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もっちん4476さんComments
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菊池容斎「前賢故実」より
和泉式部(生没年不詳)は平安時代中期の歌人である。天元元年(978年)頃に出生したとするのが通説。中古三十六歌仙の1人。
越前守の大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、夫の任国と父の官命を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。
はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付きの女童だったらしい(母・平保衡女が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝され身分違いの恋だったとて親から勘当を受けた。為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃が家出あうる因を作った。

敦道親王の召人として一子・永覚を儲けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。寛弘末年(1008-1011年)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)ごろ、主君彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の詳細は分らない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。
恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(「紫式部日記」より)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。
敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記「和泉式部日記」があるが、これは彼女本人の作であるかどうかが疑わしい。ほかに家集「和泉式部正集」「和泉式部続集」や、秀歌を選りすぐった「宸翰本和泉式部集」が伝存する。「拾遺集」以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ死後初の勅撰集「後拾遺集」ぢは最多入集歌人の名誉を得た。
・小倉百人一首
・56番 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢うこともがな

・現在、岐阜県可児郡御嵩町には和泉式部の廟所と言われる石碑が存在する。同地に伝わる伝承によると晩年は東海道を下る旅に出て、ここで病を得て歿したとされている。碑には「一人さへ渡れば沈む浮橋にあとなる人はしばしとどまれ」という一首が刻まれている。
・福島県石川郡石川町にはこの地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存する。
・佐賀県嬉野市にも和泉式部に関する伝説がある。
・長野県諏訪市の温泉寺に和泉式部の墓所がある。
・兵庫県伊丹市に和泉式部の墓所がある。
・大阪府堺市西区平岡町には、居宅跡である「和泉式部宮」がる。
・大阪府岸和田市の阪和線下松駅周辺の大阪府道30号大阪和泉泉南線沿いには和泉式部にまつわる池、塚などが存在する。
しかしこれらの逸話や和泉式部の墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。柳田国男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。
・鰯が好きだったとされる。

京都府木津川市にも和泉式部のものと伝えられる墓がある