているのです。赤い目隠しをして下の妹を抱いた、巫女のようなチサは、最後まで兄と巡り会うことができません。 おまけに、黒い沼の出現と呼応して主人公ルミの体内で「黒い汁のつまった部分」が発動、命が危険になります。必死に解毒薬を煎じるルミ。善の側の純粋な主人公の内部に「黒い汁」が巣くっていたというのが、かなり無気味です。 思春期前の子供の物語には“死”の恐怖が出てくる、と以前も書きましたが、このシリーズは特に“死”に満ちていると言えます。ルミをはじめオレンジ党の仲間たちは全員、母親を亡くしています。それも、《黒い魔法》を封じた時に手を貸した《古い魔法》の犠牲(いけにえ)となった、というから恐ろしい。 邪悪な《黒い魔法》は、第3作『オレンジ党、海へ』でさらに強大な、「空飛ぶ黒い影」や「黒い太陽」となって猛威をふるいます。要らない大人の知識で読むと、飛行機や原発が連想されてしまいます。 じつはこのシリーズの舞台と時代は成田闘争(空港建設反対運動)と重なっていて、「農民ゲリラ」を名乗る大人たちが出てきたり、「緑衣隊」(機動隊?)が官憲をふりかざして踏みこんできたり。 邪悪の源ともいえる「黒い太陽」の力に惹かれて、白衣の研究者はマッド・サイエンティストと化し、「空飛ぶ黒い影」の被害者だったはずの「鳥の王」すら、その力を欲して悪に堕ちます。 40年前悪さをしたという《グーン》は“軍”、旧日本軍でしょうか。戦後、軍から払い下げられた土地を懸命に開拓した農民たちが、空港建設によって再び土地を失い、反対闘争、暴力、利権争い、仲間割れなど混迷するありさまを念頭に、作者はこの物語をつむいでいったようです。 ところで、私は昔、成田闘争で過激派と呼ばれた島寛征という人の、 棲家を奪われた野槌(土地の精霊)たちがひそかに逆襲の相談をしている というような文をどこかで読んだ記憶があるのですが、『海へ』を読んだとき、この文が恐ろしいイメージとして何度もよみがえりました。 今度は、そんなダークで敵味方錯綜する大人たちに対する、オレンジ党の“光”について……次回。
November 3, 2022
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あっと驚く最終回、という噂にたがわず・・・。ちょっとやりすぎじゃない?という感じに、ひねってだましてサウロン登場。(以下ネタバレあり) まあ、アダルじゃあ見かけが貧相すぎるなあと思っていましたが。 まあ、確かに、ヌメノールで虜囚になってましたが(経緯は原作と全然ちがうけど・・・)。 あまりにも彼が人間くさかったので、猪突猛進のガラ様はだまされてしまいました。 とにかくガラ様、ギル=ガラドよりずっとずっと年長なんですから、やっぱりもう少し落ち着きが欲しいです。まるでノルドール族のやっかいな小姑みたいで、しかも結果的にサウロンをエレギオンに連れて来ちゃうとは、大失態ですよね。 ケレブリンボールなんて、フェアノールの末裔だからもっと熱き魂かと思いきや、ガラ様にくらべればずっと冷静ですね。 8回分をふり返ってみると、ミスリルの意外な重要性だとか、いろんな所でもはや原作と違いまくっているので、それは諦めておくとして。(なぜモリアの地下深くにミスリルとバルログが両方存在したのかの説明がついてて、そこは面白かった。) 意外に良かったのは、ヌメノールの女王ミーリエル。統治者ならではの責任感や苦悩と、一人の父思いの娘、誇り高い個人としての人間らしさがせめぎあって、人格に深みを与えていますね。俳優さんの表情も豊かで、すばらしい! エレンディルとイシルドゥアはあんな感じで良いけど、アナリオンはどこにいるんでしょうね。まさかオリキャラの妹がアナリオンに化けるとか? やはり灰色のお方だったストレンジャーと、ホビットの先祖の少女ノーリの旅が新しく始まるところは、“皆と離れて己が道をゆく主人公”を貫いていて、よろし!
October 16, 2022
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今日は第2回を観ました。(以下ネタバレ)カザド=ドゥムなるモリアのドワーフたち、やはり登場しました! BGMも映画版に配慮してか似たような力強い唄で、なつかしいです。エルロンドがそんなにドワーフびいきとはしらなかったなあ。 ハーフットの少女ノーリは皆との同調を外れて、コメットおじさん(公式にストレンジャーと書いてあるのですけど、ひげとかちょっとひょうきんな顔つきなどから、たぶんまさか灰色のお方?)を助けます。やはりみんなと同じ行動を取らずに己れの信じる道をゆくのが主人公ですね。 そして、大海をクロールでぶんぶん泳ぎ帰ったガラ様をすくい上げたのは、たぶんいよいよヌメノールの船だと思います。
September 4, 2022
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鳴り物入りで始まりました、アマゾンのドラマ「ロード・オブ・ザ・リング力の指輪」。 私このためにプライム会員代を払っているようなものですので、とりあえず、1話目を観ました! 大画面で観たいとFireTV(安いの)を買ったら、まさかのIpv6非対応(Wifiの通信方式の話です)で、使えなかった(涙)。うちはIpv4だと通信がぶち切れなので、こないだ6に変えたところだったんです。結局お手軽にスマホの小さい画面で観ました。 で、(以下ネタバレあり)やっぱりガラ様(ガラドリエル)がまず出てきましたね。「ホビット」「ロード・オブ・ザ・リング」と共通の登場人物で第2紀に生きてたのって、ガラ様とエルロンド(彼もすぐ出てきた)だけですもん。ちゃんと二人とも、映画版の俳優さん(ケイト・ブランシェットとヒューゴ・ウィーヴィング)と似たお顔の若い俳優さんでした。 びっくりなのが、ハーフット族(ホビットの先祖たち)です。えー、第2紀にも居たんだ。いや、居てもいいけど、服装や生活様式がすごく細かく描かれていて、制作陣が一生懸命くふうしてるんだな、と思いました。 ハーフット族やシルヴァン・エルフと人間の女性など、オリジナル登場人物がたくさんいますが、彼らの場面とガラ様の場面がかわるがわる出てくるように作ってあって、視聴者の興味をがんばってつないでいっています。 そして共通するのは、各場面の主人公たちは、“みんなと同調することをあえて拒む者”であること。ストーリーを展開させていくのは、いつだって、みなと違ったことをした人なんですね。ガラ様は悪の滅亡を信じず西方ゆきを拒むし、シルヴァン・エルフのお兄さんもそう。そういえば、ビルボもホビットとしては少々変わり種でしたっけ(フロドはそうでもないけど!)。 舞台を第2紀にもってきたのは、ある意味よかったかも。原作では中つ国は空白時代で、ガラドリエルでさえどのような日々を送っていたのか詳しくは書かれていない。 だから、アマゾンは結構自由にドラマが創れちゃいます。「シルマリル」に詳しい第1紀のエピソードには最小限しか触れず、とにかく第2紀を自由に描く。ガラ様の勝ち気でちょっとワンマン的な性格さえ崩さなければ、エルフ戦士を率いて遠征に行ったり、トロルとバトルしたりしても、“それもありかもしれない“。 つまり壮大な「二次創作オリキャラあり」。細かい目くじらはたてないで、なるほどこんなふうに創ったのね、と楽しく鑑賞することにします! 上のエルフとシルヴァン・エルフが出て、ホビットの先祖も人間も登場したから、次はドワーフが出てこなきゃ、ですね。モリア建設かなあ。 あとまだこれから、ヌメノールの歴史をやらなきゃいけないんだけど、大変だろうなあ。ゴンドールの祖先の地といっても、映画版と共通キャラは居ないし、地理的にもイメージしにくい気がする・・・なんて、心配になっちゃいます。 もしこのドラマが成功したら、次は第1紀を創る気かなあ。先走ってそんなことも思いながら。
