シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年07月12日
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カテゴリ: 神秘体験空間
■質問:
 通常の数学は形、表面、そして固体、液体、気体の力線を包含している。熱、化学、そして生命の領域についての数学はどのようにイメージされるのか?

 シュタイナーの答え;
 第一に、今あるような数学の分野は、もし、我々が数学に似たやり方で(とはいえ、それは類比以上のものではないが)高次の領域を記述するのであれば、適切に拡張される必要がある。恐らく、数学を拡張する必要性は既に19世紀には明らかになっていた。

 別の機会に議論した点について少し触れると、19世紀の終わりには、ユークリッド幾何学を補い、高次の次元を含む計算を遂行することが可能な非ユークリッド幾何学(リーマン幾何学)が必要であることが明らかになっていた。

 当時の数学者たちは、数学は拡張される必要があることを示唆していた。対照的に、通常の、質量をもつ物質(剛体)に関して考察する限り、3つの通常のユークリッド次元以外の次元を適切に用いる必要はない。

 けれども、近年の数学者たちにとっては、熱や化学的な影響、或いは生命要素に関する領域に関して適切な観点を探求しようという傾向が、あまりにも少ないために、数学的思考を、これらの領域に拡張することは、真に大変な問題となる。

 数学者たちが、近年提議している観点(20世紀初頭)は、確かに、物事の(精神的な)本質を把握することはできない、という物理学の側からの告白に対しての、釣り合いを取るものにはならない。そして、物理学者たちが首尾一貫した立場を取るならば、物理学は光の本質を取り扱うものではなく、ゲーテが光の像と呼んだものを扱っているに過ぎない、ということを認めないわけにはいかないだろう。

 当然のことながら、賢い物理学者は、職業人として、モノの(精神的)本質を探究することは拒絶するだろう。その結果、事態は不幸な状態、すなわち物理学者たちが物事の本質(精神性)をいかなるレベルにおいても扱わないという状態になることを認めないわけにはいかない。



 何故なら、決して物理学は単に地学のような(特殊な)問題ではなく、一般知識のために、そのような特殊分野が産み出すことが可能なものの総体を扱うものだからである。こうして、我々は物理学が時間の経過の中で発達させてきた、機械論的で非数学的な世界観からくる不幸な結果に直面することになる。

 (注釈;物理学があまりにも機械的なので、効率主義が優先され、確率論において最も多数を占める確からしさが選択され、近視眼的立場から人間の意志が機械的に決定される。この典型が、現代の民主主義という名の下の堕落し腐敗した多数決主義である。

 そのような思考決定システムがあたかも存在するかのような仮想の力学で、本来自由な人間の思考が奴隷化されている。この典型が、昨今のゲーム理論と統計主義である。これを武器とするエコノミストの予測は完全に外れるのだが、その成果とは裏腹に彼らは大金を握るのである。これは一種の詐欺なのである。

 彼らの関心は、理論が正確であるよりも、そのワナにかかる獲物がいるかどうかである。しかし、彼らはその大金を下に地獄へと赴くだろう。なぜならば、ゲーム理論や確率論、統計主義は、個別的には何も予測できないが、人類全体のような多大なる数量において、その予言が的中するからである。人を騙し、カネを掴んだという人間性の事実だけは拭えないもので、そこには、全人類に対する多大なる罪悪が隠されているからである。利益を下に、自然、環境破壊を行う行為が是に相当する。)

 ゲーテが、我々は光の存在や性質に関して語るべきではなく、むしろ、それに関する事実、つまり光の行為と苦しみ(それらは光の本性(精神性)についての完全な記述となる)に関して知ることを試みるべきである、と言ったとき、彼が意図したのは、決して、光の本性(精神性)の問題に関して、原則として考察することを拒否する、ということではない。

 彼が指摘したのは、正に、(以前、議論したような方法で構築される)真の現象学は最終的には問題になっている存在の(精神的)イメージを本当に与える、ということである。物理学は、それが真の現象学であるか、或いは、そうであろうとしている程度に応じて、現象の本質(精神性)、少なくとも力学の本質(精神性)についてのイメージを真に与えうる。

 なので、我々が単に物理学的現象の力学的側面を扱っているのでないとすれば、つまり、力学以外の分野を扱っているならば、(精神性のない)力学的観点は、物事の本質(精神性)を認識しようとする我々の能力を妨げる。そのとき、ゲーテが意図していた現象学(それはゲーテ主義の中で涵養させられる)と、物事の真の性質に近づく可能性を排除する原則をもつ、あらゆるシステムとの間の根本的な違いを、その程度に応じて、強調する必要がある。

 そのことは、自然をコントロールしたいという欲求にとっては、力学的方法の優位性(優劣)とは何の関係もない。技術や力学の分野(それはここ数世紀の間に大きな勝利を収めたが)、そして、自然理解へのその力学的な基盤は、自然をコントロールしたいという、我々の欲求をある程度満足させることはよく理解できる。

 では、しかし、別の領域において、この自然を理解し、コントロールしたいという衝動は、技術が希求したようなタイプの知識に向けて、進むことを拒否したために、どれ程の遅れをとったといえるのか?

 技術、或いは力学、物理学に始まり、化学から生物学へと続く学問との違いは、高次の分野が、定性的、或いは、定性的な事象のみを扱うことにないことにある。その相違は、力学と力学的生理学が非常に基礎的で、容易に把握可能であり、そのため、我々のコントロールへの欲求を、少なくともある程度、何とか満足させた、ということに過ぎない。

 けれども、この時点で、我々が高次の、非力学的分野(精神性)に移行するとき、コントロールしたいという我々の欲求をどうやって満足させたらよいのか?という疑問が生じる。



 我々は間違った情報に基づく不十分な制御に対してはすぐに反応するが、力学に基づくのではなく、現象学を発達させるようなプロセスから導出される、より複雑な領域に基づく制御(カオス制御のようなもの)のときには、それほど簡単に証明するわけにはいかない。

 例えば、3番目の列車が通るときに崩壊する橋は、応用力学の不完全な理解者により造られたと考えられるが、患者を死なせた医者の場合、開業医としての充分な理解と、自然に対する制御技術との間に、同様の結びつきを確認するのはそれほど簡単ではない。

 医者が、病気は治したが、患者を殺した、と言うならば、それは技術者が、欠陥のある橋を設計した、と言うほど簡単ではない。要するに、自然に関する力学的観点が、単に力学的技術の領域において、その欲求の満足可能性を証明したからといって、自然を制御したいという我々の欲求の重要性を性急に強調(正当化)することには慎重であるべきである。

 自然に対する別の見方も、制御したいという、我々の欲求を別の仕方で満足させることができる。以前、確か別の観点から触れたことについて、もう一度指摘すると、真の現象学的なアプローチの適用なしに、世界に関する力学的観点と人間との間の溝に橋を架けることは不可能であるといえる。

 注釈;大まかに分けて、無機質、無生物を扱う場合と、有機質、生命体を扱う場合では、全く話が異なるということである。だから、無機質、無生物のような鉱物の創造がある程度巧くいったからといって、それを有機質、生命体に扱うのは、全くの御門違いというものである。第一、無生物体には個性がみられないが、生命体には、個性がある。実は無機質にも、個性があるのだが、あえて、それに目をつぶっているだけにすぎない。






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Last updated  2007年07月12日 21時00分22秒
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