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March 23, 2009
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カテゴリ: 歴史
上杉 謙信   享禄3年1月21日(1530年2月18日)~天正6年3月13日(1578年4月19日)


上杉 景勝   弘治元年11月27日(1556年1月8日)~元和9年3月20日(1623年4月19日)


上杉 景虎   天文23年(1544年)~天正7年3月24日(1579年4月19日)


直江 兼続   永禄3年(1560年)~元和5年12月19日(1619年1月23日)





1578年の上杉謙信急死後、その家督を巡って、謙信の養子である上杉景勝(実父 長尾政景)と上杉景虎(実父 北条氏康)との間で起こった越後の内乱である。
御館とは上杉謙信が関東官僚・上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東官僚館である。
春日山城下に設けられた後に謙信も政庁として使用した。



天正6年(1578年)の旧暦3月9日、上杉謙信は春日山城の厠(便所)で「不慮の虫気」脳血管障害<脳溢血>で倒れ、意識が戻らぬまま13日に死亡した。
景虎が謙信に代わって雲門寺など寺社への新年祝賀の礼状を送っていたことや、軍役を課されないなどの優遇措置をとられていた観点などから、景虎が後継者であったという説もある。
越相同盟<戦国時代の永禄12年(1569年)に甲斐の武田信玄に対抗するために越後の上杉謙信・相模の北条氏康が結んだ軍事同盟である>が破綻する元亀2年(1571年)頃までは、北条家を実家とする景虎が上杉家と北条家の取次ぎに重要な役割を担っていた事が明らかであり、翌年初頭には謙信の寵臣である河田長親から送られた陣中見舞いへの礼状が残存するほか、同盟以来、景虎とは非常に縁の深い柿崎家の文書には、少人数の動員ながらも松本加賀守らに重役を命じた書状(当時、軍役を命じる文書は必ずしも大名とその後嗣にのみ見られるわけではないが)も残っている。





しかし、一方で、景虎に軍役が課されなかったことの根拠とされる天正3年(1575年)の上杉家軍役帳は、必ずしも上杉氏の全軍事力を網羅したものではなく、関東その他の地域の在番衆などを除く、本国越後の春日山城周辺から動員が可能な諸士にのみ記載が限られている事から、景虎の名がないのは作成時期と地域における軍事力・秩序区分から除外されたためであり、従って軍役の記載がないことが優遇措置、ひいては景虎後継者説の論拠には直轄しないという見解もある。




この軍役帳の記載からは、謙信が景勝を他の上杉一門衆(山浦、上条、吉氏など)をしのぐ最上位に位置づけていた事、年中最大級の兵力を担わせていた事(最大の兵力を擁したのは山吉豊守である。1577年の豊守死後その家臣団の一部は景勝直属の近衛部隊である五十騎組に配され、景勝の権力基盤である上田衆の中に組み込まれる)、また、家臣たちの景勝に対する呼称が謙信の尊称である「御実城様」と類似した「御中城様」であったおとも示唆され、他の一門衆が「十郎殿」などと通称や姓に「殿」付けで記されている(山浦国清と上条政繁は謙信の養子ではあるが、分家の当主となった)のに比し、謙信と同じく「御」「居住場所(中城)」「様」で敬称されている景勝は、謙信の養子の中でも高い地位を与えられていたことがわかる。
また謙信が、上田長尾家当主として長尾顕景を名乗っていた景勝に、天正3年上杉景勝の名を与え弾小弼を譲っていることから、晩年の謙信が景勝の更なる地位の補強を図っていたという見方もある。(ただし弾正小弼を与える事で 関東官領 職候補から景勝を外す意図であった可能性もある)

関東管領→南北朝時代から室町時代に室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方を補佐するために設置した役職名である。当初は関東執事と呼ばれていた。
鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。





謙信が没する直前の天正5年12月に作られた上杉家家中名字尽手本上では景勝の名は記載されておらず、この頃には上杉家家臣上田長尾家当主としてではなく謙信の子として扱われている事が伺える。




上記の官途の問題も影響し、謙信は関東管領職を景虎に、越後国主を景勝に、それぞれ継がせるつもりであったと論ずる研究者も多いが、いずれにせよ、現段階の研究で景虎と景勝のどちらかを唯一の正当な後継者と目するものは通説とは言いがたい。








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Last updated  March 23, 2009 11:05:51 PM
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