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ただひたすら共に夢を追いかけたー先日、評判の映画「国宝」を近所のシネコンで観てきました。実写映画を劇場で観るのは本当に久しぶり、歌舞伎も最近の俳優も殆ど無知だが、観応えのある映画だった!(※)以下にこの映画の予告編の動画を貼り付けます。興味のある方はクリックしてご覧くださいね<映画「国宝」予告編><映画「国宝」の概要><映画「国宝」公式サイㇳ>映画「国宝」の概要は、上掲の「公式サイト」をクリックしてご覧いただければ殆ど判りますが、以下、幾つかの事項を挙げて見ます。★原作は、昭和43年生まれの芥川賞受賞作家・吉田修一、『朝日新聞』に2017年1月1日から2018年5月29日にかけて連載された後、加筆修正され2018年9月7日に『国宝 上 青春篇』『国宝 下 花道篇』の二部構成で朝日新聞出版から同日発売されました。(吉田修一「国宝」2巻セット)★監督は新潟県生まれの在日朝鮮人三世の李 相日(リ・サンイル / り そうじつ)、2006年公開の「フラガール及び2010年公開の「悪人」(原作は吉田修一)で共にキネマ旬報の日本映画ベストワンに輝きました。(李 相日監督)★2025年5月18日、カンヌ国際映画祭の「監督週間」部門で世界初上映、6月6日に公開、大ヒットになりました。8月17日時点の観客動員数は、747万人、興行収入は105億円余りとなり、この時点で、日本の実写映画史上、歴代第3位の記録となりました。★上映時間は2時間54分、3時間に近い大長編映画です。★主演は吉沢 亮と横浜流星、2人共、現代を代表するイケメン俳優です。(吉沢 亮)(横浜流星)★タイトルの「国宝」とは、昭和25年(1950年)に制定された「文化財保護法」の第71条によって指定された「重要無形文化財の保持者(人間国宝)」のことです。「人間国宝」に指定された人には、年間200万円の年金が支給されます(かなり安い!)★「歌舞伎俳優の人間国宝」には、これまで27人が選定されました。ここではリュウちゃんのような「歌舞伎音痴人間」でも知っている代表的な2人の「人間国宝」について書いてみます。<七代目尾上菊五郎>20代の頃、「尾上菊之助」として、初期のNHK大河ドラマ「源義経」に義経役として主演、静御前役として共演した藤純子(富司純子。この映画に出演した寺島しのぶの母)との結婚は、当時、大きな話題になりました。(七代目尾上菊五郎)<五代目坂東玉三郎>昭和25年生まれ、当代きっての歌舞伎の女形(おやま)です。歌舞伎の女形としての活躍にとどまらず、バレー・ダンサー、演出家、映画監督など、幅広いジャンルで活躍しているスーパースターです。彼は映画「国宝」の主人公・立花喜久雄のように、梨園の生まれではなく、十四代目森田勘弥の芸養子という点で、立花喜久雄のモデルになった人物である可能性があります。(五代目坂東玉三郎)女性以上に女性らしい坂東玉三郎、主演した映画「夜叉が池」、お見事!(坂東玉三郎:映画「夜叉が池」ポスター)例によって前置きが長くなってしまいましたが、ここから映画の内容に入ります。<プロローグ>昭和39年正月、大阪の歌舞伎役者・花井半二郎(渡辺 謙)は長崎で歌舞伎の興行を打つために、地元のやくざの大親分、立花権五郎(永瀬正敏)の宴会に出席します。<長崎の大親分・立花権五郎(永瀬正敏)>(※)この当時、芸人の地方興行は、殆んどが地元のやくざが仕切っていたようです。なので役者や歌手、芸人が地方で興行を打つためには、地元のやくざの親分に仁義を切る必要がありました。芸能人とやくざの親分との付き合いで有名な事例は,美空ひばりと山口組三代目・田岡一雄の関係です。ひばりはデビュー直後から田岡に庇護され、田岡はひばりの事を「お嬢」、ひばりは田岡の事を「おじさん」と呼び合っていたのです。<関の扉>この宴席の余興として、権五郎の15歳の一人息子・立花喜久雄が、歌舞伎の名作「関の扉(せきのと)」(正式タイトル:積恋雪関扉・つもるこい ゆきの せきのと)のヒロイン・小野小町を見事に演じます。下の写真は、映画とは別の写真ですが、映画でもこのシーンが一瞬ですが取り上げられていました。(歌舞伎「関の扉」)立花喜久雄の見事な小野小町を観た半次郎は、一瞬にして、この少年の女形としての並々ならない才能を見抜いてしまうのでした。歌舞伎音痴のリュウちゃんも、このシーンの見事な演出にハマってしまった!これは凄い映画になりそうだ。「関の扉」の演目が終わって間もなく、兼五郎の宿敵のヤクザ、「宮地組」の襲撃を受けて、兼五郎は、大立ち回りの末に雪の積もる料亭の庭で敢え無く殺されてしまいます。真っ白の雪の上に、飛び散る真っ赤な権五郎の血飛沫、凄惨だが美しいシーンだ!このシーンにもゾクゾクした。「真っ白な雪の上の飛び散る真っ赤な血の飛沫」という凄惨な場面でリュウちゃんが思い浮かべるのは、歌舞伎演目では「仮名手本忠臣蔵」十一段目の討ち入りの場面です。(歌川広重「忠臣蔵」夜討3~本望)次の思い浮べるのは、安政7年(1860年)3月3日に江戸城桜田門の外で起こった「桜田門外の変」です。(月丘芳年「江水散花雪」)「血のシーン」ではありませんが、藤純子が主演した東映映画「緋牡丹博徒」の以下のスティール写真は、白い雪と赤い血を象徴する素晴らしい写真だと思っているのです。(緋牡丹博徒のスティール)尚、藤純子は、この映画の主題歌を昭和43年にリリースしていて、この歌は当時、大ヒットしたのです。以下にYou-Tubeを貼り付けますので、興味のある方はクリックして聴いてみて下さいね。<藤純子「緋牡丹博徒」>あと2つ、「雪と血」のテーマでリュウちゃんが印象に残っているフィクションを挙げて見ます。(1)東映映画「修羅雪姫」昭和48年公開、藤純子主演の「緋牡丹博徒」と同じような設定で創られた梶芽衣子主演の任侠映画です(小池一夫原作、上村一夫作画の漫画が原作になっています)(映画「修羅雪姫」の梶芽衣子)この映画の主題歌「修羅の花」は作詞:小池一雄(小池一夫のペンネーム)、作曲:平尾昌晃で、梶芽衣子が歌って大ヒットしました(この歌、リュウちゃんのカラオケのレパートリーの一つなのです)以下に1番の歌詞を貼り付けます。♪~死んでいた朝に とむらいの雪が降るはぐれ犬の遠吠え 下駄の音きしむいんがなおもさ みつめて歩く闇を抱きしめる 蛇の目の傘一ついのちの道を行く女 涙はとうに捨てました~♪以下に「修羅の花」のYou-Tubeを貼り付けますので、興味のある方はクリックして聴いて下さいね。<「修羅の花」梶 芽衣子>(2)アメリカ映画「キル・ビル」2003年に公開されたアメリカ映画です。監督は、クエンティン・タランティーノ、主演はユマ・サーマンです。この映画は前出の東映映画「修羅雪姫」に似たストーリーで、梶芽衣子が歌う「修羅の花」も映画のなかで使われているのです。(「キル・ビル」雪の庭での格闘シーン)映画「国宝」と「キル・ビル」の共通点、それは美術監督が種田陽平氏であることだ!種田氏は日本を代表する美術監督、リュウちゃん、「雪の上に飛散る血飛沫」のシーンを観た時、「キル・ビル」を連想したが、美術監督が同じ人物だったのだ!(種田陽平)父親を失った喜久雄は、苦痛に耐えて背中に刺青を入れ、父の仇討ちを決意し、仇の宮地組組長に刃を向けますが、敢え無く失敗、長崎に居られなくなり、大阪に行き、花井半二郎の養子となり、半二郎の家で暮らすことになります。半二郎の家には、喜久雄と同い年の一人息子である御曹司・俊介がいて、二人は同じ高校に通い、半二郎に歌舞伎の女形の所作の厳しい稽古を共に受けることになります。(高校に通う喜久雄と俊介)成人してからの喜久雄を演じるのは吉沢 亮。俊介を演じるのは横浜流星ですが、高校に入学する頃の少年時代の喜久雄を演じるのは、2009年生まれの黒川想矢、同じく少年時代の俊介を演じるのは、黒川と同じ2009年生まれの越山敬達(こしやま けいたつ、)です。二人共、絵に描いたような美少年、今後の大活躍に期待が膨らむ!(黒川想矢)(越山敬達)さて、映画「国宝」のプロローグは、昭和39年の正月に幕を開けます。昭和39年といえば、日本では戦後の高度経済成長に入った年で、東京=新大阪間の新幹線営業開始、東京オリンピックの開催された年です。この映画の2人の主人公は、昭和39年の正月に15歳という設定ですので、生まれた年は、昭和24年か昭和25年ということになります(ここでは便宜的に2人共、昭和24年生まれということにしておきます)昭和25年は、上掲の5代目坂東玉三郎の生まれた年なのです。この映画、戦後の経済成長期から平成時代の終わりまでの50年の歌舞伎芸道史を描く大河ドラマなのだ!(以下、<映画「国宝」を観る>その2に続きます)
2025年08月22日
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奈良県一番のコスモスの名所「藤原宮跡」、今年も240万本のコスモスが見頃になった。10月23日、リュウちゃん独りで、奈良県のコスモスの一番の「見所」である「藤原宮跡」に行って来ました。藤原宮跡のコスモス見物、ほぼ毎年来ているが、何度見ても飽きない。10月23日午前9時30分、斑鳩町の家を出発、電車を乗り継いで、藤原宮跡の最寄り駅である「近鉄畝傍御陵前駅」に、11時過ぎに到着、早速、駅前にある「餃子の王将」に入り、ちょっと早い昼食、プファ~、ビールが旨い!ツマミのレバニラ炒めと餃子も旨い!藤原宮跡に行く時には、ここで昼食を摂るのがリュウちゃんの「定番」なのだ。正午ジャストに「餃子の王将」を出て、藤原宮跡に向かいます。途中、「本薬師寺(もとやくしじ)跡地」に立ち寄りました。「本薬師寺金堂跡地」には、幾つもの大きな「金堂礎石」があり、礎石の周りには、秋の花が咲いていたのです。下の写真は、「本薬師寺東塔跡地」です。以前は、この辺りの休耕田一面に「ホテイアオイ」が植えられていたのですが、現在では「稲田」に戻っているようです。<藤原宮跡のコスモス>「本薬師寺跡地」から10分程歩いた所に「藤原宮跡」があります。笠置山地の麓に広がる藤原宮跡、遠くからだと、コスモスは全く見えない。近づくと、やっとコスモスが見えて来た。かなり凄い人出だ!コスモス・エリアに入ります。ここのコスモス、まだ「7分咲き」位だ。<「藤原宮跡」について>★「藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)」は「藤原京」の跡地です。★「藤原京」は、日本初の「中国(唐)の条坊制」が用いられた都です。★「藤原京」は、持統天皇8年(694年)、持統天皇が「飛鳥浄御原宮(倭京)」から数キロしか離れていないこの地に遷都し、以後、710年に元明天皇が「平城京」に都を移すまで、僅か16年間の「短い都」でしたが、これまでの「一天皇一都」の慣例を破り、持統・文武・元明の三代に渡る巨大な都だったようです。★以下の2図は「藤原京」の復元模型です(「復元模型2」は「復元模型1」をアップしたものです)(復元模型1)(復元模型2)★「藤原京」は大和三山(畝傍山(左中央)、耳成山(中央上)、香久山(右中央)の中心部に造営されました。★百人一首の持統天皇の短歌、<春過ぎて夏気にけらし白妙の 衣干すてう天の香久山>は、耳成山を背にした「大極殿」から左側に見える「香久山」を見て詠んだ歌と推定されます。★「藤原京」は、後の「平城京」、「平安京」と比較しても最も規模が大きく、「古代最大の都」だったようです。★「藤原宮跡」は、現在、国の「特別史跡」に指定されています。また、来年の夏にも「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として、ユネスコの世界文化遺産に認定される筈です。例に寄りまして、以下に「大和三山」とコスモスの写真を貼り付けます。<畝傍山とコスモス><耳成山とコスモス>「耳成山」は「大極殿」の裏手にあったせいか、コスモスとのコラボも少し難しいのだ。<天の香久山とコスモス><「安倍文珠院」へ>相変わらず左足の具合の悪いリュウちゃん、当初は「藤原宮跡」のコスモスを見ただけで帰ろうかと思っていたのですが、ここまで来てみますと、やはり以前のように「安倍文珠院」まで行って見たくなったのです。「藤原宮跡」から「安倍文珠院」までは、約3キロの道程、無事に辿り着けますことやら?「藤原宮跡」から歩くこと約40分、やっと「安倍文珠院」に着いた!「安倍文珠院]は大化元年(645年)に創建された安倍氏の氏寺です。平安時代、陰陽師として有名な安倍清明も、ここで修行したと伝えられている古刹です。安倍氏ゆかりの古刹、秋にはコスモスの名刹になるのだ。<コスモス迷路>「金閣浮御堂」の奥手に、30種5万本のコスモスで造られた「コスモス迷路」があります。本日のコスモス迷路、まだ「5分咲き」くらいだ。背丈もかなり低い、ちょっと残念。<チョコレートコスモス>「コスモス迷路」の入口に、30鉢の「チョコレートコスモス」が植えられていました。チョコレート色の、チョコレートの匂いのする珍しいチョコレートコスモス、これだけの大量、初めて観た。「展望台」に登ります。「展望台」から見下ろしたコスモス迷路まだ「3分咲き」のように見える。「展望台」からの光景です。以下の写真の標識、本日リュウちゃんが辿った道筋が一望出来るのだ!
