シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年07月19日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 前回の続きである。

 とはいえ、シュペングラーの考えとはどのようなものだったのか? 

 (特殊)相対性理論者とは異なり、オズワルド・シュペングラーは、現実に対応した範疇の中で考える。けれども、彼が考えること全てが互いに整合性がとれているわけではない。彼が、天文学、生物学、歴史、建築、彫刻等々に関して発展した概念が常にかみ合っているわけではない。

 それらが形成する構造は、共に成長した結晶の幾つかに比肩できるようなものである。それら全ては混乱しており、互いに破壊し合っている。もし、シュペングラーの書籍を読んでいる間、現実感覚を維持するならば、彼の概念は溢れていること(オーバーフロー)が分かる。

 オズワルド・シュペングラーは確かにいかに考え、いかに概念を発展させるべきかを知っているが、それらはお互い破壊し合っていて、お互いを吹き飛ばし、お互いを切り離しているといえる。1つの概念が常に別の概念を無効にするため、全体としては何も残らない。

 シュペングラーの考え方の展開に我々の現実感覚を適用するときに見るのは、酷い破壊活動である。

 シュペングラーは現代的思考における1つの極、異なった、あらゆる分野から導出される概念から1つの統一を構築する極を代表している。この傾向に加担する哲学者達は、個々の科学から彼らが導出する全概念が集められ、一点に集約する試みの中で、いわば1つのシステムへと統合できるほどの抽象的レベルにおいて、あらゆるものを明確に規定する。

 ところが、それらは一点に集約する代わりに、互いに粉砕し合い、無効にし合う。シュペングラーは現代科学の哲学者として、他の多くの哲学者達に比べて遥かに優れている。他の哲学者達の概念は互いに破壊し合わないが、それは、彼らの系統立てが、十分正確に規定する勇気に欠けているからである。

 他の哲学者達の科学哲学においては、彼らがいわば虎の爪と猫の足とを常に取り違える結果、個々の科学的探求における哲学的な帰結と称されるコミカルな構築物が生じてくる。これらの哲学者達を真面目に考察するなら、シュペングラーが哲学の習慣に従って、結果として生じさせることができる、あらゆる科学的なものに関する全ての科学及び認識に関する経験を、彼らがもっているということが分かる。



 カイザーリンクがオズワルド・シュペングラーと異なるのは、彼の概念のどれ1つとして、いかなる内容ももたないという点にある。

 シュペングラーの概念が脂ぎっているのに対して、カイザーリンクの概念は空疎である。後者の概念は決して互いに矛盾しない。何故なら、それらは、基本的には、中身のない籾殻のような仕事に過ぎないからである。

 カイザーリンクの唯一の思考と言えるものは、これもまた空の籾殻だが、それは精神が魂と結びつかなければならないというものである。カイザーリンク卿は激しく人智学を攻撃したが、例えば、「未来」という雑誌の中で、人間を様々な構成要素(エーテル体、感覚体、感覚魂等々)へと分解した咎で、私(シュタイナー)を責め立てたが、実際、人間は1つの統一体で、そのようなものとして機能しているのである。

 「精神は魂と結びつかなければならない」という考えは悪魔的なまでに巧妙だが、実際、賢いという点では、例えば衣装は1つの統一体で、個別の構成要素、例えば、ベスト、ズボン、靴、等々に分解すべきではないといっているようなものである。それは全体で1つの統一体なので、仕立屋に上着とズボンを別々に作らせ、それに見合うように靴屋に靴を作らせたりするようなものである(そこにそれを着る人間が考慮にない)。

 これら全ては、それを身につけている人間の上で1つの統一体を形成するというのは当たり前のことで、カイザーリンク卿がその抽象的な理想主義の中で、1つの統一体であると主張したからといって、上着とズボン、それから恐らく、靴も一着の洋服として縫い合わせるというのはナンセンスである。これが反対の極である。

 一方には、互いを破壊し合う概念のシュペングラーがいて、他方には、全体として空虚な概念のカイザーリンクがいる。多少なりとも現実感覚をもつ者にとって、シュペングラーを読み、彼の概念全てが互いにぶつかり合い、互いを粉砕しながら、互いの中へと押し進むのを見るのは1つの拷問である。

 この全てを真に経験させられる。幾らかでも芸術的感受性を持つ人があれば、特にそうなるだろう。シュペングラーの書籍は完全に非芸術的な構築物である。ところが、カイザーリンクの書籍を読むときには、1ページ読む毎に立ち止まって息を吸い込む必要がある。

 彼の概念はその内部に空気をもっていないため、思考を形成しようとしても、何もないようなものである。しかし、正に、そのために、これらの概念は人々にとって究めて理解し易く、心地よく感じることができるものとなっている。

 この不能な無思索家が、人々に、精神科学(人智学)によって確認される事実の中には、なんらかの真実が含まれているかもしれないが、自分は霊感を持つという連中の1人ではないので、確認することはできず、従って、それらが真実であると仮定することもできない等々の事柄を告げるときには、特に空疎があてはまるといえる。

 勿論、この種の話は、特に人々が自分自身で必要な証拠を提示できないときには、折畳まれ、片づけられたものとなる。そのような人たちが、今日、特に好んで読むものは、自ら確かめるのに苦労するような著書ではなく、そのような事実が確認できないことを認めさせるような著書である。

 特に、カイザーリンクが芸術に関して書き散らかしている事柄は、髪の毛を逆立たせるのに十分なものだが、非常に人気がある。このテーマに関して述べるべきことはこれだけである。



 シュペングラーを読むとき、「何を」を考えることができるが、それは彼が提示すべき多くの「何を」を持っているからである。

 しかし、ゲーテは、世界観というものは全体を、その配置と組織、そして思考の本質的調和において、いかに見るかということにかかっているということを知っていた。このことは、シュペングラーに関しては、「何を」を考える単なる理由だけとなる。

 シュペングラーは確かに「何を」を、それが考えられるべき仕方で、考えるが、「いかに」を考えるのには完全に失敗する。ゲーテは、とりわけ、思考はいかに配置されるべきであるかを考えるように促す。カイザーリンクに関しては、彼は「いかに」を有しているように見えるが、実際、彼の仕事は「いかに」を束ねたものだが、「何を」が、つまり、内容がないのである。

 注釈;今回も難解だが、シュタイナーは、ゲーテは、「何を」と「いかに」の両極のなかで思考を行っているのに対し、シュペングラーには、「何を」しかなく、カイザーリンクには「いかに」しかないといっている。つまり両者は片手落ちなのである。

 シュペングラーは、西洋の分析(解析)主義の代表的人物だが、あまりに分析しすぎると、かえって全体像が分からなくなり、分析結果を集めて、全体像をみると、お互いがお互いをキャンセルしあって何も残らなくなるのに対し、カイザーリンクは、還元(帰納)主義者といえ、自らの主張に沿う、ただただ無内容の断片を集め、無理やり、こじつけを行う。



 ちなみに、シュタイナーは、18世紀からはじまった唯物論的科学は、将来行き詰まることを予測し、その救済のために、ゲーテの姿勢を採用した、精神科学(人智学)を興したのである。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007年07月20日 00時00分39秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: