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1971年 大阪フォルム画廊 平野遼展に出品されたときの代表作です。所蔵家の御厚意でお譲り頂くことができました。1971年⇒2016年=45年の年月を経て二つの代表作を並べて展示することができました。9月6日~17日 東京店9月20~29日 名古屋店10月1日~12日 大阪本店10月18日~10月28日 福岡店【この作品に付いてのコメント】平野遼氏の個展によせて(原文のまま)平野遼氏は、九州の小倉に住み、一般に言われる芸術活動の中心から遠く離れて、画業に精魂をかたむけておられる。お会いして、そこに芸術家臭さも、インテリ臭さも感じさせない、むしろ土臭いものがある。些細なことに過度に敏感な反応を示すことがない点でも、大陸的非日本的である。全てにおいて先を行くが、それだけに表面的になり勝ちな大都会を離れ、じっくりと根本問題と取組んでいるのが、現在の平野氏であるといえよう。近々、再び近作の個展が開かれるそうである。二点を拝見させて頂いた。一つは『窓』と題し、他は『H氏像』とある。H氏とは平野氏御自身であろうか。『窓』に画かれてある十数人も氏御自身の変容と思える。肘をついて何かをみつめるH氏の視線は外を向いている。十数の眼となった同じ眼が、『窓』で遠い将来までを凝視する。幽かに画面の内から伝わって来る光りは、次第に影の深い面をも包み始めているかのようだ。不思議である。作品から、一瞬、暗い印象をうけないでもない。だが、眼が色彩に慣れて来ると、画面にひそむ光明の動きに気付くのである。この明暗こそ、平野氏の画業に氏独自の意味を与えているものではないだろうか。ここに、氏の人間としても現代の世界に対する立場の表明が見られるのではないだろうか。芸術と社会、芸術の社会的意義は常に問われて来た課題である。現代、特にこの課題は各芸術家からの具体的応答を要求しているかにみえる。しかし、それは何も塵埃と思える物質の塊りを展覧会場に持ち込むことによってのみ表示出来るというのではない。平野氏はこの微妙な問題に、誠に思索的に応えておられる。現代は大いなる過渡期である。そして、過渡期に生きる人々は、過去に於いても、現代に於ける如く、人間そのものを問題としてきた。個人の小さな世界ではない、人間そのものに大きな懐疑を投げつけ、それに解答を求めて血みどろになり、過去の全てを失うことも辞さない。周囲は、その時、暗闇とみえ、絶望的状勢と思われる。だが、それにも拘わらず凝め続ける者は暗闇のうちに、遠く微かに光の射すのを感じ始める。人は待つことの意味と、時間の恐ろしさを知る。人間はこうして深い絶望的過渡期を通り越して来た。1971年の日本に生きる平野氏は、『窓』のうちで現代の闇と、悪を無言のうちに弾劾する。しかし、同時に現代を超えた人間の遠い将来、人間の最期的運命に希望を感じる。作品はそう語っている。氏の深い人間に対する愛情を読みとることが出来る。氏の作品は『私小説』的なものではない。気軽に、無責任に観ることを許さないものがある。現代精神を反映している。画布上に歴史的精神をかくも表現し得る画家は、現代日本に少ないのではないだろうか。しかし、氏の作品は単に現代の表現に留らぬ普遍性を持ち合わせている。『H氏像』には、葛藤、苦悩の極地に於いて観喜を味わう体験の表示であり、芸術家として人間に啓示し得る永遠の一瞬の先取りであろう。『芸術こそが存在の問題に解答を与える』と、ある西欧の哲学者は言っているが、再び平野遼氏の近作のうちに人間存在に対する深い思索の一端をうかがわせて頂く機会の与えられることを、心より喜ぶ次第である。1971年9月 吉田 暁
2016.06.02
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平野遼画文集『熱風の砂漠から』3頁に掲載作品。ひと粒の種会場の一角に立って亡き夫、平野遼の作品に接したとき『画家・平野遼の魂』が語りかけてくるものを感じました。没後5年にあたる1997年の夏、北九州市美術館で開催された『平野遼展』平野遼展の来館者は9000人にのぼりました。会期は6月21日~7月13日までの、わずか23日間でしたが、予想を超える来館者数でした。作品の前に立ちつくし、飽くことなく『平野との対話』を試みる美術ファン。平野は死んで肉体的存在はないのですが、こうして平野の作品を鑑賞して下さる人たちがいる限り、平野は生き続け『絵画という言語』を通して自らのメッセージを発信しているのだ、と考えました。平野は北九州市を制作の原点と決め、生涯離れることがありませんでした。徒手空拳で苦しい戦後を生きて、ひたすら絵を描き続けた65年の生涯でした。頼るべき財産も、学歴もツテもない天涯孤独の身で絵描きを志し、どんなに貧乏をしていても絵以外の世界には見向きもしませんでした。戦後の困難な時代をくぐり抜けてこられたのは、逆境に耐える闘争心、絵に向けたひたむきな夢、そして地元の方々の理解と支援があったからだと思います。これから、記憶の糸を手繰り寄せながら平野の激しく燃えた65年の生涯を語りたいと思います。平野が、北九州の地に居を構えながら、画家としての生活が送れたのは幸いでした。なぜなら、平野のモチーフは『人間と社会の闇』の凝視であり、生きるなかで人間が体験する『社会の不条理』の告発だったからです。鉄都として膨張してきた北九州市の近代化とは、社会の闇と不条理を胚胎し続けた存在であり、その歩みは日本の近代史そのものでした。さまざまな欲望とカネ、モノなど、およそ人間世界に生じるすべてを呑み込みながら、都市としてのエネルギーを作り出してきた北九州市。時代と人間の光と闇を凝視してきた平野にとって『鉄都・北九州市の風土』こそ最高のモチーフであり、平野の創作行為とはそこで生きる『人間とは何か』の問いかけであったと思うからです。
2014.05.24
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画像:平野遼『城壁の前の男』版画人・言葉・人『西の文人・画人抄』 秋山敬 84頁人間をえぐる 平野遼アトリエに案内されたら、のっけから香月泰男論。『私には香月さんのように絵を描いて年間1億円近くも稼ぐなんて、とても・・・』そんな芸当は物理的にできないし、そんな自分なら、とっくに自己嫌悪を感じて自殺してしまっている。香月さんの葬儀に列席したある画商が『外国の砂漠の中で死ななくてよかった』といったそうだが、私はそれを耳にしてヘドの出る思いがした。なるほど、香月芸術の“琳派”に近い美意識で描かれた初期の装飾性の強い作品は後世に残る立派なものだと思う。しかし、シベリアシリーズも真に抑留生活の実感がにじみ出た『埋葬』を除いては、堅固なマチェールに物を言わせた彫刻のレリーフを見るようで、純粋な絵画としての持ち味とはいえない。香月の急死は、西日本の画壇にとって、衝撃的な出来事だった。そのショックが尾をひくなかで、これほどきっぱりと、手きびしく批判できるのは、この人以外にないだろう。やはり“香月後”の画壇を背負って立つ実力派の自信か。しかも、その批評は、ずばり真髄を衝いていたし、痛烈な中に、亡き先輩への哀悼もこめられていた。北九州市小倉北区の足立山のふもと。新興住宅地にふくれあがった高台の黒住公園近く。すぐ裏の霧ヶ丘中学校の校庭から子供達の歓声が、ときおりアトリエまで伝わってくる。平野さんは黒のセーターに、絵の具でドロンコになった仕事着を無造作にはおり、誰はばかることもない。約60平米、40畳分もあるアトリエには、使い切った絵の具や筆が無数に散乱して足の踏み場もないほどだ。5月の主体美術展に『解体される人間像』を出品する。顔の部分を残して、九分通り出来あがっているその絵をのぞいて驚いた。それは、現代社会のさまざまな不条理、公害、気象異変などを、深層心理の面から根源的に追求していこうという新しいシリーズの第1作だったからだ。タクシーに乗る。便利だと思う。しかし、いったん降りると自分も加害者の立場にあったことに気づく。公害をたれ流す工場で働いている労働者も、そこを一歩出ると一市民にかえる。つまり人間誰しも被害者意識と同時に加害者意識を持ち合わせている。それを機械化が進み、管理化されていく社会の中での人間像としてとらえようとすると“人間解体”。つまり、こんなタブローでしか表現できないんですよ。その絵は、黒、白、茶とセーブされた色調で、顔、胴、手足をバラバラに描いた巨大な昆虫に、機械の“部分”が襲いかかるような異様なフォルムである。平野さんは、かつてカネミ油症患者の痛ましい募金風景に、いい知れぬショックを受け、公害告発の連作を発表、ついで駅前の選挙演説を群衆の“人間ドラマ”をモチーフに群像シリーズを手がけてきた。新シリーズは、4、5年がかりで、20点くらいの連作にしたいという。いつの間にか“公害告発画家”のレッテルを背中に張りつけられたことに『人間として、照れくささと、複雑な思いを痛切に感じている』平野さん。香月批判も、その死を乗り越えて、未知の世界に踏み込んでいく自分自身への励ましの言葉だったのかも知れない。師を持たず、全国チェーンのフォルム画廊と契約するまでは、東京、北九州で職業を転々。清子夫人とともに、独学で苦難の生活を送った。今年も安井賞は逃したが、すでに中央でも不動の地位を築き上げたこの人には、さして気にならない。(49.4.10『郷土作家訪問』)
2014.03.22
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画像:平野遼『古城を出る女』版画美術の窓 1987年6月号 60頁鬼の眼 中野明夫新発見 平野遼の若き日の蝋画幽鬼という言葉がある。これは裟婆と成仏した世界との間で、この世にも存在できないし、かと言ってあの世にも行けない霊が浮遊していることを言う。通常、幽鬼になるには、怨念とかいろいろな思いが積み重なって、どうしてもこの世に思いを残すという執念の結果である。戦争によるむごたらしい死、あるいはどうしても理不尽と思える状況の中での死などという時に、幽鬼が発生する。幽鬼はすでに司馬遷の『史記』の中にも見える。また、先年亡くなった今東光は最近の世相の荒廃の原因を、第2次大戦で何百万もの人間が無残な死に方で亡くなり、それを生き残った我々がはっきりと心をこめて弔っていないために、幽鬼が氾濫しているところにあると、大変微妙な表現で語っていた。芸術家という不思議な人種がいる。彼らは神様でもないのに神の真似をして造化を試みようとする。娑婆にいる人間が娑婆の事象を分解して、新しい世界を絵に描いたり、言葉に作ったりしようとする。しかし、娑婆にいる人間が娑婆を理解することは、不可能に近い。それを可能にするために、芸術家は前述した幽鬼のような、曖昧な世界に自分を連れてゆく。現実世界ではないのだから、成仏したのかと思うとそうではなく、現実世界に身を置きながら、そういった世界全体を見渡そうとする位置に自分を置こうとする。そしてそこから見える事象を把握し、分解し、再構成して我々に提出する。我々はそれに感動し、カタルシスを覚え、現実では到達しえない理想というものに目を向ける。しかし、そういった作者は、悲惨である。すでに彼は人間を廃業して、鬼に化したのだから。これを芸術家の業という。しかしまた、芸術家にとっての栄光は、その業と裏腹なのだ。業の深さがあればあるほど、その作品は輝くのである。そこで自殺をする人もいるが、しかしまた、自殺を不可能にするのも、その人のもつ業である。業というものは、そのように生命に執着する、あるいは生命に根ざしているのである。自殺を可能にする業は、業のうちに入らないともいえる。同時に、生命から派生しながら、生命の根源を蝕んで止まないこの業は、業自身の自立運動を起こし、ますます強力になる。シェークスピアは『マクベス』に『罪から出た所業は、ただ罪によってのみ強力になる』と語らせている。平野遼の1950年代の後半から1960年代全般の作品が100点近く、最近発見された。これはこの6月に北九州市立美術館で開催される『平野遼の世界展』の出品作品のために、所蔵家を歩いているうちに発見されたものである。発見といっても、もちろん作者の絵が売られて、その後30年近くたって、一般の目に触れなかった作品が、新しく出てきたという意味である。平野自身も、当時の作品を忘れており、新鮮な気持ちで自身の旧作を見たようだが、私も今回、そのカラーポジを見て、強烈な印象を覚えた。そこには、平野遼のもつ業が、非常に濃縮されて存在している。あまりに濃縮されているので、前述した。生命から立ち昇ってくる力が、自身の生命を否定することによって、ほとんど生命自体のように、妖しく輝いているのだ。まさしく妖しく輝いているわけで、明るく肯定的に輝いているのではない。肯定的な世界は様々な夾雑物を含んでいるので、このボルテージがあがっても、ある意味でのどかにみえる。それはまた、一つの世界であるが、現代に生きる我々がおそらく感動をおぼえるのはむしろ全否定の中で、なおも発現する生命の輝きであるというと、ロマンティックすぎるだろうか。しかしそういうロマンティシズムしか信じられないのが、今日という時代かもしれない。その意味で平野遼は現代の代表選手の一人なのである。1945年に太平洋戦争は終結した。数百万の屍の上に終結した。意志に関係なく、国民皆兵の中で殺し合うことを強制されて、それに加えて敗戦に向かう環境は、飢えが迫って肉体的にも精神的にも、日本全体が生命を否定する環境の中にあったわけで、その時代を通過したことは、はかりしれない影響を今日の我々に与えている。その時代の現実を全身でもってうけとめ、その時代の業を、ほとんど孤児のような形で育てられた自身の業に重ね合わせたところに平野遼の原点があるように思える。『空から焼夷弾とグラマンの銃撃に明け暮れた1945年8月以前のどす黒い日々の実感を秘めているのだ。私は死の時まで、あの業火と荒涼の風景を内面の部分から完全に払拭し得ることなく、その心象風景は幼年期から少年時の暗い影をもひきずって、黒の闇に還るであろう』この黒の闇からひきずりだされる命の妖しい輝きを表現するのに、どうして再現絵画が必要だろうか。『生きるとは棄ててゆくことだと40代にふと思ったことがあった。抽象的表現とは不要なものを省いて直截に核心に迫ることであろう。凝視のうちに見えてくる型の内部に潜むものを掴み出したい。対象の奥深く踏み込んで、向う側に出なくてはならない』対象の奥深く踏みこんで、向う側にでなくてはならないという、平野の指す内容は重要である。(引用は、前述したように、6月に開催される回顧展の画集によせている、平野遼の文章から)向こう側には、どういう世界が見えたのか。それはきわめてプリミティブな、恐るべき自然らしい。いわば、平野の巨大な業を生み出す源のような存在の顕現である。インドの古代宗教の語る輪廻する源の大きな釜のような存在の顕現である。『私は最近、蟻のような微小な存在として道を歩く…そんな思いで事物を見る時、路傍の雑草も川底の廃物も巨大な密林秘境となり大湿地帯にも化してくるのだ』『投げ捨てた足下のボロ布、丸めて捨てた紙屑をふと見つめた時、そこに思いがけぬ悪魔のような表情を発見する。ある時は此の世のものでない神の如き貌かと思わせる不思議な眼が私をじっと見据えているのを感じ驚くことがしばしばである。古代の人も多分そのような眼で自然を見ていたと想像する。彼等が悪魔を刻んだ線はそれを語っているかもしれない』マクベスは行動人として『罪から出た所業は、ただ罪によってのみ強力になる』といいながら、その極限をめざして、破局を迎え、向う側につき抜けたが、平野遼は芸術家としてこの業を徹底することにより、『古代人のような眼で見ること』を獲得して、向う側に抜けた。トルコのイズミール郊外の回廊についての印象を綴った平野の文は、一種の名文であり、彼が最近どのような世界を手もとに引きよせようとしているのか、暗示される。『終日誰も通らぬ長い道は永遠にまで続いているように見えた。両側の巨木は鬱然と続き、その樹の下に羊飼いの牧童が一人微笑していた。葉の落ちた樹木は芸術品であり、枝は尖鋭な線となって強い力感で天空を突きあげていた。これこそ美そのものであろう』
2014.02.28
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平野遼 『婦人像』 30号 愛知県 名古屋画廊取扱http://www.nagoyagallery.co.jp/平野遼『記念美術館』設立に向けて2004年10月12日 12頁肖像画 平野遼は10代の終わり頃、一時期、肖像画塾に通っていたことがあるのと、また20代では日々の生活費、絵具代さらには酒代を工面せんがために、夜な夜な飲み屋に現われては酔客の似顔絵描きを重ねています。ペン等を使った素早い描写でした。また米兵の肖像画描きのアルバイトもやっています。こうした経験が後の肖像画には活かされています。じっくり腰を据えて描き上げるのではなく、比較的短時間で集中して制作されたであろうことが、そこに線として残された素早いタッチから窺われます。【所有者の感想】平野遼の人物画はなぜか、右を向いている人が多い…と気になります。
2014.02.24