2025年11月25日
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樹高38m、幹回り13,1m,近畿地方随一の巨樹、「水屋神社の大クス」圧倒的な迫力だ!11月8日(月曜日)、女房殿のリクエストで、伊勢市の内宮の近くにある女房殿の実家に一泊旅行に行ってきました。現在、女房殿の実家には姉夫婦が住んでいます。いつもなら、奈良から伊勢に車で行く時には、西名阪道から伊勢自動車道(高速道路)を経由して行くのですが、今回はリュウちゃんのリクエストで、一般道路の「国道166号線」経由で行くことにしました。高速道路経由よりも1時間ほど余計に時間が掛かるのに、なぜ一般国道を選んだかといいますと、国道166号沿いには、リュウちゃんの行って見たかった「奈良カエデの郷ひらら」と「水屋神社」がある。からなのです。午前9時、カーナビを「奈良カエデの郷ひらら」に合わせて、奈良を出発、午前10時過ぎ、「ひらら」に到着。アチャ~、「ひらら」は月曜日は定休日だ!しょうがない、明日、帰路に寄ってみよう。カーナビの目的地を「水屋神社」に変更し、奈良県と三重県の県境である「高見峠」を越え三重県松阪市に入ります。走ること約1時間、前方に「水屋神社」のシンボルである「赤い大桶」が見えました。「赤い大桶」の傍に駐車、「水屋神社」に入ります。小さな鳥居を潜りますと、鬱蒼とした巨樹の中に拝殿があります。拝殿の前方右側に「ムクノキ(椋の木)」の巨樹があります。「巨樹」といいましても、幹回り3mと少し位の「小巨樹」なのですが、存在感のある樹木なのです。「夫婦杉」です。この「夫婦杉」も幹週は4m位ですが、一直線にすっくと天に伸びる幹は、若さが漲っていますね。<楠椙(すすぎ)和合の樹>クスノキと杉(椙)の巨樹が接近して成長したため、「根」が重なり合って和合したもので、三重県の天然記念物に指定されている「夫婦樹」です。女房殿に、クスノキの傍に立ってもらいましたが、「巨樹」ぶりがよく分かりますね。「楠椙和合の樹」のクスノキと杉の巨樹は、「水屋神社」の中では、それぞれの「2番目の巨樹」のようです。クスノキの一番目の巨樹は、後で紹介する「水屋の大クス」、杉の一番の巨樹は社殿の右横にある「水屋の大杉」です。「水屋の大杉」、樹高43m、幹回り約8m、杉の巨樹が多い伊勢神宮の巨樹と比較しても遜色のない目を見張る巨樹なのだ!<水屋の大クス>さて、本日のお目当ての「水屋の大クス」です。この巨樹は社殿の裏手にあります。このクスノキの巨樹、あまりに大きすぎて、リュウちゃんのカメラの腕では到底、そのスケールを伝えることが出来ません。なのでまた女房に前に立ってもらいました(一番目の写真はピンボケになってしまいました。残念!)樹高38m、幹回り13,1m,目通り直径約4.2m、近畿地方最大の巨樹、リュウちゃんが76年の生涯の中で観た最大の巨樹なのだ!<日本の巨樹ランキング、トップ50>「水屋神社の大クス」は、幹回りで近畿地方随一の巨木です。では全国で幹回りの一番太い木はどれなのか? ちょっと気に掛かりましたので、ネット調べをしてみました。下のサイトは、<日本の巨樹ランキング、トップ50>です。<日本の巨樹ランキング、トップ50>上掲のサイトには、幹回りの太さの順に、58本の巨樹が掲載されています。本日、リュウちゃんが観た「水屋神社の大クス」は、全国ランキング48位、リュウちゃんがこれまで全国一の巨樹だと思っていた屋久島の「縄文杉」(幹週:16,1m)は、何と、ベスト10にも入らない、12位に留まっているのです!(縄文杉)日本一の巨樹は、鹿児島県姶良(あいら)市蒲生(かもう)町にある「蒲生の大クス」!樹高30m、幹回り24,22m(!)、目通り直径:約8m(!)、樹齢1500年、何と!「水屋の大クス」の約2倍の直径がある!とてつもない巨樹だ!(蒲生の大クス)巨樹大好き人間のリュウちゃん、以前から屋久島にある「縄文杉」を観に行きたいと思っていたのですが、方針転換、よし、今年中に「蒲生の大クス」を観に鹿児島に行こう!お昼頃、松阪市飯高町にある道の駅「飯高駅」に到着、ここのレストランで昼食、プファ~、ビールが旨い!巨樹の余韻が体中を駆け巡る!午後4時頃、女房殿の実家に到着、姉夫妻がタラ鍋の御馳走で歓迎してくれました。翌朝、リュウちゃんは6時起床、独りで内宮の散歩をしました。内宮の紅葉、まだ「色づき始め」なのだ。この時期、内宮の神苑には、「国華会」によって献花された約300鉢の菊の花が参拝者の目を楽しませてくれます。内宮の神苑で観る菊の花、清浄な気分にさせられる。午前11時過ぎ、女房殿の実家を出発、昨日通った国道166号線を逆に辿り、「奈良カエデの郷ひらら」に向かいました。午後12時30分、昨日立ち寄った道の駅「飯高駅」に到着、レストランで昼食、プファ~、ビールが旨い!女房殿が運転してくれるおかげで、何時でも「昼ビール」が楽しめるのだ。女房殿に感謝!下の写真は、道の駅で撮った前方の山です。あの山が「高見山」なのかな?午後2時ちょっと前、「奈良カエデの郷ひらら」に到着、以下のサイトは、「ひらら」の公式サイトです。<奈良カエデの郷ひらら>「ひらら」は、平成25年(2013年)、宇陀市の小学校の木造校舎を改造し、設立されました。旧校庭には、世界のカエデの原種・園芸種約1200種類、総数約3000本のカエデが栽培されているというユニークな「カエデ植物園」なのです。園内に入ります。園内で一際目を惹くのは、2本の大きなイチョウです。2本の大イチョウ、見事な黄金色に染まっていた!校庭内を歩きます。かなり広い校庭なのですが、なにしろ1200種3000本のカエデが植えられていますので、一種類当たりの面積は狭く、かなり窮屈ですね。あと10年も経てば、大きくなったカエデは密集状態必至、大幅に植え替える必要がありそうだ。例に拠りまして、色づきの良さそうなカエデの品種の写真を撮ってみました。以下に貼り付けます。<荒皮唐楓(あらかわとかえで)><曙楓(あけぼの)><紅糸宮様(こんしみやさま)><中原紅B(なかはらべにB)><中原紅><月光錦(げっこうにしき)><有明野村(ありあけのむら)><烏川(からすがわ)><小紋錦(こもんにしき)><ダイアナ><藍住錦(あいずみにしき)><今熊野A(いまくまの)><桂(かつら)><若槻(わかつき)><端午紅(たんごべに)><オオモミジ><パインバーク><ムーンファイア><ガーネット><貴宝錦(きほうにしき)><バリーベーグマン><MARJAN(マージャン???)><紅皮(べにかわ)><ペーパーバークマープル><ハナノキ>上掲の写真の左側の並木、一見するとイチョウの小木のように見えますが、れっきとしたカエデの仲間の樹木なのです。<紅司枝垂(べにつかさしだれ)><イロハモミジ>あれ? 日本のモミジの代表種である「イロハモミジ」が見当たらない?と思って探しました所、カエデ園からちょっと離れた校庭の隅にひっそりと植えられていました。う~ん、まだ紅葉の季節にはちょっと早い?午後3時過ぎ、カエデ園の裏側にある駐車場を出発、午後4時、無事に斑鳩町の家に辿り着きました。来週から紅葉狩りの季節、今年は何処へ紅葉狩りに行こうか?今からワクワクのリュウちゃんなのです。HH
2022年11月18日
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約100品種の梅と数多い蝋梅(ロウバイ)、大阪城梅林、今正に「見頃」2月11日(火)、新聞の「梅便り」に誘われて、大阪城梅林を散策してきました。 天気は快晴絶好の梅観日和だ!以下の図は「大阪城梅林マップ」です。梅林は大阪城の外堀と内濠に囲まれた天守閣直下の東側にあります。(大阪城梅林マップ)上掲のマップ、かなりオリジナルを拡大しましたので、ちょっとボケています。以下、この図について補足説明をさせて頂きます。★梅林に行くための公共交通の駅は8つあります。(!)JR大阪環状線「森ノ宮駅」、(2)大阪地下鉄(Osaka Metro)中央線「森ノ宮駅」、(3)JR大阪環状線「大阪城公園駅」、(4)大阪地下鉄谷町線「谷町四丁目駅」、(5)大阪地下鉄中央線「谷町四丁目駅」、(6)大阪地下鉄谷町線「天満橋駅」、(7)京阪「天満橋駅」、(8)大阪地下鉄長堀鶴見緑地線「大阪ビジネスパーク駅」、<参考のため、下記に交通マップを貼り付けます>(大阪城周辺交通マップ)★上掲マップの上部、「大阪ビジネスパーク駅」という表記がありますが、この表記で、「大阪」の表記のある場所が「桜の通り抜け」で有名な「大阪造幣局」がある場所です。大阪城と、「桜の通り抜け」で有名な大阪造幣局は至近距離なのだ!さて、リュウちゃんは午前10時過ぎにJR「森ノ宮駅」から大阪城公園に入場しました。公園の入り口から大阪城の天守閣が見えています。「森ノ宮駅」から15分くらい歩きますと、「梅林に到着」します。梅林入り口の石碑、石碑の横の白梅は、「紀州みなべの南高梅」の商標登録でも有名な「南高梅」(なんこううめ、なんこうばい)です。 (南高梅)大阪城梅林の総面積は約1,7ヘクタール(17000平方メートル)、そこに約100種・1270本の梅の木が植えられています。この「梅林」が開園したのは昭和49年3月、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で開園されたのだそうです。午前10時30分、梅林に入りました。<梅林の写真>以下、梅林内で撮った写真を何枚かアップしてみます。幾つかの梅の木の枝に、ミニチュアの兎やリスがとまっていました。う~ん、可愛い!心が和む。<蝋梅>梅林には「蝋梅」がいっぱい咲いていました。 大阪城梅林の「蝋梅」、素晴らしい!<大阪城の天守閣と梅の花> 大阪城梅林は背後に天守閣が聳えていますので、インスタ映えする梅と天守閣のコラボ写真を撮ることが出来ます。以下、コラボ写真を何枚か貼り付けます。梅と天守閣のコラボ最高だ!<大阪城梅林の梅の品種>ネット調べによりますと。梅の品種は現在約500種類なのだそうです。大阪城梅林の品種は、全500種類の内、約1/5の100種のようです。約100種もの品種がある梅林ちょっと凄い!?リュウちゃん、例によりまして出来るだけ品種の写真を撮りました。以下、この日に撮りました品種の写真をアップしてみます。<思いのまま>野梅系の遅咲き品種。別名「輪違い(りんちがい)」、その名のように、一本の木に紅と白の色違いの花を咲かせる不思議な梅なのです。上の写真は、まだ「咲き始め」のためか、殆ど「白梅」ですね。 以下にネットでお借りした写真を2枚貼り付けます。(おもいのまま)何と、1つの花で「2色」の色違い、摩訶不思議?(思いのまま~ひとつの花で色違い)<鹿児島紅(かごしまこう)>大阪城梅林の中でも、一際目を惹かれる鮮やかな紅梅です!<古城(こじろ)> 大正時代後期、和歌山県田辺市長野の那須政右ヱ門により発見された果実梅です。別名「青いダイヤ」、梅酒として漬けこんだだ時に実崩れが少なく、エキスがよく出るのだそうです。<白加賀(しらかが)> 梅の品種で、一番多いのが、入り口の石碑の横にあった「南高梅」ですが、「白加賀」は「南高梅」に次ぐ生産量第2位の梅です。大阪城梅林には多くの「白加賀」があります。<白滝枝垂れ(しらたきしだれ)> 満開になりますと、滝が流れるように見えるところから、この名が付いたようです。<白玉(しらたま)> 「これぞ白梅!」という感じがする5弁中輪一重咲きの白梅ですね。<筋入鶯宿(すじいりおうしゅく)> 「鶯宿」の「鶯」はウグイス、「梅にウグイス」ということわざにもありますように、梅の花はウグイスが似合いますね。尚、「筋入」とは、若い枝に筋が入る品種なのだそうです。<名古屋紅梅(なごやこうばい)> 鮮やかな濃いピンクの八重の紅梅です。<一重野梅(ひとえやばい)> 原種に近い梅のようです。大阪城梅林ではポピュラーな品種です。香りが良く、花付きも良いので、盆栽にもよく使われるそうです。<傅粉(ほふん)> 薄いピンクの「お椀」型の花が可愛いですね。命名の由来は不明です。珍しい品種のようです。<本黄梅(ほんこうばい)> 花びらが細く小さく、内側の雌しべの黄色が目立つ、ちょっと不思議な梅です。これも珍しい品種のようです。<道知辺(みちしるベ)> 豊後系の紅い一重咲きのピンクの大輪の梅です。大阪城梅林では最も華麗な梅でポピュラーな品種です。<武蔵野(むさしの)> 豊後系・豊後性の淡い紅色をした八重咲きの大輪の梅です。まだ「咲き始め」でした。<八重海棠(やえかいどう)> 野梅系・紅筆性の白い八重咲きの中輪の梅です。<八重唐梅(やえとうばい)> 緋梅系・唐梅性の紅色をした八重咲きの中輪の梅です。花弁には赤い筋が入り、下向きに咲くようです。<八重野梅(やえやばい)> 野梅系・野梅性の白い八重咲きの大輪です。<緑萼(りょくがく)> 野梅系・青軸性の白い一重咲きの中大輪の梅です。萼が黄緑色になるので、この名が付けられたようです。。 フ~、やっと17種の梅をUPすることが出来ました。本当は30種類くらいの写真を撮ったのですが、品種名が確認出来ませんでした(ちょっと残念)梅の花は、「早咲き」と「遅咲き」の時間差が大きく、本日開花していた梅の殆どは「早咲き」だと思われます。この日はまだ全体の1/3くらいの梅は、まだ「蕾」だったのです。3月初旬に、もう一度「遅咲きの梅」を観に行こう!大阪城梅林の品種は約100種類と云われますが、以下のサイトに全ての品種名と美しい写真が1品種につき3枚づつUPされています。 <大阪城梅林2020>→ここをクリック上掲サイトに掲載されている梅の品種は97種対岸の「大阪造幣局の通り抜けの桜」よりちょっと少ない!昨年、「大阪造幣局の通り抜けの桜」全134種類を4回に渡るブログで紹介しましたが、「大阪城梅林の梅の品種」も全97種類全てを紹介したいという意欲が湧いてきました。しかし、今年は準備不足でちょっと無理です。来年は全97種類をブログで紹介するぞ!約2時間の梅林散策を終えて、大阪城の天守閣に上りました。天守閣から見下ろした「梅林」です。広い梅林がまるで「箱庭」だ!もう午後1時、お腹が空いた! で、大阪城から徒歩でJR京橋駅に移動、駅傍の繁華街にある海鮮居酒屋で遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!梅の残り香とマグロの刺身がおツマミなのだ!
