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2002年11月14日。またしても今日の日記です。 観てきましたです。川崎のチネチッタ。お客の入りは、ぼちぼちと言ったところでした。 この映画は、中田監督の映画版「リング」の忠実なリメイクでした。驚かし所とかはほぼ一緒です。 間違いなく米国スタッフは原作を読んでないですね。 翻訳されていないからか、それとも映画だけで十分だからかは分かりませんけど。 それでも日米違いはありました。 最大の違いは、日本版の貞子と米国版のサマラ(これが向こうの貞子の名前です)のキャラクターだと思います。 貞子の場合は、異能力を持ってしまった為に世間に疎まれて不幸になってしまった少女と設定されていました。貞子の恨みは多分に後天性なものであったと感じました。 まあ映画版では上手く表現出来ているとは言いがたかったですけど。 貞子の自分を葬った世間に対する「怨念」がテープにこめられたと解釈出来ます。(小説版の「らせん」と「ループ」で語られる事実は、ここではパスします) 対してサマラの場合は、異能力を持ってしまった為にと言うよりその能力が初めから悪意に満ちた能力というように設定されているように感じました。 確かにサマラも周囲との確執とかはあったのでしょうが、こちらも上手く語られていません。(こんなとこまで真似しなくて良いんだけど・・・) 「ナチュラル・ボーン・ウィルス」=「産まれついて、生けとし生ける者に害を成す悪意の病原菌(馬も自殺させる程に)」。として劇中で語られているように感じました。 このことは、「何故、サマラを助けたりしたの? サマラは眠らないのに!!」 とラストで子供に語らせることで、より明確になっています。「眠らない」は「死なない」とここでは同じ意味合いを持っています。 サマラの「悪意」と自らが殺された「怨念」とがミックスされてテープにこめられたのだろうと解釈出来ます。「怨念」は多分にきっかけに過ぎず「悪意」が強調されています。 サマラの両親は、断腸の思いで我が子の中に宿った「悪意」を井戸の中に封印した。両親にしてみれば、いるだけで災いを成す「悪意」とは言え自分たちの子供。 出来れば殺したくは無い。 しかし、このまま野放しにすると「悪意」が世界中に蔓延する。母親はサマラを井戸に突き落として、自らも生命を絶った。父親は「悪意」を世間の記憶の中から葬る為に生き続けた。 だが封印から数十年後。サマラの「悪意」がビデオテープに移り、世界に蔓延してしまう事を知った父親はその時点で自殺を決意する。 封印はあくまでも封印。眠らないサマラを閉じ込めておくことは出来ても葬ることは出来ないのだと知ってしまったから。 米国版のサマラ誕生から再生は、こんな感じでまとまられるのではないかと思います。 やっぱお国柄の違いでしょうね。日本の場合は、神と悪魔の対立って概念が薄いから「純然たる悪意」とかはすぐに連想されないのでしょう。 貞子の呪いは、世間から迫害されて殺されたことに復讐する「怨み」。 サマラの呪いは、世間に対して発せられる「純然たる悪意」。 長々とまとまり無く書きましたけど、こんな感じでコアな部分が違うのではないかなと私は思いました。 10点満点中6.5点。 最後に死に顔について一言。 日本版のショック死の顔の方が米国版より何倍も怖いと思います。米国版の死に顔は心臓麻痺とは到底思えません。 だってゾンビメイクの顔なんだもの・・・・。
2002年11月14日
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