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画像:平野遼『丘の上の村』版画1970年代から濃密さを失うことなく制作し、観る者の記憶に焼きつく作品を提示しました。たとえば<壁>(1972)<立像>(1979)<朝>(1972)<裸形の風景>(1982)<内藤氏像>(1985)<陶酔の時>(1986)<鳥は不安の只中にいた>(1986)など、どれも基本的には変わっていないのです。写実とか抽象とかを彼の場合に口にするのは非礼になります。一枚の画面に小さな抒情詩を描こうなどとは全く考えていないのですから、そこでじんわりとあぶりだされる実存の劇は、時代が無言で語りついでいる叙事詩を感じさせます。詩をうたいあげようとして成ったものではなく、存在の秘密を摘出した瞬間からおのずと叙事詩になっていくというそんな詩があります。私はこの風土の上に構築されていく平野遼の詩的コスモスに薄明の祭場を見てきましたが、彼自身が祭司となるとき決してそこが密室でないことに驚嘆します。叙事詩は歴史と関与するからです。凝視することは眼光を磁力に変えることに他なりませんが、彼は見えるものへの信頼を失っていないし、見ることが自己閉鎖にならず反対に自己解放になっていく刻々に、創造者の悲願である自由を拡充させるのです。いいえ、凝視によって増幅されていく自由を微光として信じようとしていると言うべきでしょうか。忘却のあとに安易な朝がやってくるなどとメルヘンを信ずるほど平野遼は楽天家ではありませんが、闇を密室と心得てそこに閉じ込もるほど病者ではないのです。在ることをつきつめていけばいくほど、不確実性の中に闇から抽出された微光が感覚されるとき、彼は『現実を信じているか』という問いに『信じられるものの確証のために描いている』と、きっと答えるに違いありません。そんな答えを低音で吐き出すとき、彼は冷めた修羅であり、哲学する猫の面相でかすかに笑うでしょう。色気に満ちた微光も不似合いですし、ましてや無責任な哄笑などできない相談でしょう。かすかな笑いには、だからといって嘲笑の片鱗もありません。彷徨するように見せかけてそれが一筋のゆるぎない道になっていることをひそかに誘っている自分への、いわば激励の笑いとでも評すべきでしょうか。いま、私は詩人としてその笑いの含む画家の自信に激しく嫉妬します。宇宙に漲る光や電磁波に感応しつつ、薄明の祭場にあって人間の劇=宇宙の詩を黙々とうたいあげている平野遼は、己自身を灯として私たちすべての眼をひきつけるのです。世俗にあってはほんの少し無愛想ですが、それは彼の見つめる対象との間の距離が一定していることで批評に高まっていくと同じく、私たちがその安易さを批評されているからです。画家は秘密結社員のように沈黙を大切にしますし、そこではじめて画面上の劇の起承転結(いや起承転々)に参画できるわけで、私たちもその人間の劇=宇宙の詩と付き合うためにも、彼の勤勉さと無愛想の真価に早く気づかねばなりますまい。欲を言えば、風の中で眼を洗い感性を研ぎすまして画家の透視力の百分の一でも身に付けて、宇宙に漲る光や電磁波に魂をさらしたいものです。私たちにも夢見る権利はあります。それを行使しかけたとき、腹の底からこの世紀の冷めた修羅に激しく嫉妬することになるでしょう。耳を澄まして平野遼の画面から川の流れに似た水音を聴き、億万年の彼方からやってくる正体不明の足音を己の肉の疼きで受け止めたいものです。地球誕生の原初から生きるものを包んでいた宇宙の波に衝迫されて、この画家との共生の喜びを持ったとき、人は物の本性にわけ入る夢想の虜になるにとどまらず、はかり知れぬ巨大な他者=神が秘匿してきた財宝を見抜き、それを共に盗もうと企てる共犯者になるでしょう。目出度い限りです。
2014.02.23
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画像:平野遼『ロバと男』版画平野遼は時代の暗部を凝視するとき、事更意識することなく物象の内奥に入っていきました。それはナマの政治イデオロギーとは何の関係もありませんし、ましてプロパガンダのために意図的な仕事をするような安易さに立つことはしませんでした。物の本質あるいは宇宙の諸元素と魂によって結びつこうとして多岐なる構造式を編み出そうとしたのです。そうは幻視的空間を作るのではなく、物を凝視することによって内部に分け入りそこで外形とは異なった世界を幻視し構造化することでした。物と対峙することは宇宙の諸元素と対峙することであり、ひいては社会という空間や時代という時期を己の魂で対峙することに等しいのです。眼に見えるものを超えること、それは自分から游離するどころか、物の内面を貫いた視線が結局自分に戻ってくることなのですから、当然ながら画家は独自の方程式を自分の扉を開く鍵として作りあげねばなりません。緊迫感と魂の鈍化とを一つのものとして融合させる画家は、表皮を剥ぎ、肉を切り裂き、外からは見えない骨をあばき出すのです。抽象とはそういう営みの帰結の謂ではないでしょうか。そこで画家は不要なものを捨てていますし、平板な散文的説明を拒絶しなくてはなりません。ときたま平野遼の描く空間が難解だと言う人がいますが、その人に欠けているのは『平野遼が自分と正対するためにどこを切り崩し何を捨てたか』です。『捨ててこそ』に徹した一遍上人と通じながら、根本的に異なるものは捨てきることで再生させねばならぬという芸術家の宿命においてです。一遍は念仏を称えることで無我の境地を作ろうとしましたが、平野遼は魂の純化を経て一つの必然的な形を造出しなければなりませんから、捨てることが究極の目的ではなく、捨てたあとに自分の思想を画面に碑銘のごとく彫り込まねばならないのです。虚無だの、出口がないのだの、絶望的だのと口で言うことは容易ですが、そんなことを看板にしている画家の甘えは、いずれ天罰を蒙るでしょう。平野遼はそれらの事柄について言挙げしませんでした。それでこそ彼は確乎とした思想の持ち主ということができます。彼は現代の状況に危機感をもって対峙していても絶望しきってはいないと思います。なぜなら存在の闇こそが希望の揺り籠だからです。自分を取り囲む暗い翳りさえも画家の眼を開かせるものだし、対象に入魂していく呪術師はその冥蒙の荒地に花を咲かせることができるのですから。もし絶望に近いものが渦巻いているとして、彼はその値打ちを知りつくしています。つまり沈みつつ消え失せるしかないというのと反対に、沈みそうになる惰性を浮力にして闇から芽を出させようとするのです。物の本性に立ち返り再生させること、それが状況に対する彼の根源的批評ではないでしょうか。虚無などと甘えてはおれないのです。死にたいなどとも、むろん言ってはおれないのです。実存への錐揉みと形容してもいいし、薄明の祭場での自己祭儀と見てもいいと思います。常に彼は魂の汗を流しています。時代が個人を窮地に追い詰めるなら、あらゆる物象を解体してそれを再生の契機にしてやろうじゃないか、というのが平野遼の秘められた芸術家的戦略です。闇から微光を紡ぎ出すその手つきの、何と細やかでいさぎよいことでしょう。
2014.02.23
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画像:平野遼『メジノーナにて』版画<青い雪どけ>(1959)を心象風景の遊戯的表現だと思う人はおそらくいないでしょう。しかし、この絵を社会状況の直接的反応とか、不安の形象化などと軽々しく言ってしまう批評に私は賛同しません。平野遼が状況の揺れの中で不安を募らせたであろうことは、およそ事実に近いでしょう。彼は動く外形を見つめ、その背後でもうごめいている見えない形象を射止めていました。言い換えると歴史自体が修正のきかぬものとして徐々に奇型化していく様を洞察していたのですから、エネルギーが噴出しても物を産み出すことがなく、逆に死を抱きこんでいくという背理に逢着したというべきです。エロスが即刻タナトスに転位する恐怖を、彼は時代の予感としてとらえていたと思います。この<青い雪どけ>は、雪という物質の解体現象を凝視して成ったものだと仮定して、そこをかれは裏側へと突き抜けていき、歴史のもたらす奇型化に脅える自分の緊張痙攣するイメージを描きとったのでした。青の色調はそれにふさわしく、タナトスから発せられる救いを求める声をそれは象徴していないでしょうか。死と背中合わせで叫ぶ者の真実は、闇のなかにこそ光が隠されているという逆説に等しいのですから。その時期の<爆発><青い童話><夜の花><樹根><亡びゆく寓話>なども、時代の闇との避けがたい格闘からの産物ですが、私はルドンの『暗闇の中の爆発』を重ねてしまいます。黒によって生の根源を象徴したルドンの、あの内奥性を帯びた薄暗い空間に突如として光を放射して、そこからあぶり出しの手法で存在の輝きを顕わすのと、平野遼が薄明の祭場で死から生を呼び戻そうとする聖なる営みの何と似ていることでしょう。ルドンがモローと同じく象徴主義者であったから、闇の処理方法が似ているので平野遼を同じように名づけるのは、およそ愚の骨頂です。語るべきこと訴えたいことが多いのを口で言ってしまう代わりに絵で表現する平野遼は、沈黙とすれすれの言葉がいきおい記号にならないということにおいて象徴主義者ではなく、むしろ哲学する猫として存在の秘密に解剖学的に斬り込んでいくリアリストではないでしょうか。ただ言えることは、黒を基調としてそこに光を導き入れたルドンの象徴性がいささかも自己閉鎖的でなく開かれていたように、平野遼の心象に肉薄するそのリアリズムもまた光を封じ込めたりしていないということです。むろん手放しの楽観ではありません。血が意識を濡らすように存在をえぐり出していくのですからいきなり曙光が射してくるというのではないけれども、彼の意志力は光を誘い入れています。いまは、ルドンより平野遼の方が状況認識の視角が数等鋭い、ということを補足しておくにとどめましょう。時代が暗く沈みかけると画家は印象派の絵のような楽天的な世界に住むことはできません。外光の輝きに酔おうとする自分をも断罪し、物の本質にわけ入らねば納得いかないのです。そこでは物の外面を写し出すことを拒否して内面を構造的につかみ取るという手法が用いられます。俗な言い方を借りれば抽象的表現になるということです。『時代が暗いと抽象画が生まれる』などと規定すると反発を喰うかも知れませんが、画家が存在するものと真に共生しようと命を賭けるならば、おのずからその方向をとるだろう、という私の信念は変わりません。最も暗かった戦争の中で描かれた『戦争画』が抽象でなく哀しいほどに迎合した具象であったことは、私の説を否定する根拠とはなりません。画家の主体性の欠如を先ず論究すべきでしょう。
2014.02.23
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画像:平野遼『ムーレイドレスの女』版画この自己造出の方法は<笛>(1974)においてすでに顕在化していました。手つきのぎこちなさはあっても、方法論は確立されつつあったのです。若年の誰もが体験することで、天才と呼ばれる先達のその尖端意識にあやかろうとした形跡も垣間見ることができるのですが、門の手前で立ち止まることなく、まるで忍者のように相手の内面をくぐり抜けてきたのでしょう。それが現実の放浪とダブって不思議な効果をあげています。ドラマティックというよりはミステリアスな自分との邂逅です。生活の辛酸の度合について他人は介入する必要はありませんし、本人も語らなくてもいいのですが、若い平野遼は画家になる以外のすべての道=可能性を拒んで、薄明の中を哲学する猫の如く放浪しつつ、体得するために捨て、棄てたあとに見えない財産を得ていたのでしょう。それが<笛>以降の<酒>(1955)や<立像>(1956年)などに確かな形象を与えています。哲学する猫という比喩を私が使ったのは、放浪のスタイルをつかんでもらうためではなく、闇を恐れぬ眼をすでに持っていたと言いたかったからです。おしなべて人は闇を嫌いますが、平野遼は自分を囲繞する闇と馴染みその中にいることを肯定的に受けとった気配があります。暮らしの階段のあたりでは絶望しながらも、闇の存在と意味を問うことによって表現者の孤独に目醒めていったとき、哲学する猫は画家でありえたのです。目に見える光を光と思う生活者の常識を否定した彼は、闇こそが微光を生む原基と見たてる非常識をつかみました。芸術家にとってこの非常識ほど健康なパワーはありますまい。そのパワーは事物の本性に思いをこらす夢想を育てました。初期の<自画像>(1955)はその夢想の意味にやっとたどり着けた自己確認の表情ではないでしょうか。その<自画像>について『相手を威嚇している眼でも、稗脱している眼でもない。傲然と構えて己れの器量を誇示しているのでも、不退の決意を表しているのでもない。なにか人間の行為や世の中の出来事に対し気に入らないことでもあるらしく、画家の表情は険悪そのもので、いまにも鬱屈した感情が爆発しそうな気配である』という見方があります。『自分自身に対しても焦躁と不満を感じているからだろうか』と補足されていますが、そのように一見できる表情のきびしさを、私は違った視角でとらえます。つまり『事物の本性に思いを凝らす夢想』のその意味にたどり着けた自己確認の表情は、決して自己満足のそれではなく、自分の存在を内視している批評の姿だと思えるのです。外部が見えている深さをそのまま折り返して自分の内部を見すえている哲学する猫の静止した一瞬の表情だ、と私は判断します。初めての夢想のたどりつくところは、人間を宇宙の諸元素と結びつけた安らぎと不安との相剋する場であり、普遍的な意味ですが、平野遼はそこで世に在るものが持つ避けがたい宿命と、色彩によって物質が蘇生する絵の活性とを知ってしまったのです。進歩でも成長でもありません。始発の時点で究極のセオリーをつかんだのです。30才の平野遼は10才のピカソが無意識のうちに宇宙の諸元素と結びついたように、すでに夢想を体得していました。薄明の中で光による世界の啓示を受けたのですから、当然のことながら可視と不可視の同居する宇宙の諸元素の絶えることなき更新に、身をもって、魂をふりしぼって参画しなくてはなりません。『存在の不安の中で、かすかに空間を緊張痙攣させる繊細なイメージのしぐさ』と『平野遼の空間には、蒙々たる土埃や濃霧がたちこめて見えることがあった。その下には、確かに大地が感じられるのであった。その中で、存在が、ときには非在にまで追い詰められるような切迫した息づかいがあった』は、私を納得させます。画家は人間すなわち自分と宇宙の諸元素とを結びつけ、あらゆる物質性とつながることによって夢想を構築しなくてはなりませんが、その営みはとかく人々に誤解されることにもなります。元素的現実と格闘していけばいくほど、人はそれを非現実ととらえ、抽象という形で事実の重さから遊離していると非難されるのです。
2014.02.23
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画像:平野遼『カスパの老人』版画讃歌 美に殉じた人々へ 松永伍一 231頁薄明の祭場 平野遼息づくいのちに言葉は要らない。闇があればそれで十分だ。歌さえ噛み殺している逆説の音楽堂子宮よ。さあ時がきた。在るべきものを在らしめるために外光の中に押し出してくれ。生誕の笛を吹かせてくれ。たとえそこが黄昏の巷であっても。始源の闇 子宮よ。その働きによっておまえは慕われるだろう。在るものすべての母として、まことの光の収納庫として。わが畏敬する画家・平野遼の常に追い求めている主題に、この一篇の詩を捧げます。『闇こそ光源』と信じている詩人の、友愛を込めた共鳴度を証すためです。絶望をくぐった希望こそ本当の輝きを持つはずですから、自分の眼に映る光を光だと思い込む人は画家としても詩人としても失格です。なぜなら、見るという行為に批評がなく、その視線に逆説が含有されていないからです。逆説はつねに危機をはらんでいるのです。批評とは存在するものの本質に鋭角的に斬り込んでみたり離れたりして、自分との距離を確実に測定することでしょう。どんな場合でも実在と自分とが一致するなどということはありえないはずですが、そのずり落ちている危機をのり超えようと模索する営みを批評と呼ぶべきでしょう。平野遼の主題は、そういう批評しか受けつけない重さを観る者に常に突きつけてきました。眼に見える光を光と思い込む人は、平野遼の思考の構造はおそらく見抜けないでしょう。彼が魔術師であるとか仕掛けの名人とかであるためではなく、魔術も仕掛けもなく正攻法で己に向き合い、己を宇宙の一角に佇立させて一歩も退かないことで、近付いてくる者がそれに圧倒され、難解だと思い、画面と自分との距離が定まらず、立往生をすることにもなるのです。その人はやがて自分の中の真の批評眼に思いあたるでしょう。つまり、見て感想を言えばそのまま批評になる、と思い込んでいた愚かさに赤面し、真の批評が描いた画家の人間としての総量にわけ入ってはじめて成立するものだ、と知らされるに違いありません。平野遼は己に忠実である分だけ、他者に対すると同じく己自身への批評を鋭くさせ、その濃度に応じて批評を詩に置き換えていく画家です。詩的とか詩人的資質とかで片づけては、平野遼は見えてきませんし、絵という具体物の前に立っていても、そこに平野遼は不在です。厳密に、批評を詩に高め、人間の不滅の要素に関与していく画家の、その自己断罪と自己表出の劇をのぞきえたとき、人は研ぎすまされた刃のような鏡に自分を映すことができるでしょう。その刹那から平野遼と出会えたことになります。念のために書き添えておきますが、批評と詩は同一ではありません。『批評は詩に似ている。それはほとんど裏返しの詩に他ならない。批評は、詩という母から一つの必然として生み出され、生み出された瞬間から母親である詩を否定しはじめる毒なのだ。だから互いに背中あわせに立つ批評と詩の間を隔てる空間は常に歪んでいる。この歪みは決して修正されえない』としても、平野遼は画家であることによって、批評と詩とをつなぎ、その両者の間の溝を埋める祭司になれるのです。いわゆる批評家になるわけでもなく詩人になるわけでもなく、以て非なる二つを連結させることで、実在するものと自分との不一致を恩寵をもって埋めようとしているかのようです。批評だけでも不可能なことを、批評を詩に置き換えるという独断によって平野遼は通俗の批評を受けつけぬ座を占め、そこに屹立したのではないでしょうか。