September 3, 2022
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やや難解な作品の多いマキリップの初期の長編。むかし山岸凉子が表紙や挿絵を描いてました(再版の表紙は違う人→)。訳者の脇明子さんが『指輪物語』と比較しているので、当時、意気ごんで読みましたが、いやいや洞察力と推理力、構成力がすごく必要で、しかも鋭く細やかな感性がないと楽しめないという、なかなかハードな作品です。 今回、再読してみて、異世界の舞台が南の方はなんとなくケルトの「マビノギオン」的な舞台だな、物言う豚とか死者の軍勢とか、「変身術者」はアイルランドの古い神々そっくりだとか。中央の古代遺跡はストーンヘンジのたぐいみたいだし、北の方はゲルマンや北欧系(鉱山とか雪原とか)だな、などと楽しむ余裕ができました。 全体を貫くテーマは“謎解き“。舞台となる異世界では、すべて物事の理解は謎解きという形で成されます。主人公モルゴンは大学で謎解きを学ぶ。いくつかある国々の歴史や成り立ちも謎で構成されている。領主や魔法使いは謎解きの試合をする。そして、否応なく探索の旅をするモルゴンの使命も最後の最後まで謎! トールキンは異世界の解説を大量に提示してくれますが、マキリップの作品は予備知識なしで放り込まれる系なので、読者は、登場人物たち以上に頭の中が謎だらけのまま読み進めねばなりません。 けれど、荒俣宏の『別世界通信』によると、ファンタジーのルーツである神話には、世界や人間を理解するのに謎解きが重要な要素として出てくるのです(スフィンクスの謎とか)。だから、『イルスの竪琴』の世界や登場人物、ストーリーを理解するには、読者も謎ときに参加するしかありません! 幻想文学が宇宙の本質に迫ろうとするとき、それは必然的に神話じみた謎かけへとすがたを変え…[中略]…入社式(イニシアシオン[成人式])のための謎ときを読むものに挑みかけるとき、それは試練への愛にまで昇華する。 ――荒俣宏『別世界通信』[旧版にも新版にもあり] こうして、わけがわかんないなあと不満をもらしつつも、謎解きにはまって読み進むことは、モルゴンが故郷の素朴な暮らしに戻りたいと何度も願いつつも、結局は自分の出自や世界の謎を解くために危険な探索へと突き進むのと、同じなんですね。 ファンタジーの効用は、主人公の冒険を読むことによって、読者も異世界体験をして成長したり癒やされたりすることにある!というわけです。 そして、突然襲ってくる得体の知れない「変身術者」たちや、そもそもこの異世界の秩序の主として名だけが何度も出てくる「偉大なる者」って何なの? なんで戦ってるの? モルゴンはそれとどう関係があるの? それがちっとも分からないまま、何百ページも物語が進んでいきます。もちろん最後には次々わかってきますけど、正解は次々予想外。いや、後から思えばなぜ予想できなかったんだろうと思うのですが、うまく作者に手玉にとられてしまうんですね。 探偵小説なら理屈や証拠の品が伏線になるのだけど、マキリップは感性の作家なので、感情や感覚が伏線といったらいいのでしょうか。とにかく、異世界丸ごとを解き明かすミステリー。 もちろん魅力的な登場人物たちや、魔法のたぐいもたっぷりです。
August 1, 2022
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今日は夏至。夏が近づいてきました。レイ・ブラッドベリの夏の名作『たんぽぽのお酒』、でも私は長いこと敬遠していました。 主人公ダグラス少年のひと夏の出来事を、12歳という年齢の持つするどい感覚でつむいでいます。が、子ども“向け”に説明のゆきとどいた作品ではないので、米国イリノイ州(ブラッドベリの故郷)の古き良き田舎町の風情がよくわかっていないと、とっつきにくいと思われます。 ようやく真剣に読もうとしたのは、長野まゆみ『夜間飛行』を読んだあとで、この物語にはおそらくブラッドベリへのオマージュとして、たんぽぽのお酒が出てきます。 主人公の少年たちは夏至の頃ミステリーツアーに参加するのですが、ホテルの部屋にたんぽぽの花を浮かべたリキュールが置いてあり、それを飲みながらすばらしい時間を満喫するのです。 本家ブラッドベリのたんぽぽのお酒(ダンデライアン・ワイン)も、そのたんぽぽを摘んでおじいさんと一緒に瓶詰めした記憶に象徴される、楽しい夏の日々が、あとになって見たり味わったり、いやその名を口にするだけで豊かによみがえるというのです; たんぽぽのお酒。 この言葉を口にすると舌に夏の味がする。夏をつかまえてびんに詰めたのがこのお酒だ。 ――レイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』北山克彦訳 その記憶というのは、“12歳という年齢の持つするどい感覚”の産物で、この年齢のころは、ほかの日記でも書きましたが、幼年時代の終わりとかプレ思春期とかいう、一大転換期なのです(河合隼雄の受け売り)。男の子の声変わり・女の子の初潮の、直前の時期。子どもとしての完成形かつ大人への第一歩で、すごいパワーと可能性、新鮮な感動に満ちた時期。 児童文学でいうと、この年齢の主人公たちは、親や大人の庇護を離れてまっさらな心で世界に乗りだします。スティーブン・キング『スタンド・バイ・ミー』なんかがそうですね(この映画のように情景も一緒に触れることができれば、『たんぽぽのお酒』もなじみやすいのかなあと思います)。 『たんぽぽのお酒』は遠くへ冒険に行く話ではありませんが、町には野性味のある危険地帯「峡谷」や、死の象徴としての恐ろしい〈孤独の人〉の噂があります。 面白いのは、主人公ダグラス(12歳)は夜に友人たちと峡谷へ遊びに行ってしまうのですが、彼のよき相棒である弟トム(10歳)は母のそばにとどまり、母の心配を感じて自分も恐怖にとらえられるのです。2歳の年齢差がよく現れていますね! 世界を知り始める時期のうちでもトムはまだ本当に初心者で、歯磨きだの野球だの、いろんなものの数を数えて統計を取っています。それに触発されたダグラスは、夏の出来事を「慣例と儀式」と「発見と啓示」に分類してメモに記録します。つまり、彼はすでに、世界に不変(に見える)ものと、変化するものとを感じとり、考察しているのですね。 