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疲労には大きく分けて2種類ある。 全体疲労と部分疲労。 厄介なのが部分疲労だ。 様々な症状や問題を引き起こす元になるからだ。 現代はパソコンや携帯の使い過ぎに陥っている。 先日、左首筋から指に痛みと痺れが走る人がいた。 左肩甲骨内側にも強い痛みがあった。 骨盤の体操、肩甲骨を内側に寄せる体操、上頸部から目に効かせる体操、 これらを一回やってもらったら、スッカリ良くなった。 この部分疲労を溜めたままにしていたら、どうなるんだろう。
2015.04.29
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循環器系のプロ、つまり血管の治療をしている先生によると、 長い血管の中からまるで細長い蛇みたいな 血の固まりを取り出すことがあるとのことだ。 健康のためには血液の質が大変重要だが、 流れが悪いとどうしようも無いってことだね。
2015.04.24
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今日という複雑な気分の日がついに、またやってきた。 昔はこの日が来るとめでたいと言われていた。 しかし、最近は迷惑な感じがしてしまう。 そうだ!迷惑だ。 もう来ないで欲しい。 誕生日は。 身体や心の健康援助の仕事をしていると、 自分の体に対しても敏感になってしまう。 体が老いてきた。 そのことに突っ張ろうとする気はまだある。 しかし、最近は「もう止めたほうがいい」という気持ちがどこかにある。 そうだ。 老いを明るいものにするには、 まず老いを受け入れることにそのコツと急所がある。 もちろん、これからも私は体を整え、時には鍛えもするだろう。 しかし、その際、幻想を追わず着実に現実的である必要があるだろう。 そして、その現実に気づく目は老いないで目覚め続けるだろう。 おーい、老いた体と老いの目、大切にしよう! これが本当の老いの理、お祈り…なーんちゃって。
2015.04.22
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新体操ってゆう種目がある。 自分にはどうもこれに違和感がある。 体操でもあり、表現でもありそうで、 でも結局採点ルールをこなさなければならない。 どこかしら、何かを表現したい欲求が拘束されてしまう感じがある。 奇妙な不自然さを感じるのは私だけだろうか? もっとも、葛藤が何かを生み出すのは、確かなことだが。 機械的な体操をやることに飽きた人が始めたのかなぁ。 フィギュアスケートにもそれを感じる。
2015.04.19
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嗅覚はとても本能的な器官だと思う。大概の動物は嗅覚か発達している。だから、それが逆にスカンクに鉢合わせると弱点になってしまう。自然界で身を守るにはかなり疑う力が必要だ。鼻は脳神経が露出した本能的器官。鼻粘膜は男女共に仙骨神経との繋がりがあり、生殖器との連鎖がある。女性は生理の前に仙骨2番が過敏になる時期がある。この時に、臭いに対して過敏になる人がある。骨盤がしっかりしていてキリッと上がっている人は嗅覚が鋭敏だ。鼻が悪くなると生殖器の働きが鈍り、排泄が不完全になりやすい。骨盤を整えると鼻も良くなる。蓄膿症は感情の抑圧が隠れている。当たり前の感情が抑圧され、エネルギーが内攻していていろいろな意味で野生性が低下しているので取り戻す必要がある。一種の心身症と言える。
2015.04.15
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病気を病気と思えば、病気になる。悩みを悩みと思えば、悩みになる。そう思っているのだから。でも、体の気持ちは違っていたりするんだな、これが。
2015.04.14
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人間とはどんな生き物か? これはなかなか難しい。そう簡単には答えを出せない。 では、せめて、私とは一体誰なんだろうか、の問いに答えが出せるか? しかしこれもまた、容易には答えが出せない。 どのような求め方をすればいいのだろうか? 「不変と変」の二つで一つの「私」までは何とか分かりかけている。 それをダジャレで表現すると、和他私みたいな…。 他は他人という意味ではなく、己に対する環境全てで、場合によっては 自己の内部にある他人のイメージを含むかもしれない。 和とは、仲良くして問題を起こさないことではなく、変容し続けること。 それが変、それに対するもう一人の私は、 この世でたった一人だからこそ存在する私という不変の眼差し とでも言おうか、いつも方今の中心のワタシ。 常に「今ここ」にあってどの時間と場所の中にも在る、ワタシだ。 それは思考、記憶、判断、分別ではない。 怒り、悲しみ、憂い、意志、焦り、恐れでもない。 なので、好き嫌い、損得、勝敗、愛憎、ベシベカラズ、 社会的地位や様々なランクとは質を異にする。 それらを否定するのではなく、それらがトラワレの対象にならない。 うっかりトラワレたとしても、そのこと自体が見える目であり、 見えることからくる主観を受容同化できる存在だからだ。 素粒私でもあり素流私でもあるみたいなソレみたいな…。ダジャレ(笑) そして自我は身体の影響を受けるがワタシは影響を受けない。 身体にワタシの本体があるかどうかはまだ分からない。 しかし、自我がワタシを自覚するための情報を提供する事実はある。 だが、人に肉体とは切り離して存在できる魂みたいなのがあるとしたら 自我はワタシを自覚できればかなり自由な生き方が可能となる。 別の比喩的な言い方をすると、 自我はワタシの信者となり、信者を増やさない。 それを見つけていきたい。 そして、自我はワタシの力を借りないと外の世界という他や身体から 気づきを得るのは難しく、ワタシも世界との関わりは続くので、 今ここで変容し行く変の私が本当の私であるということになる。
2015.04.12
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なんだか急に寒くなってしまった。 往生際が悪い冬だ。 どっちみち半年余りでまた戻って来れるんだからさっさと行っちまいなよ。
2015.04.08
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心身症を心の漂流物と見る。この発想は面白いと思うんだなぁ。確かに、自分の感情や気持ちを探ると、行き場がなくて漂っている気持ちって言うのがあると思う。言いたかったけど、分かってもらえたけど表現できないまま、そのままになってしまった。それが何らかの形で、例えばうんちやおしっこや汗と一緒に出ていてくれればいいけれど、そういうもんでもないしね。それが気がつかないうちに心身症、ストレス症状、慢性病、生活習慣病とかいうものになっちゃうとしたら、できればその漂流物をほったらかしにしないことが必要だね。参考にしたブログ記事:心身症は、身体という島にたどり着いた漂流物が…
2015.04.07
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