2014.02.23
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時間のとれるときに私蔵品をひとつずつ紹介しています。全ての私蔵品はこちらに掲載しています。http://www.geocities.jp/art_cafe_gallery/index.html SWITCH 1998年11月号 118頁眼は掴み、手は走る『世界は支離滅裂で、どっぷり重い空気に覆われている。人間の行末は当てもなく暗い。いかに文明の進歩が人間をよりよい生活に進ませようと、地平の果てに核が存在する間は、幸福ではない。靉光は、一種本能的な危機感をもって、彼の作品中最も重要な毛筆デッサンを残している。(中略)この戦慄すべき作品群は、油絵以上に評価し、もう一度見つめる時代に来ていると思う』この言葉は画家平野遼の画業がようやく順調になり始めた33才・1960年に、生涯尊敬し続けた画家靉光展を見て記した文章の一部である。平野にとって靉光の作品は、戦後間もなく上京した焼け跡の中、東京都美術館で行われた自由美術家協会展で出会って以来『美しい虹のように』眼前を通り過ぎるもので有り続けた。平野遼が瞠目し続けた靉光が上海で戦病死してから半世紀以上が過ぎ、平野自身も土に還ってから丸6年、仏教的に言えば七回忌を迎える。そして今秋、靉光の本格的な展覧会が東京で10年ぶりに行われ、平野遼本人の遺言による遺作展が北九州市で開催されることになった。この偶然と重なり、あの世からこちらを見つめて居るであろう平野にとっては自然な再会とも呼べる時空の重なりの中で、冒頭の文章中『靉光』を『平野遼』自身に置き換えて、本展覧会にささげたい。平野遼は、高等小学校(現・中学校)卒業以来、美術学校教育を受けることも特定の師につくこともなく、独習によって絵画に没入し続けた絵描きであった。すでに本誌でも2回採り上げられ(96年10月号、97年12月号)、NHK『2人のアトリエ』(97年4月ETV特集、6月衛星第一で放映)でもその生涯や作品が紹介されたことから、生命の深淵を描いた作風をご存じの方は多いことと思う。昨年6月には、北九州市立美術館で没後初の大々的な回顧展『平野遼展』が開催され、初期の蝋画から晩年の未完の油彩まで幅広く展示された。回顧展では、アトリエ蔵の作品も出品されたが、それとは別に平野遼は生前、清子夫人に遺作展開催のための水彩画を託していた。その事実を知ったのは、展覧会終了後であった。平野にとって仕事、画を描き続けることは、己に対して常に死を突きつけることでもあった。それは敗戦後、美術教育を受けず、何の後ろ盾もない、地方出身の青年が画家を目指すこと自体、死との境界線に身を置くことであった現実と無縁でなかろう。食うや食わずの混乱期に絵を描き続けることは、平野自身『のたれ死にの思想というのが私の頭の隅にこびりついていた』と表現したように、死を前提にした行為であった。時代が移っても、平野の画に対する姿勢は終生変わらなかった。『隅とは、つまり、最後に人間がみな消えて行く、あの死という奴である。私の仕事は、こいつを忘れては始まらない』。隅を凝視することによって命そのものを表現しようと自己に迫り続けた。死を目前にした晩年の日記には『急いで仕事をし、孤独に耐へて自己完成を果すしかない・・・うやむや姿のまま消えたくない。明快な自己主張を実現したのち誰も知られず死にたいのだ』という文が遺され、死に対して『誰にも知られず死にたい』という想いと、『明快な自己主張を実現したい』という相反する想いに駆られていたことがわかる。一見、矛盾と自己韜晦に満ちているようだが、生涯孤独に自己と対峙し続けた画家にとって当然のことであった。『みんな詩人は一人で、詩という野原を淋しく歩いてゆくのです』そう言って、“旅人かへらずの”西脇順三郎はこの世から消えたのだと平野は引用したことがある。画家の歩む姿も同じだということであろう。生涯を通じて流れる、孤独感という通奏低音がのしかかってくる言葉である。一人でこの世から消えて行くことを誰かに知らせる必要はない。問題は、画家が何を表現したか、にかかっている。遺作展は絵描きとしてこれだけは見てほしい、という万感の想いが込められた『明快な自己主張』なのである。通常、遺作展が開催されるとき、作者は不在であるから出品作品の選定は残された人間が行う。しかし、平野遼の場合は違った。平野は生涯、何通か遺言書を作成している。最初の遺言書は39才を目前にした1966年2月、清子夫人宛てに作成された。そこには、、葬式をしない、自分の死の公表は死後1ヵ月経ってから行うこと。そして遺作展をすることなどが記されていた。30代から既に遺作展を意識していたことが窺える。1975年9月、小倉公証人合同役場に遺言公正証書を提出して以降、平野は遺作展に向けて一つひとつ実行に移していった。木目そのものが見える白木(ナラガシ材・額寸84×69cm)のシンプルな額縁を注文。アトリエの上棚に常備。折々、気に入った作品を自らの手でマットを装し、アトリエ奥の倉庫に保管し続けた。それを証言するかのように、空の額がアトリエに、刃を入れていないマットが倉庫に眠っている。現在も、描けるだけ描こう、選べるだけ選ぼうという体制にあるのだ。紙の作品を額装するほとんどの場合、画面分の穴を開けた紙製や布貼りのマットを入れて、内面から画をのぞかせる。マットの内側を歪みや狂いなく切り抜くには熟練した技が必要で、通常は画家がマット装の作業まで行わず、大抵、画材店に依頼する。しかし、平野はいつも自らがカッターを持ち、玄人はだしの腕前でマットを切り、額装を行っていた。遺作展用の作品も同様で、自らの手で額装し、後は会場で並べるばかりの状態にして保管していた。自作に対して並々ならぬこだわりや愛着があったことを忍ばせる。本人が選んだ作品、そのものについてふれよう。27点の抽象性の高い水彩画の中で最も初期の作品は『奇術師』(57年作)で以降、晩年までの35年間の歩みを見ることができる。この他、過去の個展で出品した作品も含まれる。これらは『個展はいかなる構成であろうとも作者の客観凝視の場なのである』という、作者本人の厳しい眼による試練をかい潜った強者、と言えよう。その一方で晩年近くに描かれたのであろうか、サインもなく、題名不詳、制作年不明の作品もある。生前の展覧会出品作に題名のない作品は存在しない。『平野が生きていたらすぐに題を教えてくれるんですけどね・・・』と夫人が画面を通して彼方をみつめる。画面に広がる微妙な色と形の中には『抽象性と具象と、見る眼と見えてくる眼』がある。透明水彩を塗った後に水で洗い流すことにより紙に色を定着させる技法『洗い出し』によって醸し出される微妙な色合いやにじみ。画面の奥へ浸透する透明感が広がる一方、絵具が塗り重ねられる部分が存在することによって『画面の内部に踏み込んでゆける空間を押し広げる』色彩の面と量の間には、ペンの細く走る線と、ときには紙そのものをひっかいた線が交差し、ある形態が見えてくる。透明な水彩や紙、画材の持ち味を十二分に活用することにより、大画面の油絵とは別の、凝縮された空間の醍醐味が存在する。画を囲むオフホワイトのマットは、時には画面を大きく包むように開かれ、時には覗き穴のように小さく開けられ、見る者を画の世界へといざなう。すべて平野遼が遺した造形である。作品の前に立つことは、画家平野遼の魂にふれることなのだ。今展覧会では、画家本人が選んだ作品以外に、未発表のペン画、素描を含めた30点が並ぶ。その背後には『頭だけ、手だけ・・・つまり抽象だけ、具象だけ・・・を見て平野遼と思ってほしくない』という清子夫人の言葉があり、更には『実体のない抽象はない』という画家の極意がある。平野は生前、午前中は油絵の大作、午後は小品、そして夕方にデッサンを行うというスケジュールを毎日こなしていた。『私の仕事は見たものを掴みだしたものだ』『外側から内部へ、肉体から精神へ、こうした循環によって、私の絵画は生まれてくる』と述べている。すなわちこの言葉は、平野遼の画の世界が、対象の外側を見て行うスケッチやデッサン、観た内部を表現する抽象画の循環によって、生まれてくることを示す。かつて平野はデッサンについて、こう記している。『今度並べた作品は、スケッチを基にして描きあげたものである。(中略)ここでは、いつもの自己主張を引っ込めて、その何気ない身振りを呈示しながら、人間の真実に迫ろうという訳である。さりげなく歩道の電柱の端に佇立しながら、デッサンは素早く描かねばならない。対象は、勝手に振る舞い、その変幻自在はいつはてるともない』抽象の水彩、油彩でも見られる素早い線の動きが、素描では一瞬の動きという獲物を捉える狩人の眼の動きにあわせて走る。素描を鑑賞する者は、狩人が捉えた新鮮な獲物、呈示された変幻自在の一瞬に潜む真実を味わうことができる。それは、われわれが、『ついに、見失うもの』まで逃さない狩人の眼の動きに、固唾を呑むことでもある。眼の動きだけではない。『大量の素描は、その油彩にくらべて、平野遼という画家の、内面の眼の生理や身ぶりみたいなものをベールをかけずに直接ナマに出したすごさがある』と過去に評されたように、画家の内面を駆けめぐる血流を直接凝視したような感がある。『内面の眼の生理』抽象や油彩では塗り込められてしまう、外部から摂取した獲物が内部へ消化吸収される過程。そして逆の内面から外側への流れ・・・である。逆の流れ、とは対象の命にそそがれる慈しみの眼差しや、ときに『自己主張を引っ込めて』外界の透き通った光そのものを表出する反射的な生理である。素描には、画家が展開した外側と内面の循環を、鑑賞者もたどることができる楽しみが隠されている。1991年7月の日記にはこう記されている。『私の絵画は底に空間感覚と理念のせめぎ合いによって生み出されて来た。表現方法の問題は嫌悪されるべきであり、そればかりでなくその問題化は、もはや動くことを忘れてしまった精神の衰弱を示すものだ。鋭い凝視と感覚をもって対象に向かう時、描くべき対象は、ほとんど無限に続くというのだ。自由であることの意味は、多角的造形を展開することでもある。自己のスタイルとか限定されたテーマとかでは、複雑な世界は描き得ないのだ。見える形から型の奥にあるもの。更に空間の中で生の要求に即応されなければならない。表現は自由なのだ。具象も抽象も芸術家をコウソクしない』一瞬のうちに疾走してゆく対象の真実を、自らも疾走する眼と手をもつことによって、抽象・具象に拘束されず自由に表現し続けた絵描き。見える形から型の奥にあるものを凝視して捉え、展開した造形さえも、次の瞬間には疾走してしまうと感じる。無限の対象を追い続けた『永遠のチェイサー(狩人)』平野遼の遺作展を見ることは、画家の魂に出会うことであると同時に、複雑な世界の真実を突きつけられることでもあるのだ。
2014.02.09
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平野遼 水彩・素描集疾走する哀しみ発行日:1998年11月3日発行所:株式会社 スイッチ・パブリッシング8頁 まえがき先日、平野の日記を繙きますと、こういうことが書かれておりました。1986年5月20日くもり大雨止む午前中80号『疾走者』完了する。この作品はむろんモーツァルトのト短調弦楽五重奏からの発想であり終始この出だしの旋律が耳に聴こえていたのだ。平野は常々『死は突如としてやって来る。その時に無念の想いをしたくない』と、日々描かずにおれない様子でキャンバスに立ち向かっておりました。対象に向かってあくなき完成を目指すあまり、完成されたと思える大作も潰してしまい、またデッサンの山の中から残さないと決めたものを躊躇わず破棄してしまうことも度々でした。アトリエから聴こえてくる音楽を耳にしては、その痛みを感じ入る毎日を過ごしてまいりました。ある時、平野はアトリエの倉庫の棚に置いてあるこれらの作品を自分が亡き後必ず展示してほしい、自らマットを作成し、額装して用意しているから、と申しました。その思いもかけぬ早さで私の肩にのしかかって来ました。1992年11月に卒然と逝ってしまいました。そしてこの度、抽象水彩画27点と、演奏家が日々レッスンを怠らないように日課としたデッサン、また街の中で眼にとまった人々の何気ない素振りを追ったスケッチなど、大作の下地となったであろう一面も窺っていただきたいと思い、不充分ながら平野の願いを果たすべく、本人の遺言による<平野遼・水彩・素描展>を開催いたしました。そこで作品集を制作することになり、日記の言葉から『疾走する哀しみ』と名付けさせていただきました。平野がしばしば口にした『美しいものを見る眼があれば人は老いない』というカフカの言葉を今、鮮烈に思い返し、多くの美しい作品を残して自身も疾走してしまったという感慨を深くいたしております。平野清子SWITCH 1996年10月号 105頁特集 平野遼遍歴 光を閉ざしたアトリエ112頁 抜粋一緒になる時、平野は私に言ったんです。『自分は絵を描いて生きたいから、この世でたった一人でいい、理解者が欲しい』と。夫人の言葉が思い返される。ならば壮絶であったかもしれない平野遼の人生は、夫人の思慮深き理解と豊かな愛情により、満足のいく終焉を迎えたと言えよう。幸福だった人生だったのではないだろうか。病院から戻ってきた時の平野はこう書き遺した。地獄の季節を私と通って今は喘鳴さる肉体をアトリエの中にしずめている何という美しさだ何という心躍る悦びか・・・もう何があったって絵を描きながらくたばりたいと念じているランボーの苦痛を思い続ける何ひとつ検査の結果を知らされぬまま紅葉したケヤキの中をよろめく足で帰ってきたのだそして日記はここで終っている。・・・・・
2014.02.09
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藝術公論 1988年5月号 56頁平野遼の黙示録 闇に光る眼と詩魂 文・林紀一郎平野遼の眼は夜の闇にその鋭敏な透視力を発揮する。存在の光の部分よりも、陰影の部分に、既知の事物よりも、未知の事象へ、その繊細な触手が迫っていく。可視的な現実の前ではほとんど仮眠状態だった彼の眼が、ひとたび、闇の中、霧の彼方、地の底、水の底といった凝視を必要とする対象に向う時、にわかに覚醒するのだ。そればかりではない、樹木の葉のそよぎ、風の音、波浪のどよめきにも耳をそばだてると同時に眼が、同化して自然の内なる声を捉え、映像を彼の内部で結ぶのである。≪見えてこないと、なにひとつ描けるものではないのだ。そうした意味から言えば、私の絵は世に謂う幻想絵画とは異なっていると思っている。≫(『平野遼自選画集』小学館・1976年)見えてこないと、絵は生まれない。ただ漫然と外界を眺めていては、それは見えてこない。ひたすら視ること。平野遼の言葉を借りるなら、“内から外へ向う眼と、外から内部に向う眼”とを同時に併せもつそのような眼差しが対象を凝視すること。対象は架空の世界にはない。平野遼自身の日常的な身辺に存在するものだ。アトリエの一隅にいつしか棲みついているさまざまなものたち。使い古した筆や廃物になった絵具のチューブやボロ布や絵具のしみついた椅子や壁や床、その他のアトリエの住人たち・・・。散歩の道すがら遭遇するさまざまな事がらやものたち。雑草や石ころや木片や空缶や鉄くずや、その他自然と人間の日々の絶えざる営みの痕跡たち・・・。平野遼の眼差しはこれらのことやものにむけられる。熱っぽく、激しく視る。空想などしない。見えてくるまで凝視する。やがて混沌の闇のなかから妖しい光芒を放ちながら、名状しがたいフォルムが色彩が見えてくる。生活の日常的な諸断片がそれぞれ一つの小宇宙と化して画家の内部に顕現するのだ。日常性の小さな断片たちが画家の詩魂によって聖化されたのだ。確かに、平野遼の言葉のように。このようなものの見方は、幻想絵画とは異質である。彼の眼は、現実を直視するリアリストの視覚をもちながら、同時に、現実の背後に隠され、事象の内側に秘められている。生命的なもの、存在の根源的なものの美を描き出そうと努める探求者の視角をもっているのである。この探求精神の持主をロマンティストとも理想主義者とも呼ぶことができるだろうし、表現主義の画家ともみることがだろうが、それらのレッテルを貼ってみたところで、平野遼の絵画が語りかけようとする宇宙の存在論的な美学の内実は何一つ明かされないのである。さて、『青の中の生きもの』や『地に潜む』の画面の混沌から生成する奇妙な棲息物をどう語ってよいのか。『沈黙の風景』や『青の風景』や『夏の夕暮』はやはり、平野遼の眼に見えてきた風景なのだろうか。『走る朝』の空間の中の大気の揺れと、人間的なものの運動感は内から外へ向う眼が捉えたものなのか。不思議なことに、平野遼の画面空間は、朝であろうと白昼であろうと、まるで夜の闇の中に混沌そのものとして描かれる。太陽は死んでいる。世界はつねに闇の中に生きているのだ、と言わんばかりに、薄明の妖しい光芒が漂う。絵を描いているというより詩を描いているような平野遼の画面にひろがるのは、黙示録の世界であろうか。だとすれば、平野遼はリアリストでもロマンチストでもなく、一人の予言者といわねばなるまい。(新潟市美術館長・美術評論家)
