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もっちん4476さんComments
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略年譜
・文政10年(1827年):誕生。
・天保13年(1842年):元服。
・天保14年(1843年):生贄の鶏を裂いて王陽明を祀り、輔国を誓う。
・嘉永5年(1852年):最初の江戸遊学。斎藤拙堂、古賀謹一郎(茶渓)、佐久間象山らの門をくぐる。
・嘉永6年(1853年):ペリー来航。藩主牧野忠雅に建言書提出。御目付格定方随役に任命され帰藩。2ヶ月で辞職。
・安政4年(1857年):家督を相続。外様吟味役に任命。
・安政5年(1858年):江戸へ再度遊学のため長岡を発つ。
・安政6年(1859年):古賀の久敬舎に再入学。西国へ遊学、備中松山藩の山田方谷に入門。その間、長崎にも遊歴。
・万延元年(1860年):江戸へ戻る。横浜でファブルブランドやエドワード・スネルらと懇意になる。
・文久3年(1863年)
・1月、京都詰となる。藩主牧野忠恭の所司代辞任を要請。
・9月、公用人として江戸詰。忠恭の老中辞任を要請。叶わず辞職、帰藩。
・慶応元年(1865年):外様吟味役再任。3ヵ月後、郡奉行に就任。藩政改革を開始。
・慶応2年(1866年):町奉行を兼帯。
・慶応3年(1867年)
・3月、評定役・寄会組になる。
・4月、奉行格加判。小諸騒動を解決。但し翌年11月に再燃。
・10月、年寄役(中老)。
・大政奉還を受け、12月に藩主牧野忠訓と共に上洛、朝廷に健言書提出。
・慶応4年(1868年)
・4月に家老。閏4月に家老上席、軍事総督に任命。
・5月、小千谷談判決裂。新政府軍と抗戦開始。
・8月、戦闘中の傷がもとで死去。享年41。

さほど背は高くなかったが鳶色の鋭い目を持ち、声が良かったという。徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質をすばやく見抜く才にすぐれ、士農工商制の崩壊、薩長政権の樹立を早くから予見していた。藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったがすでに若いころから藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。
遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。また、「塵壷」という名前で知られる旅日記を残した。
明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。小林の人物像が語られる時においては河井は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」としぶしぶ開戦を支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺える。北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。
なお継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか、「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。「弾除けにするために町人に畳を背負わせて隊列の前方を歩かせた」等の否定ないし批判的な逸話もある。しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないために信憑性が低く、後世の作り話と思われる。
