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もっちん4476さんComments
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6月、畠山重忠の乱が起こる。叔父の北条義時、時房、和田義盛らが鎮めたが、乱後の論功は政子が行い、幼稚とされた実朝は加わらなかった。
閏7月19日、時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れ渡る。実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れる。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国修善寺に追われ、執権は義時が継いだ。牧氏事件と呼ばれる。
9月2日、新古今和歌集を京より運ばせる。和歌集は未だ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見る事を望んだ。
建永元年(1206年)2月22日、従四位下へ昇り、10月20日には母の命により兄頼家の次男である善哉を猶子とする。
11月18日、近仕を務める東重胤が鎌倉に参る。重胤は暇を得て下総国に帰っており在国は数ヶ月に及んだ。実朝は詠歌を送って重胤を召していたが、なお遅参した為に蟄居させる。12月23日、重胤は義時の邸宅を訪れ蟄居の悲嘆を述べる。義時は「凡そこの如き災いに遭うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べる。重胤は一首を詠む。義時はそれを見ると重胤を伴って実朝の邸宅に赴き、歌を実朝の前に置き重胤を庇った。実朝は重胤の歌を三回吟じると門外で待つ重胤を召し、歌の事を尋ね許した。

承元元年(1207年)1月、従四位上に叙せられる。
承元2年(1208年)2月、疱瘡を患う。実朝はこれまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していたが、以後3年間は病の痕を恥じて参拝を止めた。12月9日、正四位下に昇る。
承元3年(1209年)4月10日、従三位に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。7月5日、藤原定家に自らが詠んだ和歌三十首の評を請う。11月14日、北条義時が郎従の中で功のある者を侍に準ずる事を望む。実朝は許容せず、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇るを企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべかざる」と述べる。北条氏の家人は後に御内人と呼ばれ幕府で権勢を振るう事となる。
建暦元年(1211年)1月5日、正三位に昇り、18日に美作権守を兼ねる。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し、22日には受戒の為上洛した。
建暦2年(1212年)6月7日、侍所の建物内で宿直の御家人同士のいざこざから刃傷事件があり死者も出た。そこで侍所の建物を破却して流血や死に伴う穢れから逃れようとした。千葉成胤は武家の棟梁が血や死を穢れとする事を諫めた。だが、結果的に7月9日に改めて侍所の建物を破却して新ぞ造する様に命じた。12月10日、従二位に昇る。
