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茶道では、稽古が一巡りすると盆手前という一番初歩の単純、簡単な手前に戻り、改めて稽古をするとか。 ずいぶん前に耳にした話なので少々不確かだが、書で言うと半紙臨書という形になるだろうか。 その頃は特にどうとは思わなかったのだが、今は誠に尤もなことだと思うようになってきた。鈍い自分も多少はその意味が感じられるようになってきたようだ。 まあ手間暇の掛かる事はなはだしいが、鈍才だからそんなものかと自分一人で納得している。
2013年01月19日
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後々の記録のために 婿殿 洋介君へ 遊という字を書いた意味 私は人はこの世に遊びに出て来たのではないかと考えています。。 勿論、努力を怠らない人々も、見方次第でそれも遊びなのではないかと思えるからです。元々人間は嫌いなことを嫌々続けるのは無理がある。仮にそうせざるを得ない時でもその中に何とかして面白味を見つけ出そうとする方が良い。それを見つけ出す事が遊び上手で、 人生に面白味を見いだせる人なのだろうと思うのです。 厳しい環境の中で成功した人々も、刻苦勉励の中に面白味を見いだした人たちではないのか。こじつけに見えるかも知れないけれど、ノーベル賞の受賞者達の姿勢を思い合わせて私はそう考えるようになりました。面白いと思える、つまりそれが遊びです。 そこでこの「遊」の字は中国での古い形で意味は同じです。 文字を縦に三分割して左辺のさんずいは私の生来で鈍重さ。右辺は如何にもこなれてなくて切れ味悪い不器用さ。 真ん中の縦線だけ一本筋を通して書けた。つまりこれは私の人生。私の遊の生き様の象徴のようです。 この字を書き上げるため二十枚くらいは書いてみて、文字としての見た目、格好に囚われず、一番自分らしいかと思えるこれに決めました。 遊びも上手、下手があります。 人生を悠々と価値ある生き方をする。これが一番遊び上手かも知れない。 仕事とか為さねばならぬ事で遊べるのが二番目かも。 偉そうなことを言いましたが、私自身は遊び上手でなかった。ただ中心を大きく狂わせる事はなく生きたと言うだけです。 、気づくのが遅すぎましたが、これが私の人生だったと思っています。遊びという言葉を大きな意味で捉えて貰えたらと思いました。 どうせこの世で遊ぶなら、けち臭くなく一度きりの人生を出来るだけ大きく豊かに遊んで下さい。。 伴侶がそんな風に生きてくれたら共に生きる真名も当然豊かに生きられるでしょうから。
2013年01月12日
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若い頃の話ではある。 何かの本でユダヤ人について触れていた。ヨーロッパ方面での話でもあろうか。 著者は日本人で客船での食事中、隣席の白人のグループが魚類、それも深海魚に関してラテン語の学名を駆使しながら色々互いに談論風発と言った様子。その方面の学者でもあろうかと一応興味半分に耳を傾けていた。 その後、甲板に出て煙草をと思ったがライターをキャビンに忘れて来たので、煙草の火を借りると先方は先ほどの隣席の一人だったので、煙草火の礼と共に話しかけてみた。 「先刻食卓で魚類のお話で盛り上がっておいででしたが、皆さん専門家でいらっしゃいますか」 先方は 「いえ、私達は商人ですよ。」 「それにしては皆さん驚くほど豊富な知識をお持ちでしたね。」 「私達ユダヤ人は、会話も楽しみの一つとして、普段から話の種も豊富であるよう心がけ てはいますけれど」 話としてはこれだけ、 しかし私はその時それなりに感銘を受けた。先方とそれだけの対話をするには中途 半端な聞きかじりくらいではつとまらない。世界を股に掛けるユダヤ商人が、耳にした のが素人にせよ、学者と思いこませるほどの学識を話の種として当然のように身につけている。 これは驚異的なことだ。 普段からの心がけがなければ付け焼き刃では追いつけない。そう思った。 教養なんてものはひけらかす為ではないが、それくらいは常識、当たり前と言われては せめて聞く側に立ってもちんぷんかんぷんではありたくない。 しかし、今となっては日本人間では通用しないのかもと思いもする。 どうも極一般的な事以外口にすると嫌われるようなのだ。偉ぶっていると受け取られるのかも知れない。 私の場合、まるで歯が立たないレベルの人達との会話は、いや会話にはなっていなかったのだが、快感以外の何ものでもなかった。理解できない時は周囲の邪魔にならない限り遠慮なく質問したり教えを請うた。或いはその場でなくとも後ほどその機会を得ようとした。 第一若き日の自分がどれほど無知で無教養だったか、まあ現在もあまり進歩はしてないのだが、とにかく知識はやがて知恵の種になるはずとだけ思いこんだ若き日は、自分に自信のない者の足掻きだったのかも知れない。 知識も浅はかな知恵も大して役立ちはしなかったし、日本の田舎ではなおさら芽も出なかった。むしろ小難しげに口をきく奴だったのかも知れない。 只これこそ自画自賛みたいなものだが、向上心みたいなものが生きる支えになったような気はしている。 この文自体、何を言いたいのかなあ。
2013年01月11日
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老いると言うことは取りあえず初体験ではある。 しかし流石に七十半ばともなってくると、老いが否応なしに身に付くようになってきた。最近、我が家の老猫に話しかけては思わず苦笑する事が多くなってきたから、それなりに身に付いてきたようだ。 以前なら少々の体調不良は些か不快くらいの感じだったのだが、最近はどうやらお迎えが近いみたいだなと実感が伴う。 しかし未だ老いの新参者的感覚が残っているのか、直ぐそのことを忘れている自分に、何ともはや煮え切らない我が身ではある。
2013年01月08日
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分野が異なっても共通することは多い。と言うより私の場合は共通しないことの方が少ないと思いこんでいる。 子供の頃一芸は万芸に通じると言う言葉を聞いて素敵な言葉だと惚れ込んだ。もっとも当時は漠然と根拠もなくそうでもあろうか位にしかおもわなかった。無器用を既に自覚していたから自分にとって好都合な考え方でもあったから。 果たしてそうなのだろうかと思うたびに、なんとなく思い当たることも多く、いつしかそうなのだと信じ込むようになった。具体的には判然としなくても姿勢とか言ったものには共通すると思うことも多かったので。 私は真似事ほど書を嗜む。素人の域を出ない程度だが、それでも三十年くらいは即かず離れず継続はしてきた。 それは今から二十年ほども前だったろうか。剣道の高段者に残心という言葉とその実際の立ち居振る舞い、又何故にそれが大事かということを解説してもらった。 正直そのころそれが正しい解釈なのかどうか不明だったが、筆の穂先を剣の切っ先に見立てて最後の払いに最後まで気を緩めないように心がけた。 そして何時かそのことは習い性になって、ついには何故そうするかも忘れて習慣のみ定着していた。 何時か年月が過ぎて教書雑誌の写真版にたまに選ばれた折、批評として必ずと言ってよいほど線条が強い、最後まで筆力がみなぎっている等と言われるようになった。 正直毎回それしか言われ無いほどで、些か鼻について不遜ながら又かと思うようになり、最近これがひょっとした剣道関係の話から記憶が蘇えった。 これは嘗ての残心のたまものなのかも知れないと思い当たった。とすれば彼の剣の達人の言葉は何時しか私にも生きていたと言わざるを得ない。又かなんどと思っては罰が当たる。 又当時私が馬鹿正直に、こう言うことかとも知れないと闇雲に実践したことは無駄では無かったのだ。本人が忘れた頃に効果が出てきたのである。 そして先般十年ぶりくらいにその折の剣の名手にお会いした折に、これこれでその節は結構なご指導をとお礼を言ったのだが、先方もそんなことを言ったっけとばかりに見事に覚えてお出でではなかった。 マンガみたいな話だが、やはり一事が万事の一例くらいにはなるだろう。元々無器用極まりない方だから一つくらいは功徳もなくては!と今更ながら感謝する次第で。
2011年07月22日
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ツイッターとかフェイス・ブックとか言われるものの存在価値は、私にも何となくだが判る気はする。世界的に大きな影響を持つようになった経緯も想像できる。 しかしこれは絶対正義、危険はないのだろうか。 対照的な存在を持たないものは危うい、即発的感情的なものは正直いって情緒的には率直且つ大衆の意向を正直に告げてくる。しかし反面熟考とか深慮という面からは距離的に遠ざかる危険も又大きい。 人は一面的では成り立たない。知・情。意の少なくとも三面が必要だ。そしてこれを具現化するのはそう簡単ではない。現在金科玉条のようにもて囃されている民主主義も、反面では衆愚の危険性を絶えず念頭に置かなければならない。あくまで比較的にと言う条件がついている。つまり完璧などと言うものは人間にはないのだ。 バランスを欠いた場合の人間の危険性は古来まるで変化は無いのだ。
2011年07月19日
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日本人の事故対応の姿勢、暴行略奪等が殆ど無かった事とかいった事象へのジャーナリスチックな論評からそれは始まった。 サンデル氏自身の公共性への美徳と言う賞賛は、人類の目的感に繋がる事が最後に結論づけられる訳だが、知と情とのバランス感覚と、最後的にその双方を統一する仏法的な想定に理法の感覚があるように、「のだめ・カンタービレ」 最終編の前編でセーヌの夜の河畔で、のだめがコン・マスが言った言葉を伝えて質問した時、ムジクスとカンタービレとして音楽上の概念を語るところで、バッハ時代に既にそう言う神の概念に触れた音楽理論が説かれていた。つまり楽人という技の範囲のカントルと全体を統御する力を持たなければならないムジクスの存在、作曲家や、指揮者としては全体を統御すら思念を保たなければ神とか宇宙とかへ繋がる全体観が把握出来ないという、神の存在に近付く為の音楽理論が発生していた。 東洋的な感性から発する感得という道のみならず、知から発した理論構成の方法論が神学の中或いは音楽というもっとも感性的な芸術分野にも導入されていた事が面白い。 西洋的な理論構築と、東洋的な或いは膳に代表される感得以外身にはつかないと言う姿勢と何れが優れているかは私如きに解釈は出来かねる。 只あえて言うなれば、教育の前半までの段階ならば理論構築は一般化し易く、初心でも見つけ易いように思える。 昔、恩師松川永郎先生が語られたように、禅の魅力を語られた後で。しかし大衆を救わんとする宗教の前提からすれば、禅宗は宗教たりえない一面を保っているという御説を今更の如く思い出す。
2011年04月27日
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この講義中どうも気になる箇所が一つだけあった。 欧米の個人主義と今度日本の災害地域で多くみられた共同体主義の比較と差違について関連した質問が教授からも幾たびと無く出ていたが、そのことに付いての議論中、どうも個人主義と利己主義が混同されているのではないかと思えたことだ。 若い学生達ならともかく、教授がどの段階でその差異を注意するかと気をつけていたが、最後までその事は問題にされなかった。或いは教授的には共同体主義にあらずんばこのような場合、結局個人主義或いは利己主義に大きな差はないと判断されたのか。 些か気なったところだ。
2011年04月26日
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最近100de読書という番組が始まった。その最初のテーマがニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」。何せ大部の本を25分ずつ4回100分間で語たろうというのだから、エッセンスのみを抜き出そうというのだろう。 昔々半世紀以上昔の高校生時代、級友神谷正純がこれに凝っていた。同時に親鸞の歎異抄とか教行心証とか言うものにもはまっていたから一応は何でと聞いたものの、私と違って頭脳明晰その物。本好きは私も幾らかは自負していたが、私の場合哲学は至って苦手、何処が面白いのか当時はさっぱり判らなかった。まあ好きで読む本だから良いかと私は当時ロシア文学とかドイツ文学中心の専ら文学書。 神谷は文学書は言うに及ばずこういった書物にも範囲を広げていたのだった。脳味噌の構造と材質が違うと私はすっかり諦めていたものだ。実はその前にパスカルの瞑想録、モンテーニュの随想録を高校の図書館で見つけ、一応は挑戦したのだがまるで歯が立たなかった経験があった所為でもある。 考えて見ればその時自身に関連性も興味もなかったものを、単に興味本位で読み始めるには無理があったのだ。この歳になって初めて無理をしたものだと苦笑せざるを得ない。 今、マイケル・サンデル教授の白熱講義をテレビで聴講して、哲学もこんな風に講義されればこれ程にも興深く面白いものをと今まことに残念だが。
