ヨハネの黙示録の解説から随分たって、挫折気味になっているが、そのうち、気が向いたらまたはじめたいと思う。つい最近は、他の「こころ」カテのブログの訪問に夢中で、かつ自分のブログの精進が疎かになっていることは確かであり、世間への愚痴というべき御託を並べてしまうのも、困りものである。
というわけで、最近は独学の勉強も、途絶えている変わりに、他のブログ訪問から、想起される問題を、自分なりに吟味し、わずかな時間から、書き下してみたいという気持ちにとらわれていたりもするので、そのような御託も、世間(とくに政事)への愚痴より、幾分マトモだろう。何を言っても無駄なものに、無駄を重ねる位より愚は無い。
で、あるブログで目にした「人間は万物の尺度である」というギリシアの哲人プロタゴラスが言った言葉に目がいった。
この神秘的な意味は、人間が現在みている物質世界の単位は、人間から出ているということなのである。例えば、フィート(足の大きさ)、マイル(人間が2時間で歩ける距離) 等など、人間は、人体を基準にして、世界を計ってきたという意味なのである。
元々、それは人間の生活を元に、その体験から割り出してきたものなのである。
太古のままに、有体にいえば、これは、人間が、周囲を霊化してきた結果ともいう。
それが、いつの間にか、天体観測の基準尺度の12進数から、10進数に変わったという。人間が日々の体験から離れ、数値の単位が抽象化されるにつれ、唯物論が台頭してきたという。10というと、人間の指の数と思われがちだが、どうも、そうではないらしい。確かに、人間の指は、10だが、なぜ10本で、10以上の数を数えることの意味が見い出せない。指を持ち出すのなら、左右片手片足が共に5本で、5惑星(水、金、火、木、土)からきているとした方が、遺伝という意味からも意義深いだろう。
このプロタゴラスが言ったことは、古代バビロニア人が、天空(神々)から、尺度を地にもたらし、古代エジプト人が、それを人間の身体へと模した尺度とした、人類文化の流れを、総括し、端的に表現したものだといえるだろう。
古代バビロニア人や古代エジプト人は、見霊により、神々を見ることができたので、天空から、尺度をもってきたという。そののち、それが困難になった時点、更には、古ギリシア人の時代では、わずかな秘儀参入者(見霊者)しかいなかったので、天空の代わりに、それを模した人体(第2の天空)を尺度としていったという。それが、神々の神殿の像から、個人の自我を表現するギリシア人の個人の像になっていったという。
実際、神殿は天空(神々)の尺度を基準としてつくられたという。なので、巨大な遺跡にならざるをえなかったわけでもあろう。ギリシア時代に見霊できなくなるにつれ、大宇宙の投影像が、小宇宙の人体になったように、それは個人のものへと、いわばミニチュア化していったのである。それはまるで、神話の神アポロン、ゼウスといった自我の集合魂ともいえるような、大きな霊的自我が、ディオニソス神のように個的な自我へと、分裂し、引き裂かれていくようなプロセスのイメージを表しているようにもみえる。
ギリシア時代とは、霊的神々の尺度を、地の人間的尺度として、像をつくり、個的に定着させる時代だともいわれる。つまり、神秘学では、ギリシア-ラテン時代になってはじめて、人間は集団から独立し、個人となり、自らの肉体を制御できる存在となったという。その自我が肉体へと取り込まれ、ローマへとつながり、物質化し、ローマ法という物質的な都市国家の個人を完成させたのだという。だが、同時に、個的自我の悪の面の利己主義というエゴの悪の面も生み出したという(スターウォーズ風にいえば、自我(フォース)のダークサイドというべきもの)。
法は人間の利己主義面から作り出されたともいえるだろう。その裏にその法をふるう権威がある。人間の尺度が、個的に絶対化された悪しき面でもある。それゆえ、ローマは、魂が物質下に最も下降した時代だといわれる。そのときに、キリストが現れ、キリスト教が布教されたのは充分に意味があることだという。そしてキリスト教は、真の未来の準備のための布教を行ったのであって、当時の布教は悪しきものに塗れていたという。
もともと、キリストやキリスト教という名でなくてもよいのだという。常に新鮮な愛の教えであれば、よいのだという(ここらへんがわからないところでもあるが…、ともかく、誰もわからないからこそ、常に新しくなり、形骸化しないとはいえる。まぁ、所詮、人間が考えることなど、神の考えには程遠いということだろう。だからキリスト教を語りえる人間などいない)。
神秘学では、われわれのポストアトランティス時代の中心文化は、第4文化期であるギリシア-ラテン文化期であるという。この後の我々の現在である第5文化期において、人類が、この自我の善き面と悪しき面に分かれる兆しがみられるという。物質主義に埋没したなら、そのまま、快楽主義の虜になり、物質世界から離れることはできず、依存し寄生し、永遠と現世に執着する悪しき存在になるという。
もし、我々の現代の第5文化期から、かってあった見霊意識を、エジプト-バビロニアの遺跡から、かってあった第3文明期を取り戻しえて、再び見霊に目覚めたならば、次の友愛の第6文化期において、その人たちは、友愛のネットワークを世界につくりあげるという。
まぁ、後半がまた、一見すれば、わけのわからない話になってしまうのだろうが、エジプトの遺跡をみて、どこまでその想像力を沸かすことができるか?ということだけは確かだろう。エジプトの遺跡には、秘密が隠されているというのは、以上を含めこれまで述べた霊性への回帰、神々への感謝や宇宙の進化への貢献とでもいえるべきものなのだろう。SFではあれこれ唯物的に解釈するものが、巷に五萬と胡散臭く流れているが、ガセだからこそ、流す方は生きながらえているのである。
どうも、真実を語る者は、命により汲み取られる(短くなる)というのは本当らしい。どんな発言でも、人間が語ることには、何割かのウソがあるから、生きながらえているともいえるだろう。ましてや占い師が、現世で贅沢な身分でいられるのは、ウソばかりである証拠でもあるだろう。真実を語ってしまえば、神様は、その存在をほおってはおかず、たちまちに天界に連れ戻すに違いないからである。
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