不変なものには、「慣例と儀式」であるたんぽぽのお酒づくりや、新しいテニスシューズを買うことなどのほかに、近所の老人たちの存在も分類されそうです。 老未亡人ベントレー夫人のエピソードで、少女たちは、夫人もかつては少女だったという事実を頑として信じません。それは、幼年時代の子供にとって時間は円環で、昨日と今日と明日は基本的に同じ(「慣例と儀式」)、何か冒険に出かけても必ず帰宅してベッドにもぐりこみ何の変化もないからです。いつまでも連載が続く「サザエさん」や「ドラえもん」の楽しい世界。 そんな幼年少女たちと一緒にいるのは、トムです。トムにその発見を聞いた兄ダグラスは、 「みごとだ! あたってるよ。老人は過去に決して子供ではなかった!」 ――――『たんぽぽのお酒』と納得しますが、じつはそれは彼らの理解できる世界がまだ不変(幼年時代)のみだという、証拠ですね。 次に(トムではなく)ダグラスが、老フリーリー大佐のエピソードに登場します。 フリーリー大佐は昔の出来事をいきいきと語るので、ダグラスたちに「〈タイム・マシン〉」と名付けられます。大佐の話を聞くのも、新しく世界を知ることのひとつで、ワクワク感あふれています。ところが大佐はむかし暮らしたメキシコシティーに長距離電話して受話器から街の喧騒を聞き、若返った気持ちになったまま昇天しているところを、ダグラスたちに発見されます。 (余談ですが長野まゆみによく出てくる、電話の受話器の向こうの海の音を聞く場面は、きっとこのエピソードがもとになっているのでしょうね。) つまり、老人は不変に見えるが不変ではないこと、去ってしまうことをダグラスは目の当たりにする(「発見と啓示」)のです。不変に思っていた人や物事の死や変化は、物語のいたるところに出てきます。大佐だけでなく老ルーミスもおおおばさんも死に、殺人事件もあります。毎日遊んだ親友は引っ越し、市街電車はなくなってバスになり、1セントで動く占い人形は壊れてしまいます。 これも、この時期の子供をテーマにした児童文学にはよくあることで、プレ思春期の子供たちは、自分自身の生の存在を意識するだけでなく、幼かった自分が“死んで”、黄金の幼年時代が終わりを告げ、未知で自由でおそろしい大人の世界へ向かってゆかねばならないことを、察知するからです。 だから、幼年時代の終わりは死の意識をはらんでいます。いとうせいこう『ノーライフキング』と同じように、ダグラスとトムの兄弟も死の危険を乗りこえるイニシエーションのまっただ中なのです。夏の終わりにダグラスが高熱で寝こむあたりが、死の危険の集大成ですね。 それはまた、夏という季節にもぴったり来ます。夏は動植物が生を謳歌しますが、生の頂点とはすなわち、折り返し地点、凋落と死の始まりでもあるのですから。 幼年時代の自分の“死”を回避しようとしても不可能ですが、たとえばたんぽぽのお酒や思い出アルバムのような何かの形にしたり、ダグラスのメモ帳のように記録したりすれば、黄金の幼年時代を永遠化して保存することができるかもしれません。 季節がちがうので蛇足ですが、私は小学生の頃、キンモクセイの花をビーズ用の小さい空き瓶につめて保存しようとしたことがあります(みごと失敗しましたが)。今でもキンモクセイを見たりかいだりするたびに、ランドセルをゆすって花を集めながら帰った日々の思い出がよみがえります。
June 21, 2022
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もうだいぶ前になりますが、海外ニュースで、「アナグマのおかげで古代ローマの金貨を発見」という記事(スペイン発)を見ました。アナグマが土を掘り返した跡で金貨200枚余を地元の人が見つけたそうです。古代ローマ人がお宝を隠した場所だったのです! すぐに思い出したのが、『ドリトル先生の動物園』に出てくる、アナグマの金発見のエピソードです。 ドリトル先生の庭にある「動物園」と称する小動物のクラブが財政難に直面したとき、クラブのメンバーのアナグマが、地下で金塊を発見するのです(画像は、南條竹則『ドリトル先生の世界』の表紙で、金が歯にはさまって先生に診てもらうアナグマ)。 「じつに思いがけないことであった。これも、古い金貨が見つかったというのであれば、そう驚くにはあたらない。しかし、これはどうも自然のままの金塊らしい。・・・」 「・・・これはずっと昔の鉱山師が、どこかほかのところで掘ったやつを、ここに埋めてかくしたとしか考えられん。」 ――ロフティング『ドリトル先生の動物園』井伏鱒二訳 ドリトル先生の住んだとされるイギリス・ウェールズ地方も、スペインも、ローマ帝国の支配が及んだ土地であり、ローマ金貨が使われた土地でした。それにしても、ドリトル先生の言うとおり、アナグマがほんとに金貨を掘り出すことってあるんですね! もう一つ、英国とアナグマで思いだすのは、『たのしい川べ』に出てくる、アナグマくんの家です。森の地下にある大きくて入り組んだ数々のトンネルや部屋は、 「ずっと大むかし・・・ここに都――人間の都――があったのだ。」 「人間というものは、きて――しばらくそこに住み、栄え、家を建てる――そして、また消えてしまうのさ。それが、人間のつねなのだ。しかし、ぼくたち[アナグマ]は、いつまでも残る。・・・われわれアナグマは、その都のできるずっとまえから、ここに住んでいたんだそうだが、いまも、このとおり、いるんだ。われわれは、しんぼうづよい種族なのだ」 ――ケネス・グレーアム『たのしい川べ』石井桃子訳 これもまた、古代ローマのことを彷彿とさせる意味深な話です。というのも、ローマは最盛期を過ぎるとイギリスから撤退し、そのあとにはアングロ・サクソンの移住と戦いが続く暗黒時代があったのです(アーサー王の時代。サトクリフのローマ・ブリテン連作『第九軍団のワシ』などをまたブック・サーフィンしたくなります)。 さらにこれはアメリカの動物ファンタジーですが『竜の冬』(ニール・ハンコック)という物語にも、アナグマの家の地下何層にもわたる「ハイ・クラン」のトンネルと古い秘密の部屋や宝剣が出てきます。 日本のアナグマは民話などでムジナと呼ばれる生き物で化けたりもするようですが、タヌキやキツネに比べるとマイナーで、地下のすみかといえば、「同じ穴の狢」という言葉ぐらいで、あまり良い印象ではない気がします。 ヨーロッパのアナグマはなんだか古くてちょっと高貴な感じさえしますね。
June 7, 2022