2011年04月26日
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残念ながらもう少し整理して記述すればよいとは思うのだが、もう私の頭はその負担を著しいものと感じるようになった。 元々基本的に他人様の目に触れることは第一義ではなくて、そのことは自分へのブレーキ効果としたことだからと居直ることにする。結局一層厚かましくなるだけなのだが。 これで録画を反復して視るのは5回目だろうか。中身の確かなものは反復するほど厚みを増して感じられる。勿論一度で確実に深奥まで把握できる頭脳が無いのが最大原因なのだが、 上海の副担大學の女子大生が日本人の自己犠牲の感覚は中国人の自分でも判る。同じような感性は中国でも数多くあって別に珍しい事とは思わないと言う発言があった。自己犠牲が尊敬を招く事例は歴史的にも珍しくはないと言うのは別に中国に限らないだろう。今回の日本の事例は民衆レベルでそうなのであって、選ばれた人たちではないという感覚が欠落している。 話が前後するが、後半で原子力の危険性を飛行機事故の危険性と比較するのと同じで、極端な影響力、或いは数量差は異質と捉える感覚が分からないのは不思議だ。そのあたり妙に論議が生難い。
2011年04月22日
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このところ体調不調、と言うよりかなり認知症気味なのです。現に久しぶりとは思いながらこのブログを開いて開いた口がふさがりませんでした。 だって、だってですぞ! 半年も手を触れていないとは! その間、娘が嫁に行ったり、最近では大震災、原発問題。確かに国難と思わず思えるほどの騒然たる世相には違いないが。私の脳内宇宙ではそれどころではない・・・・? 極端な変異が起こってるわけです。まあ、この世から何時消えても不思議はないと一応自覚はしてるのですが。時空の感覚がこの位変わってくるとまあどうでも良いかもしれませんな。しかし面白いくらい老耄とは予想もしなかった世界です。ただ何となく目の所為もあって、テレビ画面くらいしか見えないので専ら種は其所だけになってしまいましたが。 司馬遼太郎氏の菜の花忌シンポジュウムは、緒方洪庵を基盤にした司馬氏の文章を中心に面白かったです。茨城大の準教授だそうですが、磯田氏という歳年少?パネリストも愉快でした。それと最近の印象ではマイケル・サンデル教授のインターネット利用、ボストン・上海・東京という三元中継、日本の震災を元にした白熱特別講義は大変興味深いものがありました。どちらもすっかり呆けてきた私を一時的にせよ興奮させるだけの迫力と内容がありました。 昔流に言えば呆け用カンフル剤のようなものですか。
2011年04月20日
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言葉の伝えられる概念は多くの場合大凡という大雑把なものであって、さほど正確な意味合いは伝えられないものだ。勿論半世紀以上その不十分な手段に頼って生きて来たからには一応そのことは判っている積もりだった。しかし年を取るに従ってもどかしさはつのる一方でもある。 話が進んだ場合いやそう言う意味ではなくてと一々訂正も出来ない場合も多い。古めかしい言い方だが隔靴掻痒の感を抱くことも多いのだ。もっとも若い頃からその思いが多弁になった理由でもある。先方に意味合いをなるべく正確に伝えたいという願望のせいだ。例を引く事は恩師松川永郎先生を見習った。先方に納得させられる用例を引けないのは自分自身が中身を把握し切れてないせいだという教えに従ったのだ。自分を確かめる為にもよい方法だと思えたから。 内容が別に難しくない場合ですら勘違いの場合が結構ある。多少込み入ってくると尚更その感が強くなる。一々説明もしたいのだがそれでも場合によれば誤解も生じる。しかし人は、この不確かな伝達方法以外を一般的にはもてないのも事実だ。 何という不確実さ! 感性、感覚の世界では、言葉無くして何かの意味合いを伝達することも可能ではあるが、普通言語に頼るなら、一々哲学的な定義を経てと言う訳にもいかない。 共通のものを抱いていてもなかなか困難で、それ故に大きな誤解或いは真の意味の把握に至らなかった例も史上少なくない。 友情、同志愛と言ったところである意味もっとも羨ましく思える、西郷隆盛と大久保利通の間でさえ、根底の志において十分以上分かり合えても実際には齟齬を来すことも多かった。この二人ほど根底で共通項を持ち得た仲間は史上いなかったのではないかと思える。しかしそれでも細部においては随分行き違いも生まれた。郷里を同じくし、志を同じくし、同じ主君を師と思い、共に肩を並べてもっとも信頼し合えた二人ですらそうだったのだ。 まして我々如きではと思いはするのだが、さてさて意思の疎通とは簡単でいて厄介。多くは誤解と錯覚、各々の独りよがりかも知れないとさえ思えてくる。たぶんその手の錯覚の上に成り立っているのが人間社会なのかも知れない。
2010年10月28日
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記憶というメカニズム 年のせいか記憶がまるで宛にならなくなった。周りからは当然と慰められることが多いのだが、自分では結構不自由又は厄介至極な事だから。実生活に不自由なければ良いが、七十過ぎという年齢はまだまるで呆けて笑って済ませられるには中途半端な年齢だと思う。全く困ったものある。 物忘れは笑い事で済めば話は早い。 しかし実生活に絡んだ場合は本人にとって笑いごとで済まない場合が多いのだ。
2010年10月08日
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私流の再学習はテレビ全面依存による。子供の時から不自然な姿勢で乱読の癖があったことから、目が痛く悪くなったことを考慮して三年前に大型地デジ用を求めた。大型と言っても当時最大の52インチが欲しかったのだが如何せん金不足、やむを得ず40インチで我慢した。とか何とか言っても本音を吐けば映画的環境が欲しかったのだ。 元々が映画大好き人間。学生時代新宿歌舞伎町界隈で安い映画館を4館ハシゴして、9本を一日で見たあげく流石に混戦しそうでもう一度館外ショウ・ウインドウのスチールを見て歩いたというエピソードの持ち主だから。 その時の収穫はスチールは実写の中にない場面が結構あると言うことを確認したことと、その内の1本の表題 ( Tanks are coming )直訳すれば(戦車隊進撃)とでもする訳が(肉弾鬼戦車中隊)となっていて、その意訳の凄さに呆れたり感服したりだった事くらいか。
2010年10月01日
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昔、まだ自分に老齢と言う意識がまだ無かった頃、想像もつかなかったことが頻発している。 何しろ階下の部屋で思いついたことを記録しようと二階のパソコン・ルームへ上がったらもう何だったか思い出せない。メモをして持って上がってもそのメモが何を意味してるか解らなくなっている。確かに年を取ると言うことの無惨さを身を以て体験することになる。今もその思いの中にいる。 私のパソコンはかなり旧型になったマック、長年マックを使ってきた。ウインドウズ派からは色々文句を言われて居るし、家内用のラップトップも一台あるのだが矢張り使いにくい。本格的と言うほどの使い方はしていないが、それでも大方25年、店用3台とと併せて8代目の器械だ。おまけにこの歳では切り替えが容易でない。ラップトップのマックを一台買えば良いのだが、隠居の小遣いでは少しきつい。まして何時あの世に転居するか不明の状態だから、後で使う者も居ないとなると無理してみてもと躊躇いが先に立つ。貧乏はそんなところにも祟るのだ。
2010年09月29日
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長いブランクがあった。脳を病んだ3月末以来、人間の衰えは如何ともしがたいと言うのは言い訳で本当は自覚の程度の強弱による。どうせ死ぬ定めだから自分の覚悟のあり方だと思うのだが、生来の怠け者的己れ自身を如何ともしがたい。だからこそこれはと言う何事もなしえなかった己がいる。 少なくとも正岡子規にそんなことはなかったのだから。 人として生まれつきの才能は如何ともしがたいが、それをカバーしうる何かはあってしかるべきなのだから。全く情けなさに愛想が尽きるというものだ。ブログと言うものが愚痴を言うところだとしたら全く我ながら自分の無気力さに愛想が尽きるが。それにしても今日は先に進まぬ。
2010年08月25日
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やっと解けた! 切っ掛けさえあれば何のことはない事! しかし私には五十年掛かった。 全く我ながらドジとしか言いようがない! 知識、知性、理知、理性、 そして感性、感情と言った問題を自己の中で整理する。ただそれだけのことがどうしても納得いかなかった。 切っ掛けは何と「のだめカンタービレ」マンガを元とした音楽テーマのテレビ・ドラマなのだ。 録画していた「最終楽章 前編」を我ながら不思議なほど気に入って、そうなるとしつこいのが私で何と五十回以上も見たもんだ。更にドラマ中主人公の指揮するオケが演奏する場面、チャイコフスキーの序曲「1812年」及びバッハのピアノ協奏曲のところに至ってはその部分だけでやはり五十回位も見て聞いただろうか。この物心付いて以来音痴を以て自認してきた私がである。自分でも何故か説明がつかなかった。 しかし天来の声はその他の部分に潜んでいた。 主人公がヒロインに自分が常任指揮者になったオケのコン・マスがアンサンブルの本筋は調和にこそある。真の音楽家がすることはそれを完璧に実現することにあると団員の不調和を叱責したところの意味を推測解説し、中世の音楽では神の摂理を学ぶのは天文学、幾何、数論、音楽の4項目とされたと説明し、その意味で音楽理論をも承知してそれを展開し世界を証明できる人をムジクスと言い音を奏でられるだけの人をカントルと言ったと教えた。そしてカントルはカンタービレの語源だと説明するに及んで私は、はっとした。勿論私は鈍いからはっとしてからでもそのところだけでも10回くらいは反復して見た。タイトルとして作者がノダメ・カンタービレと言う言葉を選んだ意味が一挙に納得できたから。 当初は中世のバッハの時代でも既に音楽に対位法編み出す音楽に理論的な態度が成り立っていたと言うだけで感銘を受けていた。 自分が些かでも首を突っ込んだ書の世界では未だに感性、情念のみ重視される世界だから。人間に理性、感性という両面がある以上双方向からの接近は当然なければ可笑しいと思ってきたから。 宇宙観からいっても背景には理が無ければ成り立たない。目下人類が把握した理論はまだまだ上っ面に過ぎないかも知れないが、現在のところ人類という存在が唯一把握している感情、感性の世界の方が宇宙の中では珍しい世界なのではないか。 人間という立場で考慮すれば感情的な面が人間世界、或いは個人の内面にしても影響は大きい。しかしそれは人間中心に考えすぎではないのか。 世界三大宗教でも宇宙観を理論的に触れたのは仏教しかない。その面で他の宗教観より大局的な把握を示した存在であろう。 キリスト教の歴史も反理論的な展開は多く人類の歴史と進歩を大きく疎外してきた。ルターの宗教改革はよくぞ内部から行い得たと現在でも感嘆に値するし、これこそ一見自然的なものに見える反作用の例かも知れないとも考える。 今何も中世的な理論に囚われる必用性はないが、もっとも抽象的な音で表現する純粋感性作用の代表的な音楽に理論的な発達が無視されずにあったと言うことが、東洋人の私には不思議でもある。 と言って理論だけでそのような世界が成り立つとは如何に私でも思い込みはしない。 理論は骨にして感性は肉体だ・・・・一番簡単な解説はこれだ! と言うことが頭に閃いた。理論が表に出て肉体が背後と言うことはあり得ない。しかし骨のない肉体も成立しないのだ。 どちらかに偏っては何事も未完である。これだけのことが一瞬頭の中をよぎった。私は今少しく幸せだ。この単純なことに気づき得ただけで、自らは何事にも達し得ない人生だったが、絶えず不安で落ち着かないまま人生を終わることだけはなくなった。
