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March 25, 2009
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カテゴリ: 歴史
乱の勃発


景勝と景虎の後継者争いは死の直後から小規模ながら勃発し、早くも翌14日には景虎派と目されていた柿崎晴家が暗殺されたと言われる。
しかし柿崎晴家の死亡時期や死因には諸説あり断定されているわけではない。
また、一級資料による正確な日付けは不明であるが、景勝はその後すばやく春日山城の本丸に移ったものと想定され、金蔵、兵器蔵を接収、3月24日付け書状において国内外へ向け後継者となったことを宣言し、三の丸に立て籠った景虎に攻撃を開始する。
5月5日には大場(上越後)において景勝方と、景虎方が衝突、同月半ばに景虎が退去するまで、春日山城を舞台としての交戦状態が続き、その間を利用して陰かつ・景虎双方とも、越後諸将に対する工作を展開していった。





上杉家中の去就


景勝方

景勝方には、以下の諸将が加担した。
特徴としては直江信綱や斉藤朝信、河田長親といった謙信側近、旗本の過半数(特に大身の直江、山吉の参陣が大きい)が加担している点、及び新発田・色部・本庄といった下越地方の豪族である 揚北衆 (あがきたしゅう)の大身豪族が加担している点である。

→鎌倉時代から戦国時代にかけて越後北部に割拠した国人(こくじん 鎌倉時代の地頭層から発し、南北朝時代から室町時代にかけて諸国の開発を推進した武士層のこと。国人領主。まとめて呼ぶ場合は国衆<くにしゅう>という。
国人は、平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園・郡司・御司・保司の階層やそこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く在団の領主の一般的呼称で、同時代的に使われた資料用語である。幕府や守護、荘園領主など外部の支配層に対する在地勢力の意味で使われ、独自の領域支配をめざした。)豪族のこと。
揚北とは阿賀野川北岸地域のことであり、阿賀北衆ともいう。
佐々木党、三浦党、秩父党に分類される。鎌倉時代に地頭として越後に入国した武士の末裔であり、南北朝時代以降越後を支配するようになった守護(軍事指揮官・行政官)の上杉氏や、守護代(守護の下に置かれた役職)の長尾氏とはしばしば対立し、室町時代から戦国時代中期における越後の政情の不安定要因の一つとなった。上杉定実の養子縁組問題からこれを支持する中条藤資とこれに反対する本庄房長・色部勝長・鮎川清長の連合軍が争って揚北衆は分裂・衰退する。やがて、長尾氏が戦国大名化する過程で、一部は滅ぼされ、また別の一部はその家臣団として組み込まれていった。

特に謙信側近の中での重鎮や謙信旗本の多くが景勝に付いている事から、上杉家家中では景勝が後継者として見做されていたのではないかという意見もある。
上杉一門の加担者は、謙信の4人の養子のうち当事者である景勝・景虎以外の、上条上杉氏を継いだ上条政繁や山浦上杉氏を継いだ山浦国清が味方している。



上条政繁    上杉一門   上条上杉家当主  軍役 96人
     山浦国清   上杉一門   山浦上杉家当主  軍役 250人
     山本寺孝長  上杉一門   山本寺上杉家当主であった定長の実弟
     甘粕景持   小荷駄奉行  三島郡枡形城主
     柿崎憲家   謙信側近   父は柿崎景家。晴家の実弟
     河田長親   謙信側近   越中国松倉城主
     斎藤朝信   謙信側近   刈田郡赤田城主  軍役 213人
     直江信綱   謙信側近   三島郡与坂城主   父は直江景綱
     鯵坂長実   謙信旗本   七尾城代のうちの1人
     今井源右衛門 謙信旗本   中魚沼郡千手城主
     上野家成   謙信旗本   上野国利根郡沼田城代
     山吉景長   謙信旗本   木場城主
     吉江宗信   謙信旗本   蒲原郡吉村領主
     大石綱元   上杉氏重臣  関東官僚家古参
     北条高定   上杉氏重臣  刈羽郡佐橋荘領主  軍役 105人
     五十公野信宗  揚北衆新発田一族  蒲原郡三条町奉行
     安田長秀   揚北衆安田氏当主   北蒲原郡白河荘安田領主
     安田顕元   越後毛利氏当主    刈羽郡安田城主
     色部長実   揚北衆色部氏当主   岩船郡平林城主
     新発田長敦  謙信側近   揚北衆新発田氏当主  北蒲原郡新発田城主  軍役194人
     新発田重家  北蒲原郡五十公野城主   揚北衆新発田長敦の弟
     中条景泰   北蒲原郡島坂城主   揚北衆中条氏当主  実父 吉江宗信
     本庄繁長   岩船郡本庄城主    揚北衆本庄氏当主
     須田満親   信濃国高井郡領主
     狩野秀治   景勝側近
     樋口兼豊   景勝側近   兼続・与七の父
     樋口兼続   景勝側近   樋口兼豊の長男、後に直江兼続と改名
     樋口与七   景勝側近   井口兼豊の次男、後に大国実頼と改名





