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元治元年1864年五代友厚のもとを訪ねた人物がいます。家老小松帯刀の密使としてやって来たのは市来正右衛門です。市来正右衛門のちの市来四郎です。二人の会見の場所は長崎グラバー邸です。英国人トーマス・グラバーの信頼を得ていた五代はこの時。藩主と国父を動かすための長文の意見書を書いていました。後に重要な意味をもつことになる歴史的建言書でした。小松帯刀の像は鹿児島県文化センターに出入りする人々を見下ろす位置に立っています。まじまじ見ると見るとかなりいい男です。ただちょっと斜めにポーズをとっているために顔を正面から見るためにはかなり右下に回り込まなければなりません。歴史は複雑に絡み合っています。五代はこのとき小松の用意した金数百両を受け取っていません。五代は小松の思惑とは別のことを考えていたのです。今度は公式に国元の許可を得て留学生を派遣すべきだと考えていたのです。幻の宰相と小松帯刀が呼ばれるのはあまりに早く亡くなってしまったからという理由だけからではありません。幕末から維新の動乱の中で。影に日に表の顔として動いていながら彼が脚光をあびることがほとんど無かったからなのです。小松帯刀は坂本龍馬の宿を世話した・・それだけの人物ではありません。もう少し写真を撮ってあげればいいのにと思います。もう少し見上げてあげればいいのにと思います。西郷隆盛の像の前で記念写真を撮っていく人々がすぐそこにある小松の像の前でポーズをとるのを私は見たことがありません。写真を撮る人の姿を見たことはありません。小松帯刀なかなかの男前です。なかなか面白い男です。
2006年10月15日
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有村雄助はこの時26歳です。兄の有村武次(前名・利斉)に後のことを託しました。はるかに東方を拝します。東には京都・・朝廷があったからです。そして作法通り切腹しました。3月24日早朝のことです。介錯は竹馬の友奈良原幸五郎(繁・のちの沖縄県知事)が当たりました。有村兄弟の母親れんは蓮寿尼という別名を持っていました。歌道にもひいでた人でした。一度に愛児をふたりも失った悲しみを歌に託しています。雄々しくも君につかふるますらおの母とふものはかなしかりけり母とは悲しい・・・・そう思い知らされます。けれどもこの時代には悲しいことを悲しいと口に出すことはできたのです。
2007年09月11日
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