2010年05月12日
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作家川上未映子のインタビュー番組で、その才女ぶりに感心もしながらふと気付いた。何時とはなく自分の文章が、以前より読点の間隔が短くなっていることに。 彼女の出世作の延々と続く果てしない句点の連続。破格の文章の持つ面白さとその効果に感心しながら、自分はとふと佇んだ時気付かされた自分の息づかいの変化。これは別に彼女のように作品効果を意識してはいない。今回のようにくも膜下出血等という病変が起こるような年齢の故、つまり自然現象を全く意識しないで起こったこと。所詮人は自然の摂理を逃れることは出来ないとつくづく思えた。 一ヶ月近くパソコンにも向かえなかった。向かわなかったのでなく意識その物が遠のいて、ごく自然に向かわなかったのだから、これ位自然なことはないのかも知れない。 若かりし頃、切っ掛けは泉鏡花だったと思うが美文調に引きずり込まれた。所謂美文調の根幹が幕末にその時期を過ごした彼等、硯友社一派の時代が寺子屋式素読によると知った為だ。文字を覚えるとか意味を思う前に素読という音読で鍛えられ、自然と文字の前に音声の伝える流麗さ、ある意味音楽的な快さが根底にあると言うこと。硯友社的美文の根底にそのことがあると知った時から、二・三年の間かなりはまった時期があった。更に漢文で得た文字面の美しさが彼等の命の一面だった。しかしそのことが逆に枷ともなって時代から取り残されもした。 硯友社一派とは異なるが、樋口一葉にはまった時代があるという川上未映子の表現には、確かに一葉に通じるあやかに細かな感性が見受けられると思う。 老いて今更とも思いつつ、怠惰に過ごした若き日に今と思うことが同じくらいであれば、もっと勉学に重きを置いたかも知れない。凡人とは全てに於いて遅きに失する事だ。
2010年04月19日
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名優チャールズ・ チャップリンは言った。 人生はは近くで見ると悲劇だが、遠くで見ると喜劇であると。 第二次大戦中苦難の中で頑張り通した英首相チャーチルは言った。第二次大戦中もっとも苦しい戦い、ロンドンに猛爆撃を受けている時、英吉利を救ったのはごく少数のスピット・ファイア戦闘機とイギリス人のユーモアの精神だと。 ユーモアの精神とは距離をおいて物事を眺められるゆとりの心なのかも知れない。 私流に付け加えれば自分を笑える余裕とも言いたいところだ。
2010年03月12日
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しかしやはりその人は現われた。私が司馬遼太郎の名を印象づけられたのは「竜馬が行く」だ。それまでも何冊かに目を通しては居た。しかしその段階では彼こそその人とは思ってなかった。自分の好みも当然勘案しなければならないが、特に数時的な根拠はなくとも感覚的にこれはと思えた。更にその想いを確信めいたものに変えさせられた作が、「坂の上の雲」だった。勿論その時これは男が読む本だとも感じた。本来文学に男も女もないと思うのだが、矢張り何故か区別はあるようだ。しかし国民文学という言葉の中には、色々な条件を含んでいるはず。多くの読者を引きつけるには国民性に共通した根底があり、更に親しみを持ちうる面白さ解りやすさやら、その他にも様々な条件を満たさなければならない。作家が自分の個性で大衆にも浸透しうる親しみのある文体とか、意識的にどうこう出来る個性ではないのだ。 元来多読速読型の私は「竜馬が行く」で連続に近い形で十数回、「坂の上の雲」では反復二十階以上になるだろうか。自分流の物差しだが、汲めども尽きず繰り返しの中からその度に新たな発見がある本はそうそう数はない。私流の魅力の判別法の一つでもある。 その司馬遼太郎も物故した今多く作家は存在するのだが、次に登場する国民文学の作家はどんな人物なのか、今この歳になっては多分知ることはないだろう。又そのような作家の出現が間に合ったとしても、すっかり目を悪くした今恐らくもう耽読する日々はあり得ないが。
2010年02月20日
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国民文学という種類のものがあるという。何時の頃耳にしたのかあまり定かな記憶はない。 多分二、三十年くらい前であったろう。英国の国民文学と呼ばれるのはホーン・ブロワー・シリーズ。フォレスター作の海洋文学シリーズだそうだ。 たまたま何故か書店で偶然見つけたその文庫版のシリーズが発端で、2年くらい各種の海洋小説と呼ばれる物を目に入る限り片端から読んだ。 何と言っても海洋冒険活劇文庫とでも言いたいこの手の物は、単純に血湧き肉躍ると言うことで気晴らし娯楽には持ってこいの代物。そして巻末に何処まで信用性があるかはさておいて、これは英国の国民文学ともいうべき物で、フランスならデュマの「三銃士」のシリーズに匹敵するとあった。ドゴール大統領、チャーチル首相等何れもそれぞれの国のかかる作品を通過し目を通していて当たり前な物なのだそうだ。 そう言う国民文学という物はなるほど各国に有って不思議はない。近代日本に於いて語るならばと考えれば、自分の体験からすればやはり吉川英治の作だろうと思った。「宮本武蔵」太閤記」「新平家物語」私の年代なら多分この内のどれかは目を通し、或いは全巻目を通さぬまでもその名前を聞かなかった者はないであろうから。 しかし、吉川英治亡き後にこのような作家が新たに生まれたであろうかと考えると、候補者達は色々存在してもこの人だという古くさい表現ながら世を覆うとまで言える人はなかなか無かった。何人かの名を指折り数えてもこれだと断言出来ないのだ。
2010年02月19日
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13日半世紀を越える付き合いがあった友人が亡くなった。必ずしも深い付き合いとばかりは言えなかったが、それにしてもその間完全に途切れたこともなかった交流は、と言うと其れ程数はない。やはり縁の深さがあったと言うべきだろう。この数日何かというと在りし日の事が訳もなく心に浮かぶ。 彼の両親には特に高校、大學時代一方ならぬ程お世話になった。そのころは本人の事より記憶としてご両親にまつわる方が多いような気がする。勿論お二人とも他界されて随分になるが、その晩年自分は何かと身の回りのことに取り紛れて御無沙汰ばかりしていた。そしてそれぞれの御葬儀に参列するたび平素の無沙汰を悔いて胸が痛んだ。敷居が高いという言葉が切実に感じられた頃でもあった。 形に表さなかったから意味無いが、父君の通夜に赴いた時帰途に蕎麦屋に顔を出した。ご生前大の蕎麦好きだった方の供養にと、兼ねてご贔屓だった店に飛び込んで二、三十人前程当地特有の割りご蕎麦を通夜の席に届けて貰おうと思ったのだが、人手もなく打つにしても、出前もできないという。今から考えるとその旨を連絡して他の蕎麦屋でも良かったかも知れないのだが、気持ちの余裕がなかった為かそこで諦めてしまった。形だけを整えるのが嫌だと思ったような気もする。 そんな間柄の父君が私が未だ高校三年のころ、何かの話のついでに 「世の中無駄と言うことも多いが、無駄の有だと言うこともあるのだよ。一見無駄に見えて其れあればこそ他の部分が生きる場合も無きにしもあらずだ。」と語られた。 その時は深い意味をくみ取れず、 ただ何となく意味ありげだなと思っただけだったが、その時の情景と言葉は何故か忘れずに残った。今は色々な意味でそのことが納得できる。年からすると当時の父君は今の私より若いのだから、私の方がはるかにおくてだと思う。 友人の死の呼び覚ました記憶である。
2010年02月17日
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私の脳味噌は至って纏まりがない。自分でもよく気付くことが多いのだが、話が無制限に転換していって収拾がつかなくなりかけることが多い。はた迷惑な話だと思うのだが、自分でもエーと何から始まったんだっけと焦ることもよくある。でも私は何故そうなるのかと考え込んだ。 話は意外と単純だ。つまり思考回路の連鎖と言うこと。私の中では人の考える範疇は物事の分野ではなく底辺に流れる基盤の共通点を発見することにある。視点・論点というテレビ番組があるが、私の興味は何についてより人の発想の底辺に流れる共通の物を探ると言うこと。所詮人間から出て人間に帰ること。私のように特別な専門分野を持たない人間から見れば、結果的には何でも一緒に見えるのである。少し乱暴すぎるかも知れないが、音楽でも絵画、書でも哲学文学建築医学等々一見無関係な物事が、拘わる人間とその発想の姿勢や態度や視点で見ればそれほど分野別の特異な差は認められない。 つまり結果の形で見ないで出発点は人間、と言う見方に重点を置いてみれば深浅とか発想の独自性とかレベルの程度とか、つまりある程度抽象化した単純な言葉に置き換えが出来る。言い方を変えれば私の興味は人間その物で、行為の方法論とか結果は二の次、三の次と言うことになる。 専門がないと言ったが、敢えて言えば少年時代から心を寄せたのは文学?だけだったから、人間学という意味でこんな姿勢が身に付いたのかも知れない。 話が相変わらず止め処もなく飛躍するようだが、要は私にとって分母が常に人間で、分子は何でも同等だと言う単純な話なのである。後はいとも単純、その共通項を求める為に帰納し演繹するという論理学の初歩中の初歩を反復する。だから私にとって人が絡むかぎり興味のない話はない。古代ギリシャの哲人がのたもうたと言う・・・私に関心のないことは何もない。全て人間に発し人間に無関係な物は何もないから・・・・(原文は忘れた。大意はこんな風だったと思う?)十代に知ったこの言葉が何時か指針になった。 他人には小難しげに見えるらしいが、本人は至って単純そのものなのです。
2010年02月15日
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世の中物真似が多い。 真似ること自体は悪くない。あらゆる場合学習の初歩の段階は真似ることから始まる。 基本学習では大事なことだ。 しかしこれは基礎的な学習に限られている事で、一応の段階が終了する頃には次の飛躍が望まれる。大旨の学校教育はその基礎段階の修練に費やされるのだが、基礎学習を何のためと言う観点がその教育過程で織り込まれていないのがほとんどなのではないか。 本来の目的がハッキリしていない事などあり得ないのだが、何故か日本の現実はそのままでまかり越している。 日常、過程の煩雑さに紛れて見過ごされているのかも知れないが、手段は目的のためにこそあるので基礎学習に関与する人々は、 何のために斯かる事を学ばせているのかを疎かであれば、それは教育根幹の目的を忘れているとしか思えない。 真似る要素が強い段階では生徒にその意味を語る必要はない。しかしその時点でも教育関係者は常に念頭にそのことを置いていなければならない。直接語らないからこそ下ごしらえの段階は手抜きできないのだ。人生何を業とするかではなくてその業の中で真摯であれば、他業の人をも感動させることが出来ると言うことがその証明になる。 先般82歳でミシュランの三つ星の評価を得た「次郎寿司」 の小野次郎氏のドキュメントが再放送された。ご覧になった方々も多いと思う。彼の店を高く評価すフランスの三つ星シェフの代表的大物が再訪して貴方に学ばねばならないと言った。 その時の彼の,表現はその心に触れる言葉で述べられた。 次郎寿司が提供する旨さの底にあるものを讃えた挨拶だった。味覚表現の同業とはいえ寿司とフランス料理という差を超える感動があり得るのだ。 トップレベルに達した人々はその業を通じて他業種の人とも心を通じ合える。つまり人間の目的とする共通項があると言うことだ。その普遍性があればこそ人はお互いを信じ合えると思える。人の目的とはそう言うある意味シンプルな表現が可能なものの上にある。 学ぶ目的はそう言った事にある。後はそのための手段と言ってよい。しかしそういう人生の或いは人としての大事を知る人、又その事を伝える人は少ない。教育は国としても最大の事業、後の世に何を伝え何を伝えてはならないかは人類の未来を左右する。 若き日高校時代。私の師と仰いだ方は 「大學を出た程度では基礎をやっと得たかどうかの段階だ。それからが終生を懸けた本当のお前自身の人生が始まる」 と私に言い渡された。優れた師に巡り会えながらその幸せを生かしかねた不肖の弟子は、人生の落日を迎えんとするに当たって今更ながら恥じざるをえない。
2010年02月12日
