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そして今音楽の最高の殿堂の一つ、パリのコンセル・バトワールの教授法 の一環として、アナリーゼと呼ぶ科目が出てくる。実際には日本の音大でも行われているようだが、作曲家の時代色、個性、環境とあらゆる分野から追求する原 作者の感性、趣味性、心境と言ったところまで分析し如何にその想いを表現するかまで、徹底的に学習する。その上で演奏家としての感性豊かな表現を求められ る。日本人の盲目のピアニストが、アメリカのみならず世界でも最大難関と言われるピアノ・コンテストで優勝した。その終演の凄まじさを思い、多くの審査員 達が奇跡と呼んだ彼の偉業は、ある意味ヘレン・ケラー女史に追従する程のものだ。2週間の間六種類の音楽をそれぞれプロとしての価値を問われ、更にオーケ ストラとのコンチェル室内楽の四重奏との共演も含めて、既に一人前のプロでも過酷と言える試験だ。
書にも勿論それに類した学習はある。し かし必須と言われるほど厳しい学習が行われているとは思えない。と言うより個人の感性に任されていて、東洋的な学習法には分析という方面がさまで重視され ていない。この面は教育書道と言われる分野でもここまで厳しくはないだろうと思える。特別な能力者を磨くだけなら、感性と個人的な修練それでも良いかも知 れない。しかしあらゆる場合、高さのみならず裾野の広がりを持たない分野は必ず衰退する。書は実用が重んじられなくなって一気に衰退した。実用にしろ触れ る裾野を失う。言わば崖崩れで裾野を失った弧峰なのだ。これに類した衰退は各方面に見られる。何れ文房四宝と言われる分野でも職人不足で補給に困難を来す かも知れない。後は一気に無力化するだけだ。裾野を作らなければいろんな意味で高さも保てない。そう言った意味で現代では個人的な視野だけでは物事は成し 遂げられない時代となっている。
今回の自分の打ち込みようは今までになかった種類のものののような気がする。音痴を自負する自分が此処ま で引き込まれるのは、真似事ほどだが自らの道楽、書と音楽と言う表現との重なり合い類似点の多さによる。分野は違い表現法の差はあっても何と類似点の多い ことか。近代音楽の伝統に比して書の歴史は古い。しかしそれだけに所謂道場稽古的な部分を多く残しているのも確かだ。それでいて最近盲目のピアニスト、前 述した辻井ノブユキが世界一級のピアノ・コンテストでの優勝、 その鍛錬の厳しさは凄まじい。同コンテストの出場者殆どが技術的には大差ないのではないかと思われた。技術だけ取っても世界から百五十人ほどが地方予選を パスし、更に二十九人だけが本選に出場する。主催者側のもとめる基準はとてつも無く厳しい。最後の予選をパスした五、六人にして、尚悲鳴を上げるほどの質 と各種各様の素養の幅を要求される。トップレベルの技術のみならず、プロとして聴衆を魅了できる魅力を有しているか、音楽の解釈は適確か、将来更に飛躍し うる資質はあるのかと審査員も同じピアニストだけでなく、指揮者から共演する他楽器の専門家から見る意見もある。優勝者は向こう三年間世界中をコンサート 旅行が出来る資格を得る。つまりプロとしてトップレベルのデビュー権を獲得できるのだが、二十二歳で辻井はその資格を獲得した。全盲で音符を全部暗譜しな ければならない辻井は、しかし練習を苦しいとか嫌だとか思ったことはないと言う。これほどの試練に立ち向かう書家が今何人いるのだろうか。勿論我々如き趣 味人とは桁が違うとレベル差を思い知らされた。