2014.02.09
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SWITCH 2002年 12月号 96頁平野遼が充てた1984年1月24日消印の松永伍一への手紙にはこうある。想いがけず画廊にお越しいただき有難う存じました。ペトロ岐部の話は、私の内部でちょうと暗雲を突き破ってさす太陽の乱放射です。今秋の個展に、何かそうした主題の人物を並べたいと思考中です。二人が出会ったのが、その直前まで開催されていた東京、永井画廊での『平野遼水彩素描展』でだったというから、展覧会を終え、小倉に帰った平野がすぐに松永宛てに手紙を書いたということになる。手紙中にある『ペトロ岐部』とは、江戸時代初期、日本人として初めてキリスト教の聖地・エルサレムに足を踏み入れ、司教となり、その意志を日本で貫こうとし生きたペトロ=カスイ岐部のことである。ラジオの番組で松永はその東のマルコ=ポーロとも呼ぶべきこの日本人の話をし、それをたまたま聴いていた平野は、松永が話すペトロ岐部の生き方に惹かれていたという。だから、内藤武敏の紹介で松永が個展に訪れたときも、初対面であるにもかかわらず、挨拶もそこそこに、平野はこう彼に語りかけている。『この間の松永さんのNHKのラジオを聞いて感動しましたね。いやあ、すごい男がいたんですね。こういう人物がいたということが驚異です。僕はペトロ岐部にものすごく惹かれます』その声は、ペトロ岐部という人物に着眼し、研究していた松永に対する労をねぎらうニュアンスさえも込められた、人懐こい響きがしたと、松永は振り返っている。『ペトロ岐部にこちらも惹かれていたし向こうも惹かれていたわけで、初めて会ってそんな話で盛り上がったんですよ。だから、妙な・・・、だけど僕にとっては素敵な出会いでしたね。誰かの絵描きさんに紹介されて名刺交換してとか、そういう堅苦しさはいらなかったんです。あんな口べたな人が饒舌に感想を述べてきて、二人が一瞬のうちに扉を一緒に開けたという、まさしくそういう感じだったと思いますよ。お互いの信頼が一瞬のうちに出来上がって、それから東京で展覧会をする時には、会場に行って、夜空いていたら食事でもしましょう、という付き合いになっていったんですよ』そのときの手紙には、平野遼が1975年に描いた画『歩く人』を模写したプリントが2枚同封されていた。『歩く人』は、平野が敬愛するジャコメッティの影響を受けた線描画で、一人の人間が動き、過ぎ去っていく、その未来へと向かう姿を、線で追いかけるように描かれた絵である。白いキャンバスを空間と時空を合わせ持ったこの世界と例え、そこを強い意志を持って歩いていく姿は、平野自身が生まれて孤独と向かい合い、ひとつの道を切り開こうとしている、その姿とも重なっている。人生のテーマのようでもある『歩く人』、その写真は、松永にこのような印象を与えていた。『これは深読みかもしれませんが、ペトロ岐部は平野さんの故郷、大分県と同じなんですよ。平野さんは自分の幼い頃にあまりいい思い出を持たなかったけれど、あの土地に400年ばかり前に生まれ、それで世界中を駆け回って日本に戻ってきたというペトロ岐部を、自分の飛躍の一つのシンボルのように捉えたのではないかと思うんです。それが『歩く人』の、自分の理想に向かって歩く男と重なったのでしょう。しかもペトロ岐部は砂漠の荒野を歩くわけですよね。大都会を歩くとかじゃないわけですよ。芸術家の生きている空間なんて、例えるならば砂漠みたいなものなんです。険しいし荒々しいしね。そこでブッ倒れればそこで終わりという、命がけの状態を作り出すのが砂漠でしょ。そこを大股で歩いている男に平野さんは自分を託し、自分の内面にあるものがペトロ岐部の行動と合致したんだと思います。まるで幻のように・・・』松永はそのペトロ岐部の一生についての物語を偕成社から発売されている中学生向き本にまとめるつもりでいた。『旅びと』と題したその本の表紙、挿し絵は、その出会いを経て平野遼が担当することになる。自らの作品を作り上げることに力を尽くしてきた平野にとって、作品以外で何か描くという仕事はそれまであまりない。しかし彼はこの挿し絵ならぜひ描きたいと松永の申し出を喜んで請け負った。それほど平野は、自分の想いをペトロ岐部に重ねていたのだろう。『そういう点では運命の出会いというのは大げさですけど、やっぱり出会うべくして出会ったんだと思うんです。挿し絵を描くということは、当然仕事ではあるけれど、取り引きが全くないわけですよ。金額がいくらですからお願いしますというのが全くなく、僕も平野さんも両方でやりましょう、やりましょう、という感じで、本当に楽しくやれた。平野さんにとっても、本格的な作画をしている時の真剣さとか、作品に没頭して、ということとは違って、葛藤というものが少ないわけですよね。どこか遊び心もあってイメージ遊びもできる。歴史の時間の中に自分も旅をする喜びもある。自分の作品を作るのとは違う感覚で接した、その作業は楽しかっただろうなと思いますよ。その時の表情を見たことはないけれど、いつもの油絵を描いている時の物を凝視する眼差しじゃなかったでしょうね。ちょっと微笑みがあるような、時間の彼方に遊びに行くような、そういう表情があっただろうと思うんです。きっとそんな幸せの時間を平野さんは持っていたんじゃないかと・・・』この松永伍一の文章による偕成社のシリーズはその後、歴史上の人物達へのオマージュのように、その生き方に惹かれながら、二人は言葉と絵でそれらの人物の生きた背景を色鮮やかに蘇らせていくことを楽しんだ。それは、同世代の二人が、自分も今という歴史を生きる表現者としての歩みを確かめるものでもあったのかもしれない。そしてその物語を離れたところでも、『言葉』と『絵』という表現の違う二人は、自分の世界を表現しようとしていく姿勢において、影響しあう同志を得たような喜びもあったのだろう。1984年7月、美術世界画廊で行われた『平野遼抽象展』の案内状に松永伍一が寄せた『発光するポエジー』という原稿にはその想いがよく現れている。抽象とは詮じつめると『宇宙の詩』ということになる。動が静になり、静と見えたものが動きを感じさせる刹那、一枚の絵も宇宙の重なりに拮抗しているのではあるまいか。平野遼さんの抽象の空間にそれを発見し、言葉で勝負してみたいという激しい欲望にかられたのである。ありがたい刺激であった。松永が書いたこの原稿は、短くはあったが、抽象という平野遼の内をえぐってのみ表出する世界に、同世代の人間として素直に驚き、感動を受けた心の揺れが描かれている。さらに、だからこそそれを言葉で表現することに挑みたいと思う、詩人としての意志も感じることができるのだ。『この展覧会に展示する抽象画を観たときに、平野さんの匂いがプーンと匂ってきて、ああ、これは平野さんの内蔵のあたりからエネルギーが出てきて作り出されている印象を受けるんです。だからそのことを書きたいと思いました。普通、内面っていうのは、だいたい心理的な物を内面というのであって、内蔵とは言わないでしょ。だけど平野さんの場合はちょっと内蔵っぽく出てくる感じがするし、生理的な匂いがする。そういうものを僕は詩人としての直感で感じていたんです。平野さんの内側に見えたり、躍動したり、脈打ったりしているような、それが一枚の紙に表現されているんだということを。その平面に表現されている裏側に平野さんの内蔵が疼いているようなそういうものの偉大さと、そういうことをやっている抽象画家のすごさというものに、僕も打たれているわけですよ』原稿は散文詩のようにテンポよく、松永が自分の表現と闘いながらひとつひとつ言葉を選び出して書いている過程がそのまま伝わってくる。『そして、その打たれた想いを言葉にすることは僕にとってもひとつの挑戦でもあったんです。言葉に書けるのだろうかって自分に問いかけながら書く。だから葛藤しながら書いている』しかし、ただ俯瞰して論じる美術評論家の評論ではなく、同世代の詩人として平野遼の世界に一歩を踏み込もうとするその言葉に、平野もまた感銘を受けていたという。『ジャンルが違うから良かったんだと思うんですよね。絵描きさん同士で、しかも近いところに住んでしょっちゅう行き来したり一緒に呑もうなんて言っていたら、おそらく喧嘩したでしょうね。でも、僕らは距離的に離れて生活していた。だから時たま会う。時たま会うということは、日頃貯まっているものを吐き出すわけで、貯まっている一番いい、珠玉のものがさりげなく出てくるんです。食事を一緒にしているときやお茶を飲んでいるときとかにね。だからあの距離を取ったところにお互い住み分けている、そして時折会うという状態だからこそ、違うジャンルで生きている人間の闘いの、汗の匂いのする状態の言葉がポンと出てくるわけですよ。それは平野さんにとっても刺激であり、喜びであったんじゃないでしょうか』あなたたちにはあなたたちの闘いがあるでしょう。私には私の闘いがあります。だけど、本当に闘っているもの同士であれば、共鳴できるものがあるはずです。平野はそういう想いを抱き、友情を越えたところで松永と付き合っていきたいという願い、そして、この人とならばそういれるはずであろうという自信を持っていた。だからこそ平野は、その挨拶状への松永の原稿をきっかけにして、何度も自らの展覧会や図録への言葉を松永に依頼したのだと思う。常に自分自身と向き合うことで作品を描いてきた画家は、確かに孤独ではあったが、自分の抽象世界を理解してくれ、彼自身、その同じときを自らの表現で闘い進んでいこうとする同志の言葉を欲していたし、それはいつのときも平野遼への激励となっていたに違いないのだ。平野遼の作品、そして彼の生き方を見てきた松永伍一は、彼と共に書いたペトロ岐部の一生を追った著書『旅びと』のように、平野が他界したのち、一人の歴史を振り返りこう書いている。平野さんはもう生身としてはこの世に存在しません。だが、死の瞬間から画家の分身である作品が真実の息を吹き返すのです。生命体として不滅の光を放ちます。進行形のときはまだ漠然として掴みどころがなかったのに、完全な過去形になった途端に、観る人に近づき自ら扉を開いてくれるのだから不思議です。それは、完結した瞬間から、その歴史は新たに語られることを知っている人の、優しい言葉だった。
2014.02.08
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モチーフを『群衆』から『個人』へ・・・過渡期の貴重な作品です。 SWITCH 2002年 11月号 92頁掴み取られた<生>内藤武敏は、1969年、銀座にあった大阪フォルム画廊から一枚の葉書を受け取った。その葉書には少女を描いた油絵がプリントされていた。風船が自らの手から離れ、虚空に上がっていくところを目で追いかけている少女を、斜め上から描いた油絵。内藤はその絵に心を掴まれた。『何て言うんでしょうね・・・。人物を描く場合に、ただ女の人を描くと美人画とか言われて、女の綺麗さを描いているんだけど、その絵はそういう種類のものじゃなくて、少女が一人でいるだけなのにその少女の生まれてきてから死んでいかなければならない、この世に生まれての束の間の賑わい、束の間の<生>を一瞬で捉えたような絵だったんですよ。だからそれを見た瞬間、その少女を通して、まだ知らない作家と繋がったわけです。そういう、人間、生、というものに対する見方が非常に自分と近かった』その葉書は、画廊が行う展覧会の案内が印刷されているものだった。週が明けたウィークディの午後、内藤はどうしてもその作家の絵を見たい一心で、再び銀座の画廊を訪れている。小さな画廊の、無名の画家の展覧会には誰も観客はなく、その作家が一人いただけだったという。こうして内藤武敏は、小倉を拠点に活動していた画家、平野遼と出会った。『その時は群像が主な作品として展示されていましたね。その中で少女の絵は一番優しい絵でした。彼はその時期、ほとんど個人の人間は描かなかったんです。いや、描かないこともないけれど、作品にするというよりはデッサンとして描いていた。それは、個人というよりも、公害の元における人間。あるいは状況下における人間というものを作品のテーマとしていたからです。一人一人が違っても、人は、時代、社会というものに鷲掴みされていると考えれば、AさんもBさんもCさんも共同の運命を担っているということで群像だったわけです。彼はそうして世界を捉えようとしていた。多分そう思います』師匠もいない、美術学校も出ていない、弟子もとらない、どこかに所属することを避け、ただ一人で絵を描くことに向かい合う平野遼の生き方は、フリーランスの俳優として映画会社、テレビ会社から独立して仕事をしてきた内藤自身の生き方に勇気を与えた。内藤は東京に住んでいたが、小倉出身であったということも互いの関係に親しみを与えたのだろう。彼らの交友はその出会いをきっかけに、平野が死ぬ1992年まで続くことになる。平野遼の作品図録を見てみると、内藤の肖像画をはじめ、内藤の顔をモチーフとした人物画が多く描かれていることに気付く。内藤が平野にモデルを正式に申し込まれたのは、すでに付き合いも15年過ぎていた頃だったという。それまで、『群像を描く』ことで世界を視てきた平野が、『個人を描く』ことに向いてきたのはこの頃だった。『今まで群像ばかりやったけど、一人一人人間個性があるから、その人の人格や人間性に触れた絵を描きたいと思うようになりました、と言っていましたね。そうやって群像を描くことで世界を視てきたけれど、今度はその中で何か新しいものを発見してもう一つ甦らせたいというような気持ちが湧いてきたのでしょう。それから平野さんは個人を描くようになった。奥さんも描くようになったし、自画像もしつこく描くようになった。そうして私を描きたいとおっしゃった』内藤武敏をモデルにと平野が思ったきっかけは、NHKで放映された千利休の再現ドキュメント『利休はなぜ自刃したか』で、利休役を演じた内藤を観てからだった。内側から迫る内藤の演技、そして彼の表情からは、その人間像が透けて視えてくるようだったという。顔から凝集された人間の生活全体、深い内面を掴み取る、それを平野は絵の世界において自分が辿り着きたい新たな目標としたのだ。1985年6月、仕事の休みを利用し、内藤は小倉のアトリエを訪れ、モデルとなっている。そのときの平野との時間を彼はこう振り返る。『平野さんは描く時に“この頭には塵がいっぱいに詰まってる、詰まってる、詰まってる、詰まってる、いっぱい詰まってる!”って自分に言い聞かせながら描くんです。それから一番大事な時には息を止めて描いている。ものすごい緊張感ですよ。だから、集約された短い間にその人の内面をグッと全部えぐりとってしまおうという迫力がありましたよね。気を詰めて根を詰めて呼吸を詰めて、その短い間に挑むというようなやり方でした。だから向こうが息詰めてくるからこっちも壊れないように壊れないようにと持続する。しかし持続するにはだんだん自分が疲労してくる。だから枯れないようにエネルギーを次々生産するんです。そうしないと空虚になりますから、掻きとられても掻きとられてもそれが減らないように満たしていかなくてはという感じで。だから終わった後はお互いとても疲れるんですよ。疲れはするんだけど、平野さんはこういうふうに描いているんだとわかりました。身体も悪くなりますよ、やっぱり・・・』この作業は二日間続いたという。その短い時間で平野は12~3枚もの肖像画を描き続けた。『念を積み上げていくようなことだったと思います。』そして閃き、閃きはラクして出ないんですよ。やはり追い上げて追い上げて酸素欠乏でもうおかしくなるような瞬間に、カッと閃くんです。僕らの芝居も同じです。お芝居というのは、台本に言葉が書いてるだけですから、それをどういう状況でどういうつもりで言うか、相手からどう言われるか、どう反応されてどうなっていくかということは我々に任された仕事ですから、言葉に書かれていない何かを自分でひねり出していかなければいけない。いかにその中にある何かを捕まえて劇中の当事者のように生き生きとやるかなんです。そこまで自分の意識を高めていって初めて滴り落ちる一滴、閃きは努力の末、すべて満ちた時にタラタラッと出るようなものです。出たらそれを足掛かりに上にも下にも広げる。絵描きも生きた人間を描く場合には、自分も気分が変わったら描けないし、相手も気分が変わったら空虚になってしまうから、充実した時間の中でお互いが意識し合うということですよね。