国語は勉強しにくい科目?
~「論理」で対抗する現代文~
「国語はどう勉強したらいいかわからない…」
これもまたよく耳にする声です。
「算数と違って正解が1つに決まらない。」
「公式もないし、なにをどうすれば点数に結びつくかわからない」
「そもそも何がわからなくて点が取れないのかすらわからない」
こうした理由が試験科目としての国語が嫌われる理由でしょうか。
しかし、実は 「国語こそが論理を重要視する科目」
なのです。
ご存知の通り、国語にも模範解答というものが存在します。
そしてそれが「模範解答」である限り、それを「模範解答」として認識する論理があり、またその解答を導き出すための論理が存在するのです。
ではなぜ、それが明確にならないのでしょうか?
それは人工的に論理だけを取り出した算数と比較して、 「論理の部分が隠れがちだから」
なのです。
国語という科目では日常的に使われている日本語の力が試されます。
そこで、日常生活で日本語を使う上で、どれだけ「論理」を重視しているかが問われるのです。
そして実はこの 「日本語の論理力」がすべての学習の基本
になります。
なにしろ、算数の文章題はもちろん、 「考えること自体がすべて日本語で行われている」
のですから。
一方で、現実に「国語が得意」なお子さんがいるのも事実です。
それではちょっと視点を変えてみましょう。
「国語が得意な子はどこが違うのか?」
それが明らかになれば、その真似をすれば国語の成績を上げることができるはずです。
すぐに思いつくのは 「読書量が多い」
ということです。
もちろん、「読書量が多い」ことと「国語の成績が良い」ことは、必ずしも一致しません。
読書量が少なくても国語の成績が良い子もいます。
ただ、一般的な傾向としては、読書量の多い子は国語の成績が良いといえるでしょう。
では、ここでさらに 「読書量が多い」とはどういうことか
を掘り下げて考えて見ましょう。
まず読書量が多いこと自体から得られるものが考えられます。
「読書量が多い」=「文章を読むことに慣れている」
、ということは容易に想像が付きますね。
では、「文章を読むことに慣れている」とはどういうことでしょうか。
それは、 「前後の文脈からわからない言葉の意味を類推する能力、さらに言葉の論理を追う力が身についている」
、ということです。
単純に「読書量が多い」=「語彙が豊富」と考えがちですが、これはあくまでも結果であって、 「多くの言葉に触れることが言葉の意味を類推する能力と言葉の論理を追う力を生む」
というのが現実なのではないでしょうか。
実際、読書が好きという子どもたちの多くは、辞書を引きながら本を読んできたわけではないでしょう。
私自身も幼い頃からの本の虫でしたが、初めて見る言葉があってもいちいち辞書をひくような事はしませんでした。
せっかく楽しく読み進めているリズムが崩れてしまいますから。
読書好きの子どもたちの「意味を類推する力」は多くの読書体験を通して 無意識に身につけた
ものと考えることができます。
ということは、読書体験が少なくとも、 同じことを意識的に行えば、
効率よく「意味を類推する力」を身につけることができるのです。
具体的な方法を説明しましょう。
国語という科目では、必ず課題文が与えられます。
そこでその課題文において、
1)意味のはっきりしない語句を明らかにする。
2)その意味を前後の文脈から類推する
3)辞書をひいて、その推測が正しいかどうかを確認する
という手順を必ず行うようにするのです。
いわゆる精読という読み方に近いでしょう。
読書体験の 量に対して、質で勝負
するのです。
この読み方を継続することで、「意味を類推する力」は確実に身につきます。
では、 「言葉の論理を追う力」
についてはどうでしょうか?
実は、 もう1つ読書量の多い子どもに共通したことがら
があります。
それは 「読書量が多くなる環境」
が与えられていることです。
そして、この事実が 「言葉の論理を追う力」
を育てることにつながっているのです。
経験的に言わせていただければ、「読書好きの子どもの親御さんはやはり読書好き」です。
そして親御さんが読書好きであるということは、子どもに想像以上に大きな影響を与えているのです。
まず、環境としての影響が考えられます。
簡単に箇条書きにしてみましょう。
1)読書を娯楽と考える人がいる = 読書に対する興味があがる
2)本を読むのに適した環境がある = 生活の中に読書に集中する時間を持つ手本となる人がいる
3)身の回りに本がある = 読もうと思った時に手にとる本がある
そしてさらに大きな影響があるのは、 「本の感想を語り合う相手がいる」
ということです。
「この本面白かった?」
「面白かったよ」
「どんなところが?」
といった言葉のキャッチボールが、 「物事を整理して論理的に物事を考え、伝える訓練になる」
のです。
同じことは日々の生活にも言えます。
目の前にある現実から「なぜ」を見つけ出し、それを論理的に掘り下げていくこと。
そして可能であればそれを語り合うこと。
それが論理の力を養うのです。
「なぜ受験するの?」
「そんなことは考えなくていいから勉強しなさい!」
こんな会話がかわされているようでは、物事を論理的に思考する態度は身に付きません。
それでは、同じことを意識的に行ってみましょう。
手順は以下の通りです。
1)お子さんの興味を引きそうな本を用意する。
(一緒に図書館や規模の大きな本屋さんに行ってみると良いでしょう)
2)その本を、お子さんと親御さんで読む
3)感想(面白かったのか、つまらなかったのか、どんなところが気になった?など)を語り合う
いかがですか?
