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2014.05.24
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フルンゼ駅



ひと粒の種
会場の一角に立って亡き夫、平野遼の作品に接したとき『画家・平野遼の魂』が語りかけてくるものを感じました。
没後5年にあたる1997年の夏、北九州市美術館で開催された『平野遼展』
平野遼展の来館者は9000人にのぼりました。
会期は6月21日~7月13日までの、わずか23日間でしたが、予想を超える来館者数でした。
作品の前に立ちつくし、飽くことなく『平野との対話』を試みる美術ファン。
平野は死んで肉体的存在はないのですが、こうして平野の作品を鑑賞して下さる人たちがいる限り、平野は生き続け『絵画という言語』を通して自らのメッセージを発信しているのだ、と考えました。

平野は北九州市を制作の原点と決め、生涯離れることがありませんでした。

頼るべき財産も、学歴もツテもない天涯孤独の身で絵描きを志し、どんなに貧乏をしていても絵以外の世界には見向きもしませんでした。
戦後の困難な時代をくぐり抜けてこられたのは、逆境に耐える闘争心、絵に向けたひたむきな夢、そして地元の方々の理解と支援があったからだと思います。
これから、記憶の糸を手繰り寄せながら平野の激しく燃えた65年の生涯を語りたいと思います。
平野が、北九州の地に居を構えながら、画家としての生活が送れたのは幸いでした。
なぜなら、平野のモチーフは『人間と社会の闇』の凝視であり、生きるなかで人間が体験する『社会の不条理』の告発だったからです。
鉄都として膨張してきた北九州市の近代化とは、社会の闇と不条理を胚胎し続けた存在であり、その歩みは日本の近代史そのものでした。
さまざまな欲望とカネ、モノなど、およそ人間世界に生じるすべてを呑み込みながら、都市としてのエネルギーを作り出してきた北九州市。
時代と人間の光と闇を凝視してきた平野にとって『鉄都・北九州市の風土』こそ最高のモチーフであり、平野の創作行為とはそこで生きる『人間とは何か』の問いかけであったと思うからです。





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最終更新日  2014.05.25 10:23:56
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