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もっちん4476さんComments
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河内三太子
聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺、野中寺(やちゅうじ)、大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、河内三太子と総称されている。
聖徳太子の著作
・「三経義疏」(さんぎょうのぎしょ)。このうち「法華義疏」は聖徳太子の真筆と伝えられるものが御物となっており、現存する書跡では最も古く、書道史においても重要な筆跡である。
・「四天王寺縁起」は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。
・「十七条憲法」は、「日本書紀中に全文引用されているものが初出。
・「天皇記」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」は、「日本書紀」中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。
・「先代旧事本紀」は、序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。
・「未来記」は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。
この他にも聖徳太子の名を借りた(仮託)偽書は多い。

聖徳太子を描いたとされる肖像画「唐本御影」。この肖像画は8世紀半ばに別人を描いた者であるとする説もある。
聖徳太子についての諸説
聖徳太子虚構説
大山誠一は「厩戸王の事績と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。さらにこれら2つにしても、「隋書」に記載されてはいるが、その「隋書」には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を「日本書紀」の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。
大山は、飛鳥時代にたぶん斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、「日本書紀」編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在でありとする。
大山説は近年マスコミにも取り上げられ話題となった。従来の論者とは違い、大山は古代史分野においても実績のある大学教授であったことから大きな反響を呼んだとも考えられる。
ただし、これ以前にもこうした虚構説あるいは架空説は存在しなかった訳ではなかった。例えば高野勉の「聖徳太子暗殺論」(1985年)では、聖徳太子と厩戸皇子は別人で実は蘇我馬子の子・善徳こそが真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った残虐非道な架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は「聖徳太子はいなかった-古代日本史の謎を解く」(1992年)を出版し、谷沢永一は「聖徳太子はいなかった」(2004年)を著している。

さらにさかのぼれば、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者に始まる。また、津田左右吉は1930年の「日本上代史研究」において太子作ではないとしている。井上光貞、坂本太郎らは津田説に反論している。また関晃は狩谷鍵斎、津田左右吉などの偽作説について、「その根拠はあまり有力とはいえない」とする。一方、森博達は十七条憲法を「日本書紀」編纂時の創作としている。
