シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年12月06日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 なんでも、国際的学力調査で、日本の学力が著しく落ちているというのである。わざわざ、学力試験で調査しなくても、昨今の若者を観察してみれば、この事は一目瞭然である。

 学力に最も大切な資質は、集中力である。昨今の若者をみれば、まず、忍耐力に欠け、集中力が身につかないのは、落ち着きのない態度から明らかといえるだろう。歩き方1つとっても、歩くという意識に欠け、しゃべりながら、しかも、周囲の目を気にするどころか、公共の場という意識すらないのだから、ただ単に家庭のなかの延長と考え、学校のなかでも、教師を単なる大人としかみていないのだろう。

 勉強が嫌いなのは、素直で我儘な感情である。誰が好き好んで自ら勉強するだろうか、遊んでいる方が数倍楽しく、生涯、遊んで暮らせるほど楽な事はないだろう。しかし、それでは、人生から何も学ぶことはないだろう。ただ、生きた記録が残るだけである。

 若いときに遊び呆けていると、ある程度成長して、社会に出ると、忽ち問題にぶつかり、あのとき勉強しとけばよかったと悔いるのである。嫌いだからといって、取り組まなければ、忍耐力並びに、集中力がつかないのは当然である。

 日々新しいものにぶち当たり、新しいものを取り入れることで、人は精神的に成長する。

 運動しなければ筋力が衰えるように、勉強しなければ、学力が衰えるのは当然の成り行きだろう。将来を見据えるならば、基礎体力が必要なように、基礎学力が必要なのはいうまでもない。なにより、社会の仕事は、周囲の協力を必要とすることが大前提なのである。

 社会に出れば、嫌なこと、面倒な問題が、盛り沢山と襲い掛かってくる。なにしろ、社会には多種多様な価値観が存在するのだから、好きなことをやれるだけ恵まれた環境にいることは非常に稀な限られた領域、つまり家庭内だけの存在といえるだろう。

 だから、学ぶことに理由をつけてはいけない。ただ学ぶことに怠るな。結果を求めず、学ぶことである。学ぶ事を信じて学んでいれば、そのうち、自然と深く知り、何事も理解できるようになる。学ぶ事を恐れてはならない。



 つまり、異質なものは、自分にとって足りない部分を補ってくれているものだと思うべきである。性差はその代表的なものである。男女が揃ってはじめて、子孫が誕生する。男女の気持ちが1つになるには、相手の性をなにより理解することが求められるのはいうまでもない。自分の価値観を押し付けるだけでは、所詮、長続きしない。

 この点、現代の若者は、以前よりも、恋愛はそれほど衰えていないようなので、読解力は、変わらなかったようだが、世界レベルからみれば10位台なので、国際的に、想像力、思いやりの表現力に乏しいことがわかる。

 この事で気にかかることは、母国語の大切さである。国語力がないと思われる若者をよく見かけるが、実際、話してみると、会話が成り立たない。その原因は、基礎単語をしっかりと覚えていないからだと思われる。だから、こちらが、諺や格言で例えを出しても、その理解力がないから、また、単語がわからないとはっきりいわないので、こちらもわかっているのかと錯覚してしまう。だから、母親になった気で、その若者の行動やしぐさをいちいち観察してやらないと、なかなか理解できないのである。

 恐らく、相手に理解されようとする姿勢に欠けるのだろう。自分を相手に理解させる表現力の欠如がみられる。これは、家庭内の言葉使いや表現、並びに躾がよくないことが指摘できる。

 日本の学力の低下、これはいうまでもなく、大人たちの責任にある。子供は、大人の行為を真似るだけである。政治家が嘘をつき、汚職をするのなら、一般人も真似して、嘘をつき、法を犯すのは自然の成り行きなのである。何事も、国家の重要な地位につく大人の自覚の問題に帰する。

 大の大人がしっかりと責任をとらず、教育問題を語る事勿れ!

 教育とは、私欲を抑え、公の精神の見本を、行動で示すことなのである。

 どれだけ、大人が仕事に真剣に全力で取り組んでいるかの姿勢にある。教育を語るな、教育の模範を示せ!