だから、我々の仕事と相通じるものがあるなということを、その時初めてわかりました。内藤は自分がなぜ平野遼に惹かれたのか、その時、再び身体で感じたに違いない。絵は一枚の平面にすぎない。しかし、『少女の絵』に生まれてから死ぬまでの<生>が映りこんでいたように、平野は絵の背後に個人の人生に対する感情や思想までもを塗り込めていこうとしたのだ。まるで自らの生を削り取り、その代償として、肖像画に生を与えるように。平野はそのとき内藤を描いた感想を、このように手紙で書いて送っている。 <2日間、御苦労さまでした。心からお礼申します。演技者の内部を表象する貌をまのあたり目撃し得て、一種さわやかな感動を味わっていました。やはり鍛へ抜かれた精神と肉体は逞しく強い面と量でありました。それが役者というものだ・・・と感じたことです。私はそれに加へ内なる世界の、つまりは眼を閉じてこそ観えてくる根源のフォルムを求めています。しかし時間が足りませんでした。また次の機会を私に与へて下さい。10点くらいかかりひとつの実証的世界を実現したいと念じております>その後も何度か内藤はアトリエを訪れている。内藤が来れば、平野は描き、終われば酒を飲み、酒を飲まない内藤は清子夫人が立てた抹茶を飲みながら語り尽した夜は多かった。『いろいろ話を聞くとね、一日の活動が決まっているらしいんですよ。夜寝る時は、明日はあの絵が乾いてきたからあの絵のここからやろうと、ああ早く明日が来ればいいと思って寝るって言うんです。で、朝起きたら嬉しいなあと飯食ってすぐにそれにかかる。で、昼飯食ったぐらいから散歩に出掛ける、あるいは病院に行く。帰ってきたら今度は何を描いて、そして、夕方にはスケッチブックを持って散歩に出て、近所の人、子ども、年寄りの、人間のいろんな様を、スケッチする。それから夜は描く時もあるし文章を書いたり音楽を聴いたり本を読んだり、そういうふうにサイクルがきちっと決まっているのだと言っていました。そうするとどの瞬間も新鮮で、どの瞬間も飽きないと。外に出て描く時というのは喜びらしいです。重圧がないでしょ。自由に自分に取り入れる瞬間ですからね。だから彼は確かに孤独と向き合い描いてきた作家だけど、毎日そういう人と接して、話も聞いたり、動いて生きているところを捉えていくことを絶やさなかった。そのことが、彼をマンネリズムにしなかった最大の理由だと思いますね。普通は偉くなったら努力しなくなりますからね。その値打ちが放っといてもどんどん上がっていくから、もう努力する必要がなくなっちゃうんですよ』平野遼が作品の多い作家だと言われるのも、彼が最後まで描き続けたいからという純粋にその理由に他ならない。絵が自らのそばにいつもあってほしと、誰よりも彼自身がそう願っていたのだ。こんなエピソードがある、と内藤は続けた。『画廊はね、あんなにたくさんの絵を描く絵描きの絵は画料が上がらないっていうんですよ。平野さんはいい絵を描くんだけど、需要を満たしちゃうから値段が高く上がらないってこぼすの。で、平野さんにそういう話をしたらこう言ってましたね』<画廊は、ちょっと人気が出たり、ちょっとお客がつくと少しずつ値段を上げていくから、みんな大きな大作は描かないで小品ばっかり描いて売るようになる。だけど、そうすると絵が衰える。それは作家の生命をなくすことだ。私は、自分の絵は、欲しいという人にはみんな買える値段で手に渡るものであってほしい。だから私の身体の続く限り描く>『だから晩期はエッチング、リトグラフもやっていましたよね。それは若い学生さんでもちょっとアルバイトすれば買える程度のもので絵が手に入るから。だから版画をやらなければいけないと、試し刷りを何度もやっていましたよ。それからエッチング集も出しました。だからそういう志のある人です。このことはね、平野遼の一つの価値だと思うんですよ。あの人は特別な趣味はないし、子どもを育てる義務もないし、そういうものを引き受けませんよね。世の中のいろんな一切の雑事も社交するでなし。だからその無駄なものすべてをカットして、すべてを絵に集中してきた。画狂人と自称した葛飾北斎もおそらくそうだと思うんですが、平野さん程の画狂人もいなかったでしょうね』内藤は、自分の家に飾ってある平野の作品を見つめていた。そこには内藤を描いた肖像画もあった。『平野さんに出会って、一人で歩いている気がせずにすみましたよ。もちろん演劇は一人ではできませんけど、でもみんな個人であり、孤独なところがあります。だけど平野さんとこうやって出会って、人と交わらない人が、心を開いて長年つきあってくれた。おかげで僕も非常に心豊かな時間を持つことができました。本当に感謝しています』平野遼の姿は消えたが、その絵に込められた充実した<生>を、内藤武敏は、今も静かに感じているようだった。
2014.02.08
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平野清子夫人コメント平野遼というのは、絵だけ見たら“重い”とか“暗い”という言葉がわりあいよく聞かれて、彼の明るい面はあまり入ってこなかったですよね。だけど、≪トルコのイズミールの並木が美しい≫とか書いているでしょ?そういう風景に憧れ、美しいと思えるところ、人間のポッとした仕草にその人間の哀歓を感じ取り描くところがありました。叙情的なものとか洒落たような感じとか、色彩にハッとする美しい色合いを使ったものとか、この人はこういう部分も持っているんだなと感動するのです』 SWITCH 2002年 10月号 200頁最後まで『視た』人『たとえそう長く生きることができないとしても、通常の普通の目に戻って描くことがもう一度できたのなら、と思ったら・・・残念です』長年患っていた目のため、信頼するM眼科の医師の手によって、北九州の画家、平野遼が白内障の手術を受けたのは、1992年10月のことである。時代を、社会を、そして自らの内面を奥深くじっと『視る』ことによって描かれる抽象画。そして常に人物や風景が動く瞬間を捕らえ、それを追いかけるようにデッサンしてきた独自のやわらかな線描。『目は私の命だから』とただ一途に自らの目が良くなることを信じ、その手術に望んだのは、その日、誰よりも平野遼自身だったのだという。『手術は成功したんですよ、だけどね・・・』同じ月、肺炎の疑いで平野は再び入院している。しかし、自らの死が近づいていることを感じ取っていたのか、その入院中、早く描かなければならないという湧き出る想いを押さえきれず、彼は医師に『描きたくて頭が爆発しそうだ』と何度も訴えている。その切実な芸術家としての願いに、医師は退院を許可。しかしせめて今月いっぱいの安静を、と、告げる。無理を言って退院した平野は、しかし医師の忠告を受け入れることなく、自らのアトリエに帰ってきたすぐさまキャンバスに向かっていく。病気が完治していない身体は体力を失い、立っていることもままならない状態だったにもかかわらず、しかし『もう2年の余命があれば新機軸の抽象を完成させられるのだが・・・』という意志に支えられて、平野は30点余りの抽象画を前に描き続けた。そんな平野遼の姿を、平野清子さんは、結婚してから32年間、いつも自らがそうしてきたように静かに見守っていたのだという。1ヵ月後、再入院。再びアトリエに戻ることなく1992年11月24日、死去。その訃報を伝える挨拶状に清子さんはこう記している。≪故人は常々『死は突如としてやって来る、その時に無念のおもいをしない様に』と自らを酷使しながら制作に没頭した絵生活でございました≫『死は突如としてやって来る』という平野遼が生前、口癖のように言っていたその言葉は、このとき代えがたい事実となり、『その時に無念のおもいをしない様に』と最期の最期まで絵を描き尽した、それもまた真実として、その挨拶状の言葉には、一人の絵描きが生きた65年という人生の重みがあった。『平野が亡くなったときは、哀しくて、ただ、じっと石になりたいと思っただけでした。自分の中にものすごい喪失感があって、どうしていいのかわからなかったんです。この大きな哀しみから、どこに向かっていいのかわからなくなった。平野遼を失ってしまったという事実・・・。それは私が個人的に彼を失くしてしまったという大きな喪失感だったんですよ。だから切なくて、このまま何もせずにじっとしていたいという想いを抱えていました』『自分とは何か』と孤独と向かい合うことを制作の原点とし、彼自らによって光を閉ざしたアトリエは、10年という時間を止めたままのように、今だ平野遼の気が蠢いている。使ったままに固まった油絵の具と筆、張りつめた緊張感、清子さんはその中にいて、その時期、自分の位相を確かめるように、静かにいた。『1年経った、2年経ったって、数えていたわけではなくてね、亡くなってからの日々をただ夢中で過ごしてきましたよ。はじめ、石になりたいなんて思っていたけれど、平野遼が絵について私に語ってくれたり、平野遼の絵を描く姿や生活している状況に語りかけてくれるものを思い起こすと、このままではいけない、ここからまた新たに、ひとつひとつ、平野遼という絵描きがいたということを一人でも多くの人に知っていただきたいと思うようになりました。それに展覧会、雑誌、テレビの取材を通して、平野を知らない方々が興味を持って私に平野の話を訊きたいと言ってくれたでしょう?そうやって皆さまの手で新しい平野遼が発掘されていくことで、自分もまた立ち直れたのです』平野遼は病床でも『死ぬまでに詩集を出したい』と漏らしていたと聞く。アトリエに残された多くの絵、未発表のデッサン、詩。『死者は深い沈黙の中から生きているものに語りかける』と平野遼がのこした言葉そのままに、平野遼の肉体は消えたとしても、それらの作品群が放つ匂いを清子さんは嗅ぎ取り、それらひとつひとつを形として残すことを、自らの人生として生きてきた。『時の早さというものをこれほど感じたことはない』、清子さんは言う。『ふと気がついたら、もう10年経ったんだっていう感じですね。よく“清子さんは遼さんのために生きているんですね”と言われますが、というよりも、私は“遼さんのおかげで生かされていたのだ”と思っているのですよ。私、実家が骨董屋だったでしょ。子供も9人と多く、母は家事が大変だから、私はときどきお店に出て、2階のお座敷でお茶を立ててお手伝いをしていたんです。そういうときに素敵なお客様を見るわけですよ、子供ながらに。だから自分もそういう視る目を持つ方々の役に立ちたいという想いが強かったの。それがたまたま平野遼という人に出会って、でもすぐには彼の役には立てなかったけど、長い時間を通して様々な方に出会い、こうして平野遼について語ることで平野遼という絵描きがいたことを残していけることに感謝しているんですよ。平野遼と知り合わなかったら、私の生活はどんなだったのだろうって。平野遼のおかげで私は違った生き方を選ばせてもらった。一緒にいたときももちろんそう感じていたけれど、彼が亡くなって、より強く感じていますね』そして満面な笑顔を湛え、こう続けた。『私はだからいつも、密かに“遼さんありがとう”って言っているのですよ』未発表のデッサンは、生前親しくしていた詩人松永伍一によって、93年素描集『美しい刻』として、遺稿は、95年、詩集『青い雪どけ』として編まれ、出版されている。また幾つもの展覧会、北九州美術館での5回忌の平野遼展に際する図録の編集、素描集『疾走する哀しみ』、NHKによるドキュメント番組『ふたりのアトリエ』と、清子さんの言葉によって平野遼が語られるとき、自己追求に生涯をかけて臨んだ一人の芸術家の姿は、残された作品と共に、鮮やかに蘇っていったのである。『平野遼というのは、絵だけ見たら“重い”とか“暗い”という言葉がわりあいよく聞かれて、彼の明るい面はあまり入ってこなかったですよね。だけど、≪トルコのイズミールの並木が美しい≫とか書いているでしょ?そういう風景に憧れ、美しいと思えるところ、人間のポッとした仕草にその人間の哀歓を感じ取り描くところがありました。叙情的なものとか洒落たような感じとか、色彩にハッとする美しい色合いを使ったものとか、この人はこういう部分も持っているんだなと感動するのです』旅をした海外の街角で、歩く女性や座った老夫婦を描いた色鮮やかな水彩画。また、通院していたM眼科での待ち合い室にいる人々の姿を素早く捕らえ、暖かい視線とやわらかなタッチで描いたデッサンの数々。それらからは、その時々の空気や女性達を動きや温度、その風景と共にある時期さえもが描かれているようで、今にもそこにあった音や言葉が流れ出てくるかのような自由さを持っている。『海外に行っても一日中スケッチするんですよ。そしてホテルに戻って、その印象を忘れないうちに色を塗る。色を塗ったら最後にベッドの上で日記や旅行記を毎日書いていましたね。本当に驚嘆しますよ。だけど、感じたことを留めておきたい、覚えておきたいという想いが強くあったのです。手紙もよく書いていたんですよ』そういって清子さんは、生前平野遼が親しくしていた方々に送った書簡を差し出した。『自分はやるべきことをやらなければいけない、死は突如としてやってくるということがいつも念頭にあったから、いらないものを少しずつ削ぎ落していくんだと、交友関係もそんなに多くなかったです。だけど、本当に親しく信頼している方には海外からハガキを出したり、わりと筆まめだったんですよ。手紙はね、書いたらいつも私の机の上にバンと置くわけ。“どうせ読みたいだろう”と言って。それで私が切手を貼って出すんですけど、見るとそこに可愛らしい挿し絵が描いてあったりしてね。そんな面もありましたよ』作品には見られない干支がユニークに描かれた年賀状や旅行先での美しい風景からのハガキ、自らの絵に対する想いを綴った手紙。平野遼の心暖かい書簡を前に、清子さんは続けた。『考えてみたら、とても人に恵まれてますよね。本当に一人ひとり、素晴らしい方達とおつきあいをさせていただいたのだなあと改めて手紙を読んでみると、そう思います。だから決して絵だけが残ってきたのではなくて、平野遼という人間が残っているんですよね』生前、平野遼が毎朝座り、お茶を嗜んだという茶室は、木々と草花の色と光で季節の移り変わりを知ることのできる美しい庭を臨み、その日、夏の強い太陽が木々の濃く茂った緑に透け、降り注いでいた。天井に埋め込まれたガラスに板を張り、光を閉ざしたアトリエが時間を止めることで自らの内側を凝視するものであるならば、茶室から眺めるその常に動いていく世界は、刻一刻と流れる時を知ることで、気持ちを解放させているもののように思えた。それは、彼がスケッチブックに残した数多くのデッサンや、親しい友人達へ送った手紙にも似て、やわらかくその視線に向かわせるような場所だったのかもしれない。その先へ、といったように・・・。画家の友人に向けた手紙にはこうあった。対象を求めてください。自分の足と感覚で。海でも、山でも森羅万象のすべてに私が不断に描かなければならないのは、視るものすべてに私が不断に描かなければならないのは、視るものすべてが私の感覚に絵画となり対象となりモチーフとなって私の休息を許さないのです。徴細な物から音楽から言葉から、それらをじっと凝視し、耳を働かせ、視えてくるものを紙に描いて下さい。何も無い時は自分に向って、自分の貌を描くことからすべては始まるのです。『目は私の命だから』と、『視る』ことで『描いた』画家。平野遼。彼の絶筆が、自らの目の手術のため、手術台に上がったときに見上げた手術室の風景であったこともまた、彼が最後まで視ることを貫いた姿なのだと、ふと、思い出した。
2014.02.08