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最近テレビドラマの「のだめカンタービレ」にはまっている。全部揃ってはいないが気づいたところから録画を開始して今十編近くストックがある。マンガが ベースだけにギャグやずっこけの多い仕立て上がりだが、所々にマンガと笑い捨てられないものが顔を覗かせる。以前から決してマンガを侮ってはいないし、私 の年齢からすれば不思議だと言われるほどに結構高く買ってもいる。 そして今音楽の最高の殿堂の一つ、パリのコンセル・バトワールの教授法 の一環として、アナリーゼと呼ぶ科目が出てくる。実際には日本の音大でも行われているようだが、作曲家の時代色、個性、環境とあらゆる分野から追求する原 作者の感性、趣味性、心境と言ったところまで分析し如何にその想いを表現するかまで、徹底的に学習する。その上で演奏家としての感性豊かな表現を求められ る。日本人の盲目のピアニストが、アメリカのみならず世界でも最大難関と言われるピアノ・コンテストで優勝した。その終演の凄まじさを思い、多くの審査員 達が奇跡と呼んだ彼の偉業は、ある意味ヘレン・ケラー女史に追従する程のものだ。2週間の間六種類の音楽をそれぞれプロとしての価値を問われ、更にオーケ ストラとのコンチェル室内楽の四重奏との共演も含めて、既に一人前のプロでも過酷と言える試験だ。 書にも勿論それに類した学習はある。し かし必須と言われるほど厳しい学習が行われているとは思えない。と言うより個人の感性に任されていて、東洋的な学習法には分析という方面がさまで重視され ていない。この面は教育書道と言われる分野でもここまで厳しくはないだろうと思える。特別な能力者を磨くだけなら、感性と個人的な修練それでも良いかも知 れない。しかしあらゆる場合、高さのみならず裾野の広がりを持たない分野は必ず衰退する。書は実用が重んじられなくなって一気に衰退した。実用にしろ触れ る裾野を失う。言わば崖崩れで裾野を失った弧峰なのだ。これに類した衰退は各方面に見られる。何れ文房四宝と言われる分野でも職人不足で補給に困難を来す かも知れない。後は一気に無力化するだけだ。裾野を作らなければいろんな意味で高さも保てない。そう言った意味で現代では個人的な視野だけでは物事は成し 遂げられない時代となっている。 今回の自分の打ち込みようは今までになかった種類のものののような気がする。音痴を自負する自分が此処ま で引き込まれるのは、真似事ほどだが自らの道楽、書と音楽と言う表現との重なり合い類似点の多さによる。分野は違い表現法の差はあっても何と類似点の多い ことか。近代音楽の伝統に比して書の歴史は古い。しかしそれだけに所謂道場稽古的な部分を多く残しているのも確かだ。それでいて最近盲目のピアニスト、前 述した辻井ノブユキが世界一級のピアノ・コンテストでの優勝、 その鍛錬の厳しさは凄まじい。同コンテストの出場者殆どが技術的には大差ないのではないかと思われた。技術だけ取っても世界から百五十人ほどが地方予選を パスし、更に二十九人だけが本選に出場する。主催者側のもとめる基準はとてつも無く厳しい。最後の予選をパスした五、六人にして、尚悲鳴を上げるほどの質 と各種各様の素養の幅を要求される。トップレベルの技術のみならず、プロとして聴衆を魅了できる魅力を有しているか、音楽の解釈は適確か、将来更に飛躍し うる資質はあるのかと審査員も同じピアニストだけでなく、指揮者から共演する他楽器の専門家から見る意見もある。優勝者は向こう三年間世界中をコンサート 旅行が出来る資格を得る。つまりプロとしてトップレベルのデビュー権を獲得できるのだが、二十二歳で辻井はその資格を獲得した。全盲で音符を全部暗譜しな ければならない辻井は、しかし練習を苦しいとか嫌だとか思ったことはないと言う。これほどの試練に立ち向かう書家が今何人いるのだろうか。勿論我々如き趣 味人とは桁が違うとレベル差を思い知らされた。
2010年01月30日
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生活の中、最新と最古の中の広がりがあると言うことはそれだけ大きな範囲をもてる豊かさがある。 これはひょっとして人の深さを得る為の遺産として有益な事なのではあるまいか。 勿論そのことの意味を理解して掛かればより適確度を増すかも知れない。書の世界も文化としては結構歴史が長い。 勿論人類文化史の中でと言う事で地域的にはかなり限られてはいるのだが。 (続)
2010年01月28日
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元々何故か若い頃、中学三年位から俳句は好きだった。詠むと言うより読むのが好きだったのだ。詠む方はやってみてあまりの酷さにあっさりと断念した。以来十年に一句位の割でしか詠んだことがない。だからあくまで鑑賞者として好きなだけなのだ。一時は興味本位ながら読みあさってる内に、大方芭蕉を中心に三千句くらいは覚えていたが年と共に忘れる方が多くなった。 又一方で好みも変化する物だと言うことも知った。例えば年齢の所為でもあろうが近来しきりと頭に浮かぶのは、 蛸壺や はかなき夢を 夏の月 芭蕉 この句などは覚えたのはかなり昔と言って良いのだが、身に沁む想いというなら比較的最近のことなのだ。やはりものの哀れ的感覚は年齢相応なのかも知れない。 若い時は 人恋し 灯ともしごろに 桜ちる 春秋庵白雄 と言った方が身に沁みると思っていたのだから。
2010年01月21日
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本当 ! 残念ながら元々あまり豊とも言えない脳細胞が刻々と減り続けている。平均的且つ一律に劣化してはいないと負け惜しみ的に思うのだが、矢張りどうしようもないと時に匙を投げたくなる。尤も一方ではしがみつくような未練がないでもない。矢張り劣化の早さは癪に障るのだ !
2010年01月06日
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何かというと直ぐ道と言いたがる考え方は嫌いだ。 茶は茶、書は書、花は花、その他何であれその中に道と感じる人がこの道と思えばそれでよい。 人に押しつけるのはあまり感心しないし押しつけたがる人から道を感じることもない。 本来道は何にでもある。 道にするかどうかはその人次第だ。相手も道と思っている場合はそれはそれでなせる事が違っても其れなりの対話が成り立つ。成り立たない方が当然多いが、道の何たるかを知らない者が道を振り回すよりはかなりましなのではないか。
2010年01月04日
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今このような言葉その物が既に古めかしいだろう。私自身言葉遣いの古めかしさをそれなりに承知しているし、現代の若者言葉とのギャップも意識しているが、まと もに漢文など身につけた事もないくせに漢語調の切れ味の良さ、また文字文化として表意文字の持つ眼に入る折の美しさも捨てかねる。 現に友人の一人に言わ せれば私の手紙文は漢字が多くて堅苦しいとも言われた事もある。もっともだと思う。けれど高校三年位から大學一年くらい迄の間、泉鏡花達の所謂美文調に妙 に染まって、特に漢文の音読素読で身に付いた、或いはその時代の名残を曳く硯友社の作家達の持つ、視覚、音感の両面を意識した文章の美しさは、それが内容 より表面的であろうともやはり十分魅力的だったのだ。 写真版ではあるが硯友社の総帥尾崎紅葉の原稿の推敲の跡を見た事がある。まるで切り貼りと言いたくなるほど推敲だらけの原稿用紙に間に合わなくなったと見 えて細く切り貼りした紙に書いた部分もある。現在の作家達から見れば無駄な、内容に関係ない部分かも知れぬが、一字一句疎かにしないという姿勢にはやはり 敬服した。その作「金色夜叉」は決して好みではなかったが。女性的な繊細さを示す鏡花、男性的な無骨な露伴。全作を読むには鏡花全集などは両手を広げて間 に合わぬ冊数だから、貧乏学生には手に負えなかった。最高傑作、或いは鏡花の限界と言われる「高野聖」より私の好みは「歌行燈」やら「照葉狂言」あたりに あった。私にとって鏡花独特の匂いがするある意味で麻薬のような世界であった事は事実だ。矛盾かも知れないが近代的、理知的な香りを放つ新感覚派の横光利 一あたりもその独特の世界観に意味もなく酔いしれた。同じ新感覚派でも読んだのはむしろ先だったが、康成の「千羽鶴」「山の音」あたりの空気に要用になっ たのは寧ろ後年である。その点矢張り外国文学はその空気感に溺れる事は難しかった。言語の持つ障壁と歴史、文化、伝統の差はデリケートな部分で肌に馴染ま ない部分がある。その違和感のもたらす魅力というものも確かにあるのだが、それとは違う範疇の本質的なところで馴染み難い。これこそどうしようもない感覚 面だ。日本の文字や言葉は中国文化から大きな影響を受けてきた。しかし千年を越える歴史の中で日本人的肌合いに同化を進めてきた。影響は大きかったが最早 中国文化とは懸絶している部分が余りにも多い。同音同字であっても同義ですらなくなったものが大方と言って良いのではないか。
2009年12月07日
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テレビ録画で「チベット鉄道」というドキュメントを改めて見た。これが初めてではない。以前一度見てていてその時と別物かどうか確認するつもりで再度録画し、あらすじの比較をしたのだが、そのどちらかと言えば実務的な過程の中、いつの間にかそのドキュメントの画像に引きずり込まれていた。第 一にその卓越した技術による感動だ。私は基本的に大雑把な人間だから、従来あまり技術的なもので感動まで引きずり込まれた経験はない。 見 終わってしばらくこれは一体どういうわけと暫く反芻した。思い当たることが無いではない。その昔三十代の初めから写真道楽に少々のめり込んだ十数年 がある。今のように撮影機が簡単に手に入らない時代だから勿論スチール写真だ。従って凡そ大成には縁遠かったが、レンズ効果とか画面構成とかそう言った多 少の技術的な知識はある。 もう一つこれも大分以前の話に成るが、NHKのカメラマンで宮川氏という方に商売上で接触、この方がその部門で はNHKの至宝とも言うべき方だと周りの人に教えられた。その部門、国内で最高の賞は内閣総理大臣賞なのだそうだが、二度取った人がいないというのに、彼はそ の時までに唯一人既に三度同賞を獲得。その御当地を去られた後にもまた同賞を受賞されたという。当時その方の手持ち録画を借りてその受賞作三本を見せて貰ったことがあるが、その時と共通する感銘に浸ることが出来た。プロという存在の価値は半端ではない。 表現の鍛えられた技はそれだけでも感銘を受ける。 ましてプロの技には素人の年月の掛け方とは桁が違う物がある。飯が掛かると言うことだけでも厳しさが違うのだ。久しぶりに矢張りそうだよなあと言う感嘆に浸れた。 実際には解らない。あの宮川氏の血脈というか直接習ったかどうかは知らずとも、鍛え込まれた技の伝統とプロ魂を再び体感できた喜びが残った。伝統の鍛え込まれた技の持つ力は凄い。感性はその技と同等のレベルの上に生きなければ、矢張りプロとして生きるには力不足なのだと改めて思い知らされた事だ。
2009年12月01日
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またテレビから思いついたこと。差別感というのはどうしようもないものだ。カラフルと言う世界の子供達のドキュメント番組がある。再放送のようだが二つの国をテーマにしたブラジルから来ている一家の長男が主人公。母親が日系三世位か。父親も収入が途切れ途切れと言うことは日給月給の仕事か。日系の母親が派遣で働いていた先を首になった。未だ中学生の少年は知的な思考が出来るし日本語も同年代の中学生の中では見事と言ってよい日本語が操れる。日本語の複雑さはそれだけ言葉に種綾選択が出来て、話の内容を緻密に伝えられるから大好きだという。 十年掛けて手に入れたという二階建ての住宅は、まず出稼ぎ者には随分頑張った結果だ。そして父とこの会話を聞いていて、伜の知的な思考力は父の能力を受け継いだと思える。これが近くでもあれば僅かでも力になってあげたいが、彼の居住地域と遠く隔たっている田舎住まいの私には取りあえず何も出来ない。 しかしこの辺ではたと気が付いた。数年前、番組は違うがマニラの貧民の一家の少女を見た。父親は一家を見捨てて行方不明。長女のゴミ拾いだけが一家を支える唯一の収入、母親は病気がちで働けない。二、三日の絶食は珍しくもないという家で、幼い弟が夜中飢えを癒すため水瓶から柄杓で水を飲んで我慢する。その目を見ていて堪らぬ想いをした。またその一家を支えつつ学校に行くのが夢という少女が、ゴミの山の中で何かの泥まみれの英文のラベルを拾って、字が書いてあると目を輝かした瞬間は涙を抑えられなかった。 この時、小遣いを少し削れば何とかなるとNHKに問い合わせたのだが、再放送と言うことでその地域に対する援助活動は打ち切られたと言う返事で、現在は他の国の支援を行っているから連絡は致しかねると言う返事だった。 その時、味わった差別という言葉は自分自身に向けられたもの。その思わず涙したマニラの少女一家が生きられる生計費は月一万円あればと言う。その時連絡できたら、彼女が独立できるまで十数年月一万円くらいなら送り続けようと思ったものの、同じようなケースは幾らでもあるはずだが、それを同等には考えられなかったのは己の内部の差別感だ。 ついに 人は情でしか動かぬものか。とすれば私は所詮人類という生物的範疇から思考だけでも超越することは出来ないことになる。 つまり私の場合、自分自身で感じるものがなければ行動できない。 やはりこれはある意味の差別としか言いようがない。それにしてもあのマニラの少女の文字だと言った瞬間の目の輝き、幼い弟の水を飲みながら一言も腹が空いたとは言わなかったあの哀しい目を未だに忘れかねる。
2009年11月28日
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私も日本人の端くれだから阿吽の呼吸と言うものを一応は解る。しかし西洋的というか今のグローバル化という風潮の中でこれは先ず通用しない。日本人の外交下手という傾向の一端はこの感覚が負っている。英語、これにも大した知識はないが他の言語は更に非道いので、取りあえず英語で例を取ると、余程程度が非道くない限り解らないという人より解らせない人の方が悪いのだ。 他民族化している英語民族からすれば、解らない方が普通で判らせない方が努力を欠いているのだ。この感覚を大旨単一民族できた日本人が感得するのは結構難しいが、グローバル化の中で生き残るためには少なくとも理解しようと努めねばならないだろう。 元々単一民族でも言語感覚は個人でも相当異なる。朧気にしろ感性、感覚を共有する前に理知の力は必要だ。さもなければ言語と理論に頼る学校教育の必要はない。理論を越えるためには、ぎりぎり迄理論を尽くした上でなければならない。 双方が通じ合えるだけの段階に達した上のこと。さもなければ語る方の一方的な思い込みに陥る可能性が出てくる。或いはそうでなくとも感得できるのは所詮限られた選民だけだ。言わば言葉だけに限定しても古代ラテン語が全員通じて会議した、曾てのローマン・カソリックの枢機卿達のようなもの。その枢機卿方にしても今古代ラテン語で話せる人は珍しいだろう。 これは現今の若者を見れば日本人でも同じような事がすでに言えそうだ。言語的に解らないことは何時か別に恥ずかしい事では無くなってしまった。一般的にはむしろ判る方が特別な存在で、しかもそれは普段の生活には関係ない程度の価値しかない。つまり何かの折にスゴーィと言われても、一瞬後には忘れられる程度のものに過ぎないのだ。 昔庶民は自分たちの生活に普段影響は少なくとも、必要とあらば大家さんに代表される物知りにお伺いを立てるくらいの敬意は示したのだが、現在はその場限りの知識なら大学生でもパソコンで引用し、まともに読めなくとも用は足りる程度のものでしかない。某大学教授が誤読索引で引ける辞書を製作発売したら、一万部をはるかに超える冊数が短期間に売れたという。つまり誤読の方をひく人数が多いと言うこと。 何れにしても自分が解る事と、相手それも不特定多数に解って貰える事との差は大きい。戦前の京大で、西田幾多郎、金田一京助その他一世の碩学達の講演を聴くのに熱心だった私の恩師によれば、彼等の講演の言葉は後になればなるほど、易しい言葉、言い回しに終始したという。 講師も講師、会場も開場、当然聴衆も最低が京都帝大の学生。それにして尚且つそうであったという。この話を伝えた上で恩師は私こう教えて下さった。どんなレベルの高い話でも、自在に噛み砕いて先方に解らせることが出来なければ、未だ本当に自分のものになっていないと思えと。そして師から学んだもう一つの方法論は、自分の持ち合わせの中から先方が最も関心を持ち理解しやすい事例を引くこと。
2009年11月27日
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年を取るとどうも頭脳の劣化と共に複雑なことが面倒になる傾向が強い。最近頓に実感することが多くなった。訓練上はなるべく痛みはじめた頭脳を訓練するためにも、無理にでもパズルをやった方が良いと思うのだが。 最近一段とその傾向が強く、面倒でも内容はさしたる事でもない 実務が絶えられないと思うほど苦痛を感じる。これではとこのブログでも無理に理屈をこねてみたりもするのだが、それ自体が面倒にもなり始めた。一番実感するのが単純でそれはあまりにも都合良く単純で、まるっきり童話めいていると思うような話がお気に入りになってきた。 つまり現代の童話みたいな物の方が疲れもしないし、それこそ単純に感動できるわけだ。凡そ現実離れと思いつつもその方が気分がよいのである。東洋的、日本的には自然と枯れていく事を良しとする傾向があるが、若い日に多少洗礼を受けた西洋的懐疑主義ではそのような傾向を敗北として拒否する。つまり自分の場合どっちつかずの中途半端という事。 子供の単純な感覚に帰っていく、それで良いのかも知れないと考えもする日本人的自分が居て下手に屁理屈を並べる爺よりもましかも知れない。しかし未だそう簡単に好々爺になって堪るかという戦闘的かつ欧米的娑婆心も捨て切れては居ない。全く俗っぽいことこの上ない己である。
2009年11月25日
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「何でも鑑定団」と言うテレビ番組がある。何時もと言うわけでなくスイッチを入れた具合で見てしまうと言う程度なのだが、久しぶりに面白いものを見た。 鑑定品を持参した人は古伊万里一辺倒という自慢から始めて滔々と講釈をし、大きな物ではないので金額はさまで驚くほどでは無かったが、これほどの名品には他に出合ったことがないと得意満面。 これに対する中島誠之助氏の答えがよかった。評価額は3000円、まっ赤な偽物だと言うことだが、持参人の講釈に触れて此処に釉薬を付けるときの指跡があり、ここに特徴とする破断部がとかその他諸々の知識に属する能書きを列挙してそれこそがこの偽物作りの思うつぼ、そう言う知識で見て買いかぶり騙されたのであって本来そんなことはどうでもよいのです。最も大事な部分を見て感じてないと言うことが問題なのだと、珍しく厳しい指摘に持参者の面目は丸つぶれであった。余程能書きが気に障ったか、或いは素人の思い上がりの大言壮語が腹に据えかねたかと言うところだが、私もその場を途中からしか見られなかったし、これを機に多くの人の他山の石としなければと言う配慮だったかも知れない。普段彼は素人にそこまで厳しくはないから。やはり人は謙虚さを失うと大怪我をする。他人事でないと自戒せねば。古希を過ぎて未だこんな事を思うそれ自体、正直面目ないことではあるが。
2009年11月23日
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先般テレビで所謂梨園の御曹司と普通のテレビドラマの若い俳優二人との対談があった。席上求められるままに歌舞伎の所作の一手を見せた折、明らかに若い俳優達が怯んだ。彼等も現在の人気者達。それなりに自負がちらつくのだがこの鍛え上げた伝統の技の重量感には、感性主体の若い演技者達も一目置かなければならないものを感じるらしい。 確かに鍛え上げた技には、その一代でない集積の重さが感じられる。伝統の力と言ってよい。しかし人の生きる道は何かとせめぎ合う正反対の物の間にある。時に一方が強くなりすぎると弊害も生じる、いかな伝統の結果も必ず初めがあった。最初から自然にあっったなんてえ物は人工のものには殆ど無い。伝統を振りかざす者は多くこの辺の事を軽んじすぎている。芸の世界、例えば絵画の部門でも故人としての作家の名も知れぬ作でも、原始的に生命観が脈動していれば十分現代人の心をも捉えうる。何の道でも心に触れる生命感が基本であることに変わりはない。磨き上げられた技もそれを失うか薄らいだら、多く命の把握を軽んじた結果形骸化する。その両者の間に人は挟まれて言わば押しくらまんじゅうの中もがきながら進もうとしている。 人という物は兎に角何でも磨こうという性質を持って居るとも言えるのだ。勿論歴史的には逆行現象もあれば、混乱もある。計ったように整然と前進する物ではない。それが人間社会の定めとも言える。何時の時代に生まれたか、温故知新という言葉が未だに命脈を保つ所以だ。
2009年11月22日
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その名を知ったのは高校生時代の恩師松川永郎先生から、日本の推理小説が遂に世界のトップ水準に達したと言われた時だった。推理小説を一時程熱心には読まなくなっていた頃のこと。理由は簡単、池袋の近く東長崎の下宿の近所の貸本屋が、多分まとめ買いしたかそれとも家人が収拾したのか、早川ミステリーが多分当時の全巻、他にも推理小説以外が殆ど無い様な妙な貸本屋だったから。当分毎日通ったのだが少し疲れた頃だったから。 その時清張が「点と線」、「目の壁」を引っ提げて登場した頃でもありそう間を於かないで「砂の器」が世に出た。「砂の器」は発端が島根県であり、東北以外で唯一ズーズー弁の存在するところと言う着眼点も見事だと思った。 更にこれは大分後のことだが、「砂の器」が映画になり、テレビ・ドラマ化もされ、しかもどちらも見事な出来だったと思う。恐らくこの手の類は清張をしのぐ人物は当分でないだろう。 元々恩師松川永郎先生は多才な方で廣津和雄の弟子であったこともあり、そのころの作だと言って高校時代に半七捕物帖張りの捕物帖を読まされた事もあって、推理小説を読んでおいででも不思議とは思わなかった。名にしろ田舎の高校生に松川先生は眩しい存在だったには違いない。戦前の京都帝大全優組、語学はドイツ語を筆頭に英語、フランス語も、俳句はホトトギスの常連、経済史を基盤とした歴史、哲学は唯心論から唯物論へと兎に角ただ唖然としてお説を拝聴するのみだったが、噛んで含めるように噛み砕いて分かり易く、私の他にも結構意外なところにファンが大勢居たようだ。先生は戦後間も無くの「白昼の死角」高木昭光のものもそれなりに評価されていたようだが、これはその時代の時代感覚の把握を評価されたのであろう。 まあそれは兎も角も、上記の三冊を読んだ頃から先生の言われる意味がなるほどとなり、以後私も一時期清張様々の時代がある。 師の話をすれば長くなるのではしよるが、やがて私は清張から自然に遠ざかるようになった。熱中していた頃の彼の作が殆ど傑作揃いだとは今でも思っているし、今以て映画化やドラマ化され続けているだけの値打ちがある巨人だとは思う。多分私の根が子供っぽい所以でもあろうか、映画の西部劇に対する想いと共通するものがあって、一時期全盛を誇った勧善懲悪式或いは単純なストーリーと西部という未開の地の詩情がメイン・テーマだった西部劇が、「友情ある説得」や「追跡者」と言った社会派的命題を取り込むようになって大衆は西部劇から離れて始めた。 戦前の「鞍馬天狗」や「快傑ゾロ」西部劇で第七騎兵隊の突撃ラッパに拍手した痛快さは薄れていったから。理屈でない快感の魅力の中に理屈を取り込んだのだからまあ早晩その運命は決まっていた。ほんの一時期マカロニウエスタンが喝采を得たがその上の栄光は取り戻せずに終わった。大衆といえどもドンパチの面白さだけで人々を何時までも引っ張れない。単純ではあっても上質な詩情というものはあるのだがその復興は難しかったようだ。 根が単純だからだろうが、黒い霧シリーズのような社会派的感覚が私には重苦しく感じられたのだ。従ってある時期そう長くはないが江戸川乱歩や横溝正史に浸かり直してみたりもした。しかしそこになにがしかは風情を感じても、やはり時代の感覚の差はどうしようもない。やはり懐古趣味だけではのめり込めないものがある。 疲れた。尻切れトンボだけれど此処までにしよう。
2009年11月20日