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ずっと昔もらった本で、東洋文庫(平凡社)『東方旅行記』というのを再読しました。 これはマンデヴィルという14世紀イングランドの旅行家が、コンスタンチノープル案内から始まって中東の聖地訪問、インド・エジプト・中央アジアや元王朝の中国で見聞した珍奇な風物や伝説をまとめたものです。が、本当にそんな遠方へ旅行したかどうか疑わしく、実は古今のいろんな旅行記や紀行文から寄せ集めた書物だそうです。けれど、この"中世版「地球の歩き方」"は大人気だったらしく、発表後すぐから写本が多く作られたとか。 で、「なるほどマユツバだな」と思いながら読んでいるとこんな記述にぶつかります([ ]内はHANNAが挿入); また、この国[エチオピア]には、いろいろ風変わりな人々がいる。たとえば、一本足の人間どもがいて、彼らはその一本足でたまげるほどすばやく駆ける。それに、その足がまたとてもでっかいので、体全体を掩って日光をさえぎれるほどである。 ーーJ.マンデヴィル『東方旅行記』大場正史訳 これは、ナルニア国物語(C.S.ルイス)の『朝びらき丸東の海へ』に出てくる「のうなしあんよ(Dufflepud)」ではありませんか! 大きな一本足でとんで歩き、寝るときは足をパラソルがわりにする小人です。朝びらき丸は東の大洋を探検するうち、ある島で魔法使いや一本足の人々に出会い風変わりな冒険をするのです。 また、こんな記述も; ・・・[インド国の]海中いたるところに、堅硬物と呼ばれる巨大な岩石があって、自然に鉄を引きつける・・・その磁石のため、鉄釘をうった船はひきつけられるから、だれもあえてその海へははいろうとしないわけである。 ーーJ.マンデヴィル『東方旅行記』 今度は、ミヒャエル・エンデ『ジム・ボタンと13人の海賊』に出てくる<オソロシノ海>の磁鉄岩のことが思いだされます。 さらに、ムルストラクという島には楽園のような城塞があり、ある富豪が大麻を与えた部下たちに暗殺をさせたと紹介されていますが、訳注を見るとこれは暗殺教団を率いた「山の老人」伝説のことだそうです。「東方見聞録」のマルコ・ポーロ一行を襲ったというこの「アサシン(暗殺者)」は、最近ではFGOの「山の翁」で有名かも。 さらにさらに、何カ所かに巨大な蛇の一種としてワニが紹介されていますが、「人間を殺して涙を流しながら食う」のだそうで、これは『ドリトル先生アフリカゆき』に出てくる英語のことわざ”ワニのそら涙 crocodile tears”の由来となった伝説のようですね。 というふうに、あちこちでネタを発見して楽しめる本でした。 また、中世西洋人の目にうつった東アジアの風物の描写で面白かったのは、彼らは巨大な葦(アシ)で家から何からいろんな道具を作る、というくだり。マンデヴィルいわく、引き抜こうとして力いっぱい頑張っても全然抜けないほど巨大な葦である。わかりますか、これは、竹のことでした!
April 13, 2022
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先日のTVでじつは初めて観ました、宮崎駿を世界に知らしめた?作品「千と千尋の神隠し」。なるほど様々な宮崎作品の縮図みたいで、♪いつも何度でも~、細部まで観たくなる作品ですね! まず最初の場面で「となりのトトロ」と対照的。心を通わせあいながら期待に満ちて楽しく引っ越していく「トトロ」の父と姉妹に対して、千尋は両親はいるけど会話はバラバラで心が通っていない感じ、引っ越しも転校もイヤで無気力です。 どちらの物語でも、新居は異界と隣り合わせなのですが、接し方が違います。神々の領域である異界へ四駆で乱暴に近づき、その先では無断で店のものを食べるなど、敬意の足りない千尋の両親は、「まだ挨拶に行ってなかったね」「メイがお世話になりました」と社や神木を敬う態度を見せるトトロのお父さんとはこれまた対照的。 これは個人的な問題というより、トトロの時代(昭和28年~30年代初め)と千尋の時代(2001年)の、異界に対する日本人の一般的な態度の差でしょう。むかしの日本人は異界や人外のもの(たとえば神々、キツネなど動物、妖怪)を身近な存在として受け入れ、一定の敬意を払っていたのに対し、現代の私たちは、知識はあり(「神さまのおうちよ」と母が千尋に教えている)興味本位で近づくことはあっても、本当は信じていないし礼儀を知らない。 異界の不思議な雰囲気に触れても、お父さんはバブル崩壊でうち捨てられたテーマパークだ、などと解釈するのです・・・そんなわけないことに、気づかないんですね。 お母さんも、妻として母として”日常的に”叱ったり気にしたりするばかり。非日常の世界に来ていることにやはり気づかない。 ただし、非日常の異界といっても千尋が迷い込んだあたりはまだ入り口近くのようです。そこは昭和初期風の店が並んでいたり、サツキやアジサイが咲き乱れる小道をぬけていくとトウモロコシやマメが花をつけた畑があったり・・・、宮崎駿世代にとってはなつかしい、トトロ時代の日本の田園風景が広がっています。 21世紀少女の千尋にとっては新鮮に感じられるであろうこの景色を、宮崎駿は自分の原風景として見せたかったのではないでしょうか。 「トトロ」では家のそばにオタマジャクシなどが居て豊かに流れている小川がありましたが、千尋の迷い込む異界の川はさいしょ涸れていました。そして夜になると水が流れ、海のようになって、その向こうから御座船で神さまたち(コミックス版「ナウシカ」の土鬼みたいに顔を隠していますね)がやってくる・・・宝船でやってくる七福神みたいに。 ユング心理学によると川(水)は無意識(たましい)の領域を表しているそうですが、八百万の神々は無意識の彼方に住まい、現代人の精神生活ではそこへ至る道は涸れているが、夜(夢?)には川や海や沼が現れ、昔の神々や精霊たちとの交流がわずかにある、ということでしょうか。 また、無意識の彼方へは鉄道も通じていて、古風な列車の中の様子や、切符が要るところ、車窓の闇に夢のように光るネオンサインなど、(多くの人が指摘しているように)宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』へのオマージュですね。どちらも、たましいの領域に通じる鉄道で、行きはよいよい、帰りは困難。 釜爺が「昔(40年前)には戻りの電車があった」と言ってますから、トトロの時代に近い頃には、日本人は隣接する異界から無意識の深いところまで行って神々と交流し、また帰ってくることができたのでしょう。現代ではそのたましいの領域との行き来が難しくなっているということですね。 あとで出てくる、銭婆が静かな自然の中で手仕事をしている家のある「沼の底」は、深層心界の底であり、これが宮崎駿のイメージするもう一つの原風景なのでしょう。西欧風ですが、まだ工業化や近代化が進む前の暮らしがそこにあります。 湯婆婆は、アルターエゴ(分身)である銭婆と離れ、意識界と無意識界のはざまにある油屋を経営していますが、広大な無意識の海にくらべ町というにはちっぽけで昼間は廃墟です。そして温泉ランドのような店の従業員もカエルだのナメクジだの、レベル的には下位の精霊たちです。 そして、ハクは、古事記風の名まえを持ち、祀られ敬われてよいはずの川の神さまなのに、現代ではマンション建設で埋め立てられてしまった小川の精霊です。私の思うに、ハクが湯婆婆に弟子入りして魔法を習おうとしたのも、現実のコハク川が失われて霊的存在の危機となったため、何とか力(存在)を取りもどそうと思ったのではないでしょうか。 もう1人の川の神も、ゴミにまみれて腐れ神となってやって来るあたり、現代の危機的環境を表していますね。千尋の時代、人間と交流できる“となりの異界”は、もはやトトロの時代のような生命力と広がりを失い、狭く小さな孤島のような存在になってしまっているのでしょう。 千尋の迷い込む異界は、人間に忘れられた八百万の神々が遊ぶ、意識と無意識とのはざまの小さなワンダーランド。それは、おもちゃでいっぱいの坊の子ども部屋(ハウルの寝室みたいですね)にも似ています。 神々は神威をふるったりするかわりに、無意識の彼方からやってきて昔の夢に遊ぶ。千尋にとっては成長のきっかけになる不思議の国での体験も、宮崎駿世代にとってはノスタルジーのこめられた古いおもちゃ箱をあけて自分の存在確認をしているようです。そして、千尋の両親世代である私HANNAにとっては・・・、カオナシになってうろうろしたり豚になっているしかないんでしょうかねえ。