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平野遼が描く『無題』 技法:紙に水彩 制作:1986年 縦:35。横:37.5cm。 『無題』・・・何に見えますか? 平野遼の境遇を知れば理解できるかも知れません。あなたが絵を見ているのではなく、絵があなたを見ているのです。美術の窓 1986年12月号 No51 27頁孤独な少年時代、3才で母を、13才で父を亡くす部屋の中から鍵をかけて、朝から晩まで絵を描く一井:先生の画歴ですけど、先生は美大を出てらっしゃるんですか。平野:とんでもない、美大もへちまも・・・。とにかく私は逆境でね。おやじは飲んだくれて。一井:お生まれはここですか。平野:生まれたのは大分県です。おやじは大分県の由布川村です。百姓を嫌って飛び出して、当時、銅山で景気がよかったという佐賀関に行った時に私が生まれたんです。一井:佐賀関はどこにあるのですか。平野:大分県です。今は美しい漁港らしいですね。生まれて半年ぐらいで北九州の八幡に来ましたから、私の実感としては、生まれは北九州市という・・・。一井:お母様は・・・。平野:大分県の竹田の出らしいんですが、私は母親を知らないんです。3才の時に死にましたから。13の時、小学校を出て進学する時期におやじが死にましたから、私は姉のところに引き取られてね。一井:ご兄弟は何人ですか。平野:姉が3人に、兄が2人いて、私は末子。兄は、一人が戦死して、もう一人も軍隊に行って、帰ってきて病気で死にました。姉が一人だけ生きてます。それも他家に嫁いだ身ですから、普通に親子・兄弟が一緒にいるような環境じゃなかったです。ですから兄弟に対する気持ちも薄いしね。一井:肉親の縁が薄いんですね。そういう運命なんですね。平野:おやじが飲んだくれですから、今から考えると、昭和初期の大恐慌とか大不況の時代で、無理もないなと思います。田舎から出てきて、学歴もないし。おやじは植木屋の仕事をしてたんですけど。私もそういう育ちですから学校にも行けなかったし、学校は嫌いですね。一井:昔の高等小学校を出られて、それが最終学歴ですか。平野:いや、最終学歴は青年学校ですよ。職業青年学校というのがありました。(笑)一井:年譜を見てまして、お生まれが1925年ということは・・・。平野:大正14年です。大正15年から昭和元年までは7日間ですから、大正の最末期ですよ。一井:そうすると、今年の61年は満61才ということになりますね。昭和と同じ年齢ですね。敗戦の時に丁度20才ですか。戦争で外地には行かれたんですか。平野:いえ、宮崎の小さな島にいました。野砲の通信兵になって。一井:絵を描き始められたのは何才ぐらいですか。平野:小学校2年ぐらいです。そういう家庭だったから、おやじを嫌って、みんな家を飛び出して離散してったんですね。一井:お母さんが3才の時に亡くなられて、お父さんは再婚なさらなかったんですか。平野:女性が何人か来たけど、それを嫌って兄弟たちが、みんな出ていきました。普通『おしん』なんかのように親が奉公にやるでしょ。うちの場合は自分で出ていったんです。私は末っ子だったから、残されて淋しい思いをしましたね。毎晩おやじは飲んだくれて帰ってこないし、絵を描くことだけで、小学校2年のころから『少年倶楽部』を見てました。斉藤五百枝とか黒崎義介とか挿絵画家の挿絵を模写するとかね。小学校3年の時に初めて水墨画をかきました。おやじがよっぱらって帰ってくると50銭銀貨ひとつ盗んで、古本屋に行っては絵に関する本を買ったりね。武藤夜舟という人の『水墨画の描き方』という本を買って、それを見ているうちに四君子とか花とか鳥を描くことを覚えたんです。一井:孤独な少年時代ですね。絵だけが伴侶というか慰めというか。あまり物をいう少年じゃなかったんですね。平野:いま考えると非常に暗くて、第一、子供らしい遊びもしたことないし。描きかけの絵があって、明日これを全部描いてしまおうと思うと学校なんか行かないんですよ。おやじが出ていくのを待って、中から鍵かけて、朝から晩まで描いていました。
2014.01.25
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『夏の庭』1958年 61×60.5cm キャンバスに蜜蝋、油彩福岡県 みぞえ画廊 取扱画廊のご厚意で特別に譲っていただいた貴重な作品です。>『絵を見れば死に物狂いで描いたものだと分かります。本当に心を打たれる作品です。奇跡の蝋画が3枚になりました。 美術の窓 1986年12月号 No51巻頭特集●平野遼 21世紀の美術 人間復活への願い12月から池田20世紀美術館で大規模な自選展を開催。昭和20年代から、今年の新作まで約100点を一堂に一井:今度、池田20世紀美術館でかなり大きな展覧会をなさるということで、とても楽しみにしております。最近は先生のように、中から何かを凝縮して絞り出すという表現は少ないですね。今回は旧作もずいぶん入るんですか。平野:ずいぶんというほどではないですけど、若い時から自分の中で愛着を持ってるやつを・・・。一井:全部で何点ぐらいですか。平野:100点近いです。一井:一番古いのは何年ぐらいですか。平野:1948年かな。一井:近作はどうでしょう。平野:近作は3年前にこの個展の話が決まって、それからすぐにかかった作品が主体になります。一井:3年前にお話があって、それからこの展覧会に向けて新作をためられた。平野:そうなんです。120点ぐらい描きました。その中で、新作は40点ぐらいのものかな。あとは古いものです。一井:そうすると新作と旧作が半々ですね。平野:まあそんな感じです。私としては、できるだけ古いものも見てもらいたいのです。1957年から58年、59年と3年続けて南画廊でやったでしょ。そのころのものも見てほしい。昭和32年、33才のとき東京の南画廊で初めて個展昭和21年から初個展までの、約10年間の漂泊時代一井:略歴を拝見しますと、1957年、32才の時に南画廊で初めて個展をされて、3年続けて毎年やってらっしゃいますね。平野:最初の個展が1957年ですが、その時に東京の朝・毎・読の3大新聞社が書いてくれました。一井:それは水彩ですか。平野:油も数点ありました。蝋画とペンと水彩と。なにしろ油絵具なんか買えない時でしょ。銀座で天婦羅屋をやってるおやじさんの離れを馬込に借りてたのです。本屋の取次ぎの小僧みたいなことをやってる時に知り合った共立書房の知人に紹介してもらって、そこに間借りしたんです。一戸立ちの4畳半ですけど、当時畳1枚千円くらいでした。私はその家賃が払えなくてね。もちろん電気代も払えないから、電気を止められてしまった。しょうがないから蝋燭をともしてたんですが、それで思いついたのが蝋画です。貧乏の偶然の所産ですな。紙に蝋燭を塗りつけて、水彩で。そうやって描いたのが『山びこ』という作品で、それを出品したら新制作に入選したわけです。一井:『1949年、第13回新制作派展出品』というのはその作品なんですか。平野:ええ。自分でもとても好きな作品で、今でも頭の隅に残ってますね。馬込のその家は、8月中に5千円払えなければ出てもらうということになって、毎日、似顔絵を描いて回るんだけど、それじゃあとても。そこを出る前の日にキティ台風という有名な台風が来て、その翌日、その家を出たわけです。一井:ドラマチックなんですね。平野:出ていった先が平井です。美学社という出版取次ぎの小さな本屋のおやじさんが現代美術の絵描きさんで、若松の出身なので、その人のツテでぞっき本を専門にやってるKという人のところに転がり込んだ。そいつが新婚でね。お嫁さんが家にいるでしょ。離れに私が転がり込んだので、彼は勤めに出るのに、一人残していくのが心配なんですね。(笑)敷居に戸板をぶちつけまして便所も使えないから、私は窓から入ったりしました。3時ごろ奥さんは買物に行くから、戸板を外して用を足してたんです。小便は外でやってました。外へ出たらすぐ荒川の土手があるので、土手に寝ころんで、いろいろ夢想してました。1日に青リンゴ1個ぐらいしか食べられないから、腹はへってるし。一井:上京されたのは何年ですか。平野:1948年のはじめです。一井:それまではずっと福岡ですか。平野:ええ。戦争が終わってすぐ、20年10月11日に軍隊から帰ってきました。私は北九州の戸畑で育ったんですが、小倉の魚町という繁華街があって、そこに肖像画を教える画塾がありましてね。まずはそこに住み込んだんです。一井:内弟子みたいなもんですね。平野:後年、それが役に立って、似顔絵でアルバイトができました。私の本当のデッサン力は、町に出て似顔絵を描いたことで養われたんだと思います。町はゴタゴタで、リンゴの歌がはやっている。目の前に東天紅という支那料理屋があって、朝から晩までタンゴばっかり鳴らしてました。タンゴが鳴る、洋画がドッと入ってくる。戦後、フランス映画はずいぶん見ましたね。そのうち肖像画を描くのがいやになって、塾を飛びだしたくなった。そのためにはまとまった金がいるでしょ。遠賀川河口の芦屋というところに米軍の航空基地があったんですが、そこに入ってポスター描いたんです。一井:それでお金ができたわけですか。平野:そこに3ヵ月勤めました。少しずつ溜めて、上京したんです。それから約10年間、武者修行みたいに漂泊の毎日でしたね。一井:小学館の『平野遼自選画集』が昭和52年に発行されますが、その後記に、『この画集に収録した作品の多くは敗戦の荒涼とした風景が背景になっている。寒々とした日々と残酷な飢えが日本全体を覆っていた。そのことを抜きにしては、これらの絵を見ることは私には出来ない。この頃は放浪中で落着いて制作する場所もなかった。・・・昼間から雨戸を閉め、暗い部屋で電気をつけて描いていた時があった。なぜそんなことをしたのか、理由は今もわからない。』と、ご自身で書いていらっしゃいますね。
2014.01.20
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『赤い背景の人』 1959年 紙に蜜蝋、油彩 76×52cm自由美術展出品作、1959年6月 東京南画廊個展出品作図録:平野遼展 その宇宙のリズムより 1990年 東京セントラル美術館巻末の『平野遼年譜』1959●32才(昭和34)に紹介されています。福岡県 みぞえ画廊 取扱画廊のご厚意で特別に譲っていただいた貴重な作品です。http://blog.mizoeartgallery.com/>2014年1月10日(金)~26日(日)新春 名品展 が開催されました。>平野遼の青年期の作品を2点展示し、どちらもインターネットを通じてご成約となりました。 まさか・・・また・・・奇跡の蝋画に出会えるとは思っていなかった。平野遼 『青春の闇』 73頁 絵の行商唐草模様の風呂敷の紐をほどくと、中から一枚の蝋画が現れました。風呂敷から取り出された一枚は、平野が制作した蝋画の代表作『生きものの形』。動物の眼玉とも、臓器とも想像できる怪異な像が描かれ、タブローの迫力が鑑賞する一人の眼科医の眼をとらえて離しませんでした。風呂敷包みを抱えて『絵の行商』をするのは、30才になった平野でした。無名時代の平野を知る人は限られ、数少ない支援者の家を訪ねて『行商』をするしか、生きる術はありませんでした。よき理解者の一人が若松市で眼科医院を開業する上原さんだったのです。1957年ごろ、二人は若松にあった喫茶店『ドガ』の客として知り合いました。生活に困窮していた平野が『2ヵ月に一度くらい、風呂敷包みを抱えて我が家に来ていた』と上原さんは回想していました。上原さんの記憶では、そのころ平野の蝋画は1号2千円か3千円の値がついていたそうです。いまから40年余前2、3千円は若いサラリーマンの1カ月分の給料に迫る金額でした。上原さんの記憶は鮮明でした。『絵を見れば死に物狂いで描いたものだと分かります。蝋画を広げ平野さんはこう頼むのですよ。今度東京の南画廊で個展を開くことになった。しかし、絵の具や額縁を買うおカネがない、画廊を借りる資金もない。だから絵を1枚でも、2枚でもいいから買ってほしい』上原さんは平野よりも9才年長の方です。北九州を代表する俳人で、芸術に造詣の深い方でしたから『2、3万円の予算までならば』とよく絵を買って下さいました。時には喫茶『ドガ』で平野に酒をおごり、励ましの言葉をかけるのを忘れません。『ドガ』の席には、朝日新聞若松支局にいた秋吉記者も駆け付け、平野を評して『この男は一風変わっているが、将来画家として世に出てくる男だと見ている。才能あふれる鬼才だ』と肩をたたくのでした。秋吉さんは若松在住の芥川賞作家火野葦平の信頼が厚く、『最後の葦平番』と言われた記者です。応援の意味で上原さんが『ドガ』の酒席を用意しても平野の無口ぶりは変わらなかったようです。『平野さんはいくら酒を飲んでもぼそぼそと低い声で話していた。小さいころからの苦労もあっただろうし、彼が歩んできた人生をあえて聞くこともしなかった』と話していました。上原さんが所有する平野の初期作品は20点にのぼり、うち蝋画が5点を占めています。蝋画は制作に時間と手間を要するため、現存する作品が少なく、一個人で5点も所有するケースはありません。初期作品からは無名時代の平野の叫びが届いてくるかのような内面の激しさ、心の葛藤が伝わってきます。蝋画の題材はシュールレアリスムの世界です。画面を覆う怪異な像の線と色は、汚辱にまみれたこの世を凝視し続ける若い平野の眼をしっかりと刻んでいます。不気味ささえ伝わる蝋画に接したとき、上原さんは思わず『どこからこのような絵画の発想が涌いてくるのか』と尋ねました。平野は、『たとえば一枚のパンをフライパンで焼く。するとパンが焦げた部分にまだら模様や複雑な紋様が浮き出てくる。その色と形から絵の構想が生まれてくる』と創作の秘密を明かしていたそうです。
2014.01.20
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平野遼『蝋画』風景1949年8月30日制作縦:22.5。横:31cm。平野遼 『青春の闇』 54頁蝋画誕生の悲しみ平野の初期作品を代表するものと言えば蝋画です。敗戦後間もない1949年、蝋画の第1号作品『やまびこ』が誕生しました。東京で放浪生活を送る平野が第13回新制作派展に出品し初入選を果たしたのが、この作品でした。会場は東京都美術館。9月21から日10月10日まで開催された会場に平野は足を運び、自作の蝋画を見つめながら、しばし生きる勇気を与えられたことと思います。蝋画を制作した空間は東京・駒込にある3畳1間のアトリエでした。居候をしながら働いていた美学社が倒産したため、知り合いを頼って転がり込んだアパートの1室がアトリエだったのです。家賃が払えないため電気がつかず、灯りは蝋燭だけの生活でした。部屋に籠って絵を描くときの平野の集中力は近寄り難いものがありました。水彩絵具と手元の蝋燭を『なにやらやっているうちにつかんだ技法』が蝋画でした。油絵具を買うお金がないため、代わりに蝋燭をたらし込み油彩に似せた質感を編み出したのです。貧しさが生み出した技法でした。平野は蝋画がこの世に生まれた『3畳1間で起きた偶然』について、美術雑誌『絵』318号掲載のインタビュー記事で、次のように語っています。蝋燭を頼りにデッサンなんかやっていましたから、水彩絵具と蝋燭を擦り付けていくと、偶然『これは面白いじゃないか』と発見したんです。紙に水彩絵具が乾き切らないうちに蝋を擦りこんで、また水彩絵具、それを繰り返すんです。そうすると、紙が山あり谷ありとなって、その谷の部分に色が入りこんでいく。山の方に蝋が着くでしょう。それを削り取ると微妙な色が蓄積していって・・・。(『絵』318号、1990年8月、38頁)焼け跡の東京で、絵を描くことだけに生きる平野の日常は、貧しさを通り越してどん底でした。1日に青リンゴ1個と水だけで飢えをしのぐこともざらでした。夜になると、新宿や東京八重洲口のカストリ屋台に向かい、酔客相手に似顔絵を描き、僅かばかりのお金を手にする。俳人山頭火と同じ放浪の絵描きだったのです。収穫もありました。蝋画の技法を編み出したことを通して平野は、絵画の究極は『1枚の紙と鉛筆に帰着する』ことを知ったのです。紙と鉛筆があれば絵は描けるのだという真理を学び、体験と工夫から絵のエッセンスを見抜いたのです。蝋画の技法を体得した『瞬間』を平野は次のように書き遺しています。油絵具が買えず、わずかな水彩絵具と手元のロウソクをなにやらやっているうちに、掴んだ技法であった。技法は、時として、壁のように思われることがある。ひた押しに押しまくっているとき、絵は、確かな形態を成しているようである。自分の行為が意識され、自覚し、見えてくる時から、至難な油汗のにじむような苦悩が始まるように思われる。(『戦後30年目の夏に』『街路樹の下で』光アート、1988年、192頁)紆余曲折をたどった平野の青春・青年期の歩み。貧しさという逆境が蝋画を誕生させる幸運をもたらしてくれたことに芸術の神の導きを感じます。光は影があって初めて、その存在を成り立たせることが可能です。芸術の成立も逆境や遊説(アイロニー)の中にこそ潜むものではないのか。蝋画誕生のドラマを追いかけながらそう思いました。
2014.01.20
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平野遼が描く『雪の日』(街景)額装裏面に『名古屋フォルム画廊』ラベルあり。哀愁の漂う作品です。この作品を見ていると・・・雑誌『SWITCH』1996年10月号 平野遼の特集『光を閉ざしたアトリエ』を思い出します。
2014.01.20