2020年02月17日
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紅葉に包まれた当麻寺西三重塔、美しい!11月下旬の或る日、ふと思い立って葛城市にある当麻寺の紅葉狩りに出掛けてみました。公共交通の当麻寺の最寄りの駅は、近鉄南大阪線の「当麻寺駅」なのですが、リュウちゃんの住んでいる法隆寺からは頗る不便な路線なのです。どうやって当麻寺に行こうか?少し悩んだ末に、かってリュウちゃん一家が20年ほど住んでいました香芝市にあるJR香芝駅から徒歩で行って見ることにしました。JR香芝駅から当麻寺までは、1時間も歩けば着くだろう、楽勝だ。ということで、昼食を終えてから法隆寺を出発、JR香芝駅に着いたのが午後1時ジャスト、香芝市のシンボルである二上山(にじょうざん)が行く手に大きく見えて来ました。リュウちゃんの計画では、まず二上山の麓の駅である近鉄南大阪線の「二上神社口駅」まで行き、そこから葛城山方向に向かい、石光寺(せっこうじ)を経由して、当麻寺に至るという簡単なものです。昔、香芝市に住んでいた頃、何度か通った道なので、方向音痴のリュウちゃんも間違えようのない道の筈でした。しかし、迷ってしまったのです。昔、リュウちゃんが住んでいた界隈は、新しいマンションが立ち並び、以前の景色とは一変していました。なので、本来なら30分で着く筈の二上神社口駅まで、倍の1時間も掛かってしまいました(トホホ!)下の写真は、この辺りのシンボル、二上山(にじょうざん)です。向かって左側の小さい山が雌岳(474m)、右側の大きい山が雄岳(517m)です。太古の二上山は活発な活動をしていた活火山で、雄岳の右下には、火山活動で噴出した凝灰岩が固まって出来た奇岩群・屯鶴峯(どんづるぼう)があります。また、火山活動で噴出したサヌカイトは、数々の石器に加工されました。二上山付近には、石器時代の遺跡が多数あるのです。雄岳の頂上付近には、飛鳥時代の天武天皇の皇子で、謀反の疑いで自害させられた大津皇子(おおつのみこ)の墓があります。この辺りも飛鳥時代の歴史の残景が色濃く漂っているのです。午後3時少し前、やっと当麻寺に到着しました。当麻寺(たいまでら)は、7世紀初頭、聖徳太子の異母弟・麻呂子親王が聖徳太子の教えによって創建されたとされています。山号は「二上山」、やはり二上山ゆかりの寺のようです。本尊は中将姫が一夜で編んだとされる「当麻曼荼羅」です。http://www.taimadera.org/リュウちゃん、当麻寺には何度も来たことがありますが、紅葉を観るのは初めてです。以下、広い境内の紅葉を場所別に紹介します。(1) 宝物館付近の紅葉、(2) 浄土庭園の紅葉、ここが当麻寺の一番のビュースポットのようです。この庭園には、以下のような「十月桜」が満開になっていました。(3) 西南院庭園の紅葉、冒頭の写真は、この庭園から、国宝に指定されている西塔(三重塔)を眺めたものです。東塔・西塔の周辺には、紅葉はありませんので、このように別の場所から紅葉を借りてきて撮影したという次第です。この庭園の紅葉、本当に素晴らしい!今年の紅葉狩りの中では、間違いなくベストワンだ!紅葉狩りを楽しみ、当麻寺を出たのが3時半過ぎ、近鉄「当麻寺」駅に着いたのが午後4時ジャスト、少しお腹が空いてきましたので、駅前にある「中将堂本舗」で名物の中将餅を食べようと思ったのですが、案の定、この日の中将餅は「売り切れ」、残念でした。http://www.chujodo.com/「中将餅」は上記のサイトでご覧のように、伊勢名物の「赤福」に似た形状をしたお餅ですが、よもぎの香りが濃厚で、伊勢出身のリュウちゃん、奈良に引っ越ししてから、すっかり「中将餅」のファンになってしまいました。しかし、「赤福」と違い、ここの店内のみの「手作り製造」なので、この店以外では販売されておらず、また店内でも、大体午前中に「売り切れ」になったしまうのです。今年はとうとう「中将餅」を食べられなかった(トホホ!)という「悔い」を残して、当麻寺の紅葉狩りは慌ただしく終了したのでした。
2014年12月22日
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映画「男はつらいよ」を飾ったマドンナたち、令和元年末<映画「男はつらいよ~お帰り寅さん」>公開を機に、改めて「マドンナ遍歴」をして見ます。昨年末、映画「男はつらいよ~お帰り寅さん」を観て来ました。 <映画「男はつらいよ~お帰り寅さん」予告編>→ここをクリック渥美清出演の最終作となった「寅次郎紅の花」から24年目の新作です。寅さんシリーズの大ファンのリュウちゃん、懐かしさに涙ボロボロになりました。<「男はつらいよ~お帰り寅さん」のストーリー>「寅次郎紅の花」から約20年後。寅の甥っ子、満男(吉岡秀隆)は売れっ子の小説家になっています。(満男~吉岡秀隆)満男は、かって恋人だった及川泉ちゃん(後藤久美子)とは別の女性と結婚し、中学三年生の一人娘ユリ(桜田ひより)がいます。満男の妻だった女性は7年前に亡くなり、現在は満男の家庭は、満男とユリの2人暮らし、「父子家庭」になっています。(満男とユリ)或る日、満男の妻の七回忌が行われることになり、葛飾柴又の帝釈天題経寺の門前にある寅さんの実家に懐かしいメンバーが集合します。この時に旧「とらや」に集まったメンバーは以下です。★さくら(倍賞千恵子)、★さくらの夫で満男の父親「博」(前田吟)★満男(吉岡秀隆)、★満男の娘ユリ(桜田ひより)、★裏の工場のタコ社長の娘あけみ(美保純)、★源ちゃん(佐藤蛾次郎)、★満男の亡き妻の父親・窪田氏(小林稔侍)、★題経寺の御前様(笹野高史!)「題経寺の御前様」は、ずっと名優・笠 智衆(りゅう ちしゅう)が演じていたのですが、彼は平成5年、膀胱癌のため、88歳で死去しました。寅さんシリーズ第45作「寅次郎の青春」が遺作となりました。でも映画の設定では、第46作以降も生きていることになっていまして、画面には出てこないのですが、「寅次郎の心の師」として生き続けていたのです。笹野高史が御前様とは、ちょっとビックリ!(笹野高志)他に、この法要に出るべき人で出ていなかった人を以下に挙げてみます。★車 竜造)(おいちゃん(下條正巳):下條正巳は「3代目おいちゃん」として、第14作「寅次郎子守歌」から35作に出演しました。彼は平成16年、膵臓癌のため88歳で死去しました。★車 つね(おばちゃん)(三崎千恵子):シリーズ全48作に「おばちゃん」として出演、平成24年、老衰で死去、享年91歳、★桂梅太郎(裏の工場のタコ社長)(太宰久雄):シリーズ全48作品に「タコ社長」として出演、平成10年、胃癌で死去、享年74歳、寅さん、おいちゃん、おばちゃん、タコ社長が居ない「とらや」の居間はちょっと淋しい!売れっ子作家になった満男は出版社の担当編集者である高野節子(池脇千鶴)からプロモーションの一環として、神田の書店でサイン会をすることを勧められます。当初、満男はサイン会に乗り気ではなかったのですが、節子の説得により、サイン会を行うことを承諾します。(高野節子と満男)サイン会の席上で、かって満男の恋人だった及川泉(今はユーロッパで結婚して現在スウェーデン在住、「イズミ・ブリーナ」と名を変えています)(後藤久美子)と再会します。イズミは現在、スイスのジュネーブにある「国連難民高等弁務官事務所」に勤務していまして、高等弁務官のアシスタントとして約20年ぶりに日本へ帰って来たという設定になっています。 満男はイズミを「とらや」に誘い、かって寅の恋人だったリリー(浅丘ルリ子)の経営するジャズ喫茶に誘います(イズミとリリーは第48作「寅次郎紅の花」で面識があったのです)(「とらや」でのイズミ)(さくらとイズミ)(イズミとリリー)満男はイズミとの再会を機に、様々な悩みを抱えます。ああ、こんな時に寅伯父さんがいてくれたら、、、満男は寅伯父さんの在りし日を回想します。この回想シーンは以前の映画のシーンをほぼそのまま使っています。多分、以前出演したマドンナがほぼ全員、フラッシュバックするように登場してきました。寅さんシリーズ全48作を映画館で観たリュウちゃんも満男の回想シーンで、以前の寅さんや「とらや」の人々、寅の前に現れた美しいマドンナたちがフラッシュバックのように蘇ってきたのです。よし、ブログでシリーズ全48作を回想してみよう。特に歴代のマドンナに重点を置いて回想しよう。と思ったのがこのブログを書き始めた理由です。全48作の長丁場、全て回想出来ますことやら?<テレビ版「男はつらいよ」>映画シリーズ第1作「男はつらいよ」が公開されたのは、昭和44年8月27日でした。山田洋次監督は、この映画の製作意図について以下のように語っています。「昭和43年~44年にかけてフジテレビで26回に渡って放映された<テレビ版「男はつらいよ」の最終回で、寅が奄美大島でハブに噛まれて死んでしまうのですが、この結末を観た視聴者から、「何故、寅さんを殺してしまったのか!」などの抗議が殺到、、その抗議を知って映画化を決意した」とのことでした。リュウちゃん、映画は番外の第49作「寅次郎ハイビスカスの花・特別篇」を除いて全作、映画館で観たのですが、テレビ版の「男はつらいよ」は全く観ていません。テレビ版の「男はつらいよ」どんな作品だったのだろう?ということでネット調べをしましたところ、以下のことが分かりました。★テレビ版「男はつらいよ」は、昭和43年~昭和44年にかけて、フジテレビで全26話の連続ドラマとして製作された。★テレビ版のクレジットには、(原案・脚本)山田洋次、(音楽)山本直純、(演出)小林俊一と掲載されている。★現存している動画は、全26話中、第1話と最終回の第26話のみである。以下にその2話のYou-Tubeを貼り付けます。このテレビ版「男はつらいよ」カラーではなく、白黒だったのだ!<テレビ版「男はつらいよ」、第1話>ここをクリック⤴ <テレビ版「男はつらいよ」、第26話>ここをクリック⤴オープニングで使われた音楽、寅の口上などは映画と同じですね!以下にテレビ版の配役を書きます。★(車寅次郎):渥美 清、★(車さくら);長山藍子、★(車 竜造:おいちゃん):森川 信、★車つね(おばちゃん):;杉山とく子、★坪内冬子(マドンナ):佐藤オリエ、★坪内散歩(寅さんの英語の先生、マドンナの父親):東野英次郎、★諏訪博士(ひろし、さくらの夫):井川比佐志、★登(のぼる、寅の舎弟で「とらや」の従業員):津坂匡章(まさあき、後に秋野太作と改名)、★染子(寅さんの実母):武智豊子、★川島雄二郎(自称・寅の実弟、タネ違いの弟):佐藤蛾次郎。この配役を知って、リュウちゃん、興味津々!以下、映画の配役との違いを、気が付くかぎり書いてみます。★映画の「さくら」は倍賞千恵子、テレビ版で「さくら」を演じた長山藍子は映画第5作「望郷編」でマドンナ「浦安の節っちゃん」を演じました。★映画の「おばちゃん」役は三崎千恵子、テレビの杉山とく子とは随分印象が違いますね。杉山とく子は映画第5作「望郷編」で、マドンナ節ちゃんの母親を演じました。