シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年07月18日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 前回の続きである。

 ウンガー博士も触れたように、人間は人間的要素を考慮しない今日の科学から本当に閉め出されているといえる。

 相対性理論のような考え方、そして、それは確かに現実には対応していないが、そのような考え方が影響力を持つことができるのは、現代科学が、あまりにも完全に、現実からかけ離れているために、人間の外側にある、あらゆるものを取り扱いながら、その内部で生じることは何1つとして取り扱わないからであるということに他ならない。人類は現実に即した方法で考えるという技術を、もう一度習得し直す必要がある。

 もし、ここに石があるとすると、それが独立して存在し、少なくともある程度は独立していると見ることができる。全ては、どのような前提に立っているかにかかっている。その石の境界線の内側にあるもの(精神性)を見るとき、その石に関して、ある種の観点を発達させると言うことができる。

 しかし、今は石ではなく、摘み取った薔薇に関して考察する。石に関する現実性を石の境界の内側において割り当てるのと同じやり方では、薔薇に関する現実性を割り当てることはできない。その理由は、摘み取った薔薇は(石とは異なり)そのまま独立して存在できないことによる。

 それは何か別のものとの関連で発達すべきものである。石は、その表現された境界の内側に一定の現実的存在性を有しているが、薔薇はそうではない、何故なら、それはその根や茎との関わりの中でしか存在し得ないからである。もし、それをその根から引き離すなら、その存在に関しての前提条件はもはや存在しなくなり、維持が不可能になる。

 我々の思考を、物事の中へと沈め、それらのもの自体を考慮する技術を学び直す必要がある。この技術を再び獲得したときのみ、当然の帰結として、例えば、天文学の健全な形態をもつといえる。そのとき、相対性理論のような恐ろしく抽象的な考えを持たなくても済むようになる。本質的には、相対性理論は真の現実の考えに基づいたものではない。

 通常の定式 s=v×t(距離は速度と時間の積に等しい)は究めて示唆に富んでいる。現実を記述するとすれば、ただ次のように書き表すことができるだけである。

                        v=s/t



 しかし、これらの抽象性を現実的なものと信じるべきではない。無機的世界においては、速度だけが現実であり、時間と空間は単なる抽象である。なので、時間と空間を含む計算を始めるときには、非現実的なものの領域へと入り込み、そして、一度、非現実的な意味で考え始めると、もはや現実へ戻ることはできなくなる。

 なので、これらの問題は、我々の時代の非常に重要な欠点に関連している。今日、自然を理解するとき、人間は精神を完全に無視するようになり、我々の魂は抽象性に向かうようになった。ある意味、抽象性を扱うのは究めて気持ちのよいことで、何故なら、そのとき、自身を対象や出来事に沈潜させることを学ぶ必要がないからである。

 空間や時間の意味で考えることは、定性的側面に、自身を潜行させたり、或いは、何か別の事柄との関連で、現実的に考えることが可能なら、何でも、出来事自体に沈潜し、本当の現実的意味で考えることよりも、(抽象的な分)容易である。

 これから言うことを信じる必要はないが、いずれにしても、真実であり、思考能力や現実の理解への願望を育てた人間にとって、アインシュタインの相対性理論を読むことは拷問で、それは、アインシュタインが提示する考えの全ては、数学的に非常に首尾一貫したものにも関わらず、多少なりとも現実感覚を持つ者にとっては、文字通り考えも及ばないことだからである。

 そのような思考を追求しても何もならず。誰かが箱の中に閉じ込められて高速で空間中を飛行し、戻ってみると新しい世代の人々や全く異なる状況が存在するということ(浦島効果)に関して、アインシュタインが考えた成果を提示するとき、それが何を意味し、いかなる種類の道理に適っているのか?

 そのような状況に関して考察するときには、勿論、空間と時間の意味においてのみ考え、その実験に供されている間、恐らく、(光速度により)破壊されるような、その人物や物体の外的な体的本性に関しては無視しているのである。

 注釈;光速で運動すること自体不可能である。シュタイナーは速度という概念はあくまで初速度を基準にして測定すべき立場をとるので、光速の初速度、つまり光源が特定できない限り、いわゆる光速という速度は、物理量定義の速度ではないという立場をとる。

 このような反論は、相対性に関する課題を狂信的に考える人(相対論信望者)にとっては些細なもののように見えるが、現実との関連においては考えざるを得ないことで、現実感覚を持っている人であれば誰であれ、そのような思考を結論に至るまで見通すことはできない。

 例えば、車を運転中のパンクを考える。自分が乗った車が地上を疾走すると考えるのも、車が静止している間に下の地面が動いていると考えるのも同じだと仮定する。もし、本当にその間に違いがないのなら、車のみに関係するパンクのような小さな故障を生じるために、突然地面がぶつかってくるというようなことがどうして起こるといえるのか? 

 もし、車が動く場合と、地面が動く場合が同じだとすれば、この状況(事象)をどのように考えればよいのか。その結果は外的変化に影響されるはずがない。前に述べたように、相対論の理論家に関する限り、そのような異論は恐ろしく些細なものかもしれないが、相対論を考える上では、現実を実際に反映するものとなる。

 その思考が抽象性(首尾一貫した思考を支えるのであれば、抽象性でもよいが)ではなく、現実に根ざす者であれば誰でも、そのような問題を指摘しないわけにはいかないだろう。



 では我々は一体何をやっているのか?

 コペルニクスの第2法則を適用するが、その計算結果は実際と折り合いがとれず、正午が間違った場所に行ってしまい、そこで、ベッセル補正として知られる日々の補正を導入する。もし、それらが示唆するものに、十分に気づくなら、コペルニクスの第3法則の考慮の必要性を理解するように、つまり、現実を扱い始めるだろう。

 ここでのポイントは、そのような問題の背後にある原則を認めることで、現在、そのような原則を取り扱う方法は、我々をあらゆる方向に彷徨いさせてしまう。シュテッフェンの仕事は、特別な認識の領域において、そのような3つの耐え難い道を提示したという点で素晴らしいものといえる。

 今日、そのような間違った道に出会うことは珍しくないが、それらは現実の生活に影響を及ぼし、現実を欠く数学から導出される方法で考察するように訓練されているが、この型の思考は次第に天才の試金石と言ってもいいようなものになっている。

 実際、現実感覚というものは、ときとして、天才よりもずっと役に立つが、その理由は、もし、人間が現実感覚を持てば、現実の状況の側に留まらなければならないということによる。物体や出来事の中に、自身を沈め、それらと共に生きる必要がある。



 これらの抽象性は、ときとして、究めて説得力のあるものとなり得る(現にいまその効力を発揮している)。このことは、近代の集合(群論)理論のことを考察することでわかるが、それは無限を説明するための基礎として用いられてきた。集合理論は数学の正に基本原則の数を解消するが、その理由は、数を通常の数ではなく、単に人為的に選んだ集合を別集合と比べることにより、個々の実体を、それらの質や順番とは無関係にクラス分けすることによる。

 集合理論は無限に関する一定の理論の発展を可能にするが、その間、ずっと抽象性の中を泳ぎ回っている。具体的な現実の中では、そのような操作を遂行することは不可能で、徐々に、自身を現実の中に沈める必要性を無視することに慣れるようになったという点に注意することが重要である。この関連で、精神科学(人智学)は、この真の誤解を解く必要がある。

 さて、これから2つの対極を示すことにする。これは理論とは無関係のように見えるが、実際には大いに関係がある。何故なら、これらの事柄、全ては理論以上のものを取り扱っているのであって、もし、それに関する思考が健全であれば、修正され得るからである。

 現実に問題となるのは健全な思考、単に論理的ではない思考を発展させる必要があるということで、その理由は、論理は数学にも適用されるということによる。論理を数学の中に取り込むことができ、その結果、完全に首尾一貫した構造、つまり、首尾一貫しているにも関わらず、現実に適用される必要が全くない構造が得られる。これまでに到達したのは、物事はいかなる真の現実感覚をも欠いている行儀の悪い思考方法を、人間がいかに当てにしていることかということを示すことができる地点である。

 一方で、ここに現代科学が提供すべき、あらゆるものを要約しょうと試みる書籍がある。この有名な書籍は、何万という部数(恐らく7、8万部)が既に売れている。オズワルド・シュペングラーの「西洋の没落」だが、このことはその4、5倍の数の人々がこの書籍を読んだということを意味している。

 このことからも、それが、単にある意味で現代思想から現れたというだけの理由から、いかに現代思想にとてつもない影響を及ぼしたかということが分かる。この本の著者は、現代思想が究極的に行き着く先の結果を定式化する勇気を持ち合わせていたといえる。シュペングラーはこの本の中で、天文学、歴史、科学、そして芸術が提供すべき、あらゆるものを眺望する。

 彼が大量の証拠を集めたということは、認めざるを得ない。シュペングラーが真に現代的な天文学者、生物学者、美術史家等の考え方から究極的な結論を引き出す勇気を持っているのは、実際、このような仕方で考察するからである。例えば、シュペングラーの書籍は、熱力学の第2法則を明確に証明できるのと同じくらい明確に、三千年紀(西暦2000年、つまり現在)の始まりには、西洋文明は完全に野蛮な状態へと堕落しているであろうということも、また証明する。

 この書籍は現代文明の没落を示すだけでなく、今日、どのような科学的記述であれ、明確に証明できるのと同様の明確さで将来の出来事をも証明したということを認めなければならない。現代科学の方法論という意味で、シュペングラーの西洋の没落に関する証明は、いかなる天文学的証明やその種の証明と比べてみても、確かに有効なものであり、相対性理論に関する証明よりは、遥かにマシなものである。

 彼の結論の抜け道を探索できるのは、シュペングラー自身が見ていない要素を見る人たち、つまり、将来、人類にとって全く新しい衝動を提供することになる人たちだけである。それは人間の最も内奥の核から生まれ出る衝動、現代思想のみに立脚する、いかなる科学にも見ることのできない衝動である。

 注釈;「西洋文明の没落」を読んで、歴史学者トインビーは、真剣にその救済法を、東洋の易学、易経に求め、西洋の没落は東洋により救われなければならないと考えたという。





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Last updated  2007年07月18日 22時21分01秒
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御礼!  
武侯仁従  さん
>ウンガー博士も触れたように、人間は人間的要素を考慮しない今日の科学から本当に閉め出されているといえる。

 >相対性理論のような考え方、そして、それは確かに現実には対応していないが、そのような考え方が影響力を持つことができるのは、現代科学が、あまりにも完全に、現実からかけ離れているために、人間の外側にある、あらゆるものを取り扱いながら、その内部で生じることは何1つとして取り扱わないからであるということに他ならない。人類は現実に即した方法で考えるという技術を、もう一度習得し直す必要がある。


相対性理論は、量子論よりも人間を切り離した考えだと、感じました。

科学の陥穽というか、今の最大の欠点は、自己と事象との「分離」のみして、その「再集結」が出来ないということでしょうか。{分離しても集合できない軍隊は、バラバラの軍隊と言う。負ける軍の様相である。・李衛公問対より}ちょうどそれでしょうか。
生命科学に感じる危惧は、そのようなところから来ているのでしょうね。

再見!
(2007年07月19日 20時46分57秒)

御礼2.  
武侯仁従  さん
私のブログで「科学」への警句を書いていただいたのは、その事象と自己との分離の放置とその惨禍から言ってくださったのですね。

感謝します。しばしば書きますが、科学者のほとんどが、科学的に生きてないという現実が、痛く・恐いです。
その限界は、科学を自己と切り離した近現代の狂走なのでしょうね。

注意・注意と心します。

再見! (2007年07月19日 20時51分17秒)

あと、感謝と。  
武侯仁従  さん
あと、このブログを読んで、正直「科学者」という在り様に、私は限界を感じました。

近現代の科学の科学者は楽ですよ。「自分の人生・生き方」と「業績」にあまり関係ないですから。

その点兵法家が私は好きです。生き様までその「兵法」の有効性が要求・考察されますから。しんどいですが、私は好きです。
フォン・ノイマンのようなことを兵法家がしたら、それだけで、失格です。科学者は楽で堕落しやすい!!

最近、ある人と話をして、科学者・近代以降の学者という生き方の限界を痛感します。
また別の人と話していて、その生き方と学問の遊離・乖離をみせているのが、寂しさと、私が「科学者・近代以降の学者」という在り様の限界を感じさせ始めてます。

近現代科学者の唯一ありえる思想の様相は、臨済宗の祖・臨在さん以外ありえない、と考えます。辛うじて、それをできたのが、私が知る限りでは、南方熊楠くらいです。
彼よりはるかに、智・徳が低い人間が、「科学者」と生き方をするのは、無謀というか無理です!

近現代の科学・学問は、知性だけでなく人間として天才でないと、真っ当に習得できないです。それ以外の人間には、毒薬に近似した劇薬です。

仮にこう言えるのかも知れません。今の世界の狂騒は、劇薬で昏倒しかけて、夢見ていて、夢遊している状態かも知れません。
漢方薬のように調合して、使うに耐えるように未だにしていない。誰もが超人のようになれると夢想しているのかも知れない。劇薬の恐ろしさを感じます。妙に麻薬的なところも・・・。

科学をこれからも大事にもします。ですがこれからもより以上に警戒して行きたいです。それの為にも身体・感覚や神秘を大事にしたいです。

ありがとうございます。

再見! (2007年07月19日 21時33分36秒)

Re:御礼!(07/18)  
5dolphin  さん
どうも現代孔明こと武侯仁従さま
 御聡明な孔明さまならば、もうお分かりかと思います。現代科学のその根底には、人間への無理解と人間への憎悪が隠されているのです。だから知識武装をしたがるのです。

 >相対性理論は、量子論よりも人間を切り離した考えだと、感じました。
 これはどちらともいえません。量子論の父ともいえる創始者の1人のプランクは、エーテルの存在を非物質といったまでは賢いですが、それは恐らく、厄介者という意味で捉えたのであって、触らぬ神に祟りなしだったのでしょう。量子論の確率論は全くの抽象論で、行列といういわば集合論を扱うのですが、しばしば無限大が出てきてしまい、いわばオーバーフローしてしまうのです。そこで、繰り込み理論という一種のイカサマが有効になる次第なのです。しかし、量子論の優れたところは、負のエネルギーを解き明かしたところです。これはディラックの功績が大です。

>科学の陥穽というか、今の最大の欠点は、自己と事象との「分離」のみして、その「再集結」が出来ないということでしょうか

流石、正しくそこです。再集結です。 (2007年07月20日 00時10分44秒)

Re:御礼2.(07/18)  
5dolphin  さん
現代孔明こと武侯仁従さま
>感謝します。しばしば書きますが、科学者のほとんどが、科学的に生きてないという現実が、痛く・恐いです。

いえいえ、こちらこそ常に感謝致します。そうなんですよ。科学者の生活をみたら、いかに非科学的か一目瞭然です。例えば、酒、煙草は体に悪いといいながら、飲んだり、吸っているわけですから…。ただ、自分に甘いだけなのです。 (2007年07月20日 00時14分06秒)

Re:あと、感謝と。(07/18)  
5dolphin  さん
どうも現代孔明こと武侯仁従さま
 何を構築するのにも、まず土台が問題だと思われます。近現代の科学者に限らず、根本的に功利主義に走っている点が間違いに思われます。
 近現代の科学者は、競争主義なので、いわば奴隷状態ですから、楽ではないと思います。つまり、一種の中毒患者です。新興宗教の信者に近いですね。だから、思想が偏っていることに気がつかないのです。それに極端に専門分化が進み、教養がなおざりにされてきた点がいかにも不味いでしょうね。
 大学生にもなって、人間としての礼儀を知らない人が多いのも閉口させられる点ですね。受験勉強や勉強さえしていれば何もいわれない甘い家庭環境にも問題ありでしょうね。これは研究者の品性の弊害の一つです。まぁ、つまり、中毒患者なのです。 (2007年07月20日 00時25分29秒)

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