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April 12, 2009
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カテゴリ: 歴史
周辺とその後への影響



まず、血で血を洗う内乱のため、上杉氏の軍事力の衰退は否定しようが無く、織田信長などの周辺強豪勢力からの軍事侵攻に苦慮する事になる。
また、恩賞の配分を巡り、景勝方の武将間にも深刻な対立をもたらした。



戦後に与えられた恩賞は、景勝の出身母体かつ権力基盤である上田衆に多く与えられたため、恩賞を巡るトラブルで直江信綱や安田顕元らが非業の死を遂げ、更には不満を抱いた景勝の重臣・新発田重家が蘆名盛隆・伊達輝宗に通じて反乱を起こし、自立する。
この反乱鎮圧には実に7年もの歳月を要した。



加えて、この内乱の隙を突いて信長の命を受けた柴田勝家が上杉領及び同盟勢力である加賀や能登、越中を席捲し、会津からも改めて蘆名盛隆が侵攻してくるなど、この御館の乱は謙信時代に培われた上杉家の勢力と威信を大きく後退させたのである。



御館の乱は、武田家滅亡の遠因にもなった。
氏政は、実弟(異説もある)の景虎への支援を同盟者の武田勝頼に依頼した。
当初、勝頼は景虎を支援して自ら出陣したが、その後景勝支援に回る。
その理由として、隙をついた徳川家が領国(遠江・駿河方面)に侵攻してきたこと、北条氏の景虎救援の動きが鈍く消極的なことから、同盟者としての信頼が揺らいだ事、景虎の勝利により北条家が勢力を拡大させる事(具体的にいえば、上杉家と北条家が一体化することで三日月を描くように武田領が包まれる形)を警戒したこと、景勝が講和条件として上野沼田領の譲渡と黄金とを申し出た事などが挙げられる。



コレに対し越後の豪族達の支持を得る必要性があった景虎は、逆に勝頼に北信濃等の譲渡を求めていた。
これにより武田渦中では景勝との和睦を支持する声が強まり、勝頼は景虎を裏切って景勝との和睦に踏み切り、景勝に自分の妹の菊姫を娶わせた。
氏政はこれを勝頼の背信として第二次甲相同盟を破棄し天正7年(1579年)に徳川氏と、翌8年(1580年)に織田氏と同盟する。
これにより上杉氏の国力が著しく疲弊していく中で武田氏は三方に敵を迎える。
関東・伊豆方面では北条市を圧倒した勝頼であったが、度重なる東海道方面への出兵は武田家の経済状況を逼迫させ、武田家の弱体化の大きな要因の一つとなった。



天正10年(1582年)の織田・徳川・北条勢による武田征伐は、結果的に上杉氏に重大な危機をもたらす結果となった。
景勝は、同盟者勝頼を支援する余力はなく、武田氏は約1ヶ月で滅亡し、越後と接する旧武田領はことごとく織田領と化して、緩衝地帯が消滅し、上杉は全方向を敵に囲まれることになり、これまで戦ってきた北陸の柴田勝家・米沢の伊達輝宗・会津の蘆名盛隆に加えて、信濃から森長可、上野からは滝川一益にも攻め込まれ、崩壊一歩手前まで追い詰められた。
しかし、本能寺の変によって織田軍は退却し、織田領となっていた旧武田領は景勝と家康・北条氏政が奪い合い、景勝は北信濃を支配下に置くことができたが、それ以上積極的な動きをすることができなかった。



景勝を取り巻く状況は依然として厳しかったが、蘆名盛隆が天正12年(1584年)に、伊達輝宗が翌13年(1585年)に相次いで死んだことにより、後ろ盾を失った新発田重家に対しようやく有利に戦いを進められるようになった。
天正14年(1586年)信長の後継者争いを勝ち抜いた羽柴秀吉が、石田三成を通じて、景勝に臣従を求めてくると、景勝は上洛して、秀吉の傘下に入った。
以降、景勝は秀吉の全面的な支援の下、新発田重家を討ち取り、佐渡、出羽庄内を領有する。
豊臣政権に早くから服従した景勝は秀吉からの信任が厚く、慶長3年(1598年)に秀吉の命により会津に移封される。
会津への移封は、東北諸大名と徳川家康の監視と牽制という重大な使命が科せられ、結果的に家康との対立は避けられないものとなる。
関ヶ原の駅の直接の原因となった景勝は、慶長6年(1601年)には米沢へ減移封され、信濃に覇を唱えた上杉家も、景勝一代で東北の一大名へと没落した。
















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Last updated  April 12, 2009 09:56:26 PM
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