「プリンツィプがいた現場には足跡が刻まれ、その背後の建物には「ボスニア解放の英雄」として彼を称えるプレートが飾られ、この建物の一部は彼が属した「青年ボスニア」の記念博物館として残される。 ( 中略 )
しかし、ボスニア内戦が始まるとプリンツィプがセルビア人であるという理由から、ムスリム勢力によって足跡やプレートははがされ、博物館は閉鎖された」。 (1)
プリンツィプは、オーストリア皇太子夫妻を暗殺し、第一次世界大戦の原因となったサライェヴォ事件の当事者である。その彼が一時は「ボスニア解放の英雄」として称えられた時期があった。そしてそれは、スロベニア・クロアチア独立という動きの中で始まるユーゴスラビア解体とボスニア内戦によって噴出した民族国家建設、そしてそれに伴う民族浄化によって断ち切られる。
この内戦の際に、ボスニアはセルビアの侵攻に備えて「紛争の国際化」を図る。アメリカのルーダー・フィン社と契約。同社は、民間企業だけでなく国家もクライアントとする企業であり、「戦争広告代理店」ともよばれている。同社はセルビアを悪玉とし、ボスニアを善玉とする工作を始める。
この時にセルビア側の残虐行為に対して使われたのが、「民族浄化」、「強制収容所」という言葉である。同社がクロアチアをクライアントとしたときに、「ホロコースト」という言葉を使って在米ユダヤ人の抗議を受けため、「民族浄化」という言葉を使っている。
この工作は見事に成功、ユーゴスラビア連邦 ( 実質セルビア共和国と同一 ) は国連から除名される。 ( 『戦争広告代理店』高木徹 講談社 第 2 、 6 、 10 、 14 章の要約 )
紛争が生じた際に、「善玉、悪玉」という二項対立的思考で捉えることは注意を要する。それは、現在のウクライナ戦争でも同じである。武力に訴えて国境線の変更を図ろうとするロシアの行為は非難されねばならないが、かといってウクライナ側を正義として描くのは慎重を要する。
セルビアでは、 1980 年 5 月 4 日にユーゴスラヴィアにとって絶対的なカリスマであったチトーが亡くなった。それを境として徐々に噴出していた「ナショナリズム」に訴える言説がマスコミを中心に広がりつつあることへの危険性を指摘する声が挙がっている。
1987 年 9 月 3 日、ユーゴ人民軍内でコソヴォ自治州出身のアルバニア人兵士が 4 人を殺害する銃撃事件が起きた。その一週間後の 9 月 11 日、この事件に関してベオグラード共産党支部長パヴロヴィッチは、国内で高まりつつある反アルバニア感情や民族主義的論調に対して以下のように述べている。
「このような主張が見逃しているのは、まさに次の点である。ユーゴスラヴィアのどの地域においても、ナショナリズムを無力化することに最も成功した手段は、ナショナリズムを自らの境遇、自らの民族において無力化すること。そして、あるナショナリズムと別のナショナリズムの衝突は、その衝突においてどちらかのナショナリズムが単に誘発されたに過ぎないと見なされるか否かにかかわらず、兄弟殺しに至るような憎しみや、また兄弟殺しさえも導くという事である」。 (2)
確かに、セルビア人は、ユーゴスラヴィアを構成する諸民族の中でも特別な地位を主張するに足る歴史的な偉業を成し遂げている。一つが、小アジアからバルカン半島へと版図を広げようとしたオスマントルコと敗れはしたものの果敢に戦ったこと、そして第二次大戦中に、いち早くナチと協力したクロアチアと異なり、パルチザンを組織、徹底的抗戦を貫いたことである。
しかしセルビア人は自己の偉業についてことさらに語ることを抑制している。ナショナリズムの噴出がどのような事態を招くかを、知っていたからである。