★佐藤オリエの演じたマドンナの名前は坪内冬子さんでしたが、映画では坪内冬子さんは第1作のマドンナの名前で、「帝釈天題経寺」の御前様のお嬢さんだったのです(光本幸子が演じました)。佐藤オリエは第2作「続・男はつらいよ」でマドンナ「坪内夏子」を演じました。夏子の父親はテレビ版と同じ「坪内散歩」(散歩先生)で、この親子関係はテレビ版も映画も同じだったのです。★さくらの夫「諏訪博士」は映画では「諏訪博」、名前の読み方は同じで、「ひろし」です。テレビ版の「ひろし」の職業は「医師」、寅の嫌いなインテリです。演じたのは俳優座の井川比佐志、彼は映画では第5作「望郷編」では、マドンナ「浦安の節ちゃん」(長山藍子)の婚約者として登場します。浦安の節っちゃんの居間はテレビ版の「とらや」の居間と同じメンバーなのだ!★佐藤蛾次郎は、映画では帝釈天の寺男の「源公」(本名不明、大体は「源(げん)ちゃん」とよばれていた)を演じていましたが、テレビ版では、似た役柄とは云え、「川島雄二郎」という立派な役名があったのですね。この名前、後に佐藤蛾次郎が語ったところによれば、<当時、石原裕次郎の全盛期で、山田洋次から「名前だけは二枚目にしてやるよ」>と言われたそうですが、リュウちゃんは、日活映画「幕末太陽伝」で著名な映画監督「川島雄三」を連想しました。川島雄三は当初、松竹に入社、松竹で23本の作品を監督した後、昭和29年に松竹を退社、日活に移籍し、「愛のお荷物」、「洲崎パラダイス赤信号」、「幕末太陽伝」、などの喜劇の名作を残します。山田洋次が松竹に入社したのは、川島雄三が松竹を退社したのと同じ昭和29年でした。恐らく山田洋次は川島雄三を尊敬していたのだとリュウちゃんは思っています。その尊敬の念が佐藤蛾次郎の役名に繋がったと勝手に想像しているのです。(川島雄三監督)★映画ででは常連だった「帝釈天題経寺の御前様」、「裏の工場のタコ社長」がテレビ版では登場しません。以上、長くなってしまいましたが、もう2つだけテレビ版の興味のある事を書きます。★演出の小林俊一:テレビ版「男はつらいよ」全26作を演出(監督)した人物です。フジテレビのプロデューサー・ディレクター、渥美清を山田洋次に紹介した人物で、<「男はつらいよ」の生みの親>という存在です。また、渥美清が歌った主題歌「男はつらいよ」の作詞を星野哲郎に依頼した人物でもあります。映画では、巻頭のクレジットに「企画・製作」者として登場、第4作「新・男はつらいよ」では監督を務めました。★北島三郎の「喧嘩辰」:テレビ版では「寅さんの愛唱歌」として使われたようです。映画では、第1作「男はつらいよ」で、特に3番の歌詞が効果的に使われていました。以下に3番の歌詞を書いてみます(作詞:有近朱美、作曲:関野幾生)♪~殺したいほど惚れてはいたが指も触れずに別れたぜ浪花節だと笑っておくれケチな情けに生きるより 俺は仁義を抱いて死ぬ~♪以下に北島三郎のYou-Tubeを貼り付けます。<北島三郎「喧嘩辰」>→ここをクリック 以下、ネットから拾いましたテレビ版「男はつらいよ」の写真を何枚か貼り付けます。(さくらと寅さん)(「とらや」の居間)(マドンナと寅さん)(寅さん、ハブに噛まれる) <映画「男はつらいよ」のレギュラーメンバ->本ブログは、映画「男はつらいよ」の歴代のマドンナを紹介する目的で書き始めましたが、この「プロローグ」では、映画に登場する寅さんの周辺に人物を紹介させて頂きます。◎「おいちゃん」車 竜造、寅さんの叔父、草団子店「とらや」の主人、第1作~第8作「寅次郎恋唄」まで森川 信、第9作「柴又慕情」~第13作「寅次郎恋やつれ」までの5作は松村達夫、第14作「寅次郎子守歌」以降は下條正巳(しもじょうまさみ)が演じました。(森川 信のおいちゃん)(松村達夫のおいちゃん)(下條正巳のおいちゃん)◎「おばちゃん」車つね、おいちゃんの女房、映画では全作、三崎千恵子が演じました。(三崎千恵子のおばちゃん)◎「さくら」車 櫻→(結婚して)諏訪 櫻、寅さんの腹違いの妹、「とらや」の先代の主人・車 平造(竜造の兄)の娘で、平造夫婦が早世したため、叔父夫婦に寅さんと一緒に育てられました。映画では全作、倍賞千恵子が演じています。(倍賞千恵子のさくらちゃん)◎ひろし諏訪 博、「とらや」の裏にある旭印刷の技術主任、第1作でさくらと結婚し、「とらや」の居間のメンバーになります。映画では全作、前田 吟が演じています。(前田 吟のひろし)余談ですが、リュウちゃんの孫姫4姉妹のパパの名前も「ひろし」(愛称:ヒロ君)なのです。◎みつお諏訪満男、さくらと博の一人息子、寅さんの「甥っ子」です。第1作から第26作「寅次郎かもめ歌」までは1作(第9作「柴又慕情」)を除いて、「中村はやと」が幼い頃の満男君を演じました。しかし、中村はやとは俳優ではなく、素人でしたので、思春期からの満男を演じるのは、かなり難しいと判断したためか、昭和56年公開の第27作「浪花の恋の寅次郎」から後の満男君は全て吉岡秀隆が演じました。吉岡秀隆は昭和45年生まれ、映画の満男君は昭和44年生まれなので、ほぼ映画の満男君と実年齢が同じですね。吉岡秀隆は5歳で劇団若草に入団、昭和50年、東京12チャンネルの時代劇「大江戸捜査網」で子役デビュー(当時5歳)、映画デビューは7歳の時の「八つ墓村」(野村芳太郎監督、主役の名探偵・金田一耕助は何と、渥美清が演じたのです!)10歳の時に山田洋次監督の名作「遥かなる山の呼び声」に出演、倍賞千恵子の息子役を演じました。そして、11歳の時に「浪花の恋の寅次郎」で12歳の満男を演じたのです。(吉岡秀隆の満男、第27作「浪花の恋の寅次郎」より)◎タコ社長桂梅太郎(第1作では、小倉梅太郎、第6作では堤梅太郎???)「とらや」の裏にある小さい印刷工場「旭印刷」の社長、いつも税務署に追いかけられている中小企業の悲哀を一身に背負っている存在、お調子者ですが憎めない性格で、寅さんにいじられる役柄です。タコ社長を演じたのは太宰久雄、シリーズ全48作に出演しました。平成10年、胃癌で死去、享年74歳、その遺言は、「葬式無用。弔問供物辞すること。生者は死者のため煩わさるべからず。平成9年2月26日 太宰久雄」、だったそうです。(太宰久雄のタコ社長)◎御前様柴又帝釈天題経寺(たいしゃくてんだいきょうじ)の住職、姓は坪内、正式には日奏上人、この地域の人格者であり、寅さんも人生の師匠として尊敬しています。御前様を演じた「笠 智衆(りゅう ちしゅう)」は明治37年(1904年)生まれ、映画「男はつらいよ」第1作公開時点では65歳でした。以後、第45作「寅次郎の青春」まで、出番は少ないのですが連続出演しました。平成5年、88歳で死去、第46作「寅次郎の縁談」ではクレジットから彼の名前は消えてしまいましたが、映画の中では生きていることになっていました。ですから最新作「お帰り寅さん」では、笹野高志が笠 智衆に代わって御前様を演じたという次第なのです。(笠 智衆の御前様)笠 智衆は小津安二郎監督「東京物語」などで、世界的に著名な名優です。「寅さんシリーズ」が日本のみならず、世界的にも評価されたのは、笠 智衆のこのシリーズの出演が大きく寄与していると思われます。(小津安二郎「東京物語」、原 節子と笠 智衆)◎源公、源ちゃん題経寺の寺男、苗字不詳、名前は第1作から第3作までは「源吉」、第4作以降は「源公」、午前様は「源」、さくらやとらやの面々は「源ちゃん」と呼んでいます。大阪弁を話す風来坊で、いつの間にか題経寺に居付いてしまいました。第1作では寅さんに「何だい?、ありゃ~」といわれる不思議な存在でしたが、第2作以降は寅さんの舎弟のような関係になり、寅さんを「兄貴」と慕うことになります。演じたのは佐藤蛾次郎、第8作「寅次郎恋唄」を除く全作品に出演しています。(源ちゃん)<寅さんクラシック>テレビ版「男はつらいよ」でも、最終回の第26話、寅さんがマドンナに別れの挨拶に来るシーンで、マドンナの部屋にはショパンの「別れの曲」が流れていました。映画では第12作「私の寅さん」で寅さんがマドンナの岸 恵子に別れの挨拶に来るシーンで、同じシチュエーションでこの曲が使われたのです。 <ショパン:別れの曲(エチュードOp10-3)、演奏:辻井伸行>→ここをクリック映画「男はつらいよ」では、このように多くのシーンで、人情喜劇には一見、ミスマッチと思われるクラシック音楽が40曲以上も使われたのです。<山田洋次セレクション「寅さん」クラシック(CD)>平成6年1月1日、レコード会社「BMGビクター」(現在はソニー・ミュージック)から<山田洋次セレクション「寅さん」クラシック>というCDが発売されました。このCDには、映画で使われた11曲のクラシック音楽が収録されています。以下、収録されている11曲のタイトルと作曲者を挙げてみます。 (1) グリーグ:「ペールギュント」より「朝」→ここをクリック、以下同様(2) シューベルト:ピアノ五重奏曲「鱒」~第4楽章 (3) ヨハン・シュトラウス;ワルツ「春の声」(4) ヨハン・シュトラウス:ワルツ「ウィーンの森の物語」 (5) モーツアルト:クラリネット五重奏曲第2楽章(6) モーツアルト:ピアノ協奏曲第20番第2楽章「ロマンス」(7) ヴェルディ:歌劇「椿姫」より、第1幕への前奏曲 (8) ワーグナー:ワルキューレの騎行 (9) ベルリオーズ:幻想交響曲第5楽章 (10)モーツアルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク第1楽章(11)シューマン:トロイメライ(夢) このCDの「選曲・構成」をした山田洋次監督は、このCDに以下のような文章を寄せています。寅さんにはクラシックがよく似あう寅さんは「兄弟仁義」のような演歌の愛好者だが、その寅さんが腹巻に雪駄ばきでトランク片手に旅ゆく姿には、ヴィヴァルディやモーツアルトがよく似合う。寅さんシリーズに使用されたクラシックは40曲を超えると知ってびっくりしたが、劇中に演奏される映画音楽とクラシックの名曲が何の違和感もなく調和しているということは、映画音楽の作曲者である山本直純さんの音楽がいかに優れていいるか、ということの証明でもある。実はこのCD、リュウちゃんが企画してライナーノート(解説文)を書いたのだ!!!最近、各地で「寅さんクラシックコンサート」が開催されています。以下に平成29年3月5日に開催された愛知県・蒲郡市民会館で開催されwたコンサートのポスターを貼り付けます上記ポスターの下部に<国民的映画「男はつらいよ」で使用されたクラシック楽曲は40曲以上!>というサブキャッチが掲載されていますが、この「40曲以上」という表記は、リュウちゃんがCDを企画しました時に、シリーズ全作をビデオで観て調べ上げたもので、この曲名を全て入れた企画書が山田洋次監督に届けられ、結果、山田監督の「寅さんシリーズに使用されたクラシックは40曲を超えると知ってびっくりしたが、」という文章に繋がったという次第なのです。 リュウちゃんは、このポスターのサブキャッチの原案者なのだ!!!今回のプロローグ、またまた長大なブログになってしまいました。次回からはこのブログのタイトルのように、第1作から順に「マドンナ遍歴」をしてみたいと思っています。乞う、ご期待!!?
