ETの未来主義ブログ

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2008.07.07
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カテゴリ: 地平線日記





  私たちがいつも食べているジャポニカというコメの起源がインドネシアなど東南アジアであることが、遺伝子解析で解ったという。それがはるばる中国の長江経由で何千年も前に日本に伝来した、縄文のころだろう。しかし本格的にコメを日本人が食べ始めるようになったのは意外と新しいのである、江戸時代らしい。庶民まで行き渡るのは明治になって以降のようだ。もっとも水田を使ったイネの栽培法を日本人が覚えたのは、紀元前5~6世紀だという。時というのは日々、少しずつしか進まないようだけれど、長い目で見るとダイナミックに動いているものだ。だから歴史はおもしろい。


  それまでは、私たちの祖先は、アワやヒエ、木の実など多くの種類のものを食べ命を繋いでいた。つまりは雑食生活を続けていたのである。なぜコメは普及するのにこんなに時間を必要としたのだろうか? 畑への直播きでは主食とするほどの収量が上がらなかったのだろうか? 土器の問題もあるかもしれない。原始的な焼成方法では、火温が低すぎるため、焼きあがった土器は密度が荒く、煮焚きの調理用には適さなかったのかもしれない。それとも今のコメほど味がよくなかったのだろうか? 私はもうひとつの仮説として、この時代以前からの低温化傾向があったのだと思う。なぜか縄文時代と弥生時代の境目辺りに寒冷化が進んだのである。その結果、食料が減ってしまった。仕方なくではないだろうが、コメへの依存が高まったのではないか。


  いずれにせよ、水稲耕作が始まってからは、あっという間に拡大した。社会の変化も早かった。コメづくりは共同作業を必要とするため、身内の数家族が共同して住むようになり、いくつもの家族グループがそこに集まってムラを作るようになった。当時は数十人~数百人規模であったろう。まずは農業用水を確保しやすい川などでムラができていったのだろう。しかしそれだけでは、適地は自ずと限られる。だから奥まった地にも水田が開墾されていっただろう。ムラのなかの有力者が地面を掘り、大きな溜池を作って灌漑に使ったのに違いない。ムラの首長の誕生である。首長は、何重もの濠を作り、ムラに壁を作って、村人はそこに住むようになる。首長とすれば、一番怖かったのは、労働力としての農民を他のムラから奪われることであったに違いない。クニが形成され始めたのだ。首長はクニの王となり、税金(イネ)を取り立て、その見返りに人々の安全を保証した。


  クニの内部はどうなっていただろう? 王の住む居住区と一般の農民が住む居住区は分かれていたはずだ。その他に、収穫したコメや兵器、祭具などの宝物を保管する倉庫もあっただろう。これらの物品は他のクニとの物々交換で手に入れた。食料や塩なども物々交換の対象になっただろう。魚などは干物にして、肉も干し肉にしてコメなどと交換された。流通を専門に担う商人もいたはずだ。そのためにクニの内部にはそのための市場もあったはずだ。クニの内部には共同工場もあったろう。弓や矢づくり、銅鐸などの祭器、酒なども作っていたことだろう。蚕を飼って絹糸にしたり、木の皮などをなめして繊維を作ることもしていた。クニの人々が着る衣服が作られていたことだろう。


  ここで商人についてもう少し語る必要がある。クニは自給自足の社会であることはその通りだが、すべてを自給できるわけではない。そのために商業とという専門職業ができたわけであるが、商人の機能はそれだけではない。商人は、戦乱や迫害などで日本に亡命する中国や朝鮮の技術者や知識人など渡来人の受け入れ窓口ともなっていて、かれらをクニに送り込む役割をも果たしていたのである。なにしろ各クニとも先進技術を喉から手が出るほど欲しいのだ。とくに鉄だ。鉄を材料に使うことで農具の性能は大いに高まり生産力を増強できる。鉄で刀にしたり、矢の鏃に使うことで軍備を強化できる。


  マツリはクニの中心の広場で行われた。マツリは農業のスケジュールに沿って春夏秋冬の佳き日を選んで行われた。農業は自然に左右されるから、自然の万物はカミとして恐れ、また敬まられる。素朴な原始宗教の発生である。とくに日本では四季の移ろいが鮮やかであり他の国より自然への思いは強まったことであろう。また、農業はどうしてもその時期に作業を終わらせなければならない適期というものがあるから、気象天文の知識を必要とする。いつ田植えをするか、いつ刈り取るかを決めなければならない。これらの役割を果たすのがミコだ。か彼女らは幼い頃から選抜されて専門の教育を受けたはずだ。おそらく自然との交感力の優れた少女が選ばれたのだろう。また彼女たちはクニの神話を共同体の人々に語り伝える役割をももっていた。他人同士が一緒に暮らすクニのなかでは、人々を心的に統合する物語が必要があるからだ。


  だいたい、一つの家族は父親と母親の他、四~五人の子どもがいるのが普通だったと思われる。生まれてまだ小さいうちの死亡率が高いため、十五歳ほどの成人まで成長できるのは五割ほどに止まっていただろう。もっとも危険度の高いこの時期を除けば、人々はふつう60歳ぐらいまで生きたのだと思う。では、余暇はどう過ごしていただろうか? 人々の楽しみは詩をうたったり、物語を語ったりすることだったろう。抑揚をつけて、その日感じたことや、起きたことを歌い上げるのである。ときにはメロディをつけてうたうこともあっただろう。評判のよいものは口承で皆に共有されたことだろう。


  大人たちの余暇ライフは現代人が想像する以上に豊かなものであっただろう。記録が残っていないのが残念ではある。子どもたちのためには、学校があったはずだ。選ばれた専門の教師が、言葉を教えたり、クニの神話を教える。子どもたちが可愛い声を揃えて暗唱したことだろう。家庭では親や姉や兄が即興のお話を創作して語って聞かせたことと想像できる。今に残るおとぎ話などの原型が形作られたのではないか? 記録が後世に残っていないが、私は当時の文化水準は今と比べても、かなり高かったのではないかと思っている。







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最終更新日  2008.07.07 18:56:06
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