PR
Keyword Search
Calendar
Comments
Freepage List

延原時行歌集「命輝く」
(第764回)
「復活の家出発進行ー感謝無限の旅一歩一歩」(164-2)
しあわせ印の歌、復活二面の歌、昨夜推敲の歌、昨日仕込みの歌、御名の歌、誤訳恐ろしの歌、訪問リハビリの歌、在す方の歌、燃ゆる仕事の歌、営々苦心の歌、彫琢の歌、祝福の歌、昨日安楽の歌
(2013年11月1-8日)
11月2日
昨夜推敲の歌二首
秋の夜や我ふと新著推敲すはしがきを継ぐ第一の章
(備考:『21世紀文明形成の神学ーー神のエコゾイックスに向けて』第一章「イエスの宗教の秘密ーー柳沢桂子氏の宗教観寄せて」なり。はしがきの勢ひのままに)
熱誠の友に我告ぐ復活の主の臨在を仰ぐや称名
(備考:我が称名基督教復活の主への吐露なりと。このあと推敲の気運出でたり)
11月3日
昨日仕込みの歌二首
漸くに料理仕込みに時間かけ鱈水だきも上達の如
この極意執筆よりぞ学びたり仕込みなしには熟れる事なし
御名の歌五首
御名なるは誠不思議の実在よ父の御名こそ御子のはたらき
(備考:See Archbishop J. H. Bernard, A Critical and Exegetical Commentary on The Gospel According to St. John, Vol. II [Edinburgh: T. & T. Clark, 1928], 569: "...in Christ God was revealed in His providential love and care, His ‘Name,' that is, His essential nature as Father, being exhibited in the Incarnate Son. Thus that ‘the Name' of the Father was ‘given' to Christ is yet another way of expressing the essential unity of the Father and the Son (see on 10: 30). This transcends any such idea as that of Num. 6: 27, where the ‘Name' of Yahweh is ‘put' upon Israel by the priestly blessing; or of Ex. 23:21, where it is said of the guardian angel of the people, ‘My Name is in him'; or of Jer. 23: 6, where the ‘Name' of the Messianic King is ‘Yahweh our Righteousness.' The nearest parallel is Phil. 2:9, exarisato auto to onoma to hyper pan onoma (cf. Rev. 19: 12); but in no N.T. passage except Jn. 17: 11, 12 is found the conception of the Father giving His ‘Name,' in the sense of His revealed character as Fatherly Providence, to Christ. See on v. 22 for the doxa which the Father had given to the Son.")
御名崇むこととは実にも他ならぬ御子称へてぞ栄光帰一
(備考:ピりピ2・9-11熟読参照)
我が生は称名のぞや基教をば日ノ本にやよ始めんとぞよ
イエスースクリストスああイマヌエルアーメンとぞよ唱へつつ生く
(備考:「イエスース・クリストス・インマヌエール・アーメン。」とは「イエスはキリストなりとは、神我らと共にいますとの理なり。誠に然り。」と訳す。キリストとは、イエス在世中父に「原初の栄光」を悟りつつこれを「輝かせ給へ」と祈り給ひ[ヨハネ福音書17・5]、その願ひ聴かれたる方[へブル5・7]、聴かれて華やぎ=復活に至れる御方なり[ヨハネ福音書21・15[「ヨハネの子シモンよ、あなたはこれらの物=船や網、ひいては全宇宙=よりもわたしを愛するか。」「主よ、然り。」この告白を受け給ふことほどの華やぎなし]。復活とは、根源志向(「原初の栄光」「インマヌエルの原事実」の覚り)+統合志向(「原初の栄光」の華やぎへの変転移行とそのための祈り)の現れなり。華やぎは、原事実と原事実に隠された空ないし絶対無の場所(プラトンではReceptacle[受容者])と宇宙の諸存在者とを含む宇宙の統合体なり。根源志向の統合志向への変転を冒険と言ふなり。ホワイトヘッドはこの事理を『観念の冒険』原書295頁に表せりとは、我が解釈なり。それ実に復活(華やぎ)の形而上学と言ふべし:"In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions fo the advancing world each claiming its due share of attention."かかる省察を終章に盛れる述作これ我が生涯の作『21世紀文明形成の神学ーー神のエコゾイックスに向けて』なり。英語では、 Toward an Ecozoics of the Deity: Ecological Theology in a New Key Emergent from the East-West Dialogue in Philosophy と称す述作とならん。英書は厳密なる哲学的神学、邦書は詩的神学とならん)
この称名礼典中の礼典よエレメンツをば活かすものなり
(備考:聖アウグスティヌスも「言葉こそエレメンツより重要なり。」と言ヘリ。彼の言ふ「言葉」称名のことなり。エレメンツとはパンと葡萄酒のことなり)

予定通り、正月二日と三日一泊のバスとフェリー往復の「隠岐島」への旅を満喫してきました。さいわい好天気にも恵まれ、渋滞にもまきこまれず、昨夜8時過ぎには、神戸に戻りました。
「とっておきの食の宝庫・隠岐島」というふれこみに誘われての、はじめての隠岐旅行です。飛行機や高速船ではなく、境港から片道3時間ほどのフェリーニ乗って・・・
二日の朝は7時30分、ルミナリエでも馴染みの神戸東遊園地を出発。上の写真は、遊園地のある景色ふたつ、「MARINA」と「エーゲ海」です。
大型のバスには「神戸」「明石」「姫路」から乗り込んで40名の旅です。
車窓より須磨の海、明石大橋や港をながめながら、・・・・バスとフェリーの長い旅でもあり、岩波文庫の上田薫編『西田幾多郎歌集』をポケットに入れて、新しい年のスタートです。


姫路より播但道から中国自動車道、そして米子自動車へ・・・。「湯原温泉」あたりはナント美しい雪景色・・・。昼食は「蒜山(ひるぜん)高原」で・・・・。
この近くが「関金温泉」のあるわたしの故郷です。今年はすでに40センチほどの積雪があったことは耳にしていましたが、この高原の深い雪には驚きました。
雪の積もることなどない神戸にいると、こうした雪景色をみるだけでも、幼少年期の思い出と重なってたいへん懐かしく、この景色がいちばんのごちそうさんということで・・・・。
数枚カメラに収めました。