もちろん、 親御さんも本を読まなければダメ
です。
本を読まない親に本を読めといわれても説得力が全くありませんから。
なお、個人的にはいわゆる読書感想文を書くことは、オススメしません。
なぜなら、「後で感想文を書く」という義務感が「読む段階で楽しむことを妨げる」からです。
とはいえ、せっかくですから、お子さんによっては数行程度の「読書メモ」作りを楽しむ作業として実行するのは良いかもしれません。
(実際、この作業は楽しいです。そして、そのメモに誰かがコメントしてくれるようであれば楽しさは倍増します。
私も含め、楽天で読書日記を公開している人が多いのはこのためでしょう。)
もちろん、本以外の題材についても会話を交わすことでも論理を構成する力が身についていきます。
学校であったこと、日々のニュース、毎日の小さな出来事について、「なぜ?」「本当のところは?」をキーワードに お子さんとじっくり語り合ってください
。
最後に、 書く力を身につける方法
を考えて見ましょう。
はじめから長い文章を書くことは難しいのは当然です。
そこで、 「調べた言葉を使って短文を作る練習」
をしましょう。
意味を類推する力を育てるために辞書をひくということをオススメしました。
そこで一歩進んで、「調べた言葉を使う」練習を付け加えるのです。
言葉は使わなければ身につきません。
「調べた言葉を使って短文を5つ作る」
これだけで、言葉の定着が変わってきます。
新しく知識として知った言葉を使うことによって、その言葉を確実に身に付けるようにしましょう。
そして、短文を書くことに慣れてきたら、今度は長文を書いてみるようにします。
「作文」というと、ほとんどの子どもたちが嫌がります。
それは、 「作文の書き方」を教わらないから
です。
アメリカの学校教育では、 「文章を書く型」
を徹底的に教え込まれます。
なにもアメリカの教育がすべて良いことだとは思いませんが、この点に関してはわたしは全面的に賛成です。
「好きなことを好きなように書く」ことほど難しいことはありません。
長文を書く際には、
1)自分のイイタイコトを決める
2)イイタイコトに対する反論を考える
3)その反論に自分の論理でさらに反論して自分のイイタイコトの正当性を主張する
4)自分のイイタイコトの論理を補強する実例を挙げる
5)これらの要素をどんな順序で書いたらよいかを検討する
という準備が必要です。
逆にこの準備が整っていれば、あとは短文を組み合わせて文章をつづっていく作業が残るのみです。
何事もまず形から入りましょう。
誰の真似もせずに形あるものを作ることができるのは真の天才にしかできないことですから。
国語力はすべての科目の基礎
になるものです。
我々日本人は日本語を使うことでしか論理的に思考を組み立てることはできません。
逆に言えば、日本語の力すなわち 国語力がなければ、論理的に思考をすること自体ができなくなってしまう
のです。
当然のことながら、算数の文章題においても、問題文の意味とその文に隠された情報を読み取ることができなければ解答することはできません。
一例を挙げましょう。
「姉と妹の持っているメダルの数の比は、3対1でした。そこで姉が妹に4枚のメダルをあげたところ、二人の持っているメダルの数が等しくなりました。はじめに姉が持っていたメダルの数を求めなさい。」
この問題のポイントは、 問題文には明示されていない
「メダルのやり取りをする前後で姉と妹の持っている メダルの総数に変化がない
」ことにあります。
ここに気付くためには、問題文で提示された状況を論理的に分析する力が必要であり、その論理を構成するのは日本語の力なのです。
ということで、まとめです。
「論理的な思考で国語の成績をアップしよう!」
今回の内容、納得していただけましたか?
反論、質問、いつでもお待ちしております。