2020年02月06日
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ああ、リュウちゃんの永遠のマドンナ八千草 薫様が逝ってしまいました。リュウちゃんの「思春期」も終わりました。2019年10月24日、八千草 薫様が膵臓癌のためにお亡くなりになりました。享年88歳、年齢を重ねられても、何時までも娘時代と変わりないほんわかとした雰囲気と声を保ち続けていた稀有な女優さんでした。リュウちゃんが初めて薫様を観たのは、昭和36年にNHKで放映された単発テレビドラマ「三四郎」でした。このドラマは、夏目漱石の「三四郎」をドラマ化したもので、主人公の小川三四郎を石濱 朗(いしはまあきら)、三四郎のマドンナ・里見 美禰子を薫様が演じていました。何という美しい女性なのだ!何という上品な女性なのだ!何という可憐な女性なのだ!小川三四郎のマドンナは、このドラマ一発でリュウちゃんの「永遠のマドンナ」になったのです。このドラマ放送時に、薫様は30歳、リュウちゃんより15歳年上だったのです。残念ながらこのドラマの画像は、ネットにはありませんでしたので、後年リュウちゃんが衛星放送からコピーした1955年の映画「夏目漱石の三四郎」(中川信夫監督、山田真二主演)のテレビ画面から撮影した写真を以下に貼り付けます(綺麗に撮れませんでした。薫様には申し訳ない次第です)<映画「宮本武蔵」>八千草 薫様の代表作といえば、やはり1954年~1956年にかけて製作された稲垣 浩監督の「宮本武蔵三部作」です。この映画で薫様は、三船敏郎扮する武蔵をひたすら恋慕う「お通さん」を熱演されました。薫様芳紀23歳~25歳の時の名作です。尚、この映画の第1作は第28回アカデミー賞名誉賞(最優秀外国語映画)受賞しました。この映画の薫様の美しさは、以下の「予告編」でも十分に分かりますね。<映画「宮本武蔵」予告編> この映画が公開された時、リュウちゃんは8歳~10歳、小学校3年生~5年生でした。当時リュウちゃんは故郷の田舎の集落に毎月1回だけ来る「巡回映画」にハマていたのですが、ここで上映されるのは、大抵、東映のチャンバラ映画が殆どで、格調高い東宝映画は全くといっていい程、上映されませんでした。当時、ちょっとマセていたリュウちゃんは、主役の中村錦之助や東千代之助よりも、高千穂ひづるや桜町弘子、大川恵子などの「お姫様女優」により魅かれたのです。薫様の「お通さん」にお逢いしたのは、もっと先の話、だったのです。以下にネットから拾いました「お通さん」の画像を幾つか貼り付けます。<映画「旅はそよ風」>巨匠・稲垣 浩が「宮本武蔵」の1年前に製作したコメディ時代劇。この映画、リュウちゃんは未見なのですが、You-Tubeに以下の映像を見つけました。<映画「旅はそよ風」トレーラー>唄う薫様、素敵だ!薫様は元タカラジェンヌなので、当然、歌も歌える筈ですね。後出する映画「蝶々夫人」では、アリア「ある晴れた日に」を参考のために吹き込み、それを製作地のイタリアに送ったのだそうです。リュウちゃんは以前、「薫様の歌のレコード」をちょっと探したことがありましたが、残念ながらなかなか見つけることが出来ませんでした。でも、1曲だけ発見したのです!その歌は、1997年に日本コロムビアから発売された「SP盤復刻による日本映画主題歌集(11)戦後編(1953~1954)」というCDの10曲目に収録されていました。歌のタイトルは「旅はそよ風」映画に主演した大谷友右衛門とのデュエット曲だったのです。残念ながらYou-TubeにはUPされていませんでしたので、ここに貼り付けることは出来ませんが、興味のある方は上記CDをお買い求め下さいね。<映画「蝶々夫人」> (この写真は再掲)1954年公開、プッチーニの有名なオペラ「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」をそのまま映画にした日本・イタリアの合作映画で、撮影はイタリアの著名な「チネチッタ・スタジオ」で撮影され、薫様もこの映画の撮影のため、ローマに長期滞在しました。監督は「カルタゴ」、「ポンペイ最後の日」などで有名なカルミネ・ガローネでした。オペラ「マダム・バタフライ」を欧米の歌手で上演する場合、着物の着付けや日本の家屋などのセットがメチャクチャで、歌はともかく、日本人がこのオペラを観る場合、殆どはこの着物の着付けやセットのメチャクチャさに気を奪われて素直に楽しめない、という状況がありましたので、この映画は、そのあたりを正すために、薫様を蝶々夫人を演じてもらったという企画意図があったようです。尚、薫様はタカラジェンヌとして歌を歌う経験があったとはいえ、このタイトルロールを歌いきることは不可能と判断されたのか、薫様の歌うシーンはイタリアのソプラノ歌手・オリエッタ・モスクッチによって吹き替えられました。リュウちゃんがこの映画を観たのは、ごく最近です。衛星放送で放映されたものをDVDで録画して、やっと観るこのが出来ました(この時に上述の「三四郎」と「若い瞳」も録画することが出来ました)。以下に、テレビから撮った「蝶々夫人」の写真を何枚か貼り付けます(綺麗に撮れませんでした。薫様には申し訳ない次第です)リュウちゃんの映画の感想と致しましては、「薫様は期待通りの美しさだったが、吹き替えたモスクッチの「歌」と可憐な薫様とが全くシンクロせず、映画としてはガッカリ、声が細くても、アリアだけでも薫様本人が歌って欲しかった」です。(余談)チネチッタ・スタジオで「蝶々夫人」が製作される2年前、このスタジオではオードリー・ヘプッバーン主演の「ローマの休日」が製作されました。(オードリー・ヘプバーン)オードリー・ヘプバーンは昭和4年生まれ、薫様より2歳年上です。薫様がチネチッタで「蝶々夫人」を撮影した時の年齢は23歳頃、ということはヘプバーンがチネチッタで「ローマの休日を撮影した時の年齢も、23歳頃ということになりますね。リュウちゃんは高校生の時に劇場で「ローマの休日」を観て、一遍にヘプバーンのファンになりました。。この頃は薫様とヘプバーンはリュウちゃんの「2大ディーバ(女神)」だったのです。丸顔、つぶらな瞳、絵に描いたような清純無垢の容姿、若い頃の薫様とヘプバーンはよく似ている!<映画「男はつらいよ~寅次郎夢枕」>昭和47年に公開された「寅さんシリーズ」第10作目の映画です。薫様はこの映画で、マドンナの「お千代さん」を演じました。映画公開時に薫様は41歳。結果、歴代最年長のマドンナとなりました(第18作、「寅次郎純情詩集」のマドンナ、京マチ子は薫様より7歳年上なのですが、この映画は単一のマドンナではなく、壇ふみ演じる雅子先生との2人マドンナだったのです) <映画「男はつらいよ~寅次郎夢枕」トレーラー>例によりましてネットからお借りしました写真を貼り付けます。リュウちゃんは「寅さんの大ファン」で、この時期、公開された9作品は全て劇場で複数回観ていたのですが、憧れの薫様がマドンナを演じるとあって、勇んで公開初日にこの映画を観に行きました。この映画、劇場のスクリーンで初めて薫様にお目にかかった記念すべき映画になりました。「お千代」さんは寅さんの幼馴染、離婚して、「とらや」の向かいで美容院(寅に言わせれば「パーマネント屋」)を営む中年女性、小学生の息子がいるのですが、親権は相手方に渡っていて滅多に会えない、たまに息子が訪ねて来ても会える時間はほんの少し、会ったあと、涙をボロボロこぼして美容院に帰ってきますが、寅たちがそれを慰める、といったシーンが印象に残りました。役柄の上か、ちょっとやつれたメーキャップでの映画出演だったのですが、それでも歴代マドンナの中では「最高ランクの美女」なのでした。今年の年末、「男はつらいよ~お帰り寅さん」という新作が公開されます。 <男はつらいよ~お帰り寅さん」予告映像>山田洋次監督によれば、「お千代さん」もこの映画に登場するとのこと、寅さん大ファンのリュウちゃん、今から大期待して封切りを待っているのです。(余談)リュウちゃんに長女が生まれた時、薫さまの本名をそのまま平仮名にして命名しました。また長男が生まれた時には、「お千代さん」の息子の役名をそのまま命名したのです。<映画「田園に死す」>昭和49年に公開された寺山修司原作・脚本・監督による前衛映画です。 <映画「田園に死す」予告編>薫様はこの映画で、人妻「化鳥(けちょう)」を演じています。化鳥である薫様は、主人公の少年と「駆け落ち」するのですが、途中、別の男と「情死」してしまうのです。「化鳥」とは、「怪しい鳥」、「不気味な鳥」の意ですが、この映画の「化鳥」は泉鏡花の小説「化鳥」に登場する「羽の生えた美しいおねえさん」の意味だと思われます。狂人のような人ばかり登場するこの映画で、薫様の演じた「化鳥」は、正に一服の清涼剤、掃き溜めに鶴、のような感じがしました。<映画「ディア・ドクター」>2009年に公開された西川美和監督の映画、笑福亭鶴瓶の初めての主演映画、この映画は大変評判になり、同年のキネマ旬報の日本映画ベスト1位、日本アカデミー賞で10部門受賞など、数々の映画賞に輝きました。薫様はこの時78歳、薫様もこの映画で、毎日映画コンクールで助演女優賞をはじめ、数々の賞を受賞しました。<映画「ディア・ドクター」予告編>この映画で薫様は、映画の舞台となった小さな村で一人暮らしをしている未亡人、鳥飼かづ子を演じました。かづ子が鶴瓶ドクターの診察を自宅で受けるシーンで、リュウちゃんはウルウルしてしまいました。あのやんごとなき薫様がこともあろうに鶴瓶ドクターに胸をはだけて診察を受ける、何ということだ!薫様は、実年齢相応の未亡人を演じていたのですが、リュウちゃんは年零を超越した上品で清潔な女性の「色気」を感じてしまい、ために診察シーンでウルウル・ウロウロしてしまったのです。薫様の上品で清潔な色気は永遠に不滅なのだ!薫様の経歴を見ますと、「映画人」というよりは「テレビ人」なのですね。リュウちゃんは、テレビドラマは殆ど観ない人間なので、残念ながら薫様の出演したテレビドラマについては語る資格がありませんので、全て割愛いたします。<エッセイ「優しい時間」>1999年11月に発売された薫様の初のエッセイ集です。宝塚時代のこと、「蝶々夫人」の撮影で、イタリアに行った時のこと、夫の谷口千吉監督との山歩きのこと、愛犬のこと、、などを淡々と綴った50編のエッセイ集です。リュウちゃん、このエッセイ集は発売直後に購入し、今でも愛読しているのです。<朗読CD「きりんのなみだ」>2003年に発売した朗読CDです。このCDはリュウちゃんの在籍していたレコード会社から発売され、しかもこのCDをプロデュースしたのがリュウちゃんの一年先輩の畏友アッちゃんだったのです!薫様はこのCDのプロモートのため、一日だけ銀座の山野楽器本店の店頭でサイン会をされたのです。その時リュウちゃんは制作とは別のセクションに在籍していたのですが、デスクワークをホッぽり出して、サイン会を観に出掛けたのです。初めてお逢いした薫様、スクリーンと同じように清楚で可愛い女性でした!リュウちゃん、大感激!尚、サイン会の前にアッちゃんにお願いして、前出の「優しい時間」の表紙の裏に薫様の直筆サインを頂きました。この直筆サイン本、今ではリュウちゃんの「最高のお宝」なのです!薫様が歌っているCMを発見!下記の「皇潤 数え唄」です(映像は「田園に死す」から薫様の出演シーンをピックアップして使っています。やはり薫様の化鳥は美しい!)<皇潤 数え唄(皇潤CM)> 薫様の歌はひたすら優しい!リュウちゃんも「皇潤」飲んでみようかな?