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今日の当地方新聞コラム欄に表題のテーマが取り上げてあった。ジャーナリスト筑紫哲也氏愛用の言葉で、流行の思想や論調を語りそれで自らを知的に装う。見方によっては鼻持ちならないが同氏の言葉は、若者達に今少し硬派の知的な書物に挑戦して欲しいと言う意味だったらしい。 確かに私の知る限り出発点が立派な動機でなくとも、結果としてはそれで良かったという場合もある。写真や書も大命題で始まった人が命題と現実の遅々たる歩みの中に挟まれて脱落したケースも有れば、いとも安易な出発点、名前がもう少しましに書きたいとか、子供の写真を取りたいのでと言った平凡極まりない処から始まっても、結果は結構高みにと歩き出した人々もいる。 そう言われれば自分にも覚えがある。私の若き日は実存全盛時代だった。今はそれに対する自分なりの批判もあるが、当時は流行に後れないこと人に引け目を見せたくないという若さゆえの虚栄心で、本来苦手な哲学書に無理矢理立ち向かってみたり、或いは不消化のまま知ったかぶりの論争に参加したりもした。正に虚栄心以外の何物でもない。しかし今となってはその青年の客気が懐かしくもありそれはそれである意味訓練として無駄ではなかったと言う気もする。 少なくともあの若さがなければ、あの難解な(少なくとも私にとって)サルトル、カミユ、カフカ、ボーボワールと言った、当時の話題作に兎も角挑戦する元気はない。しかもサルトルの「存在と無」は私が最後まで読み得なかった4冊目、つまり最後の物、それを機にこの手の物を敬遠するようになり以後哲学系の書籍を読みこなす能力は無いと自認。 それでも人は一生何かを追い続けようとする。追う事自体が人生なのだろうか。しかも齢七十を超えても何かが判ったなんて事も私にはない。或いは然らむ、つまりそうなんだろうなくらいが精一杯だ。 先般あるテレビドラマの中で、人は欲で動く、どんなに高邁な事を言ってもその陰には必ず欲がある。有名でありたい、金が欲しい、何かをやりたい。これ全て欲に発している。欲は人のエネルギーでもある。要はその欲をどういう風に生かすかどうかだというのがあった。 これは昔読んだ心理学の本の中で例に引かれてあった、慈善王と呼ばれたロックフェラーもシカゴのアル・カポネも自己顕示欲という点では何ら差はない。一方は社会目的に添い、一方は反社会的だったというだけと言う話とこれも同じだ。
2009年11月17日
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爆笑問題の対談は私の興味をそそるものが多い。だからそれなりの関心を寄せている。大田は勿論田中も結構準備勉強とそれなりに考えを纏めてかかっている。そして各々の分野に鋭いそして一般人の視野で迫るところが面白く、又私みたいな者でも分かり易いところも有難い。 勿論あらゆる場合に成功しているとは思えないが、成功率の高さがこの番組の人気の所以だろうしあくの強さと感性の鋭さの大田が天才肌なら、バランス良く常識的に中を取る秀才的な田中の存在も無くてはなるまい。むしろ意外と田中の存在は一般人との仲介役として大きいとも思える。 何れにしろこの手の対談めいたものは、双方の存在感が大きい役割を果たす。相手は皆それぞれ一かど以上のプロフェッショナル、そこに下勉強はしても素人が切り込むわけだから、余程の鋭いセンスがあって先方に少なくとも面白い奴と思わせなければ続かない。 今回の坂本龍一に対しては並以上にコンビが敬意を込め、また親愛の情を示していた。坂本との対話には大田も賛同する事が多く又互いに納得する面が多かったのではないか。この番組としては珍しい。 しかし私が最も興味を持った点は自分の思考回路と関連する部分であり、先般別な番組で取り扱っていた動物の音声が如何に言語にまで発達して行くかという推論と関連する。元々人類が音声未発達の段階では音は感性と知性という分化発達過程に到達していなくて、当然明確なものではなかった。やがて言語という知性的論理的客観性を持つに至って、主観主体で且つそれ故に論理的限界を要しない広がりを有する音楽と分化が確実化する。 感性表現中その手段の抽象性がもっとも極端な領域を持つ音楽は、それ故にこそ人間感情に強力に訴える力を有する。坂本龍一氏が曾てナチスが人間の感情を操るのにワグナーの音楽を巧みに利用した例を取り上げて、音楽は一面危険なものとも成りうる。その必然性を思えばそのことへの懐疑の姿勢は崩して成らないと自戒するという姿勢は、明治以後、文学、哲学と言った言語による近代懐疑の精神が大問題に成ったように、客観的に論理性を最も有する哲学、文学と言った言語にたよる表現にも一面の宿命であろうか。
2009年11月14日
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粋という言葉が代表するのは江戸の中期以降、町場というかハッキリ言えば江戸花柳界の芸者に代表される色町の美学であり、反対語が野暮、その中間になるのが通。それに半可通というのもある。祖先はおそらく「傾く」 かぶくから来た歌舞伎と同じ語源と思える。斜に構えるという言葉が表すように、今流で言えば帽子を洒落て斜めにかぶると言った様子。 私の見るところ、通は粋の手前の段階、粋に対して通の限界は「わけ(情)知り」と言われる事情通ながら、他人の目を意識しないでは居られないところだろう。つまりどうだ!と言った見栄から逃れられないところに野暮を完全に抜けられない限界がある。 半可通に至っては大した事でもないのに当人だけが意識過剰の場合に、周囲が浴びせる嘲笑的な言葉で更に略して半可とも。 粋を一般に磨き伝播したのは、花柳界を上得意とした歌舞伎役者や、花街で通と言われることを鼻に掛けた旦那衆達だった。それでも年月による磨き上げで粋は心の問題を最終目的とするようになった。それなりに磨き上げられていった結果、心根の粋。形、振る舞いから始まった粋も人の心の誠を粋(すい)とするところまではいったのだ。 第一江戸というその時代世界一の人口と識字能力の普及を持っていた大都市、そこでさえも向こう柳原土手に軒を連ねた多く露天商による古着屋で庶民は求めるのが普通だったはず。三越の前身の越後屋とかその他呉服屋で求めるなんぞはかなり裕福でなくては出来ず、下級旗本くらいでは滅多に衣服の新調はできなかったに違いない。時代劇に出てくる役者の衣装みたいに人々の風体は格好良くなかった。 当時の一面を表す戯れ歌の類に 十四、十五は形(カタチ=顔)に惚れて、十六、十七姿(容姿)に惚れる。十八、十九は気っ風(心粋)に惚れて、二十(ハタチ)過ぎれば心(真心)に惚れる。 とある。 当時は寿命も短ければ当然女も早熟だったはずだが、理想論からすれば二十歳過ぎともなれば上面から内面に踏み込まないようでは一人前ではないと言ったところか。 粋と言うところから些か問題点を外したかも知れない。しかし事実と理想とのギャップはどんな場合でもあるにはある。何事でもそうだが和服さえきてれば粋と言うことにはならない。伝来の文化と受け止めるならせめて心を知るように努めたい。粋もある時代の一面の文化ではある。表面だけの把握だと上っ面、半可通と言われるのは何の道、どんな場合にも共通する。 そして是は以前雑誌の中で読んだ記憶だが、 以前は大旦那と言われた商人が零落して裏長屋に逼塞した。その昔その人に可愛がられた幇間が品川まで知人の旅立ちを夜明け前から見送りに行った早朝の帰り道、偶然その長屋の前を通り、家の前を箒で掃いていた曾ての大旦那に久しぶり懐かしいと声を掛けられ、朝食を食べて行かないかと誘われた。 零落ぶりを気の毒に思いつつ、先方の面目を想いやり気が進まぬ乍ら誘いを受けた。程なく衝立の陰から主に手渡され勧められた膳部を見れば粗末な膳にご飯に蜆の味噌汁と香の物という朝食。しかし勧められるままに箸を取り食べ終わった時、幇間はわんの中に改めて目を凝らした。 自分の椀の中の蜆の粒の大きさが皆揃えてあったのだ。衝立の陰で姿を見せず手だけを見せていた、お内儀の持てなしの心を見た幇間は襟を正して礼を述べ、ニコニコと相伴した大旦那がその様子を内儀に伝えて、お客さんが美味かったと賞めて下さったよと言い、内儀はそれは有難いことと心から喜んだ。幇間は丁重に礼を述べて清々しい心で立ち去る事ができたと言う話。 何処で読んだかも記憶にないが、私には粋の行き着くところは茶事と同じく心遣い、こうもあろうかと思ったことだった。
2009年10月29日
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論理的に宇宙のどうのとまで枠を広げずに人間という限られた世界に限定すれば、私の場合、人として一番欲しい能力は器量の大きさだと思う。理由は単純、そう言った種類の話に何時も一番感動する自分だから。勿論他にも人に才能その他全てに渡って羨ましく思うことは余りにも多いけれど、性癖的に私の価値観の重点はそこにある。 人物でも瑕瑾はさておいて器量の大きさがあれば少々のことはほじくり出す気になれない。戦後の日本の政治家でも一に吉田茂、二に大分落ちるが田中角栄かなと思う所以だ。どちらも人間には違いないから、その意味では完璧にはほど遠いが、角栄も人格的には吉田茂に遠く及ばずとも他の歴代首相よりは大将の器の資格がある。 つまり私的な見解では器の大きさのある人物が頭領になると人に委せるという余裕が持てる。但し是には選別眼が居る。或いはたまたまよき補佐役がつけばこの手の人間はその欠陥を補える。角栄には例えれば張良のような人物が居なかった。器の大きい大将と名参謀のコラボレーションが成立していれば、その相乗効果は大いに期待できるはずなのだが。 私は別に政治には一般的関心以上の物を持たない。ただ自分の言いたい意味を理解して貰うために一般的に周知且つ共通項を持つ例を探す癖が付いてる。是は高校時代の恩師の方法論に依っている。その例が適確に見いだせないようなら、それは未だ内容をお前が自分の物として把握して居ない証拠だと言われたから。 そして哀しいかな自らに器量の大きさがあるとはどう考えてみても思えないが、出来ればせめて器量が狭いと言われない程度の男には成りたいと思ってきた。若年からの他愛ない思いである。 さてその方法論、是がと言うようなよい術を見つけられない。でも身に付くかどうかの前に、小さいと見られたくない為にはせめて表面だけでもという事に落ち着く。メッキである。 もはや故人だが第二次大戦中零戦の撃墜王と言われその回顧録「大空のサムライ」正続巻が大ベストセラーとなった坂井三郎氏の続編の巻末に記載されていた戦後親友となった元上海戦の勇者、当時の陸軍軍曹との会話で、人に勇者と呼ばれた自分たちの勇気とは何だったのかという話の結論は、意地に尽きるという事だった。 人として恐い物は恐いし命も惜しい。それが何故勇者と呼ばれるのかという疑問へ二人が等しく出した回答だった。そして相手の体験談に互いにそんな恐ろしいことは自分には到底出来ぬと言う思いだったと言う。 その時此処で逃げたら自分は二度と戦えぬと思う意地が自分を支え、目を瞑って危地に突っ込む。傍から見たら勇気と見えるものを支えたのだと。 私がこの本を始めて目にしたのは大学2年の時夏休みの帰省中、昔懐かしい木造時代の県立図書館で偶然見つけた。当時は未だ「大空のサムライ」と改題されて無く「坂井三郎空戦記録」という題。 それと同じ頃先だって「撃墜王」という題で自由フランス空軍のエースが書いた本も読んだ。是に味を占めて見つけたのが後の「大空のサムライ」の原典だったわけだ。後に発見するすり替え現象と私流に命名した方法の一端を発見した切掛けにもなる。 勿論この時点では興味本位だったし、ピェール・クロステルマンの「撃墜王」の方が文章的にははるかに文学的で、ラスト・シーンなどは寧ろ詩的ですらあった。 だから是はあくまで切掛けに過ぎない。「大空のサムライ」に改題され続編も生まれて戦士としての率直な人生観が明確になるに連れ、又本人も自らの体当たり人生を反芻する中から何かを学んでいったのだろう。 そうした厚みが厳しくも真摯な態度を著者自身が磨いて身につける縁になったと思う。私には死を目前にし続ける程の体験はないが、それなりに自分の経験や思考の範囲を元にして擦り替え現象を持って何かを学ぼうとしてきた。 器量という価値観にしても資質に恵まれないからには代替え現象を利用する他はない。まして現実にはこの擦り替え現象による評価も結構あるように思うのである。
2009年10月27日