景虎方

景虎方には前関東管領・上杉憲政や上杉一門衆の多くが加担した。
これは越後長尾家は長年一門同士の権力争いが激しく、特に上田長尾家と古志長尾家は謙信政権時代にも敵対しており、景勝がその上田長尾家の長尾政景の子であることへの意趣もあるといわれている。
この他、上杉家臣団では大身である北条高広も加担し、本庄秀綱ら謙信の旗本、側近で景虎に味方した者も少なくない。
揚北衆の一部も加担しているがこれには本庄氏や新発田氏との対立関係も影響している。
そして周辺の戦国大名がことごとく景虎方に加担しているのも特徴の一つで、血族である北条氏や、その同盟者である武田氏、同じく北条家と同盟関係であった奥羽の蘆名氏やさらに大宝寺武藤氏が加担している。
景虎の支援に実家である北条家の力が大きく働いていた事が伺え、対外的には景虎が後継者として見做されていたのではないかという意見もある。



上杉憲政   前関東管領
     上杉憲重   父は上杉憲政
     上杉景信   上杉一門(古志長尾氏当主)   軍役 81人
     山本寺定長  上杉一門(山本寺上杉家当主)  西頸城郡不動山城城主  軍役71人
     琵琶島善次郎 上杉一門
     桃井義孝   謙信の客将   伊豆守  飯山城主
     神余親綱   謙信側近   外交担当で蒲原郡三条城主
     河田重親   謙信側近   長親の叔父
     柿崎晴家   謙信側近   憲家の兄で頚城郡柿崎城主
     本庄秀綱   謙信旗本   古志郡栃尾城主  軍役 240人
     椎名景直   謙信旗本   長尾家出身で越中国小出城主  軍役 81人
     堀江宗親   謙信旗本   頚城郡鮫ヶ尾城主
     北条高広   上杉氏重臣  上野国厩橋城主
     北条景広   上杉氏重臣  父は北条高広
     鮎川盛長   揚北衆鮎川氏当主   岩船郡大葉沢城主
     黒川清実   揚北衆黒川氏当主   蒲原郡黒川城主
     加地秀綱   揚北衆加地氏当主   蒲原郡加地城主で景勝の従兄弟にあたる
     下久長    父は守護上杉家被官 下重実で奥山庄領主
     蘆名盛氏   蘆名氏当主  陸奥国会津黒川城主
     伊達輝宗   伊達氏当主  出羽国米沢城主
     武田勝頼   甲斐武田氏当主   甲斐国在中、躑躅ヶ崎領主。
         後に景勝方と和睦し戦場を離脱する。
     北条氏政   北条氏当主   相模国小田原城主  景虎の実兄
     北条氏照   武蔵国滝山城主   氏政の次弟で景虎の実兄
     北条氏邦   武蔵国鉢形城主   氏政の三弟で景虎の実兄
     武藤義氏   大宝氏武藤氏当主   出羽国大宝寺城主




工作によって諸将の旗幟が鮮明になってきた5月13日、景虎がついに退去し、御館に移り籠城して北条氏政に救援を要請する一方で、配下に命じて春日山城城下に放火を行うなどかく乱戦術を展開した。
5月17日には約6000の兵で春日山城を攻め立てたが撃退された。

体勢を立て直し、22日も再び攻めたが、結果は変わらなかった。
この頃になると、多方面でも景勝方・景虎方の交戦が展開されていった。
なかでも、上野では北条高広・景広父子が中心となり、三国峠を守る宮野城目指して進軍を開始した。
この方面では景勝方はよく持ちこたえたものの、景勝には援軍を送る余裕はなく、景虎方が優勢気味に戦局は推移していき、結局後詰めのない景勝方の諸将、宮野、小川といった城はことごとく景虎方に奪われていった。
この結果、景虎方は小田原北条勢を越後へ引き入れる体制を作り上げたのである。
氏政は、救援軍を編成していたが、越後までは遠いために、とりあえず同盟していた武田勝頼に景虎への助勢を要請していた。
これを受け、勝頼は5月下旬に武田信豊を先鋒とする2万の大軍を信濃経由で越後に送り込み、5月29日(7月4日)頃信濃国境付近に到着した。

景虎は小田原北条、武田の他に蘆名盛氏にも助勢を要請し、盛氏はそれに応えて蒲原郡に兵を進めていたが、景勝方の頑強な抵抗に合い、それ以上の進撃は果たせなかった。
とはいえ、この時点においては戦局は景虎方に有利なまで推移していた。
しかし氏政は攻勢に乗り気でなかったとされる。









自分の字がよめなかったりで、4時間半以上かかりました。
疲れた。





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Last updated  March 26, 2009 03:42:08 AM
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