March 21, 2022
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だいぶ前に私もちょこっとだけ参加させてもらった、トールキンの未完成遺稿集『終わらざりし物語』(Unfinished Tales of Numenor and Middle-Earth)が、文庫版になって発売されました! (これも某アマゾンのドラマ化のおかげでしょうか) これに先立ち、電子書籍化された『指輪物語』『シルマリルの物語』で、おもにトールキンの創った諸言語のカタカナ表記が改訂されたので、『終わらざりし物語』でもそれにならって改訂されています。 今回は残念ながら、この改訂作業には加われなかった私ですが、購入した本が昨日アマゾンから届きました! 表紙も新しくなってなんだか普通にキレイになりました(単行本のトールキンの竜の絵の方が独特で、迫力ありましたが)。 改訂内容は、たとえば一つの指輪をなくした「イシルデュア」(昭和のころ)は平成になって「イシルドゥア」となり、令和の今回「イシルドゥル」となりました。 前に『トーイン』のご紹介でも書きましたが、翻訳ものの場合、表記や読み方がちがうと、醸し出されるイメージが変わってきます。 有名人でいちばん字面のイメージが変わるのは、『ホビットの冒険』でおなじみの「トーリン」→「ソーリン」だと私は思いますが、これは普通の英語でおなじみの「Th」の発音をどう聞くかという、トールキンでなくてもポピュラーなお悩みでしょう。 いっぽうトールキンの創った言語の発音に関しては、作者があれこれ注釈をつけた通りに最初から表記されればよかったのですが、当時の出版事情その他で、仕方なかったのでしょうね。 ともあれ、 昔からの読者にはいささか違和感を覚える表記となっているかもしれないが、中つ国作品全体での表記統一ということで、ご容赦いただきたい。 ――『終わらざりし物語』文庫版訳者あとがきと書いてあるとおり、私など違和感を乗り越えながら、それでもなつかしく読みふけるのでした。 ドラマ化の日本語版や字幕も、イシルドゥルなんだろうな、とか今から心構えをしています。
February 7, 2022
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拙作『海鳴りの石』と同じ、“グリーンファンタジー”シリーズ最新刊です! 昨年末に、銀の鈴社からいただいて、味わいながら読ませていただきました。 舞台は日本の東北地方の原生林。人工的に加工された小石を見つけたことから始まる、人目につかず生き続けてきた小人族との遭遇。 文明社会のすぐ近くにありながら、人間たちと交わらず、どこまでも自然にとけこみ野生動物や植物とともに生きる彼らの生き方。 あとがきによれば、作者永井明彦氏は陶淵明の桃源郷から想を得たそうですが、読んでいて私は日本のファンタジーに出てくる小人たちをどうしても思い浮かべましたーー佐藤さとる『だれも知らない小さな国』やわたりむつこ『はなはなみんみ物語』、最近では『こびとづかん』(絵本、なばたとしたか作)『ハクメイとミコチ』(コミックス、樫木祐人作)なんかもありましたっけ。 これらに共通するのは、私たちが近代化で失った社会--自然の中で自給自足のサステイナブルな生活をしているところです。 でも、この物語はそんな小人たちをノスタルジックな感傷で描いたり、ふわふわと楽しいメルヘンにしたりはしていません。 小人と遭遇する主人公の目を通して見ると、小人の暮らしを知ることは、はねかえって私たち自身の社会を外から客観的に見直すこと。そしてふたつの生き方を、生物学、社会学、文化人類学、歴史などいろんな視点から研究・思索していくことになります。 証拠や資料を探し、仮説をたて、考察する、その理詰めの緻密さで、ほんとうに小人族は存在するんだと読む方にも思えてくるのです。 さらに、舞台背景となる谷川や木々、笹原や岩、花や鳥、日差しや雨など大気の様子まで、描写が真に迫っています。適当に配置してご都合主義で出てくるのではなく、あるべきところにあるべき姿で主人公たちの前に現れて、読者の五感に抵抗なく入ってくるのです。 このリアルさはすごい、と思ったら、じつは作者は登山の達人、日本の山々と自然に関するプロフェッショナルな方なのです。巻末にある作者の略歴を見て、なるほどとうなずきました。 山の中に小屋を建て、川原で天然の温泉につかり、樹上に秘密基地のようなハウスをつくり、クライマックスでは(→以下ネタバレ注意)地震で崩れた小人たちの住処で、ほぼ人力で救出作戦を展開します。このあたりのリアルさは、たとえばアーサー・ランサム作品に野外生活のリアルがあるように、空想物語とは思えない力強さをもたらしています。 というわけで、これは小人が主題のSFなのですね。異星人でもタイムスリップでもない、現代の日本の地続きのSF世界。なんだかわくわくします。 そして、SFならではの大問題として、小人たちの秘密を絶対に守るということがきっちりと語られます(ファンタジーなら夢だった、小人は消え失せた、で済むかもしれませんが)。狭くて都市化の進む日本では、桃源郷を守るにはそれしかありません。 小人たちとどこまで付き合うべきか自制しなければならない主人公たちの悩みが、切実でちょっと悲しい気がしました。
January 31, 2022
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2022年がやって来ました。昨年11月に父が亡くなったため、今年は喪中につきご挨拶や年賀状絵はありません。このブログがなんとか続けられるよう、がんばります。ところで。ロード・オブ・ザ・リングのガチャガチャがあるらしいんですけど! お高いレプリカはまあいいか、でも、ガチャと聞くとなんだか欲しいですね。「バラヒアの指輪」(映画中ではアラゴルンのしている指輪)とかかなりマニアックなものも。
January 2, 2022