元々、ユーゴスラヴィアは、単一国家ではなく連邦制を採用している。それは戦前のユーゴスラヴィア王国ではセルビア人主導の国家運営の側面が強く、クロアチア人など他の民族の反発を招いたことから「共産党は、セルビア人の「覇権主義」的傾向や中央集権主義を非難し、各民族の自決を支持する立場をとった。党内では自決をめぐってユーゴスラヴィアの解体および各民族の分離と独立が議論された時期もあった」。 (3)
以上のことから、各共和国の自決 ( 独立 ) の可能性は内蔵されていたという事もできよう。
1987 年のパヴロヴィッチの演説の 2 年後にはベルリンの壁が崩壊し、ソ連に追随していた東欧諸国では次々に政変が起きている。隣国のルーマニアでは、独裁者チャウシェスクが処刑されている。
1991 年 6 月 25 日にはスロベニア、クロアチアが独立を宣言しユーゴスラヴィアは解体の過程に入る。 1992 年 2 月 29 日にはボスニアで独立承認の国民投票が行われて独立。 4 月 6 日には EC が独立を承認する。ボスニアには当時約 430 万人が住んでいたが、 44% がボスニア人 ( ムスリム ) 、 33% がセルビア人、 17% がクロアチア人であった。独立宣言の翌月には内戦が勃発する。
このボスニア内戦において、最初に述べたように、「戦争広告代理店」は、セルビアの大統領ミロシェヴィッチを徹底した悪玉と宣伝、ボスニアのシライジッチ外相を善玉として描くことに成功する。これは、セルビア側が残虐行為を行わなかったという意味ではなく、その行為について「民族浄化」、「強制収容所」という欧米諸国の人々の嫌悪感を引き出すキャッチフレーズを使用して効果を上げたという事である。
『ボスニア内戦』佐原徹哉 有志社 では、第Ⅵ章 (P195~306) でセルビア人、クロアチア人、ボスニア人それぞれの残虐行為を取り上げている。セルビア人については 50 ページ、クロアチア人については 30 ページ、ボスニア人については 20 ページが割かれている。
そして著者は以下のように述べている。
「ボスニア内戦を戦った三つの集団は同じ文化の中で育った人々であり、身につけた文化に規定された行動をとっていたのである。彼らは同じ言語を話し、同じメディアを受容し、同一の教育制度の中で育成され、同じ消費文化を享受し、そして何よりも同じ体制下で七十年以上も共に暮らしてきたのである。 ( 中略 ) ボスニア内戦は、異なる価値観を持つ民族集団同士の「殺し合い」ではなく、 同じ価値観と行動規範を持つ「市民」が、混乱状態の中で、互いの中に他者を見出そうとした現象であった 。そして、このことがボスニア内戦の持つ現代的意味であろう」 (4) 佐原徹哉 有志社 P304~5 ※波線、引用者。
「処刑の任に当たった兵士の中にはスレブレニッィアの出身者がいて、捕虜の何人かと顔見知りだった。捕虜たちは彼に、昔の友誼に免じて命を助けてくれと訴えたが、いかんともし難かった。彼は「貴方はよい人間ですが、殺さなければならないのです。貴方が民族主義者じゃないこともよく分かっています」と悲しくつぶやくことしかできなかった。(中略)処刑が始まると同時にアルコールが配られ、酩酊状態で任務をこなしていった」。
(5)
「ナショナリズム」「ナショナリスト」という言葉には多くの規定が知られている。しかし私は、ジョージ・オーウェルの以下の言葉に賛同する。
「ナショナリズムは自己をひとつの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務は一切認めないような習慣を指す」
( 6 )
「ナショナリストは自己の陣営によってなされた暴虐行為は非難しないばかりか、そんなものは耳にも入らないという珍しい能力を持っている」 ( 7 )
「すべてのナショナリストには、過去は改変できるものだという信仰が付きまとう」 ( 8 )
「歴史修正主義」に陥らないように常に自戒の言葉としたいと思っている。
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