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June 6, 2009
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カテゴリ: 歴史

結果として秀吉が勝ち、秀吉による政権簒奪(さんだつ)、そして、秀吉の天下統一の動きが加速されるわけであるが、この賤ヶ岳の戦いにおける秀吉方勝利に貢献したのが上杉景勝だったのである。
信長が生きていた時、勝家が、上杉方の最前線の城であった越中の魚津城を攻め、本能寺の変の次の日、6月3日、城は落ち、上杉方の将兵が多数死んでいる。
景勝・兼続主従にとって、勝家はまさに不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であった。
賤ヶ岳の戦いを前にして、勝家陣営からも、秀吉陣営からも、味方になるよう誘いかけがあったが、景勝としては勝家を支援する気にはならず、かえって敵対する動きをみせていた。
この事が秀吉陣営を利する結果になった事は言うまでもない。
勝家を倒したあとの秀吉は上杉家に対し、好意的に接している。
信長の生前には信長に敵対し、存亡の危機に陥っていた景勝としても、秀吉の天下統一に協力することで上杉家の存続をはかろうとしたのである。
その頃、秀吉の腹心の一人石田三成が主として上杉家との折衝役をつとめており、上杉家からは執政の兼続が主として対応していたが、二人は年齢も同じで意気投合し、以降、上杉家は、関白豊臣政権の一員として、越後の統一、すなわち新発田重家の反落鎮圧、さらに、佐渡の奪取へと、年来の懸案事項を次々に解決していくことになる。
豊臣大名となったからには、上杉家は秀吉の天下統一の戦いに協力しなければならず、天正18年(1590年)の小田原攻めに出陣したりしなければならなかった。
小田原攻め後の「奥州仕置(おうしゅうしおき)」にあたり、三成と兼続が組んでことにあたっていた事は、今日、その時の三成・兼続連署状が何通も残っていることによって確かめられる。
しかし、上杉家は、家の存続のために大きな犠牲を強いられたことも確かである。
「奥州仕置」後、秀吉は奥州支配の要として蒲生氏郷(がもううじさと)を会津若松城に入れ、江戸城の徳川家康を北から監視し、また、若出山城の伊達正宗にもにらみをきかせていたが、その氏郷が死んでしまった。
そこで秀吉は、氏郷がつとめていた役を景勝に肩代わりさせるべく、景勝に越後春日山から会津若松への転封(てんぽう)を命じているのである。
秀吉の命令を拒むことのできない景勝は、慶長3年(1598年)正月、会津へ移ることになるが、このことが関ヶ原合戦に連動していくことになる。






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Last updated  June 8, 2009 04:29:37 PM
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