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平野遼が描く『グワッシュ』朝 5号具象と抽象のはざまを描いた作品です。 美術の窓 1986年12月号 No51 63頁闇の中で 平野遼『魔法使いの弟子』というゲーテの作品をもとに、作曲家デュカの同名の交響詩が有る。私はこの音楽を聴くたびに、原発とか、核兵器を連想するのが常である。1986年5月、ソ連のチェルノブイリ原発事故は世界中を震憾させた。事故の重大さも、恐怖の真相も、よく知らされぬまま、時々小出しに報道される話によるとチェルノブイリが噴出した放射能は、実にヒロシマに投下された原爆の35個分に相当するものと聞いて背筋が寒くなったものだ。『魔法使いの弟子』は、水を出すことは知っていたが、あふれる水を止める魔法を忘れてしまった。この萬話は現代の科学と文明を象徴的に暗示しているようで、むしろ深刻さを通り越して、さすがにゲーテの燗眼怖るべきものと頭を下げるものである。たとえ原発の事故がないにしても、核廃棄物の処理は、ドラムカンにつめ込んで、海底か地中に埋めるという幼稚な方法しかないらしい。いずれ地球の海と陸はこの廃棄物という化物に想像もつかぬ現象が噴き出してくるかもしれない。偉大な魔法の大先生は、まだ当分この世界に現れそうにないようだ。現代は多方面にわたって、魔法使いの弟子ばかりがのさばって、水を出し放しで喜んでいるようなものだ。キリコやエルンストを超えて、われわれが生存する現実は、地獄の入口にでもいるようなものだ。地球は45億年自転を続けているという。45億年は永遠的だ。ある学者の説では、今後地球は10億年は存続すると説明していた。10億年もまた、人間にとっては永劫だ。ある日、核戦争か、2つ3つの原発事故が発生して、生ける物すべてが死滅しても、地球はなお闇の空間で、ガガーリンの見た青い輝きを放っているであろう・・・。ともあれ、一発閃光を発すれば、美も愛も一瞬にして吹っ飛ぶのである。私の発想は、このような人間の頭上にぶら下がっている5万数先発といわれる核兵器を忘れては始まらないのである。かつてベトナム戦争中、空からバラ撒かれた枯葉剤はジャングルを枯らし、戦争終結後に、人間の中に更に戦慄の様相が次々にさらされたのだ。アルコール漬けになったガラスビンの中の異様な物体は脳のないもの、腐った狂犬のような眼、双頭の肉体など、凄惨眼を覆う、言語に絶する恐怖をつきつけられたのだ。私が物に対して凝視しつづけた中から、悪夢のようにせりあがって出現したフォルムがそのまま現実にそこに存在したのだ。あの奇怪な肉塊もまた。人間として生まれて来たものなのだ。川底に埋没した廃物を、毎日の散歩のうちにくり返し見ているうちに、いつか私の内部で、新しい型体が少しずつ成長していった。かつてない生物の相貌を呈して来たのだ。見ることは一瞥することが重要であり、また反対にじっくりとくり返し観察することも要求される。物によっては、ちらりと見ることでより見えることもある。更に深く凝視するという2つの見方がある。繰り返し私が観たものは、人間の内部を表現する戦慄のフォルムであった。人間の崩壊を私はそこに感じ取ったのである。この展に出品した、新作の多くは、そのような廃物である。川底に埋没した沈殿物から生まれ出たものなのである。私の内部に襲いかかる、魔物のような生命体である。かつて滝口修造氏が、私の個展のために書かれた14行詩の中に、われわれが、ついに見失うもの、忽ちにして見失うものが、よみがえってくる・・・という一節が有った。私は物を前にして、ひとつは内から外へ向う眼と、外から内部に向う視覚をいつか身につけていたと考えている。この視方は今も一貫して変ることがない。泥道に刻み込まれた人間の足跡、自転車の軌跡、庭の雑草とそこに潜む小さな森林の昆虫たち、森の中の樹葉の重なり、同色の複雑微妙な諧調、工場の機械類、盛りあげた泥、鉄骨等々きりがない程の物と物の重複である。眼は2つあって観る眼も、ちらりと見る眼と、ファーブルが昆虫を視るように凝視する眼があるのだ。夏の深夜、また身も凍る冬の薄明中を凝視するうちに、かすかに聴きとれるような樹木のささやきもあるのだ。森羅万象ことごとく闇の中で声を発している。『幽霊の正体見たり枯尾花』とは誰の云ったことか私は知らぬが、云い得て妙である。私も闇の中に存在するフォルムに対し魔力のような物の姿を発見する。暗黒の只中で見たものは内なる世界であり、生命そのものを目撃したと云ってよいものだ。廃物になった絵具のチューブや筆が小さな山をなしている。私は足元に積みあげられたその聖なる廃物を、小さな砂ツブ1つが投げる影の中に新鮮な啓示を見るのである。この廃物こそ、私の生活の1断片でもありホコリも美であり小宇宙となるのである。投げ棄てた足元のボロ布も丸めて捨てた紙屑も、ふと見つめる時、そこに悪魔的表情や、時には此の世のものではない神の如き貌と思わせる不思議な表情が、私をじっと見据えていることに気附いて驚くのである。病院の床を、何となくみつめているうちに思いがけなく、クレーが潜んでいたり、デクーニングやピカソが謎のように現れるのを発見する。多くの人のスリッパが床を踏みつけて歩くたびに、いつかこうしたフォルムを作り出しているのである。こうした現象は周囲の様々な中に潜んでいる。それを発見するのは私の眼である。物を見る時、人間の眼は写真機のレンズとは異っているのだ。画家T氏は故人となったが、ある座談会で、人間の眼とカメラは同じようだ・・・と云ったことがあった。当時はたいして気にもとめなかったが、今は、それは少し違うのではないか、そう思うのである。確固とした意志をもって見ない限り、何も見えて来ないのである。多くの人間のスリッパが偶然描き出した抽象画を眺めて、ひとり驚愕し悦に入るのである。そこに無限の線が動き、あたかも原始人の線画と同じ絵が潜んでいるのを考えると、楽しいではないか。実に此の世は限りなく絵画的であり、詩に充ちているといえる。私の日常はそうしたものとも対し、独語をすることで過ぎて行く。音楽を聴く時、突如として意識の底からもりあがってくる言葉のように、これらの対象は、私に劇的な生きものが、天から降って耳の傍でささやく秘かな声ともなるのだ。私の眼と詩魂がこれを捕捉するのである。それらと対峙のうちに、私が描く造型は少しずつ異相をもって成長したようである。熱い抽象からアンフォルメル、そして具象から写真もどきのキレイ絵という激しい移行を示したのが、戦后40年間の絵画である。ジャコメッティは、絵画は終ったと嘆息しながらも仕事を続けたのだ。私は時流を望見する位置に身を置いて、ひたすら独自を堅持して来たのである。地方に生活するとはそうした意味をもっている。むしろ時代のるつぼを外れて生活することが自己確立の基本姿勢になるかも知れない。抽象絵画は自由をほしいままにしたが、人間から離脱する結果にもなった。何が不足したのであろうか。要するに眼だ。視ることを棄てた画家は自然からも見放された。かつて伊丹万作は『機械眼の記憶力』という一文を書いた。さすがに燗眼の映画作家は。まるで今日の絵画を見透したかのように鋭いものだ。絵画は写真の出現によって、絵画本来の仕事に専念できる時代になった。写真などが、知ることのできない世界が絵画なのだ。それなのに今もまた写真のような絵を何日もかけて描いている・・・云々というのである。この文章は敗戦の翌年発表されたことを銘記する必要がある。ただ黙って、壁にかかった絵が、人の足を止める磁力を持つのだ。その仕事は電流のごとき生命力を秘めていると私は考える。古代人のように、私は物を見つづけたいと思う。ゴーガンは未知の視覚を求めて密林に踏み込んだが、私の現実は夜に在り、仕事をする足元に転がっているのである。此の世は闇になって生気を復活し、事物はいっきょに魔物のような表情を見せるのだ。睡っているのは人間だけだ。何がどうあれ、人間の行く先はみな得体の知れぬ闇の中である。1986年
2014.01.20
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平野遼『ペン画』東洋の子1957年10月制作縦:23.5。横:15.5cm。東京 フォルム画廊 取扱平野遼の画集に多く登場するモチーフです美術の窓 1986年12月号 No51 35頁最近作の壮絶なイメージよりも現実の方がもっと奇怪ではないか。作家が今一番になすべきことは平野:私はヒルティーが好きで、『眠られぬ夜のために』が愛読書です。あれは彼の日記ですけれど、朝起きたらイの一番になすべきことを書いているでしょ。私もいつもそれを思いますよ。いま俺がなすべきことはと。今度発表するものがそれです。一井:いま先生がなすべきことは、写実とは真実を写すものだ、では何が真実かという問題になるわけでしょ。それは見えてくるものだと先生は書いたり話したりしてらっしゃるわけですが、先生に見えてくるものは、あまりに奇怪というか恐いというか・・・。この問題をお伺いしときませんとね。かつて先生は孤独で、逆境の中で人間を凝視した時代があった。しかし、その中には個人を超えて普遍的な問題があったと思うんです。いま見ても面白いのは、やはり普遍性があったからだと思うんです。それからさらに進んで、現在は、もっと人類という大きなもっと普遍的な問題を凝視していられるのではないかと解釈しているんですが、出てくるものがあまりに奇怪ですね。平野:しかし現実はさらに奇怪ですよ。たとえばベトちゃんなんていうのは実にそうですよ。しかしあれも生命ですよ。人間の尊厳論でいえば、あくまで人間ですよ。あれは原爆よりもタチが悪い。それを世界中が黙って見過ごしてるでしょ。それはどういうことか。最初にNHKが放送したのは10年も前だと思いますが、あれを見て私は背筋が寒くなった。こんなものがあったのかと思って。原爆についてはガチャガチャいうけど、あれについて世界は何もいわない。私の絵画以上に現実はすごいんですよ。それこそ一触即発で、何もかもふっとんでしまうような現実の中に生きていることをまずは実感として感じなくてはいけない。そういうことを感じるからこそあなたがおっしゃるように私の絵は暗いのかもしれない。私の生いたちから、育ってきた環境から、経験したことから、ずっと尾を引いてると思うんです。一井:いや、食うや食わずだったとおっしゃった若い時代の水彩とか、そのあとの人物のほうがまだ暖かい面があるんですよ。最近の新作で、人間の骨だけでいい、見えてくるものはこれだというものはもっと悲惨ですね。夢も希望もないというか。それだけ先生は時代を投影してらして、時代がもっとおかしくなったのか、あるいは先生の見る力がそういうところにまで食い込んでいってるのか。平野:最近安岡章太郎が地球は今世紀の終りまで存続するだろうかと新聞に書いておりました。ボードレールは『火箭』の中に、世界が存在しうる唯一の理由は、現に生存していることだけだというふうなっことを書いている。そういう論法でいけば、私もそうなんです。人類の明日は誰も確言できないでしょ。こんな希望があるということもいえない。知り合いの若い版画家が『結婚してやっと子供ができました』なんていうと、気が重くなってくる。明日どうなるかわからんような困難な時代に子供を作ってどうするのか。私はそういう考え方なんです。私は子供なんか作らなくてよかったと思う。私は辛い立場で育ったから、子供を作る以上はもっと豊かに育てたいと思ったけど、その自信がなかったから、生まない処置をしたんですけどね。今も全然悔いてません。かえってよかったと思います。一井:それでは芸術家といえないんじゃないですか。それは滅亡の歌ですよ。平野:人類は滅亡ですよ。あなたは未来を信じますか。一井:そういわれると、私もなんともいえないですが。平野:しかし巨大な時の流れは押しとどめようがないですからね。今はそういう時代ですよ。戦争中と同じです。朝日新聞が毎日戦争のことを書いてるけど。読んでみると感傷ばっかりです。本当に戦争を防止したいなら、もっと前からやることがあるんじゃないか。しっかり物をみつめて、現代はこういうものなんだと。世界中の指導者が集まって、本当に考えなくちゃならない。ところがレーガンとかソ連のあんな連中が出てきてなんかやると、大騒ぎする。ちょっとしたことで平和が遠ざかったとか近づいたとか。そんな次元の話じゃないですよ。一井:今日の現実に本当に恐怖しなくてはならない・・・。平野:みんながジックリとみつめる目を持ってほしい。一井:先生がしっかり見た世界は、しかしペシミスティックですね。平野:昔からそういわれました。お前の絵は極めて厭世的だと。一井:見えてるものが?平野:いつもそういうものがただよってると友達がいうんです。
2014.01.20
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う~ん・・・コメントに悩む作品である。妻に『怖い』と言われた。どこの誰かわからないリアルな肖像画とどちらを選ぶか考えてみた。こちらのほうが芸術性があると感じる。茶色をベースに使うようになったのはこの時期から?モチーフのジャンルの広さには圧倒される。『画家は画布に詩を描く』をポリシーにしていた平野遼。そんなにたくさんの詩が浮かんでくるのだろうか?詩と言うより独特の画風が平野らしさ?経験した人しか描けない熱い思いがこもった独特な世界。
2014.01.19
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日動画廊取扱図録 平野遼展 1988 日動画廊 No44に掲載作品 最近のオークションで出品される作品は平野遼らしからぬ穏やかなものが多い。いろんな画家と話をすることがあるが『ライフワーク』と『売り絵』は違うと教えられる。どちらかと言うと私は見た目のきれいさより『ライフワーク』の作品が好き。久し振りにそんな作品に出会えた気がする。
2014.01.19
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『自画像』SM福岡県 みぞえ画廊 取扱http://www.mizoe-gallery.com/user_data/tenpo.php個人でも欲しいものを広範囲で探すことができる現代。 平野遼の関連する貴重な本も全て集めることができた。 平野遼の現役時代を知らなかった私でも作品が生まれた背景を知ることができる。 平野遼は『己の信念』を曲げることなく『独特な世界感』を描き続けた。モチーフのジャンルも具象から抽象までとどまるところを知らない。決してマネすることのできない信念と集中力である。 私は具象画専門で抽象は理解できなかった。今までは、絵の前に立ったら『絵から話しかけてくれるような作品』が好きだった。初めての抽象画『樹根』を手にしたときから作品の見方が変わった。この作品は『どのような背景で生まれてきたのだろうか』と考えるようになった。 著書 平野遼『青春の闇』の一部を紹介します。23頁焦土の中から平野の戦後は始まっています。・・・極貧の生活を送っていた平野には、カンバスを買うお金はありませんでした。・・・27頁1954年四畳半一間の木造アパートが、私たち二人に用意された結婚式場でした。・・・『門出の祝い』なのに私の父は最後まで参列を拒み続けました。・・・父の反対理由は『貧乏絵描きと一緒では食べていけない』・・・と吐き捨てるのでした。 屈辱をバネにする強靭なエネルギーには勝てない。
2014.01.19
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画集で有名な平野遼 『自我像』 20号です。額装裏面に『大阪フォルム画廊』ラベルあり。 『平野遼~研ぎだされた自我』152頁の文章を紹介します。(原文のまま)~『裸形の風景』と同じ1982年の6月21日に、彼はこんな文章を書いています。自己の仕事の大系を創り出す・・・自画像は始めであり終りである・・・という無限の円形に似た主題をもって自己の内に確固とした足跡を創り出したいのである。これによって見ることの事実からいっそう奥深い、見えてくる現実実相であり魂であり生命の根源のようなものである。それらが見えてくる地点に迄押入る行為がこのモチーフなのである。彼は、このとき以後、数多くの自画像を描き続けていますが、この文章を読むと『裸形の風景』が象徴するような仕事をすることと自画像を描くことが深く相応じているのがわかります。もちろんその場合の自画像は、1955年の『自画像』とは違っています。あの自画像は、すぐれた作品ではあっても、まだ『見ることの事実』を充分に脱し切ってはいないようなところがあった。散乱状態への抵抗が、或る外面性を強いているようなところがあった。ところがこれらの自画像においては、そういったものは拭い去られています。画家は、自分の『外』を眺めると同時に、しなやかに自分の『内』に入り込む。かくして、混沌とした世界から『現実実相であり魂であり生命の根源』である自己が、いかにも自然に身を起こしてくるのです。『裸形の風景』が『人間の実相』を表わし、さらにその底にある彼自身と響きあっていたように、これらの自画像も、単に彼自身を描くだけに留まらず、彼を包む世界全体の『実相』と響きあっているように思われます。
2014.01.19