2019年11月04日
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人恋うは悲しきものと平城山に もとほり来つつたえ難かりき古へも夫(つま)に恋ひつつ越えしとふ平城山(ならやま)の路に涙おとしぬ(北見志保子:「平城山」)<ヒシアゲ古墳(磐之媛命陵)><秋篠寺から平城山(ならやま)へ~奈良市の「歴史の道」散策(上)の続きです>山上(やまがみ)八幡神社」から、近鉄西大寺駅前を経由して、平城宮跡に向かいました。午後1時ジャスト、道の右前方に、平城宮跡の「大極殿(だいごくでん)」が見えてきました。「大極殿」の裏の入口から殿内に入ります(入場無料)「大極殿」は天皇の即位や外国使節との面会など、国の最も重要な儀式に使われた宮殿です。<鴟尾(しび)のレプリカ>大極殿の屋根の大棟(一番上)の両端に付けられた飾りの一種です。鴟尾は大体、「鯱(シャチ)」(頭は虎、姿は魚という空想上の動物)の形が多いのですが、この鴟尾の形は鯱を抽象化したような造形になっています(高さ2m)。尚、鴟尾は「火除け」の意味があったそうです。<高御座(たかみくら)>国家儀式の際に天皇が着座した玉座です。平城宮の高御座の構造や意匠の記録はありませんので、京都御所の紫宸殿に常設されている大正天皇即位の時に作られた高御座を参考にして作られたのだそうです。<日本画家・上村淳之の壁画>「高御座」の上部の壁には、前回のブログで紹介しました日本画家・上村淳之(あつし)の「四神」と「十二支」の壁画が描かれています。壁画は全36面、上村淳之76歳~77歳の時の作品です。大作とは云えないが見事な壁画、大極殿が続く限り、壁画も永遠に残るのだ!(「白虎」を描く上村淳之)「大極殿」の南側は、壁のない開放された空間です。南西側には、金剛山系の山並みが見渡せます。真南には「朱雀大路」が通っていて、以前には「朱雀門」が一望出来たのですが、今は大極殿と朱雀門の間に、「南門」を新しく造成工事中でした。東側には、隣接して「第2次大極殿跡地」があり、その向こうに「若草山」が迫っているのです。午後1時30分、造成工事中の「南門」の近くの休憩所で遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!抜けるような青空、秋爛漫だ!<第2次大極殿>午後2時。遅い昼食を終え、「大極殿」の東隣りにある「第2次大極殿跡地」に立ち寄りました。<第1次大極殿と第2次大極殿>平城宮跡には、「第1次大極殿」と、「第2次大極殿」の2つの「大極殿」があったのです。何故、大極殿が2つもあったかといいますと、聖武天皇は在位中の740年から745年にかけて「第1次平城京」~「恭仁(くに)京(京都府木津川市)」~「難波京(大阪市)」~「紫香楽(しがらき)京(滋賀県甲賀市)」~「第2次平城京」と、5回も遷都したため、遷都前と遷都後の平城京の場所がずれたのです。現在では、遷都前の大極殿を「第1次大極殿」、遷都後の大極殿を「第2次大極殿」と呼んでいます。「第1次大極殿」は再建されたが、「第2次大極殿」は再建されるのかな?<平城山(ならやま)へ>「大極殿」の北側の小道を北東に実かいますと、そこは「平城山(ならやま)」です。奈良市に、「平城山」という名前の「山」があるの?と、リュウちゃんも以前は思っていたのですが、実際の平城山は「山」ではなく、平地から80m位標高の高い「丘陵」で、正式には「平城山丘陵」なのだそうです。今回の散策の目的地、「磐之媛命陵」、「コナベ古墳」、「ウワナベ古墳」は、皆、「平城山」にあるのだ!<八上(ハジカミ)池>「平城山」の入口にある大きい池です。池の中央に2つの小さな島があり、水鳥の休憩場所になっています。池の名前の由来は、奈良時代にこの辺りに住んでいた土師(はじ)氏(古墳の埴輪を制作した一族)から来ているようです。八上池の傍に立つ「歴史之道」の碑です。リュウちゃんは右の矢印の「磐之媛(いわのひめ)陵」に向かいます。リュウちゃんにとりましては、上掲の「歴史之道」の石碑から「平城山」が始まるのです。石碑から「磐之媛陵」までは、奈良市内にあるとは思えないほどの「田舎の山里」なのです。<佐紀盾列古墳群の東端の空中写真>以下にリュウちゃんがこれから散策する「佐紀盾列(たてなみ)古墳群」の東端の空中写真をウィキペディアからお借りして貼り付けます。上掲の写真で、左下の長方形で囲われたところが「平城宮跡」です。写真の最上部にある前方後円墳が「磐之媛(いわのひめ)陵」とされている「ヒシアゲ古墳」(全長219m)、その斜め右下の前方後円墳は「コナベ古墳」(全長204m)、コナベ古墳の右横の池の中にある前方後円墳が「ウワナベ古墳」(全長255m)です。「コナベ古墳」の右側にある台形上の大きな「池」は、奈良市最大のため池である「水上(みずかみ)池」です。周囲1,5kmの「水上池」は、日本書紀によれば、奈良時代のずっと以前に造られ、奈良時代には「奈良の水瓶」だったようです。写真の上から下までS字型に貫く道路は「国道24号線」で、写真上部は京都へ、下部は和歌山に通じています。写真下部を左から右下に貫いているのは「近鉄奈良線」で、右端の途切れた先には「近鉄奈良駅」がある奈良市の中心部なのです。<磐之媛(いわのひめ)陵>これまで辿って着た小道の右横に、更に整備された小道が続いています。この小道が「磐之媛竜」の正面に出る道なのだ!通常の天皇陵の正面には、こんな風情のある長い道はありません。道の脇の池には、水連らしい水草が浮いています。また、道の両脇には、松や針葉樹が整然と植えられているのです。「磐之媛竜」の正面に出ました。ここは、平井庚三郎の名歌曲「平城山(ならやま)」が生まれた「聖地」なのだ!<歌曲「平城山」>先ず、以下に貼り付けた2つのYou-Tubeをクリックして聴いてみて下さい<歌曲「平城山」(独唱)鮫島有美子><女声合唱「平城山」:いずみの会女声合唱団>この歌、60年前、リュウちゃんが高校に入学し、混声合唱部に入り、初めて歌った「懐かしい歌」なのです。以後、リュウちゃんの心の中で、「屈指の名曲」として定着しました。最近、地元の公民館で「歌声クラブ」を指導していますが、ここでもこの歌を採り上げ、歌っているのです。詞として採り上げられた短歌は、高知県宿毛(すくも)市出身の女流歌人・北見志保子です。ここで、このブログの冒頭に掲げた北見志保子の短歌2首を改めて以下に貼り付けます。人恋うは悲しきものと平城山に もとほり来つつたえ難かりき(現代語訳)「人を恋することは哀しいものだと平城山を巡りながらつくづく感じ、耐え難い思いがした」。「もとほり来つつ」の「もとほり」は古語の「もとほる」の連用形で、「廻る、巡る、さまよう」の意です。古(いにし)へも夫(つま)に恋ひつつ越えしとふ平城山(ならやま)の路に涙おとしぬ(現代語訳)「昔の人も恋焦がれつつ越えたという平城山の道で、私は涙を落した」「夫(つま)」はここでは夫(おっと)のことです。「越へしとふ」の「とふ」は、「~という」の意味になります。「古へも」の「昔の人」は、「磐之媛」のことです。磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后として難波高津宮(なにわのたかつのみや、現在の近鉄上本町駅付近)の宮中に住んでいましたが、ある時、磐之媛が宮中を留守にしていた間に、仁徳天皇は異母妹の「八田皇女(やたのひめみこ)」を宮中に迎えます。これみ激しく嫉妬した磐之媛は以後、宮中には二度と戻らす、平城山に近い「筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅付近、後に第26代継体天皇が皇居にした所)に移り、同地で没したのです。「筒城宮」に移った後も、仁徳天皇への思慕は変わらず、しばしば。生駒山(生駒山の向こう仁徳天皇の住んでいる難波高津宮があります)の見える平城山に通ったようです。北見志保子は明治18年生まれ、一時は与謝野晶子と並び称せられる歌人だったようです。大正2年に同郷の歌人・橋田東声と結構しますが、結婚後7年目の大正9年、夫の東声の弟子で、12歳年下の慶応大学生・浜 忠次郎と恋に落ちてしまいます。それを知った浜家では、二人の縁を断ち切るべく、忠次郎をフランスに留学させてしまいます。北見志保子は恋人の浜 忠次郎がフランス留学中の大正9年に磐之媛陵を訪れ、この短歌を詠んだようです。最初の「人恋うは~」の歌は、フランスに留学してしまった浜 忠次郎へのせつない想いを、「古へも~」は、自らの境遇を、仁徳天皇を慕う磐之媛になぞらえて詠んだものであると思われます。昭和10年に作曲された平井庚三郎の曲も、北見志保子の心情を余すところなくメロディにしていて、「永遠の名曲」だとリュウちゃんは思っているのです。(筒城宮を訪問した北見志保子)<水上池>「磐之媛陵」から、「水上池」を一周しました。池の畔の民家の庭には、様々な秋の花が咲いていました。池の周囲の1,5kmの小道は、「奈良市民の散歩道」として良く整備されていて、快適な散策になりました。<コナベ古墳>「水上池」の隣にある「コナベ古墳」も一周しました。「コナベ古墳」は奈良市法華寺町にある全長204mの巨大前方後円墳です。上掲の写真でお分かりのように、四方を池に囲まれていて、まるで「離れ小島」です。天皇陵には必ずある「拝所」らしきものは無く、正式参拝は出来ないようです。「コナベ古墳」は誰の墓所なのか?ウィキペディアによりますと、以前は「磐之媛」の陵に治定(じじょう)されていたようですが、現在、「磐之媛陵」は、前述した「ヒシアゲ古墳」に治定されていますので、「コナベ古墳」は、「磐之媛募陵参考地」に治定されているようです。(※)「天皇陵の治定」:「治定(じじょう)」とは、天皇陵を推定することです。現在、その陵が明らかにその天皇陵であると確実視されているのは、平城京に遷都した第43代・元明天皇(女帝)以降の天皇だけで、前方後円墳のような巨大古墳時代の天皇陵は、殆ど特定されていません。幕末の尊王攘夷、明治の王政復古により、天皇陵の特定が必要になり、当時の宮内省により天皇陵の特定が進められましたが、巨大古墳は墓誌もなく、文献による証拠は何一つありません。なので、8世紀に書かれた「古事記」、「日本書紀」などの記述を手掛かりに、特定しようとしたのが、現在は「天皇陵の治定」なのです。「治定」は「確定」ではなく、あくまでも「推定」の域を出ないものですから、様々な新しい証拠により、「治定」を覆す事例が続出しているのです。磐之媛は墓所が2つある!???「ヒシアゲ古墳」と「コナベ古墳」、どちらが本当の墓所なのだ?それとも、両方とも本当の墓所ではないのか?謎は深まるばかりなのだ!<ウワナベ古墳>奈良市法華寺町にある「ウワナベ古墳」は「コナベ古墳」と「航空自衛隊幹部候補生学校」を間に挟んだ東側にあります。本ブログ(上)では、「ウワナベ古墳の全長を255mで、全国第13位の巨大前方後円墳」だと紹介しましたが、「ウワナベ古墳」のウィキペディアに拠りますと、「2020年11月に再計測の結果、全長は約280m」と修正されたようです。全長280mの巨大前項後円墳、これは「佐紀盾列古墳群」では、「神功皇后陵」よりも大きい古墳なのだ!「ウワナベ古墳」も「コナベ古墳と同じように、池の真ん中にあり「離れ小島」なのです。「ウワナベ古墳」の被葬者は誰なのか?ウィキペディアに拠りますと、「仁徳天皇の皇后である八田皇女(やたのひめみこ)の陵墓参考地として治定されている」とのこと、八田皇女といえば、磐之媛に代わって難波高津宮の仁徳天皇の皇后になった女性の筈だ!何故、磐之媛の陵の近くに陵があるのか?摩訶不思議???としか言い様がない!もう一つ、ダメ押しの疑問、前回のブログで「佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群」に含まれる6基の巨大古墳の内、「神功皇后陵」、「成務天皇陵」、「日葉酢媛陵」の3基は「佐紀町」ではなく、「山陵(みささぎ)町」にあると書きましたが、今回書きました三つの古墳の内、佐紀町にあるのは「磐之媛陵」ただ1基、「ウワナベ古墳」「コナベ古墳」は「奈良市法華町」にあることが判りました。「佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群」にある6基の巨大古墳の内、奈良市佐紀町のある古墳は。「磐之媛陵」ただ1基のみなのだ???これも摩訶不思議???としか言い様がありませんね。もう午後4時を過ぎた。そろそろ帰ろう。ちょっと疲れましたので、「ウワナベ古墳」のすぐ近くにある定期バスに乗ろうかと思いましたが、やはりJR奈良駅まで歩いて帰りました。午後5時ジャストにJR奈良駅到着、朝9時15分に近鉄「西大寺」駅を出発してから、途中、30分の昼食休憩を除いては、7時間余の「歩きっぱなし」の散策旅でした。家に帰ってから、腰に付けた万歩計を見ましたところ、歩数は49222歩!惜しい!もう少しで5万歩だったのに、ーーーーーーーーーー<特報>藤井聡太3冠、将棋界最高のタイトル、竜王位を獲得、4冠になる!(竜王戦第4局で勝利した直後の藤井4冠)11月13日夕方、藤井聡太3冠が豊島将之竜王に勝利し、将棋界のタイトル「竜王」を獲得、これにより「4冠」となり、将棋界の序列第1位になりました。リュウちゃんはこの対局をずっとアベマTV将棋チャンネルのライブ中継で観ていたのですが、終局間近の、もう豊島竜王が「投了」するしかないという場面の藤井3冠の表情に注目しました。もうすぐ「竜王」になるというのに、何たる沈痛で、今にも泣き出しそうな表情なのだ!上掲の写真はデイリースポーツ紙に掲載されたものですが、この写真は、豊島竜王が投了した瞬間の藤井3冠ですね。まるで号泣寸前。こんな悲痛な表情をした勝者を見るのは初めてだ!この悲痛な表情が何を意味するのか?これは藤井4冠本人にしか判らないことですが、リュウちゃんは藤井4冠の人間的な成長を、この表情から感じ取ったのでした。明けて最高の14日の記者会見には、前日の沈痛な表情とは打って変わって、爽やかな表情で臨みました。昇竜・藤井聡太4冠、これからも異次元の活躍を期待しています!
