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もっちん4476さんComments
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勝海舟の銅像(墨田区役所うるおい広場)
日本史上、稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家・戦略家・実務家と評し心酔するファンがいる一方、成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。
坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛も大久保利通宛の手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」、「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と書いている等、龍馬や西郷のような無私の人物からは高く評価されていたことがわかる。
福沢諭吉の「痩我慢の説」は福沢の持論立国論が根本にあるが名指しで勝と榎本武揚を新政府に仕えた「やせ我慢」をせぬものと批判している。何度となく要請されても在野にあった福沢だが、同時に屁理屈や大言壮語、道理に合わない点は老齢となってからも受け付けなかった点もある(10分は水に潜っていられると友人に語った学生の言葉尻を捕えて洗面器を持ってきて顔をつけさせ誤りを認めさせた等)。「福翁自伝」でも勝に批判的なことからウマの合う、合わないの点も推察される。
死の三日後、氷川邸に勅使が来て賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。
幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻贈ヲ斎シテ以テ弔慰セシム

・トラウマ
9歳の頃狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている。このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出す程であったという。
・福澤諭吉との関係
木村摂津守の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室に篭り切り、艦長らしさを発揮出来なかった。福澤は、それをただの船酔いだと考えていたようで、勝を非難する格好の材料としている。
・海舟批判書状の「痩我慢の説」への返事
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ないとして、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分は預かり知らぬことと考えています。)
・咸臨丸の実情
和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが、水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶぬれになり、航海中、晴れた日はわずかで、乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14,5人の病人が出た(今でいう悪性インフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には、3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名がみずから看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の勝海舟はブルックスという現地の貿易商に託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。

系譜
海舟の嫡男・小鹿(ころく)は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の一子・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし)を婿養子に迎えて家督を継がせることにした。海舟はこれを見届けるかのようにしてこの世を去っている。精は実業界に入り、浅野セメントや石川島飛行機などの重役をつとめた。
海舟の三女・逸(いつ)は、専修学校(現:専修大学)の創立者である目賀田種太郎に嫁いだ。
財務省理財局長の勝英二郎・世界銀行副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫にあたる。
