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”死”の適用はやはり要(かなめ)かと、
【2コリント4:11-12】 から、
私たち生きている者は、
イエスのために絶えず死に渡されていますが、
それは、イエスのいのちが、
私たちの死ぬべき肉体において、
明らかに示されるためなのです。こうして、 ”死 ”は私たちのうちに働き、
”いのち ”はあなたがたのうちに働くのです。
後半の、
”死”は、罪の贖いのための十字架上の キリストの死 、
”いのち”とは、復活した キリストの命 、
死といのちは、
縄張り争いしているイメージがある、自我が生きている限り、
(例え、キリストを信じていても、)
キリストのいのちは出て来れない、そこにキリストのいのちはあっても、
極々、わずかなほとばしりでしかない、
*圧倒的に自我の圧力Pで、いのちは押しつぶされている、
ポイントは、
いのちが増大すると、自我が死ぬのではなくて、自我が死ぬと、
自動的に キリストのいのちが増大する、
*自我の 磔殺
で、
押し込められていたいのちの圧力Pが一気に上昇、
ゆえに、先に死が必要、
*死とは、自我(古い自分)の死のこと、
「私、救われました、」
と言う信じたばかりの人に、刑事コロンボ風に、質問する、
「ああところで、ご主人、あなた、死んでますか?」信じた人、
「ナンですかそれ??、 私、救われたんですよ、」再度、コロンボ刑事、
「満たされていますか?」信じた人、
「??、」
クルセード(集会)で信じた人が、5%しか教会に残らない、
と言うのはまんざらなデータでもない、信じたら、それですべてがOK、
と思っている人の多いこと!?*人のことはあまり言えた義理ではないのだが、
で、具体的に、”死”の追認はドーするか、「日々、自分の十字架を負い、」が分かりにくければ、
「日々、自分の棺おけを負い、」がいいかもしれない、
デボーションタイムに、
難しい人と会う前に、
怒りが来そうなときに、
欲に駆られそうになったら、
中に入って、
自分の罪(自我)の清算のために、 身代わりとして、
十字架にかかったキリストの死を体験する、アト、何が起こるかはお楽しみ、
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