2021年11月14日
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16歳のひばりちゃん、この年は、「マドロス歌謡」元年だったのだ!(マドロス姿のひばりちゃん)(まえがき)今回はひばりちゃんの16歳の時に発売された楽曲について書いてみます。16の時の歌は、昭和28年5月29日から昭和29年5月28日の間に発売された歌です。具体的には「唄祭り八百八丁<78番>」ら「母恋い扇<107番>」までの29曲です。(洋楽事始めの年・民謡事始めの年)上記、29曲は、リュウちゃんが持っている35枚組の「美空ひばり大全集」に収録されている曲数なのですが、ひばりちゃんは16歳の時から「洋楽」のレコーディングを開始しました。昭和28年6月1日発売の「上海/エル・チョクロ」を皮切りに、16歳の時だけでも、「アゲイン」、「チャルメラそば屋」、「ゆうべはどうしたの」、「ンゴに二人を」、「スターダスト」、「ジングルベル」と、計8曲の「洋楽」をリリースしています。ひばりちゃんの「洋楽」は、オリジナルの英語などの歌詞に、一部に日本語の訳詞を入れたスタイルでロ幾音されています。一例として、以下に「ジングルベル」の動画を貼り付けます。<美空ひばり「ジングルベル」>→ここをクリック(以下同様)また、この年には、初の民謡として、「会津磐梯山」と「茶切節(ちゃっきりぶし)」の2曲を発売しました。<美空ひばり「茶切節」>民謡といいましても、「茶切節」は、昭和2年に(詞):北原白秋、(曲):町田佳声(かしょう)のコンビによって作られた「新民謡」なのです。昭和6年、鶯芸者の「市丸(いちまる)」の歌唱でビクターからレコードが発売され、大ヒットしました。<市丸「茶切節」>(市丸)「会津磐梯山」は、「茶切節」とは違って、古くからあった「古民謡」なのですが、こちらもビクターの鶯芸者であった「勝太郎」の歌唱によるレコードで全国的にヒットしました。ひばりちゃんの民謡は、コロムビアのライバルだったビクターの市丸、勝太郎への挑戦だったのか?という次第で、16歳のひばりちゃんは、邦楽29曲、洋楽8曲、民謡2曲の計39曲のレコードを発売することになりました。16歳の時に公開された映画も、全て主演作で、9作品が公開されています。1年間で主演した映画が9本!レコーディングした歌が39曲!これじゃ、高校に通っている暇が無い!さて、楽曲に入ります。(34)<78番>「唄祭り八百八丁」<唄祭り八百八丁>★発売日:昭和28年6月1日、★作詞・西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひばり捕物帳 唄祭り八百八丁」主題歌、★カラオケあり、★評点:A<映画「ひばり捕物帳 唄祭り八百八丁」、51分バーション>この歌、「お祭りマンボ」に続くひばりちゃんの「お祭りソング」第2弾なのですが、言葉の「切れ味」が小気味よく、リュウちゃんも大好きな歌なのです。リュウちゃんと同年配の近所のカラオケ店のオバサン曰く。「お母さんが好きだった歌」、オバサンのお母さんと云えば、生きていれば今年100歳!リュウちゃん、まだまだ青二才なのだ!(35)<番外>「上海」<上海>★発売日:昭和28年6月1日、★作詞:B.Hilliard|M.Delugg、日本語詞:奥山靉(あい)、★カラオケ無し、★評点:A、ひばりちゃんの初めてのジャズ(洋楽)のレコーディングです(この歌は35枚組の「美空ひばり大全集」には収録されていませんので、<番外>となります)この歌は、アメリカの人気女優で歌手のドリス・ディが昭和26年に29歳の時にリリースしました.(ドリス・ディ)<ドリス・ディ「上海>以下の冒頭の英語の歌詞を挙げてみます。♪~Who's gonna kiss me?Who's gonna thrill me?Who's gonna hold me tight tonight?Why did I tell you I was goin' to Shanghai?I wanna be with you tonight.Why did I holler I was goin' to Shanghai?~♪この冒頭の部分、ひばりちゃんの歌唱と、ドリス・ディの歌唱を聴き比べてみて下さい。どちらがドリス・ディで、どちらがひばりちゃんか、、英語の部分だけ聴いた限りでは、区別がつかない!リュウちゃんは英会話が全く出来ない人間ですが、以前、知人の英語ペラペラのジャズ評論家に、ひばりちゃんの「上海」の英語について問い合わせたことがあります。知人曰く。「<上海>のひばりの英語は、ネイティブの英語のように聞こえる」とのことでした。英会話が出来なかったひばりちゃんが、ネイティブと同じ発音で歌える!奇蹟だ!おそらく、ひばりちゃんは、ドリス・ディの「上海」を繰り返し聴き、耳でこの歌を完全に自分のものにしてしまったのでしょうね。美空ひばりオフィシャルサイトによりますと、ひばりちゃんは3歳の時に、小倉百人一首を殆ど暗記してしまったようですが、このエピソードも、ひばりちゃんの「異常ともいえる耳の良さ」を示しています。ひばりちゃんの「上海」のB面曲は、スペイン語の「エル・チョクロ」で、この歌もひばりちゃんは後半でスペイン語で歌っています。こちらは確認していないのですが、おそらく、スペイン人が聴いたとすれば、ネイティブなスペイン語だと思うのではないかと思っています。<美空ひばり「エル・チョクロ」>ひばりちゃんの洋楽ネイティブの歌手と遜色のない仕上がりなのだ!(36)<84番>「チャルメラそば屋」<チャルメラそば屋>★発売日:昭和28年8月10日、★作詞作曲:ボビー・ノートン、日本語訳詞:奥山靉、★カラオケ無し、★評点:A、35枚組の「美空ひばり大全集」に収録された唯一の洋楽曲です。邦楽オリジナル曲オンリーの筈の「大全集」に、何故、1曲け洋楽曲が収録されたのか?実はリュウちゃん、今の今まで、てっきりボビーノートンはアメリカの著名なカントリー・シンガーで、「ャルメラそば屋(Soba Song)」もアメリカで録音され、日本も聴かれるようになった歌だと思っていたのですが、下記のボビー・ノートンの「チャルメラそば屋」の動画を見ました所、このレコードのレード番号が「JL-47番」であることが分かりました。<ボビー・ノートン「チャルメラそば屋」オリジナル>「LJL-47」番!この「JL」は、当時の日本コロムビアの、主として邦人アーティストが「洋楽」を吹き込む時に使われた記号なのだ!因みに、ひばりちゃんの「上海」以前のレコード番号は、全て<A-○○番>というレコード番号になっています。例えば、デビュー曲の「河童ブギウギ」は、「A-570」番、「唄祭り八百八丁」は「A-1696」番、といった具合です。ひばりちゃん初の「JL」曲は上述の「上海」で、レコード番号は「JL-41」番なのです。このことからから考えますと、恐らくボビー・ノートンは、当時、日本に滞在していたアメリカ人で、何らかの機会に、日本コロムビアで「チャルメラそば屋」をレコーディングし、それが、ひばりちゃんの「洋楽」にピッタリだということで、ひばりちゃんの「洋楽第2作目」の曲として採り上げられたのではないかとリュウちゃんは推測するのです。それにしても、ひばりちゃんの謳い回しは、お見事!ですね。(37)<85番>「山葡萄実る頃」(映画「山を守る兄弟」、北上弥太郎と美空ひばり)<山葡萄実る頃>★発売日:昭和28年9月15日、★作詞:西條八十、作曲:米山正夫、★映画「山を守る兄弟」主題歌、★カラオケ:一時あり、★評点:A、<映画「山を守る兄弟」62分版>♪~あ~~~~~~甲斐は山国 笛の音がふもとにひゞく 秋祭り雲は流れる 夕日は落ちる山の葡萄も赤くなる~♪清新な抒情歌です。おそらく、この歌は、後年、美空ひばりもステージで歌うことは無く、ひばりファンにも注目されることも無く、歴史の中に埋もれてしまった「幻の名曲」なのですね。勿論、リュウちゃんも「大全集」で初めて聴いた曲です。聴いた当初の印象は薄かったのですが、何回も聴く内に、歌の良さがジワジワと胸に迫って来たのです。レーザーディスクの時代、カラオケがあり、近所のカラオケ店で一度だけ歌ってみたことがありますが、やはり胸が締め付けられるような感動を覚えたのです。リュウちゃんにとっては、「山葡萄実る頃」は、「津軽のふるさと」を上回る感動の抒情歌なのだ!(38)<88番>「可愛いティティナ」<可愛いティティナ>★発売日:昭和28年12月10日、★作詞・作曲:米山正夫、★カラオケ無し、★評点:B、このレコードは「洋楽」として、「JL-69」番というレコード番号で発売されましたが、米山正夫の作詞作曲で、ひばりちゃんのオリジナル曲なのです。タイトルの「可愛いティティナ」、はて、「ティティナ」という名前、どこから来たのだろう?昭和13年、日本でチャップリンの名作「モダン・タイムス」が公開されました。この映画の中で、チャップリンは、「ティティナ」という意味不明な歌を自らの肉声で披露しました。<チャップリン「モダン・タイムス」より、「ティティナ」>チャップリンの「ティティナ」、リュウちゃん、今の今まで、てっきりチャップリン自らが作詞作曲したオリジナル曲だと思い込んでいたのですが、実はこの曲は大正11年(1922年)、ロシア系フランス人の作曲家、レオ・ダニダーフによって作曲された「フランスの流行歌」だったのですね。この歌は「モダン・タイムス」公開以前にかなり流行したようで、日本では「羽衣(はごろも)歌子」という歌手によって、昭和6年にレコーディングされました。<羽衣歌子「ティティナ」、昭和6年発売>また、昭和28年には、生田恵子という歌手の「東京ティティナ」という、歌詞のみを替えた「ティティナ」のレコードがビクターから発売されました。(生田恵子)<生田恵子「東京ティティナ」>ひばりちゃんの「可愛いティティナ」は、オリジナルの「ティティナ」とは全く違う、米山正夫のオリジナル曲です。ちょっとロシア民謡の「カチューシャ」などを思い起こす歌ですね。(40)<89番>「ただ何となく」<ただ何となく>★発売日:昭和28年12月10日、★作詞・作曲:米山正夫、★「可愛いティティナ」のB面曲、★カラオケ無し、★評点:A、「可愛いティティナ」のB面曲です。タイトルのように、何気ない歌ですが、エレガントで、リュウちゃんにとりましては好ましい歌なのです。(41)<92番>「楽しい日曜日」<楽しい日曜日>★発売日:昭和29年1月15日、★作詞:松坂直美、作曲:万城目 正、★映画「お譲さん社長」挿入歌、★カラオケ無し、★評点:A、<映画「お譲さん社長」1時間1分バージョン>上掲の映画「お譲さん社長」の中で、映画のストーリーとは全く関係のない歌として歌われます(上掲の映画の7分40秒から歌が始まります)1番の歌詞は以下です。♪~みどりのそよ風甘く うちつれ道ゆく人の 軽い足どりも なぜかしら夢さそう 楽し日曜 嬉し日曜 さあさ行こうよランララ~ 山越え野越え~~♪昭和♪20年代、日本の公官庁や大企業では、週休1日半(半ドン)が当たり前でした。公官庁や大企業で、「完全週休2日制」が定着したのは、昭和55年以降なのです。それだけに週に一度の日曜日は、サラリーマンにとりましては、週休2日制になった現代よりも遥かに「貴重な休日」だったのですね。上掲の歌詞には、「貴重な休日」の楽しさが、よく表現されていると思います。しかし、歌詞の楽しさとは裏腹に、メロディは短調で付けられていて、何やら物悲しい感じです。「貴重な休日」の翌日には、厳しい仕事の月曜日、月曜日のことを考えると、憂鬱になる。ということを、このメロディは表現していると、リュウちゃんは思っているのです。この歌詞は、藤山一郎の「丘を越えて」を思い起こす部分があります。<藤山一郎「丘を越えて」>「丘を越えて」は底抜けに明るい歌ですが、ひばりちゃんの「楽しい日曜日」は陰影の濃い、少しメランコリックな歌です。でもリュウちゃんは、断然、「楽しい日曜日」が好きなのです!(42)<94番>「ひよどり草紙」(映画「ひよどり草紙」の中村錦之助と美空ひばり)<ひよどり草紙>★発売日:昭和29年1月20日、★作詞:西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひよどり草紙」主題歌、★カラオケ無し、★評点・B、<映画「ひよどり草紙」、55分バージョン>かって「東映チャンバラ映画」の若手スターとして絶大な人気を誇った中村錦之助(後の萬家錦之助)の映画デビュー作です。中村錦之助は昭和7年生まれ、ひばりちゃんより5歳年上で、映画出演時には21歳の青年でした。歌舞伎界の御曹司で、4歳から歌舞伎の舞台に立っていましたが、なにしろ四男坊だったので、当時は歌舞伎で主役級の役者になることは至難の業だったようで、人気がありながら端役に甘んじていました。