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クー・フリン(クーフーリン)については、以前書いたことがあるのですが、アイドルみたいな細身の若者なのに、戦いの時には想像を絶する怪物と化すというギャップが特徴です。『トーイン』は語りを聞いて楽しむ、日本古典でいうと「講談」みたいな、現代風にいうとラップみたいな作品なので、語り手が調子づくとどんどん現実離れした形容があふれ出てしまうようです。 [クー・フリンの]あごがあんぐり開いて口の中がまくれあがったので、肺臓やら肝臓が喉の奥でぱたぱた動いているのが見えた。・・・心臓は血に飢えた猟犬が餌を求めて吠えるように、あるいはまた、熊の群れに割って入った獅子が吠えたてるごとく、肋骨の内側でがらんがらん鳴り響いた。・・・濃く、太く、むらがなく、大船の帆柱のように立ち上がったのは、頭蓋骨の源泉からまっすぐに噴出した***。その血柱がしだいに崩れ・・・ ――-キアラン・カーソン『トーイン』栩木伸明訳 上記のように、少しばかり引用したら、何と「日記のプレビュー」で「公序良俗に反する表現がある」というエラーメッセージが出てしまいました! (仕方なくその部分を削除して「***」としました。いわゆるG指定的な言葉なんですね)。 クー・フリンは、怪物から美少年に戻ってからも、ほっぺたには4色のえくぼ、指は7本、敵の生首を10も20もぶら下げて登場するのですから、井辻朱美が解説で、「遠近法以前」「視覚からの逸脱」「細部の肥大」などと表現して、「これはいったい人間でしょうか……」となかば呆れつつ感嘆しているのもうなずけます。 でも、私たちはこういう、人間であって人間でない、度外れた体躯や能力を持つ変身ヒーローを、アニメやゲームの世界で割と見慣れているのではないでしょうか。 普通人である主人公が変身するそのギャップは、どんどんエスカレートしていきます。クラーク・ケントがスーパーマンになる程度なら大きさは変わらないけど、初代ウルトラマンはすでに巨体でもののけじみた容姿です。 (アベンジャーズのルーツである)超人ハルクは見た目もかなりモンスターですが、理性が飛んで怒り狂うと放射線で地球を滅ぼしかねないほどだそう。現代版クー・フリンといえるかも。 クー・フリンは純粋な人間じゃなくてデミ・ゴッド(父は光の神ルー)ですから、そりゃあ人間離れした肉体や、想像を絶する変身を遂げるのも当然なんでしょう。 FGOのいろんな姿のクー・フリンを、娘に教えてもらいましたが、下半身がムカデみたいになったバージョンもあるんですねえ。でも、原典『トーイン』に出てくるおしゃれで繊細な美少年や、絵にも描けない魁偉な血まみれ殺人鬼ほどの、すごい姿はないようです(けっこう地味だわFGO)。 『トーイン』をそのままアニメ化したら、FGOのキャラを上回るものすごいヒーローの、ありえない戦闘アニメができそうですね。もちろん、恋に涙に、エモーショナルな場面も満載で・・・誰か、制作してみたらいいのになと、思いながら読み返すのもまた楽し。
December 31, 2021
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最強の英雄クーフーリンが活躍する、アイルランドの古典。後書きにあるとおり、FGO人気のおかげで、私がずっと読みたかった原典『トーイン クアルンゲの牛捕り』が文庫になったなんて、ラッキー! もちろんクー・フリン(クー・フーリン)もメイヴも、FGOのキャラ(実はよく知らないけど)とは似て非なる…というか、かなり異なるようなんですが、いいんです。『ギルガメシュ叙事詩』でも書きましたが、伝説というのは語り継がれ様々に脚色されなおしながら生き続けるわけですから。 タイトルは「クーリーの牛争い」などの表記が今まで多かったですが、この本では「クアルンゲ」と現地読みっぽい。これはダブリンの北、国境に近い地名(クーリー半島)です。 ちなみにローズマリー・サトクリフの『炎の戦士クーフリン』(灰島かり訳)では「クエルグニー」、O・R・メリングの『ドルイドの歌』(井辻朱美訳)では「クーリニャ」(「ニー」「ニャ」の部分は格変化語尾)などと様々で、カタカナ表記の難しさを示している気がします。 アイルランド語(ゲール語)は語尾変化や母音変化が多くて、英語とは発音が違う固有名詞もあり、ややこしくて分かりません。でもこの手の物語はその土地に昔から根付いて語り継がれたものだけに、固有名詞がけっこう重要な役割を果たしていて見過ごせない。 人名についても、たとえば「クーフーリン」「ク・ホリン」「キュクレイン」、表記によって印象がだいぶちがいますね。 この本には、そういう固有名詞が、とめどなく出てきます。 まず、メイヴ女王率いる侵略軍の出発点は、コナハトの中心地クルアハン(Curuachan)。うしろの注(これがたいへん充実している)によると、 「塚山のある場所」という意味である。今日のロスコモン州ラークロハンに近い土地だと考えられ…(後略) ー――『トーイン』注 栩木伸明 たまたま先日、ハロウィーンの起源についての記事(ナショナル・ジオグラフィック・ジャパン)を読みましたが、ラスクロハンにある塚こそハロウィーン(サーウィン)の祭祀の発祥の地だと紹介されていました。 ラークロハン=ラスクロハン(Rathcroghan)で、rathは古代ケルト人の円形土塁に囲われた居住地または砦。さらに調べると、croghan=cruachanで、この言葉はcruaigh「固くする」の名詞形。スコットランドのゲール語では「積み上げたもの」の意味もあるそう。古代アイルランド人はスコットランドとの行き来が結構あったらしいので、参考までに。 石や土を積み上げた塚山で、サーウィン夜、メイヴ女王がおどろおどろしい?祭祀を主催していたのかも・・・というふうに、固有名詞の沼で妄想がふくらみます。 本文に戻りますと、侵略軍の通った地名がどーっと羅列されたあと、あちこちでクー・フリンがコナハト側の誰それを倒すたびに、倒された者にちなんだ地名が紹介されます。キリウスを浅瀬で殺したらその浅瀬は「アース・キルネ(キリウスの浅瀬)」、29人もを斬り殺した場所は、剣が血まみれになったので「フリアルン(血鉄)」などなど。 私たちには何処が何だかさっぱりですが、日本だと「古事記」でヤマトタケルが、 「我が足は三重に曲がれるがごとくして、はなはだ疲れたり」と言ったから、「三重」という地名ができた、とある、あれとそっくりです。 後半では、アルスター軍の集結の場面で、各地から続々と集まる軍勢とその隊長の美々しい描写がえんえんと続きます。ホメロスの『イーリアス』に出てくる「軍船のカタログ」みたいです。 外国人には退屈な大量の地名・人名も、たとえば鉄道の駅を端から全部たどったり、故郷出身のスポーツ選手や芸能人を挙げていくようなときに、なじみのある地名、知っている有名人が出てくると嬉しいし、一緒に数え上げたくなりますよね。 たぶん聞き手たちは、そういう親しみと期待をもって次から次へと出てくる固有名詞を楽しんだのでしょう。 ・・・そう思って、呪文のような固有名詞を読み流すもよし、気になるものは注を読んだり検索などして脇道にそれるもよし。 肝心のヒーロー、クーフーリンの話は、次回に。