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正直なところ昨日の続きとして記憶2を綴った。勿論相変わらず取り止めのない駄文に違いはないが。ところがどうしたことか転送の段階であっという間に消えてしまった。曾て矢張り同じようなことがあり当座は別なところで下書きを作りコピーして移したころがある。 このところその心配が無いようなのでつい甘く考える様になったところ又このざまだ。哀しいかな、老いた頭脳と記憶力は僅か原稿用紙数枚程度の内容を完全に忘却している。ほんの今し方締めくくった物をである。思い出そうとして出てこない腹立たしさは内容の如何とはまるで関係ない。暫くしたら何とか似たような記憶が戻るかも知れないが、それはまるで裏付けになる物がない希望でしかない。と言うわけで無理に思い出そうとする腹立たしい作業は断念することにした。全くコンチクショウである! コラボレーション、最近というかよく使われる言葉、よく用いられる手法なのだが、今まで不運にもなるほどと言うほどのコラボレーションの成果を見聞することはなかった。当然印象派よくない。しかし時折だが最近になってこれはコラボレーションとして意味があり、単独でと言うより寧ろ内容に広がりとか豊かさをもたらして成功していると思える例に当たる機会が幾つか得られた。 これには幾つかの例が逢って、オーケストラの中で楽器は異質な音響でコラボしているし、時にもつれ合い時に離れることで、脹らみやら緊密さと言ったような単独ではなしえない効果を生む。つまり音楽内と限定すれば既に多くの例があった。 近年色々かけ離れたものでコラボを試すせいか、或いは消化し切れ無いためかお粗末とか不自然、無意味と言った場合が多かった為でもあろうか、成功しない場合も多い。 ただ先日短歌と俳句の各々専門家が対談した時に、見事に相互の差と異質性を踏まえた上で、適確な判断を元にした次元の高い対談は短い時間ながら見事な脹らみを示した。 本日は日曜美術館の回顧版で無名夭折の画家を題材に、数人の対談者が適確な結論を導き出した。矢張りこのような例を見るにつけコラボレーションは、それに相応しい力や感性芸域の上で無ければ成り立たない。未熟ではその未熟さが単独時よりもろに目立ってしまう。 仮に芸域が分かれていてもある意味寧ろその差が目だってしまう。落差を感じさせるとき貧弱さは際だつようだ。
2009年10月25日
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記憶というのは本当に変なものだ。このところ加齢によるもの忘れもひどく、でもその当初にはまだ自分を笑うよすがにして加齢を売り物にした時期も。 しかし数年も経たずして笑える余裕が無くなってきた。実生活に支障を来すことが余りに多くなってきたから。総括して笑うには実害のパーセンテージが高まりすぎた。 つい二・三十年ほど前には老いた母の頓珍漢を笑いで済ませる事が多かった。十五年前には笑える部分より自分たちにも影響する実生活被害に笑いが減っていった。その母も今年一月永別した。しかしまあ、九五歳という知る限りの我が一族中では最高齢の部類だったから、その点では特例とも言える。愚妻の苦労を別にすればめでたしとも言える事柄でもある。 しかしその前に自分が七十直前には自分の頭を疑う自体となった。 七十歳の誕生日過ぎが店の開店五十周年だったことから、その時点で引退と思っていたのにその前年に旅の顧客様のお勘定にニアミスがあったのである。直後に気づき幸運もあって金額の最終的な戴きすぎは辛うじて免れた。その過ちを詫び戴きすぎた金額をお返しするため為にお客さまの後を追いかけて戴きすぎたお金を何とかお返し出来、引き返す途中数分の間に引退を決意した。勤続四十年、開店五十周年、どうでもよい事ながら意味もなく切りがよいとした引退は一年早まった。記憶上マイナス一年を付け加える羽目になった所以だ。申し訳ない事柄が切っ掛けと言うのは何とも後味が悪いが、事実だから仕方がない。この事は計算違いではなくて隣接した伝票の誤認だったが、言い訳は通らない。数千円という金額の多寡はこの際関係ないのだ。 昔商業高校在学中に「士魂商才」という言葉を知った。そしてこの言葉の印象は自分のその時点の年齢やら、環境やらで随分と変わった。古くさいと思った時代もあり、維新後の武士階級の商に転じた人々の気位と思ったこともあり、もっと細部で色々考えることがあった。何故か心に引っかかって残った言葉の意味が年と共に心中で重さを増した事も事実だ。途中経過では正に言葉の重さは折々に浮沈様々だったが。 今日本はもう一度このような曾て存在した言葉の重みを考え直してもよいのではないかと思う。昔我々の若かった頃、日本の恥の文化という言葉がもて囃された事もあった。外国人から指摘されて日本人が意識し直した?言葉の一つだ。しかし本当にその言葉を噛みしめていたら今の日本はもう少し変わったいたかも知れない。物事に多面性があることは当然ながら、その折々にもどの面に重点を置くかと言う選択には品性も絡んでくる。そして更にその後に及ぼす影響も含めて人が人であるための重要な課題でもある。
2009年10月24日
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努力の錯覚に気づいたのは五十歳前後になってからだった。人はと言うより之は自分ではと言った方が良いだろう。なにせ何事にも気付くのが遅すぎる己に嫌気がさす場合が多い人生だったから。 他のことで頭の回転が悪いのはまだ我慢が出来るが、この時間に関する取り返しの付かない無駄は溜息ものだ。 元々冴えがない能力とは自覚していたし、と言ってそれを何が何でもカバーすると言うほどの努力家ではない。自分がありきたりの怠け者だとは承知していた。友人に天才的な奴が居て色々観察する内に結局は集中力の問題では無かろうかと思った。つまり天才は私の百倍千倍の時間的努力?による成果を一瞬にして掠め取る。時間濃度も高いわけだ。しかもそれまでにも積み重なりがあるから一段と効果的だ。もう一つは天性と習慣性で集中するのに努力を必要としない。そう言った事柄は観察と僅かばかりの経験から類推することで何とか察することが出来た。しかし此処が怠け者の特性で、じゃあやったろうかと奮起することが出来ない。出来ないというかしない。差がつく一方である。 元々軽々しく天才という言葉は使うべきでない。天才的な頭脳や感性の持ち主でも、史上名をなし各分野で後世にまで光を投げかけられるほどの存在は一世紀あたり一分野に一人あるなしなのではないか。最もこれは怠け者にとって最も有効、容易な言い訳でもある。 しかし人生にささやかな努力なしでは生きられないから、それは誰しも程度に応じてやってはいる。私の気づいたのはその僅かな努力が意外と当て無しというか、無駄に費やされて居る場合が少なくないという事だ。 つまりもう少し目標を確かめて狙う姿勢を忘れなければ、それでも幾らかは命中精度が増すのではないだろうかと思うようになった。意外と当て無しに撃つ無駄弾が多いのではと考えた。ふり返ると少なくとも自分史の上では結構多い。その目で周囲を眺めてみれば矢張り私同様まぐれ当たりでどうにか生きてきた式の人も数多いように見える。勿論これにも段階はあり、方向だけでも定めて撃っている人は随分ましな方だ。 つまり何かをしていると言うことで自己満足的に努力していると思いこむケース。意外と多いような気がする。そしてその中の代表的?人間の一人が自分のような気がする。今となって残り少ない余生の中で当て無しの無駄弾が多かったなあと嘆息しているのである。 人生には無駄から生まれる何かも確かにある。しかし一人の人間が享受できる時間には限度があるからには、せめて多少は効率みたいな物を考えても良かったと思うのだ。ただその効率主義は名誉とか立身とか金とか言う、ただ即物的な事を意味しているわけではない。人生に何かを自分らしく生きたと言えるかどうかの話だ。
2009年10月21日
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同じテーマを追うにしても、それが目的の場合と目的のための手段とでは基本的な認識が違う。だからその認識がハッキリしてないと会話にしても往々にして頓珍漢になるとか、場合によれば誤解をも生じる。私自身その手の失敗は結構多かったような気がする。 そのような場合早く気づけばそれなりの対応も出来るのだが、機を見るに過つと思わぬ失敗も多い。 そして先方が少なくとも自分に比べて大先生の時に叱責されたケースも間々ある。こちらからすればこの程度はこの方ならば自明の理くらいの気で居て、しかし先方は意外とそう思われないことが結構あった。 つまり失礼な奴だと思われてしまうのである。当方からすればこの程度のことはこの先生なら当然判って頂けるのではと思うことが、重点の置き方が異なれば先方には結構こちらの思うより重大事だったりもするのだ。 真に人様々なのだ。この位の先生ならこの程度のことはと言うのがこちらの甘えだったという場合も何度もあった。あることで練達と言うことが全ての分野に共通するわけではない、と思い知らされるまでかなり以上の時が必要だった。自分の鈍さにもほとほと愛想が尽きる思いを懲りずに反復して、それでいてさっぱり成長しない自分にはほとほと愛想が尽きるが、自分の子以前に自分はどうにも放り出すわけにも行かない。真に困ったものではある。
2009年10月20日
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私の思考法は常に連想で展開する。これには欠点と利点が同居?していて自分でも完全には制御できない。 回想してみると結局は最も単純な方法つまり演繹と帰納という初歩的な論理学の応用でしかないし、単純に若い時から反復してきたので癖になっているというに過ぎない。 つまり只今の事例を従来の記憶の中から基本概念的に同種と思える公式を連想しそれに当て嵌まるかを試みる。運良く当て嵌まれば次に同種と思える事項に又その公式を当てはめてみて精度的により確かであるという確認作業をする。これだけのことの反復に過ぎないのだ。頭が単純細胞で出来上がっているからそれ以上煩雑な哲学的思考は出来ない。そしてこれが一番問題なのだが、私の若き日にパソコンやらワープロなんて物はなかったし、ノートで整理するという作業が極端に苦手だった。 理由は単純、鉛筆を持つ手に力が入りすぎて少し長いものを書こうとすると指が痛くなるのだ。馬鹿馬鹿しい話しながらこれは今も変わらない。筆を持つとそこまで握りしめはしないのだが、硬筆系はたぶんそれを実行したら直ぐ指胼胝ができるだろう。そして胼胝ができるまでの努力と苦痛を敬遠した。代わりに考案した方法が人様に語る、或いは自分の想いを説明するという作業で、これは一応自分の考えを纏めるには都合がよい。人に判って貰うためにはそれなりに纏めたり、例を挙げたりそれなりに工夫がいる。 ただ最大の欠点は、必ずしも興味を引かない話しを聞かされる方々の苦痛と時間なのである。しかし私にとっては他人様の苦痛は気がつかない振りをすると?済むが、自分の指の痛みよりはごまかせないから、それよりは増しな話しと言うことだ。 だから、特に書の同門の方々には、度々この話しをしてノート代わりに使って済みませんと謝った。人に語る時のもう一つの利点は緊張感だ。何せ何とか無理矢理でも注意を引こうとすればこちらも精度の良くない脳味噌を振り絞って無理矢理高回転させる必要がある。その内この条件を満たす時でないと脳味噌が反応しない程の中毒症状を起こすようになった。周囲のご迷惑もさることながらこれは自分でも困った。
2009年10月19日
