「青い目の人形の涙」 16 年 11 月 28 日放映 NNN ドキュメント
アメリカで 1924 年に排日移民法が成立した時、日米関係の悪化を危惧した宣教師のギューリック氏が、 1927 年、日本のひな祭りに合わせて 1 万 2739 体の青い目の人形を寄贈した。費用は寄付によって集められている。
受け取った日本側は、実業家渋沢栄一らが中心となって、同年のクリスマスに合わせて、 58 体の人形を答礼として贈っている。これも寄付を中心とした運動だったが、 90 年ぶりに日本に里帰りした「富士山美保子」は、平岡郷陽という人形師としては最初に人間国宝となった人物の手になるものである。
日本側から贈られた人形は、アメリカでは博物館、美術館などで大切に保管された (47 体現存 ) が、日本では事情が異なる。 1941 年の日米開戦以来、敵愾心を煽る教育が行われ、それは、幼い子どもたちの心にしみ込んだ。
当時の教育は、まるで錐で揉みこむように子どもの心の中にしみ込む手法を使っている。たとえば、国語の時間で「楠正成」を扱う時は、修身でも扱う。音楽の時間でも、「青葉茂れる桜井の・・・」を歌う。図工の時間には、「楠正成父子の絵を描いてみましょう」となる。
1943 年 2 月 19 日の「毎日新聞」が、ある小学校の児童の、「青い目をした人形をどうしたらいいか ? 」という問いに対する答えを報じている。
破壊する 89 焼く 133 送り返す 44 目立つところに置いていじめる 31 。
新聞の見出しは「仮面の使節皆殺し」となっている。
同時に、「家庭にあるキューピー人形も川に捨てよ」という命令も校長から出されたと当時を知る女性は語っている。
ただ、少数であるが、無事に戦争をくぐり抜けた人形もいる。
静岡県浜岡北小の用務員であった山田さんという方は、とても焼き捨てることはできないとヤギ小屋の藁の中に隠し、戦後、人形のことを懐かしむ声が出てきたので、もう大丈夫と、藁の中からだしてきた。小学校では、 4 月 16 日を「マーベル・ワレン ( 人形につけられていた名前 ) の日」としているそうだ。
また、明倫小では、校舎の解体作業中に、校長室の棚の中から布に包まれた人形が発見されている。当時の小林有悦校長がひそかに隠したものと思われている。
静岡県に贈られた人形は 253 体。現存しているのは 63 体である。
演劇部の顧問をしている時に、どのブロックの代表校だったか失念したのだが、アメリカから贈られてきた青い目の人形を破壊するか、守るかというテーマの作品があったと記憶している。
何十年かぶりにこのテーマに出逢えた。
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