November 1, 2021
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「もののけ姫」は公開当時(1997年)観ていなくて、先日TVで観ました(2度目です)。 問題作などと言われて、解釈や解説や、宮崎駿さん自身のコメントがすでにあり、どうしても色々考えながら観てしまいますね。 女性から見てすばらしいヒロインを生み出すのが得意な宮崎駿さんですが、今回主人公はアシタカなのに、もののけ姫サンやタタラ場の烏帽子御前などやっぱり女性たちが印象的です。 最初に出てきたエミシの村の娘たちや巫女は、古典的な女性像だけれど、舞台が西国になると、サン、烏帽子御前、タタラ場の女性たち、みんな躍動的で力にあふれ、猛々しく戦っています。 乱世を生き抜く彼女らは、奔放で気兼ねなく言いたいことを言い、やりたいことをやって自立していて、一見とてもすがすがしくカッコいい・・・まるで古典的な男性のように。 もちろん、生け贄として捨てられた赤子だったサンや、過去に訳ありの烏帽子御前と女性たちは(ハンセン氏病の人々も含めて)当時の社会からはじかれた者たちで、カッコ良さの裏にはよほどの苦労があったはず。戦わなければ生きられない、でも乱世=時代の変わり目なので、戦えば居場所を作れる、そんな時代。 ただし彼女たちの生き方は、本来女性が持っている、生み育てる、いたわり看取る、などではなく、男性と同じ仕事をし武器をとって戦うというもの。 自然界との関わり方で言えば、中世までの、大地を耕し作物を育て収穫し、有機的な廃棄物をまた土に還すという地母神的なサイクルの生き方ではなく、大地から資源を収奪し武器にして命を奪うだけで還元しない・・・つまり、今風に言うとサステイナブルでない生き方。 その象徴が、烏帽子御前による、自然神シシ神の首の切断でしょう。 文明史的に見ると、こんな生き方が本格的に始まったのが、この物語の舞台となる室町後期の戦国時代。乱世が終わり江戸幕府がいくら鎖国して農業基盤の社会に戻そうとしてもうまくいかず、明治以降の富国強兵から戦争そして高度成長まで、がむしゃらに生き抜こうと頑張るあまり、思えば私たちは直線的(男性的)に大量の収奪と廃棄と破壊を行ってきたわけです。 そんなことを思うと、子どもも老人もおらず家庭的な生活感のないタタラ場(まったくの「職場」ですね)や、死に絶えていく自然神の怒りと無念を背負ったサンの姿は、何だか張り詰めすぎて痛々しい。 そこへ登場する主人公のアシタカは、古典的な男性ヒーローとは反対に、張り詰めた緊張と一直線な暴走を止めようとします。 故郷ではタタリ神を射殺して村を守るなど古典的男性ですが、呪いを受けたあとは、運命を受け入れて探求者となり、不要な殺生をせず、人々やもののけたちの両方を理解して両方の生命を救おうとする立ち位置。 それは、西国の人々とも、もののけとも、タタラ場の女たちともちがう、よそ者だからこそ立てた立ち位置なのでしょう。エミシの老巫女の言葉: 大和の王の力はなく将軍どもの牙も折れ・・・我が一族の血もまたおとろえたこの時に、一族の長となるべき若者が西へ旅立つのはさだめかもしれぬ ーー「もののけ姫」 追放という形で送り出されたエミシ族代表アシタカの、最後の使命。それは、結局は切断されたシシ神の首を返すこと、すなわち、ナウシカ流に言うと「失われた大地との絆を結び」直すことでした。 そこへ行き着くためには、白黒、生死、敵味方、はっきり決着をつけたい男性原理の追求ではなく、両方を受け入れて包みこむ、いわゆる母性的な立場に立つことが必要だったのでしょう。 女性たちとアシタカと、古典的(生物的)な男性女性の生き方が逆転しているようにもとれ、そのジェンダーレスな感じが、今(近代以降の直線的発展の末にやっと「収奪・廃棄の場」以外の目で自然を見始めた現在)の私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。 大団円で、シシ神(デイダラボッチ)が山野に破壊をもたらしたあと、森が再生の兆しをみせると同時に、サンとアシタカも再出発、烏帽子御前たちも「やり直そう」と言っています。物語全体を包括するとても大きな意味合いで、破壊やボーダーレスな試行錯誤のあと、ゆっくりとではあるが確かに再生への道を歩む、その生死のサイクルこそが生命だ、と思うと、私たちも未来に希望が持てるかもしれません。
September 20, 2021
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娘が描いた絵に、言葉(ちょっとチンプかな)をのっけてみました。 ほんとは春っぽい風景だそうですが、暑中見舞いに使うので、彩度を上げてにじんだ感じにしました。 庭で、クマゼミの幼虫が脱皮しようと彷徨っているのに遭遇したり、昨日は小さなニイニイゼミも居たりして、ますますワイルドな夏です。
July 26, 2021
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『指輪物語』の中つ国は広大な時空間ですから、第二紀が舞台のドラマ化(アマゾンが制作。いったいいつ出来るのやら)の他にも色々出てくるのでは とは思っていましたが。 「ロヒアリムたちの戦い」というタイトルで神山健治(よく知らないけど「攻殻機動隊」の人ですよね。アニメ版「精霊の守人」もこの人だった)が監督するアニメがニューライン・シネマで制作されるそうです。 このニュースを知ってから、『指輪物語』追補篇を読み返したり、YouTubeにある朗読つき動画を観てみたりしました。主人公はヘルム・ハンマーハンド(槌手王ヘルム)、野性味あふれるローハンの、力自慢の王様で、ヘルム峡谷と角笛城の名の由来となった人。「長い冬」に素手で敵を殺しまくり、最後は堤防壁の上で“弁慶の立ち往生”を遂げたという壮絶な英雄! PJ監督もローハンがお好きな様子でしたが、なんというか西洋人の古層には遊牧騎馬民族のルーツがあって、その魅力がいっぱいなんでしょうね。 原作どおりなら、エルフもドワーフも魔法使いも出てこないし、北欧の中世サガ的悲劇な感じがする、ファンタジーとはちょっと異なる物語になるんでしょうか。 ヘルムの大角笛が谷に響き渡るのは聞いてみたいけど、日本人には角笛ってなじみがない。山伏のホラ貝みたいなものかしら。 PJの映画「ロード・オブ・ザ・リング・二つの塔」では何か城の前庭に石造りの巨大なオルガンみたいなホルンがあったけど、あれは後代の造りものなんでしょうか。 『指輪物語』ではボロミアが角笛を吹いてましたし、ルイスの「ナルニア国ものがたり」シリーズではスーザンが魔法の角笛を持っていましたね。西洋古典では「ロランの歌」にオリファンという有名な角笛が出てきます。いずれも危急のとき援軍を呼ぶのに使うのがポイント。 さてどんな角笛になるのでしょう、色々楽しみなような心配なような。
June 30, 2021