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『青い雪どけ』に並ぶ代表作です。実際に美術館に展示されていた作品です。入手当初私は『抽象画』だと思っていました。関連する文献を調査していく中で『乾上った川底』を描いた『具象画』だとわかりました。 【下記文献掲載作品】1977年 小学館 『平野遼 自選画集』13頁『樹根』1960年として掲載1991年7月東京セントラル美術館『平野遼展』~光と線の交響~図録18頁『冬の樹』1959年として掲載 作品裏面にも画題を変更した形跡があります。【『樹根』のエピソード】美術の窓1986年12月号No51 巻頭平野遼 滅亡の淵からのメッセージ平野遼は大正14年生まれだから今年で満61才になる。産まれたのは大分県だが生後しばらくして北九州の八幡に移り、八幡で育った。八幡というと八幡製鉄(現在の新日鉄)の本拠地で、明治以降の日本近代化の象徴といえる鉄の街である。ここで育ち、近代化の悪の部分を見据えたところに、平野遼の世界の原点がある。大正14年に生まれたということは、昭和の年がそのまま、その年齢になる。平野遼は、昭和という時代のマイナス部分の一切を背負って描きつづけてきた。昭和とは、どういう時代だろうか。4年の大恐慌。6年の満州事変。11年の2.26事件。16年の真珠湾攻撃で第2次世界大戦に参加。20年8月15日無条件降伏。飢えと米軍の進駐。街には売春婦があふれた。26年朝鮮動乱が勃発。徹底解除したはずの軍隊を警察予備隊として再編成。特需景気で復興の第一歩を踏み出す。しかし28年のスターリン暴落。30年からの神武景気。34年には皇太子と美智子妃の御成婚。初めての平民出の皇太子妃であった。経済は復興繁栄の一路をたどった。47年に田中角栄が首相になる。日本列島改造論で凄まじいインフレ。この景気のピークに石油ショックが起こった。田中角栄は、その後ロッキード事件の被告となり、留置された。元首相が刑事被告人となる前代未聞の出来事であった。危機に瀕するかと見えた日本経済は再びそれを乗り越えて、現在1ドル150円時代という高値である。GNPは世界2位であり、アメリカ、ヨーロッパ各地に現地工場を組み立てて、現地の金融資本を買収するありさまである。この昭和史の変転定まらない中に、平野遼という一画家が、敗戦後10年の漂白の人生を送ったのち、北九州市小倉に閉じこもり、ひたすら人間存在の原点を凝視し続けてきた。19世紀末にボードレールは『このままでは必ず人間は滅亡する。世界が存在しうる理由は、唯一つ、世界が現在、生存していることだけだ。それに比べて、滅ぶべき理由は、無数にある』という意味のことを綴った。平野遼も同じ、人間存在の危機を描いてきた。世界が崩壊する時まで絵筆を離さないと言いながら。散歩のかたわら、川の底に堆積した塵芥の中に、人間の姿を凝視し、また『樹根』の群れに人間の姿を凝視し、人間崩壊の中から復活への祈りをこめて、メッセージを発信し続けてきた。ファーブルが、昆虫を凝視したように、芸術家は人間を凝視しなければならない。そこに見えてくる形が、いかにも異形なものであっても、それもまた人間の姿であり、それもまた人間の姿であり、それを芸術家は信じなければならない。凝視したものを信じることころから、初めて復活への道が開ける。それ以外のあらゆる方法論は、安易な堕落への道ではないかと考えながら。 【『樹根』のエピソード】小学館 平野遼 自選画集 昭和52年4月1日 巻末(原文のまま)後記この画集に収録した作品の多くは、敗戦の荒涼とした風景が背景となっている。寒々とした日々と酷薄な飢えが日本全体を覆っていた。そのことを抜きにしては、これらの絵を見ることは私にはできない。巻頭の小品≪笛≫は、焼跡に坐って靴磨きの戦傷者が客の来ない合間に尺八を吹いている場面である。私の稚気が彼に三角帽子をかぶせたものである。1949年から58年頃までは水彩とデッサンが主要な作品となっている。この頃は放浪中で、落着いて制作する場所もなかった。悪条件ばかりが重なっていた。私は移動するたびに描きためたデッサンを焼き捨てて歩いたものだった。言ってみれば臥薪嘗胆の時期であった。昼間から雨戸を閉め、暗い部屋で電気をつけて描いていた時があった。なぜそんなことをしたのか、理由はいまも解らない。外に出ると、乾上った川底にめりこんでいる石や木片を描いて歩いた。泥道がつくり出す形を凝視し、『樹根』に魅かれていた。砲台跡のらくがき、造兵廠跡の壁のシミなどをくり返しみつめていた。私はこれらを、あたかも古代人の壁画を見るような感動をもって接したものだった。『芸術家は、眼に見えるものを超えなければならない』と言ったのはクレーであったが、この有名な言葉を知るずっと以前から、私も見えないものを見るように見えるように描くことを考えていたように思う。
2014.01.19
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具象と抽象のはざまを描いた作品。福岡県 マスダ画廊 取扱http://www.g-masuda.jp/index.php幻想的な景色の中に追い求め続けている光が印象的な作品です。 【『踏切の人』のエピソード】小学館 平野遼 自選画集 昭和52年4月1日 巻末(原文のまま)朝、目覚める時に、私はしばしばフォルムを観た体験があった。見えなかった形がある日突如として見えてくる、といった体験は大きなよろこびだが、同時にふと見えなくなると淋しさはやりきれない。見えてこないと、なにひとつ描けるものではないのだ。そうした意味から言えば、私の絵は世に謂う幻想絵画とは異なっていると思っている。私は確かに見えてきたものを描いたのである。物の外側の肉を剥ぎ取って骨格だけを示そうとした。説明的なものを出来るだけ除去してかかった。生きることは捨てることだと朝思ったことがあった。抽象とはそんなことであろうと思う。外側から内面へ注ぐ眼、内面から外側へ向かう眼が同時に働くのだ。外から内へ向う時、具象的傾向を示し、内から外へ向う時表現は抽象的になってゆくようであった。57、58年頃から、そんな実感のなかで仕事を進めてきた。内から外へ、外から内へという循環運動をくり返しながら、物の核心をついてゆくことを考えるのである。 ここに示した作品が私の全貌ではないが、ややそれに近いと言えるだろう。私は現在も仕事を続けているし、表現は固定せずに動き続けるであろう。1965年頃から、大阪フォルム画廊を通して細々ながら私の仕事の一部が紹介されるようになったが、それらの絵は私の一断片に過ぎない。自分の仕事を知ってほしいという欲望と、自己韜晦を頑強に持続したい矛盾がある。自己を確認することができるなら、それ以上になんの望みもないのである。すべては死後にかかっているのが事実である。そのことはいずれやってくるわけである。ほとんど『霧のなかをゆく歩行者』のように、人々の眼の外側で、私の生活は充実していたと思う。巻頭の≪笛≫以来すでに私の絵生活も30年近くになったが、私はいまだに暗い森のなかを歩いているようである。この森を抜けて東洋風の白い真昼に出るのはいつであろうか・・・。 この画集は、小学館社長の相賀徹夫氏の御好意と佐々部承象氏積年のお力添えによって実現した。両氏に心からお礼申し上げます。またこの作品集にいっそうの重みを加えて下さった滝口修造氏、文章を書いていただいたヨシダ・ヨシエ氏に、また撮影にご協力いただいた大阪フォルム画廊と所蔵された多くの方々に、この画集上梓を実現して下さった新関謹一氏、森田光明氏、一ツ橋美術センター谷本和彦氏等みなさんに、心から感謝の気持ちを述べさせていただきます。1976年1月 平野 遼
2014.01.19
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幻想的な作風となっています。どの作品にもお約束の『朱色』のワンポイントがあります。
2014.01.19
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サイズはF8号ですが細筆で繊細に丁寧に描かれています。魂の画家たる所以を感じる味わいのある素晴らしい作品です。平野遼 書簡集 『やわらかな視線』 8頁序論(まえがきに代えて)平野遼が、日々の実際の創作の現場とした場所は、窓に埋め込まれたガラスに自ら板を張る、光を遮断したアトリエだった。闇のアトリエは平野遼と対立しているように時間や空気を押し止めていた。そうすることで平野は、何にも揺さぶられることなく自らの孤独と向かい合い、内面を深く凝視し、息を詰め、自らの思想をキャンバスに塗り込むように描き続けることができた。その一方で、平野遼のもうひとつの創作の現場は、アトリエの外にあった。毎日スケッチに出かけ、自分を解放し、刻一刻と空気を変える世界の色や暖かさや人間の生活の匂いを感じることを彼は日課としていた。それらはアトリエの何度も何度も自らを問い続けながら形を成していく抽象画とは違い、動き続ける世界を一瞬に搦め取る、やわらかな線画のデッサンとなり、色鮮やかな水彩画となった。自らの内側をじっと見つめる視線と、開け放つ外へと向いた優しい視線。このふたつは対称的でありながら、光を閉ざし時間を止めたアトリエと、平野遼が毎朝座りお茶を嗜んだ光溢れた庭を臨む茶室が、廊下一本を隔てて存在したように、彼の中に常に隣に位置していたように思える。平野遼その廊下を毎日行き来したように、『自分』と『世界』をそうした生活のサイクルの中で見つめてきた人だったのだ。その生活を常にそばで一途に見てきた平野清子は、1992年11月24日、平野遼の訃報を伝えるための挨拶状にこう書いている。(故人は常々『死は突如としてやって来る、その時に無念のおもいをしない様に』と自らを酷使しながら制作没頭した絵生活でございました)『死は突如としてやって来る』とは、平野遼が生前、口癖のように言っていた言葉であり、その時に『無念のおもいをしない様に』と最期の最期まで絵を描き尽した一人の絵描きの人生、それは、まさしく『絵生活』という言葉でしか言い表せなかったに違いない。彼が他界した後、そうした絵を中心とした人生の中で彼が残したものは、絵画作品以外に、数多くの文章がある。絵は、平野がどう世界に触れ、どう自己を見つめていたかを何よりも雄弁に物語る表現として、そして平野遼にとって文章は、絵に付随して様々に湧き出てきた想いであり、自らがどう考え絵に向かおうとしているのかを記録したものとして。だから文章を書くことは、彼の絵生活のサイクルの中に当たり前に入り込んでいた。一日絵を描く作業を終えると、アトリエで彼はそのまま日記を書いたという。時にそれは想いを綴った詩やエッセイとなり、海外であれば紀行文にもなった。そして時に、誰か特定の伝えたいメッセージが沸き上がれば、それは親しい知人達へ向けた手紙となっている。平野遼が書いた手紙は、残念ながらすべて現存されているわけではない。失われてしまったり、棄てられてしまったりしている。まして、美術界において、師匠がいたわけでも弟子がいたわけでもなく、小倉という地方都市でただ一人絵の世界を追求してきた人だ。だからこそ、彼が手紙を送った限られた相手は、自己を追求し絵を描くという姿勢、つまり内を見つめる厳しさと外へ向けた優しさの両方を理解してくれる大切な同志として、平野にどうしても必要な存在だったということがわかるのだ。平野遼がこの世を去ってから今年で10年が過ぎた。『一人の人間が確実に視えてくるのは、この世から消えて無に還ってからだ。骨になって生身の人間が丸ごと、鮮やかに視え、懐かしいものさえ漂ってくるのは、究極の詩であり抽象の極地であろう』と、彼が生前に書いた言葉を振り返るならば、肉体が消え、人生が完結した今だからこそ、平野遼の全貌が見えてくると言ってもいい。そのとき作品は平野遼の思想から先にあるものを浮かび上がらせ、一通の手紙は、親愛なる人々へ向けた彼の視線を、そしてその視線が追いかけた、平野遼という人間の相貌を見せてくれるようではないか。
2014.01.19
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1971年 大阪フォルム画廊 平野遼展に出品されたときの代表作です。9月6日~17日 東京店9月20~29日 名古屋店10月1日~12日 大阪本店10月18日~10月28日 福岡店図録:平野遼展 光と線の交響 1991年 116頁に掲載【この作品に付いてのコメント】平野遼氏の個展によせて(原文のまま)平野遼氏は、九州の小倉に住み、一般に言われる芸術活動の中心から遠く離れて、画業に精魂をかたむけておられる。お会いして、そこに芸術家臭さも、インテリ臭さも感じさせない、むしろ土臭いものがある。些細なことに過度に敏感な反応を示すことがない点でも、大陸的非日本的である。全てにおいて先を行くが、それだけに表面的になり勝ちな大都会を離れ、じっくりと根本問題と取組んでいるのが、現在の平野氏であるといえよう。近々、再び近作の個展が開かれるそうである。二点を拝見させて頂いた。一つは『窓』と題し、他は『H氏像』とある。H氏とは平野氏御自身であろうか。『窓』に画かれてある十数人も氏御自身の変容と思える。肘をついて何かをみつめるH氏の視線は外を向いている。十数の眼となった同じ眼が、『窓』で遠い将来までを凝視する。幽かに画面の内から伝わって来る光りは、次第に影の深い面をも包み始めているかのようだ。不思議である。作品から、一瞬、暗い印象をうけないでもない。だが、眼が色彩に慣れて来ると、画面にひそむ光明の動きに気付くのである。この明暗こそ、平野氏の画業に氏独自の意味を与えているものではないだろうか。ここに、氏の人間としても現代の世界に対する立場の表明が見られるのではないだろうか。芸術と社会、芸術の社会的意義は常に問われて来た課題である。現代、特にこの課題は各芸術家からの具体的応答を要求しているかにみえる。しかし、それは何も塵埃と思える物質の塊りを展覧会場に持ち込むことによってのみ表示出来るというのではない。平野氏はこの微妙な問題に、誠に思索的に応えておられる。現代は大いなる過渡期である。そして、過渡期に生きる人々は、過去に於いても、現代に於ける如く、人間そのものを問題としてきた。個人の小さな世界ではない、人間そのものに大きな懐疑を投げつけ、それに解答を求めて血みどろになり、過去の全てを失うことも辞さない。周囲は、その時、暗闇とみえ、絶望的状勢と思われる。だが、それにも拘わらず凝め続ける者は暗闇のうちに、遠く微かに光の射すのを感じ始める。人は待つことの意味と、時間の恐ろしさを知る。人間はこうして深い絶望的過渡期を通り越して来た。1971年の日本に生きる平野氏は、『窓』のうちで現代の闇と、悪を無言のうちに弾劾する。しかし、同時に現代を超えた人間の遠い将来、人間の最期的運命に希望を感じる。作品はそう語っている。氏の深い人間に対する愛情を読みとることが出来る。氏の作品は『私小説』的なものではない。気軽に、無責任に観ることを許さないものがある。現代精神を反映している。画布上に歴史的精神をかくも表現し得る画家は、現代日本に少ないのではないだろうか。しかし、氏の作品は単に現代の表現に留らぬ普遍性を持ち合わせている。『H氏像』には、葛藤、苦悩の極地に於いて観喜を味わう体験の表示であり、芸術家として人間に啓示し得る永遠の一瞬の先取りであろう。『芸術こそが存在の問題に解答を与える』と、ある西欧の哲学者は言っているが、再び平野遼氏の近作のうちに人間存在に対する深い思索の一端をうかがわせて頂く機会の与えられることを、心より喜ぶ次第である。1971年9月 吉田 暁
2014.01.19
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唯一、深みのある茶を基調にした作品です。
2014.01.19
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平野遼が画く『光と道』額装裏面に『日動画廊』ラベルあり 平野遼『闇を通過しない光は本物の光ではない』聖書の創世記に、はじめに「光あれ」という言葉が記されていますが、キリスト教絵画を描いた画家たちは、光を表現するときに、常に彼らの神が発した最初のこの言葉が意識のどこかに付きまとっていたかもしれません。 光は、神の創造や神聖なもの、そして希望や喜びや暖かさといったポジティブな波動の象徴です。一方、闇を光と対峙させた場合、闇はネガティブな象徴となります。闇は光を生み出す前に世界を支配していました。言い換えれば闇は光の温床だったのです。ゆえに最初から闇を排除して光を知るには至らないのです。 画家が光を描くにあたっても闇(陰)は欠かせない同伴者です。レンブラントしかり、印象派のモネしかり。 平野遼は「道教」に傾倒し、森羅万象や人間(人生)を深く見つめました。自然や私たちの人生はけっしてやさしく楽しいことだけではありません。天変地異は時に恐ろしい牙をむいて人間を死に追いやったり家族を引き裂いたりします。そして人生もまた苦難を避けては生きてゆけません。 しかし、いわば「闇」に象徴された苦難から目をそらしてばかりでは、「光」である本当の希望やよろこびは分からないものです。 春の暖かさは冬の寒さに凍えてみてはじめてそれがよろこびとなります。秋風は夏の蒸し暑さを体験してこそ爽やかさとして味わうことが出来ます。 苦難を越えた希望は深くゆるぎがありません。苦難という闇を歓迎し受け入れてみてこそ、希望という光の本質が見えてきます。 貴方がもし闇の中に居るとしたら、平野遼がそうしたように闇を凝視してみるのです。闇から逃げようとすれば闇はまるで悪夢のように追いかけてきます。闇を受け入れるしか道は無いのです。 すると、気づかされるものがあります。 たとえば台風や火山の噴火は恐ろしくもありながら、そこには厳格な美があるのと同じように、人生における苦難もまたそれ自体が美しく愛に包まれていることに気づくはずです。 そこから本当の光が見えてきます。 人生の闇を凝視し、闇と友達になることで、気が付けば、人生はいつも光に包まれていることでしょう。
2014.01.18
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平野遼(ひらのりょう・1927~1992)は戦後北九州を拠点に活躍。深みのある茶を基調に一貫して人間の孤独を描き、魂の画家と呼ばれた。 平野遼の作品を紹介するとともに、作品に込めたエピソードを紹介できれば・・・と思います。
2014.01.18
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