そこに美空ひばりの新芸術プロダクションから映画出演のオファーを受け、歌舞伎界から映画界に転出、「ひよどり草紙」が映画出演第1昨となり、この映画は松竹で配給されました。リュウちゃんも幼い頃は中村錦之助のチャンバラ映画の大ファンだったのですが、リュウちゃんが錦ちゃんのチャンバラ映画を初めて観たのは,「ひよどり草紙」の10か月後に公開された東映の「紅孔雀(第1部)」だったのです。中村錦之助は、ずっと東映の大スターだと思っていたが、デビュー映画は松竹だったのだ!中村錦之助は、昭和29年2月10日封切りの松竹映画「ひよどり草紙」で映画デビューの後、同年3月24日封切りの新東宝映画「花吹雪御存じ七人男」に出演、その後、東映に移籍し、同年4月27日には、早くも東映デビュー作で、中村錦之助の出世作となった「笛吹童子第1部どくろの旗」に主演しています。<映画「笛吹童子完結編・満月城の凱歌」>尚、中村錦之助は、デビューした昭和29年だけで、何と!、18本もの映画に主演、一挙に人気スターになり、東映の救世主になりました。(43)<95番>「鳥笛吹けば」<鳥笛吹けば>★発売日:昭和29年1月20日、★作詞:西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひよどり草紙」主題歌、★カラオケ無し、★評点・S、映画「ひよどり草紙」のラストシーンで1番だけ歌われる挿入歌であり、歌の「ひよどり草紙」のB面曲です。この歌、「涙の白桔梗<46番>」に続く、リュウちゃんの最高評点の歌なのだ!この歌も、35枚組の「美空ひばり大全集で初めて聴いた歌です。以下に歌詞を全部書いてみます。♪~1、 可愛い小鳥を呼ぶように 君呼ぶ笛があったなら面影おぼろな若衆まげ 赤い灯りの江戸恋しピロローピロロー ピロロロピロロ~<(※)2、3番も繰り返し>2、 青葉若葉の峠道 しぐれに濡れる街道で鳴らせば心も泣けてくる なぜか寂しい笛の唄3、 君を思って旅をゆく わたしも小鳩 流れ鳥落葉松林を吹く風に 雪の信濃路 陽が落ちる~♪リュウちゃんがこの歌を何故、最高評点にしたのかをちょっと書いてみます。一番の理由は、歌詞の一語一語まで丁寧に歌ったアーティキュレーションの見事さです。例えば、1番の冒頭の♪~可愛い小鳥を呼ぶように~♪の「小鳥」の歌唱表現です。音譜では「小鳥」は「ラードーシ」となっていますが、「ラ」音から「ド」の音に3度高く移行する時に、ファルセット(裏声)のようにスムースに、気持ちよく移行します。次の「シ」音は、単なる「シ」音ではなく、「シドシ」と、軽い「節回し」を入れて、「小鳥」という僅か3音の「詞」を見事に表現するのです。もう一つ例を挙げます。3番の後半の♪~落葉松林を吹く風に~♪の部分です。ここの部分は音符では「シシーラシ―ドシラーシミーレーミーファラー♯ソミー」となりますが、「落葉松林を」の部分の音符「シシーラシ―ドシラーシミー」を、しかりと格調高く歌うことによって、この落葉松林の存在感がくっきりと浮かび上がります。また「吹く風に」の部分は、音符では「レーミーファラー♯ソミー」ですが、ひばりちゃんは「風に」を「ファラー♯ソラ♯ソミー」と、軽い節回しを入れることによって、臨場感あふれる「風」を見事に表現するのです。ちょっと突飛な比較になりますが、「鳥笛吹けば」のひがりちゃんの「風」は、シューベルトの名歌曲「ズライカ1」の巻き起こる東風を思い起こします。♪~Was bedeutet die Bewegung?Bringt der Ost mir frohe Kunde?~♪この風のそよぎは何を告げようとしているのでしょう?東風がうれしい便りを運んできてくれたのでしょうか?<シューベルト「ズライカ1」D,720、(歌)キャスリーン・バトル>この歌のひばりちゃんのアーティキュレーションの凄さを挙げると、きりがありませんので、この辺で止めますが、ひばりちゃんの「鳥笛吹けば」は、聴けば聴く程に歌の世界が胸に迫って来て心打たれれる名歌なのだ!と、リュウちゃんは思っているのです。皆様も騙されたと思って、この歌を歌詞を参照しながら、10回ほど聴いてみて下さい。きっと、「涙ウルウル」になること、請け合いですよ。(44)<98番>「伊豆の踊り子」<伊豆の踊子>★発売日:昭和29年3月20日、★作詞作曲:木下忠司、★映画「伊豆の踊子」主題歌、★カラオケあり、★評点:A、<映画「伊豆の踊子」、59分バージョン>映画「伊豆の踊子」はひばりちゃん初の「文芸映画」です。これまでの映画と違って、一女優として、川端康成原作の「踊り子の薫(かおる)」をシリアスに演じています。この映画の音楽を担当したのは、「二十四の瞳」、「喜びも悲しみも幾年月」なで知られる木下恵介監督の実弟で、木下監督の映画の大半の映画音楽を担当した木下忠司、「伊豆の踊子」では、映画音楽と共に、上記2曲の主題歌の作詞作曲も担当しているのです。ひばりちゃんの主題歌「伊豆の踊子」は、映画の中では、伴奏を使わずに、鼻歌という感じで朴訥に歌われます。以下に歌詞を書いてみます。♪~三宅出るとき 誰が来て泣いた 石のよな手で親様が まめに暮らせと ほろほろ泣いた 椿ほろほろ散っていた 江島生島別れていても 心逢う島(大島)燃ゆる島 おらが親様離れていても 今度逢うときゃ花も咲く~♪普段のひばりちゃんの歌謡曲とは違い、哀切極まりない民謡調の抒情的な歌曲です。リュウちゃんもこの歌はカラオケでよく歌うのですが、「♪~心逢う島(大島)燃ゆる島~♪」の部分で「涙ウルウル」になってしまうのです。(45)<99番>「いでゆの里」<いでゆの里>★発売日:昭和29年3月20日、★作詞作曲:木下忠司、★映画「伊豆の踊子」主題歌、★カラオケ無し、★評点:A、映画では、この歌のメロディが通奏低音のように常に場画れています。A面の「伊豆の踊子」よりも、もっと哀切極まりない抒情歌です。以下の歌詞により、踊り子の一行が辿った道を紹介するという趣向になっています。♪~南(みなみ)風吹きゃいで湯の里に 赤い椿の花が咲く 椿赤けりゃ桂の恋も 燃えて修善寺湯の煙 湯ケ野湯ヶ島峠の下で 逢うに逢われぬしぐれ雨 万二万三は天城の峰よ 沖の七島見てござる 天城越えれば下田ノ港 オ吉恋しと千鳥鳴く~♪松本清張の初期の傑作短編「天城越え」、この歌詞からタイトルを考えたのか?石川さゆりの「天城越え」も同じなのか?尚、この映画で主人公の「私(一高生)」を演じた石濱 朗(いしはま あきら)は、ひばりちゃんより2歳年上の2枚目俳優で、「ひばりの初恋の人」なのです。結婚寸前までいった仲だったようですが、結局は失恋に終わったようです。(石濱 朗)(46)<104番>「ひばりのマドロスさん」<ひばりのマドロスさん>★発売日:昭和29年5月15日、★作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと、★カラオケあり、★評点:A(47)<105番>「さよなら波止場」<さよなら波止場>★発売日:昭和29年5月15日、★作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと、★「ひばりのマドロスさん」のB面曲、★カラオケ無し、評点;特A、ひばりちゃん初の「マドロス歌謡」です。「マドロス」とは、オランダ語で「船乗り」のことで、「マドロスさん」とは「船乗りさん」という意味になります。またマドロスさんとは「外国航路の船乗りさん」で、決して「国内航路の船乗りさん」ではないようです。「マドロス歌謡」というジャンルは、リュウちゃんが俄か調べした限りでは、昭和14年発売の<岡 晴夫「港シャンソン」>が「最初のものではないかと思われます。<岡 晴夫「港シャンソン」>(マドロス姿の岡 晴夫)考えてみますと、戦前には外国航路の船乗りさんと云えば、軍艦に乗り込む海軍の水兵さんが殆どという時代で、客船などは殆ど運航していない時代でしたので、歌謡曲でも「マドロスもの」は一つのジャンルとして成立しえない時代だったのですね。戦後、マドロス歌謡は、やはり岡 晴夫の「憧れのハワイ航路」で一挙に花が開きました。以下に、戦後の「マドロス歌謡」を幾つか挙げてみます。岡 晴夫「雨の波止場」、「マドロスの唄」、「憧れのブルーハワイ」、小畑 実:「アメリカ通いの白い船」、「船乗りシャンソン」、田端義夫:「ロマンス航路」、「肩で風きるマドロスさん」、藤島 桓夫「初めて来た港」、「帰りの港」、、、、以上挙げた歌は、皆、男性歌手による「男歌」です。でも、ひばりちゃんの「マドロス歌謡」は、女性が憧れる「素敵な男性のマドロスさん」という視点で歌詞が書かれています。以下にひばりちゃんの「マドロス歌謡」を、出来るだけ挙げてみます。「ひばりのマドロスさん<104番>」、「さよなら波止場<105番>」、「あの日の船はもう来ない<132番>」、「君はマドロス海つばめ<178番>」、「港は別れてゆくところ<179番>」、「波止場だよお父つぁん<186番>」、「港町十三番地<195番>」、「浜っ子マドロス<198番>」、「波止場小僧<202番>」、「青い海原<206番>」、「港町さようなら<208番>」、「ご機嫌ようマドロスさん<220番>」、「パパの故郷<221番>」、「三味線マドロス<222番>」、「白いランチで十四ノット<234番>」、「若い海若い船<<252番>」、「波止場へ行こうよ<253番>」、「初恋マドロス<278番>」、「哀愁波止場<280番>」、「ひばりの船長さん<281番>」、「鼻歌マドロス<293番>」、「小さな波止場町<294番>」、「波止場の道を歩こうよ<331番>」、「こよい港に降る雨は<332番>」「お久しぶりねマドロスさん<345番>」、「港は心のふるさと<346番>」、フ~、26曲もあった!リュウちゃんはカラオケでひばりちゃんの「マドロスもの」をまとめて歌う時には、必ず「ひばりのマドロスさん」から歌い始めます。上原げんとの軽快なメロディ海の匂いが濃厚なマドロス歌謡、ひばりちゃんの歌は、益々、冴え渡るのだ!
2022年02月20日
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大阪万博のシンボルキャラ、「ミャクミャク」が、明日香村・稲渕の棚田に引っ越ししてきた???(前回のブログの続きです)9月23日(秋分の日)、リュウちゃん独りで歩いて明日香村の彼岸花を散策して来ましたが、この時は左足の不調で、「石舞台古墳」までしか行くことが出来ませんでした。「石舞台古墳」から30分程登った所にある「稲渕の棚田」の「案山子ロード」,行けなかったことに「悔い」が残った。なので、一週間後の9月30日、女房殿の運転する車の助手席に乗って「稲渕の棚田」にお出掛けしたのです。午前11時、家を出発、約30分で昼食場所の「餃子の王将・橿原店」に到着、リュウちゃんは定番のレバニラ炒めと餃子+生ビール(2瓶)を注文し昼食、プファ~、ビールが旨い!本日は天候絶佳、面白い案山子と彼岸花のコラボを観ることが出来るかな?(餃子の王将・橿原店)正午過ぎ、「餃子の王将・橿原店」を出発、店の近くにある「藤原宮跡」に立ち寄りました。おお!「藤原宮跡」の彼岸花、ちょうど「見頃」だ!午後1時、「稲渕の棚田」に到着、棚田の入口の「巨木のモニュメント」の下に、2輪だけ「白い彼岸花」が咲いていた!小滝のある飛鳥川の橋の下を潜って「稲渕案山子ロード」に入ります。今年の「稲渕案山子ロード」案の定、大阪万博のシンボルキャラ、「ミャクミャク」がいっぱいだ!恒例の「ジャンボ案山子」も「ミャクミャク」なのだ!「大阪万博」は、10月13日に終了したが、稲渕の棚田では、11月上旬まで「ミャクミャク」が展示される。「万博ロス」の方は、「稲渕の棚田」に行けば「ミャクミャク」に逢えるのだ!?以下、目に付いた今年の案山子を幾つかアップします。<天照(アマテラス)>伊勢神宮(内宮)の主祭神・アマテラスは奈良に降臨したのだ!???<鉄腕アトム><パンダ、カムバック><握手をしましょう>ここにもミャクミャクが居た!<母と子の願い><世界へこんにちは>今年の案山子の中で、一番華やかな案山子です。今年一番の美少女案山子だ!<キトラ天文図と四神DE世界遺産へGO>今年の明日香村村長賞(最優秀賞)を受賞した案山子です。キトラ古墳は来年、ユネスコの世界文化遺産に選定される予定の「飛鳥・藤原の宮都」の「文化財」の一つなのです。尚。、「キトラ古墳」は稲渕の棚田から車で10分の場所に在るのです。意図は判るが、ちょっとグロテスクな案山子だ。<案山子ロードの終着点の彼岸花>「稲渕案山子ロード」は、入口から約500m程続いています。案山子ロードの終着点は、赤い彼岸花に加え、白い彼岸花と黄色い彼岸花(鍾馗水仙)が一挙に観られる名所、今年も3色の彼岸花を観ることが出来た!
2025年10月25日
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