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子どものころの私がリスペクトしていた4人の動物学者さんの一人。といっても、他の2人はドリトル先生とぽっぺん先生という架空の人物で、残る1人はヒヨコの「刷り込み」で有名なローレンツ博士です。 河合雅雄氏やローレンツ博士は、動物を研究対象とする以前に、ほんとうに「好き」なんだな!と思えるところがあって、親近感がわきます。 『少年動物誌』の初めの章は「モル氏」と題して、彼が子どものころ飼っていたモルモットの話ですが、ちょうど最近のブームにも負けないぐらい、モルモット愛に満ちています。私はこの本を読んでモルモットが「クイ、クイ」(アニメ「PUIPUIモルカー」などでは「プイ、プイ」と記されています)と鳴くことを知りました。 少年河合氏はモルモットを「モル氏」と呼んでかわいがり世話をし、繁殖させて売りさばきもしますが、当時は餌だって自分で草を刈ってくるのですから、大変です。冬場は草を求めて遠くまで走り回り、最後にとうとう麦畑の麦の葉を盗んで帰ります。また、台風の日には囲いが濡れて「チビモル氏」が死にそうになるので、自分もずぶぬれになりながら服にくるんで暖めてやります。 お題目の動物愛護や、研究・商業目的の動物保護とちがって、これは本当のペット愛ですよね。ペットショップで何でも揃え、服を着せたりインスタ映えを狙ったりする昨今のペット愛とは、少し別物ですが。 私は今も昔も、たとえペットでも野生味のある姿が好きなたちなので、『日本動物記』の中の卒業研究「飼いウサギ」や『少年動物誌』をとくに愛読していました。そしてとうとう、五年生か六年生のある日、両親を説得して河合氏の故郷、丹波篠山まで連れて行ってもらったのです。 城跡、篠山川、粟嶋神社などを見て回ったあと、河合氏のご実家を見つけて前をうろうろしていたら、お家の人(お兄さん?の奥様??)が声をかけてくださいました! 珍しく私のすすめるまま『少年動物誌』を読んだ父が、「川で魚をつかみ取りする話を読んだが、自分も子どものころ同じことをしていた。自分は九州なので魚の名まえが違っていたが、つかみ取りのやり方は同じだった」と熱心に話し、私は「飼いウサギの群れの社会構造を観察した庭が見たい」と訴えて、なんとお家の中まで見せていただきました。 庭(思っていたよりこぢんまりしていました)はもとより、『少年動物誌』の挿絵にある子ども部屋の窓まで見せてもらったように記憶しています。 感動のあまり私はろくにお礼も言えず、ぼーっとなって帰りました。 それで、将来は河合氏のように「京大理学部動物学科」で動物行動学の研究者になるんだという遠大な妄想をした私でしたが、もちろん圧倒的に頭脳が足りませんでした。おかしいなあ、河合氏と同じように、動植物を愛でて遊んだ子ども時代を送ったつもりなのに、学者にはなれなかったなあ、と大人になったとき思ったものでした。 ご冥福をお祈りいたします。
May 17, 2021
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1991年というともろにソ連崩壊の年なんですけど、そんな激動の時代にレニングラードTVが作った映画『指輪物語』。何を思って制作したんでしょうねえ。ファンタジーから未来への指標を読み取ろうとしたんでしょうか!? 残念ながら第1部(『旅の仲間』)だけのようですが。 YouTubeで無料で観られるというニュースを発見してからはや2週間、スキマ時間に5分、10分と観ているのですが、ようやく前編の終わりぐらいまで来ました。 全部ロシア語なので、画面から読み解くしかありません。(←違いました。二度めに観て気づきました、英語字幕なら出ます! 4/30付記) (じつは、娘はロシア語がわかるのですが! 多忙な彼女は『ホビット』しか知らないし、大学の課題の教材にするには長すぎると言って、観てくれません! 何としても翻訳してほしいものですが・・・) とりあえず気づいた点を書き留めます; ロシアが舞台のホビット庄ですね。黒の乗り手たちが雪をけたてて走ります。フロドたちはみんなで橇に乗ってます。なんだか心温まるロシア民話。素朴な農民たちのいい感じが出ていて、それなりにホビット庄です(うん、まあね)。 ホビットたちおそろいのフリンジ付きブーツはいてる、と思ったら、それは毛の生えたホビットの足を表現しているのでした。 それにしても、いきなりメガネをかけた先生みたいなナレーターが出てきて、袋小路の炉端みたいな所で語り出すので、びっくりです。本編のややこしいアクションのところは、このナレーターがしゃべって飛ばす感じです。 ビルボの待ちに待った誕生祝いのシーンを見ると、メガネの若いホビットが居て、あとでフロド(ビルボが行ってしまった時は、水玉模様のスカーフの端っこで涙をぬぐっています)に同行している・・・まさか、サム? だって最後に袋小路のあるじとなったのはサムですから、昔話を語るナレーターになってもおかしくはない。でも、発想が新鮮すぎる・・・メガネのサム!? 追記;サムじゃなかったです。後日、パート2を見たら、ホビットたち一人一人紹介する場面があって、メガネはピピンでした! メガネのピピンもかなりびっくり! ちょっとあんまりだー!! ガンダルフは地味です(とんがり帽子がないし、ホビットにくらべてそれほど大きくない)けど、ガンダルフらしいいい顔でした。花火が学芸会のような手書きで悲しかったけど、仕方ないですね。 他にも、SFXとか無いですから貼り重ねたような画面やテクノカラーみたいな色づけが目立ちますが、一生懸命工夫してるんでしょうね。 柳じじいのシーンで樹木の精がモダンバレエみたいに踊ってました。で、唐突にものすごくでかい(トロルなみ)トム・ボンバディルが山高帽をかぶって登場。ガンダルフよりずっと巨大です。助け出されたホビットたちが、ぺこぺこしながら「スパシーバ、スパシーバ」と言ってるのが、唯一私が聞き取れたロシア語です。なんだか地主と農奴みたいでもあります。 ゴールドベリはそれなりにすごくよかったです。やっぱりありえないでかさでしたが、素朴な自然霊らしく、もやもやの髪の毛にキラキラをつけて、五月祭の女王みたい。 そして衝撃の、塚山の恐怖体験。再びモダンバレエっぽい踊りがあり、ピエロみたいな隈取りの演出があり、でも結構盛り上がって、結構こわいです。ロシア風牧歌的田舎のホビットたちの目から見た、異次元の妖怪って、こんな感じかもな、と思えます。 躍る小馬亭の雰囲気もよかったです。俳優さんたちみな、表情が豊かで端役の人も手を抜いていません。 バクシのアニメとも、ピーター・ジャクソンの映画とも、また違った『指輪物語』。いろんな人々の想像力をこんなふうにかきたてたのか、と思いながら見比べるのは、ほんとに面白いです。その時代、その人にしかイメージできない世界があるのですね。 早く続きを観なくては。
April 23, 2021
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