前回は、ギルガメッシュ叙事詩の前世のことを書いた。続けて書く前に、古代からの秘儀参入法について、少し書きたい。というのは、最近、巷の話題のダビンチコードのせいでもある。
古代、秘儀参入者が、その秘密を漏らすと死罪と、財産を没収されたという。詩人アイスキュロスが、その密議の一部を舞台に載せたということが訴えられたが、デュオニソスの祭壇にて、自分は秘儀参入者ではないとして、裁判により証明したので、死を免れたという。
レオナルドダビンチが秘儀参入者であることは、当時、一般的には、知られてはいけないことだろう。知られてしまえば、死と財産を没収されたからである。彼が、秘儀参入により知りえたその密議を、勿論、巧妙に絵画に表現させたことは、秘儀参入者であれば、わかることなのであるが、それをバラせば、その証明をせねばならずに、その人が死罪と財産没収を免れえない。
秘儀参入者ということは固く閉ざされて隠されることなのである。なので、オカルト(隠される)という意味で、オカルティストと、秘儀参入者は呼ばれるのである。
オカルト、つまり秘儀参入で得られた叡智(密議)は、秘儀参入できない者、つまり一般人には、何の価値もないものである。何の価値にもならないものを、一般人にもたらすことは、全く何の意味ももたらさないからこそ、タブー死された。それは、秘儀参入できない者、つまり、一般人のためというよりは、秘儀参入者の為という意味が強い。
一般人に何の意味も与えないのならば、よいではないかと思うだろうが、実は、秘儀参入者のためによくないというのが、どうやら事の真相のようである。
秘儀参入には、至上の恐怖に立ち向かい、自分の存在自体を根底から無に帰さなければならないので、温室隔離が必要とされるのである。端的にいえば、通常の感覚世界を絶つ必要があるという。通常の一般人であることができないのである。
古代人は、現代人のように、概念、理念をもたなかったので、周囲にみる感覚世界を、概念で捉えていなかったために、周囲を現実とは感じなかったという。我々のように明確に立体像をつくらず、事物を固定したものとして、捉えていなかったという。そのために、秘儀参入者となる素養は、現代人よりは、有していたといえるが、それでも、秘儀参入でみられたその叡智(密議)が、漏れ、一般人により、曲解され、伝承され、概念化され、無意味化されることを恐れたのである。
秘儀参入については全くもって言葉は無力、無意味であるばかりか、秘儀参入できない一般人には、空でしかないという。
お釈迦さまが、覚ったときに、この悟りは、言葉で説くことができないと一旦は伝承をあきらめた意味が、ここに見い出せる。それでも、神々に諭され、仏滅3千年に末法の世になるとはいえ、説いてきかせたわけである。
有体にいえば、お釈迦様は、(仏教を)生むべきか、生まぬべきか、それが問題であると思ったわけである。その問題は、後世の人類に任せようという慈悲心なのであろう。
一般人には、仏教を教えたとしても、ほとんど理解されえない無のものであろう。仏教を教えるには、仏教を理解する準備が必要だからである。だから、まずはその種を植えようというわけであろう。ほとんど無だろうが、いずれ全てを掴むものも出てくるというわけだろう。泥に華を咲かせるもののために、蒔こうというわけだろう。
このように、神々の挨拶は、人間に対して、全く無であるか?、全て、であるか?どちらかなのであるという。全てか?無か?を決めるのは、その人間自身なのであるという。
これが、幸運の女神には後ろ髪がないという諺の意味でもあろう。
神々は、無か、全てであるか、どちらかであるという。人間側に、神々を準備し、迎える意志があれば、全てとなる。しかし、もっぱら、それは全く無であり、人間には関係ないことである。
神々はいうだろう。「我々自身は、君には関係ないことである。それが、君をいまのままの君にしておくか?、それとも、君から、新しい人間を生み出すのか?、それはもっぱら君しだいなのだ」と。
だから、神々は、「汝自身を知れ」という言葉で、挨拶するという。
新しい人間を生み出す自分を見つけたものは、神々と関係し、だから、「あなた(神々)は存在する」と、返礼するだろう。
人間は、神々と出会うと、新しい自分に目覚めるのである。
変わらない人間は、神々とは無関係である。
人間は、子供から大人になる。これは日々変わっているからである。人間は、神々と挨拶しているのである。概念、理念の為に、その関係が曇らされているといえるだろう。
この世のものは全て移り変わるのである。色即是空、空即是色。無常である。
無常なものは、日々移り変わっているのである。これは神々の力である。神々と関係したから、神々の創造の力をうけて、変わっているのである。
秘儀参入の意味はここにある。一般人にはけっしてわからないものがある。だからこそ隠されるのである。
隠されるからこそ、わかるものがある。こころにみえるものがある。神々は心眼にうつるというのは、こういうことなのだろう。
かわるべきか?、かわらないべきか?、それはあなた次第なのである。
勇気をもって恐怖に打ち勝つのは、あなた次第なのである。
誰にも頼らずに、ただ、独り犀の角のように歩むのは、あなた次第なのである。
全ては、あなた次第なのである。
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