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秋風とともに少しばかり気分が良く、体調も又なにがしか取り戻したようだ。今年の夏は本当に体調の悪さと腰痛に悩まされた。何時だったか触れたような気もするが、今年は鬱と自分で言えるほどに気持ちも落ち込んだ。何時旅立ちがあっても不思議はないと言うことが原因ではないと自分では思っている。ただ自らの存在感が薄れていく実感を除いて、それは私の人生では有る程度予定事項だからだ。 元々幼少期多病でありとあらゆる子供の病気は悉くやり尽くして両親ににも大きな迷惑を懸けた。そんな自分だから学生時代から寿命は50代まで保てば良しと思い定めていた。それが現在72歳からもしも75歳まで、つまり日本人男性のほぼ平均寿命まで生きられたらこれは予定の五割り増しで、寿命だけは大もうけと言うことになる。それにこの歳になり実務からも引退の身では、今更世のため人のために余り役立つ存在ではない。つまり貰いっぱなしのサイドに立つ人生は余り居心地も良くないのだ。まして生涯にさほど人の役にも立たなかった身ではその預金残高も余り無いし、ただ長生きだけを目的とした余生は送りたくない。 勿論、生きることが何かの役に立つ、或いは価値ある目的へ歩み続ける人々は当然この限りではない。 話しは関連があるような無いようなこと。 NHK俳句の番組は選者の他に関連有るゲストを一人必ず招いてある。これが上手く行った時は脹らみや予想外の味がでて素晴らしいことがある。今日のゲストは歌人であり俳句も作るという人だった。このお二人の水準がまことに上手く行って番組が豊かで且つ示唆に富む物となった。選評やお互いの会話もこの水準を同じゅうして真に上手く行ったと思うのだが、それにもまして双方が俳句と短歌の差違と特性を熟知していて、同じ言語をもってしかも「五、七、五、七、七」対「五、七、五」と僅か十四文字の差の表現ながら。その差違と効果、各々の特性の把握が真に明快で、この二人なら相互にこの関係で誤解を生むと言うことは先ずあるまいと羨望の念を持った。 現実の世ではこれほどお互いが理念上明快に、特性や差違を把握し切っていると言うことは滅多にない。そこに見られたのは単に番組を見ている私のような素人的第三者にも此処まで切れよく納得させ得る力の背景は、矢張り理の存在を無視しては不可能だと思った。 理という物差しは分野が違っても通じる普遍性と共通項を持つ。 兎角感性に重点を置きがちな表現者同士が、同時に此処までさりげなく差違に明確な根拠を示しうるのは暗黙の或いは感性的な把握だけでは果たし得ない。彼等同士だけなら自明の理であっても不思議はないが、指導という意味では初心、未熟さを単に数やっていれば判るでは充分ではない。 これは予てからの私の持論だが愉しさと面白さを与えて自分から興味を持つように仕向けるのが本当の教育だろう。出来るものだけが付いて来ればよいは指導者に都合の良い英才教育方でしかない。それでいて後進が育たぬとと言う如きは更にナンセンスだ。 どの世界でも一つの分野が確立す為にはそれなりに人口のピラミッドを形成しなければならない。英才が居ればよいと言うがそれを理解とかそれなりの感性で受け入れられるファンを育成できない分野が廃れるのは自明の理だ。書の世界でも人口減で筆墨が商売にならなければ名工のみならす、職人という存在そのも消滅する。又お習字段階でもその数があれば職人達の生きる道もマーケットも存続する。飯の種のないところに職業は成り立たない。資本主義社会ではあらゆる事が絡み合って存在している。如何に優れていようと特殊な存在だけの為に商売にも成らないのであれば、自然消滅は否応なしの必然。勿論、異論なしとはしないが善悪合わせ呑む者でなければ人の上に立てないと、昔の人が言ったのはこの辺の事かも知れない。関連するものを一纏めに大局観をもって大づかみ出来る器量を意味するのかも。 学問の世界だってピラミッドを大なり小なり形成している。皆が皆ノーベル賞を受けられるわけではない。それを支えるピラミッド社会があってこその話なのだ。 私が営んできたささやかな商売でもある時顧客にこんな事を言われた。凡そ二十年くらい前だったと。出張で全国を巡回するような仕事の方だったと思う。三月、半年に一回くらいの割だが同社の出張所があったのでそれでも七、八回目くらいのご来店だったはず。 「どうしてこの店は他のところと違うんだ」。 「ええっ、他の店と違うといけないんですか? 」 「ああ、同じ方がいい。」 「でも、何処へ行っても同じじゃつまらなくないですか?」 「あのなあ、俺なんか宿ですることなくて退屈だから来てる んだ。別に特別な事なんて必要ない。同じだったら俺の方が 気遣いしなくてすむじゃないか 」。 大分風変わりな方だとは思っていましたが、この考えはその後発達したコンビニ式の発想ですね。しかし私はその時考えました。この方の考え方にはそれなりに一理ある。 お客のニーズは極端に言うと皆違うところがある。全てに対応することは不可能に近い。だから普通は大づかみに店側の考えで範囲を限定するが、可能不可能は店側の都合なのであってお客様中心の観方ではない。やむを得ぬ事とは言いながらこの事を自らそうなのだと承知しておく事は案外大事なことなのではないだろうかと。 色々話しは断片的だが、自分の思い込みは一面的では無いのかと反芻してみることは無駄ではない。物事は何事も多面性を持っており特に人とか社会的な事象が絡むと、試験管中の純粋培養の実験みたいなわけにはいかない。巨視と微視とは並行しなければならない観点だと思う所以だ。
2009年10月18日
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テレビでドラマの再放送を見た。幸いに? 以前見たことはない。「美女と野獣」とか言うテレビ局の現場を舞台にしている。大分前の物らしいがふと矢張り古い記憶との連想が働いた。駄目記者と烙印を押された記者が、事故現場で仕事と救護との間に立たされて結局人命優先に振る舞い、女性プロデューサーに大目玉を食らうのだが、使い物にならないと言われた彼の個人用テレビ・カメラの纏まりがない映像とスイッチ切り忘れで偶然入った録音をディレクターが編集した画像の迫力が圧倒した。とまあ言う話。 これと関連した記憶とは、曾てライフで大御所的存在だったユージン・スミスの沖縄戦に従軍した時の一枚の写真のことだ。スミスははるか後で{水俣病」の写真集で日本でもずいぶん話題になった。人格的にも尊敬され世界一だった当時のライフで、スタッフにビッグ・スミスと呼ばれていた大カメラマンである。 私はその時写真道楽に凝っていた頃で、写真集と言えば沢田恭一の「戦場」、彼がピュリツアー賞を受賞した「安全への逃避」が載っている写真集しか持っていなかった頃。書店でスミスの写真種うっを手に取った。そして同じ棚に日本軍の将校が中国戦線でスナップした写真集を集めた写真集も手にした。写真の旨さは比較にならない。片や将校だから持参できたカメラで撮った戦地でも平穏な素人の記念写真とかスナップばかり。片や世界に知られ米軍から依頼されて従軍したビッグ・スミスだ。 なんぼ駆け出しのアマチュア写真家でも比較にならないくらいは判る。しかし写真集矢張り高額なので、どうしようかと二冊を何度か取り上げては見てる内に不思議なことに気づいた。 スミスの写真集の中でも一段と迫力もあり見栄えもする見開きページの写真が、作り物に見えたのだ。私は戦争映画も好きだったのでそれまでにもかなり数を見ている。まるでその内のシーンに見えたのだ。実写であることは間違いないのに、作り物めくほど完璧な構成の切り取り方、シャッター・チャンス。白煙の中銃を構えて突っ込もうとする米兵の先頭。これに続こうと腰を浮かし掛けた数人の歩兵。全体の画面構成からモノクロームの白黒の画面に示すバランス。全てに渡ってケチの付けようがないと感じた。 比べた日本人将校のスナップ集は完全に記念写真だ。しかし生活感とか実在の人間のぬくもりと言ったようなものが感じられる。人の匂いが立ち登ったいる。そう感じた時の自分はアマチュア写真家としてではなく、一人の人間としてそう感じたのだった。 その時の結論は旨すぎて壊れる場合もあると言うこと。余りに完璧すぎて作り物と言うか何度目を擦ってみてもセットに見えるのだ。作為は必要だが何処か抑えて表に剥き出しになってはいけないらしい。そんなことを考えさせられた事だった。目を悪くしてカメラから離れて久しい。当然すっかり忘れていたことをドラマに思い出させられた。
2009年10月15日
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昨日触れた範囲はあくまで人間現代社会での範囲の巨視であり微視だった。 しかし宇宙観という現時点で想像しうる最大の巨視観というか、それを起点として俯瞰をすれば人類などはたぶん地球上でなら蟻の社会を我々が俯瞰するよりもっと些末なものだろう。しかも現時点で宇宙には理は存在しても意志や情が在るとは想像すらできない。 仏とは仏教世界の十大呼称の一つで覚者とも呼ぶ。その仏説では宇宙を支配する真理を得てそれに添って生きることが最も幸せを得る方法として指針を指し示した。唯一紳による創造という観念を持つことを欧米人は宗教と呼ぶ。これが無く創造者とは言わずに真理を悟れる者という呼称は、欧米人的に言えば宗教ではなく哲学だとする根拠でもある。しかしこれを宗教たらしめる理由は一切衆生を救わんと欲すと言う仏の大誓願を伴うからだ。 ここで意志と救済という情を持たなければ哲学。 唯私個人としては仏の存在を宇宙の必然と認めるか、ひいては人類が理の他に知を育て情を有するようになった事自体が如何に微少な存在でも宇宙に発生したからには、これも又宇宙に内在したと認めるかだ。 ただこの関連づけには一面の根拠と、反面余りに飛躍が大きすぎて近来発達が著しいとは言いながら、未だ未知数だらけの脳科学にも似て軽々しい断定は仮説にしても躊躇いがある。故に此処は仮説たり得る微細な根拠の指摘に留め敢えて強引な関連付けは避けたい。 しかし宇宙観を放置するのは自分としてはまことに残念だ。つまり考察の根底になる事項を見過ごさなければならない。当初から極くありきたりの範囲での人生観で終わるなら別に長年の間迷いに迷う事はなかった。まことに明晰ならざる我が知能の限界を嘆くのみと、近年の科学の発達は各分野において著しいが、私にとっては未だ確実な予見の糸口を得るには中途半端な段階。生まれた時代も中途半端だったと言うことか。結局足掻いただけで終わらねばならない。残る時間は余りにも限られている。 そしてもっと確かなことは繰り返している言わばこの手のご託なんぞは、自らの人生に何の役にも立たないことくらいは百も承知している。 唯、役に立つとか立たないとかでだけに、自分の人生を費やすという事自体に我慢がならなかったし、昔旧友の父に人生無駄の有駄と言うこともある。合理性は大事なことだが、それだけではつまらない味のない人間になりがちだと言われたことがある。高校生の時の話しだしその時さほど感心したわけでもなかったのに、不思議と何かにつけて今は亡きその顔を思い出す。 但しどうもが効きすぎてそっちの方が優先した嫌いはあると思ってもいるのだが。
2009年10月11日
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数限りない堂々巡りの果てにこの件に関して、お粗末ながら自己流の結論らしきものが纏まり掛けてきたような気もする。気だけで根拠はない。しかしいい加減でも一応何とか格好が付かないともう余り時間がない。ニーチェのように気が狂うほど頭が良くはないが、時間だけは平等に終わりに近付いている。 人間という限られた存在のの中で巨視と微視という観念はかなり若年の時代にそれなりに心中に形成された。何回も触れたように思うが、身近な例で言うなら「たかが野球、されど野球」なのである。自分の中ではされどであり微視の思いがなければ物事を追求は出来ない。しかし一方で多くの人々にとってはたかがと言う思いでしかないのだと認める姿勢がなければ、視野の狭い偏狭な人間になってしまう。人は誰しも社会という共同体の中で生き、生かされている。このバランスの上であやふやながら生きている。 これを忘れる或いは認めない人も結構居て仮にその人が何かの分野で天才だとしても、存在価値はその才能に応じていずれ認められるだろうが、一般に本人が自負するほどには評価されない。この事を判った上で悠々自適できれば正に人として確固たる不動の存在であり得るだろうが、難しいことに才能が必ずしも人格の錬磨を伴わないと言う例は無数にある。 ある分野に於いて価値評価を受けられても、他分野の人たちの価値観でも評価されるとは限らないし、一番簡単な例え話をすれば昔写真道楽にはまっていた頃耳にしたことではあるが、専門誌に登場するようになっても、一般評価には必ずしも繋がらない。つまり写真専門雑誌のグラビアを飾る機会が出てくる。これだけで私達レベルからすれば羨望の的、結構な先生格なのだが、本当にその分野以外の人にも評価される為には一般雑誌、例えば中央公論、文芸春秋、改造とか少なくともこの辺の一般人が専門外で一流レベルの雑誌と思うところでお呼びがかかるようでないと、早い話が専門外という意味の大衆(仮に各々の分野では専門家と称されるレベルの人たちだとしても)には周知の人ではない。 でも、一般人がよく知らないという人は沢山いる。只このポピュラリティの壁を乗り越えないと所謂有名人ではないことになる。 但しこの段階で一応飯が食える段階には到達するらしいから、一応専門家と呼ぶことはできる。小商人として生きてきた私からすれば、これで一人前と称することは出来る。何の分野でもそうだが、一生その仕事で曲がりなりにも妻子華族をやしない続けるのはそんなに易しい事ではない。年に経済自殺が一万人を超え、自殺者の三分の一にもなると言う現在のような混乱期をも含めて、ビジネスで生きるのは戦場で戦うくらいの覚悟がいる。何か始めれば飯が食える等と安易な考えで生きられる方が寧ろ可笑しい。 従って現在のメディア世界では必ずしも有名人=価値ある人ではない。ジャーナリスティックに価値あると言うことは昔のように専門分野で価値有ることと一緒ではなくなった。つまり価値がメディア系の価値と本質論的な価値と二様に分化されてしまい、しかし時には重なる事も有るため混乱が増すのである。現に実に下らんと私が勝手に思いこんでる大有名人も結構多いと思う。しかしこの判定を下すのは結局、時でしか無いであろう。
2009年10月10日
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