 そして、できるだけ、試験をなくし、日々の生活の観察から人物を評価することである。学力は何も、教科だけに限られるものではない。それは一部である。

 最後に学力の根本を説いておきたい。学力とは、人間が神々に向かって進化する、生命の杖といえるものである。



 人間は、人生において、まず、この自分という観察眼を土台とすることを学ぶ。観察しながら、同時に観察眼を身につけていくのである。

 だから、学ぶ事に始まりも終わりもない。ただ、ただ、学ぶプロセスが無限に続いていく。

 魂は学ぶことに飽き足らない。魂の能力は無限なのである。

 無限の魂の能力を学力により掘り出し、掴みとること。自らのなかに宇宙体系を創造すべきである。

 大和魂は、世界中の多様な国々の異質性を取り入れ、融合し、発展させ大和と為す魂のことである。



 穢れた大人たちを、若者の学力により、目覚めさせろ。若者よ!大志成らぬ大和魂を抱け!!

 学力で、恥ずかしい老害連中を追放しろ!





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Last updated  2007年12月06日 21時35分10秒
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蜜と乳と。  
武侯仁従  さん
E・フロムが「今の親・母は、「乳」与えることは出来ても、「蜜」は与えられないことが、多い」
といってます。
乳は生きる糧で、蜜は生きる喜びとか。これは旧約聖書からの引用であります。

蜜というか、中身が抜けた脱脂粉乳のような命・学問を教えられて、形骸だけがブクブクとでかくなってしまったのが、今の大人・若者でしょうか。


学びには「苦」と「楽」の双方があるが、その双方を教授できる指導者・親も少ないように思います。
ちょうど10歳くらいに算数が嫌いになる子供が多いのというのもミソな気がします。

>人間は、人生において、まず、この自分という観察眼を土台とすることを学ぶ。観察しながら、同時に観察眼を身につけていくのである。

 >だから、学ぶ事に始まりも終わりもない。ただ、ただ、学ぶプロセスが無限に続いていく。


宇宙と合一していく過程のように、学問は、深く苦しく、楽しい。
無精卵のような学習が、勉強・学習から遠ざける要因になっている。
だが、受験・名利から離れて学問をして、その法悦に浸る人も少なからずいる。それがせめてもの救いでしょうか。

再見!
(2007年12月10日 09時26分08秒)

生きること。学ぶこと。  
武侯仁従  さん
>学力に、次に必要な資質は、想像力、つまり思いやりである。思いやりとは、他者の立場を洞察することである。自分の一方的な思い込み、偏見を、取り去る作業といえるだろう。つまり、思いやりは、自分とは似ても似つかない異質なものを理解し、自分の理解力を広げる素となる。

 >つまり、異質なものは、自分にとって足りない部分を補ってくれているものだと思うべきである。性差はその代表的なものである。男女が揃ってはじめて、子孫が誕生する。男女の気持ちが1つになるには、相手の性をなにより理解することが求められるのはいうまでもない。自分の価値観を押し付けるだけでは、所詮、長続きしない。


生きることは、学ぶことでもありますが、それを捨て去って大丈夫か?と思います。

それを大人が怠っていたら、子供は自然に学ばなくなる。
曹操は老年になっても書物を戦場でも手放すことが無かったそうだ。空海は大それた官位をもらっても、禅定の為に職務を放棄したことも度々だったとか。

知能は曹操に劣り、霊性人徳は空海に劣る。その癖に学問を放棄してしまう現代の大人・老人。当然
ボケるのは必然的に多くなり、子供・若者に学問を軽視する風潮が蔓延するのは必然でしょうかな。

再見! (2007年12月10日 09時36分17秒)

Re:生きること。学ぶこと。(12/06)  
武侯仁従  さん
あと呂蒙は、成人してから学問して「士は三日会わないなら、眼を開けて相対するべきだ」と言ったとか。
関羽も老年近くでも学問して、老年近くになって「春秋」を暗誦出来まで読み込んでいたとか。

脳みそ筋肉とか言われようが、死ぬまで学ぶ志があり学び続ければ、それは虚しいものではないようです。

再見!
(2007年12月10日 09時42分06秒)

Re:蜜と乳と。(12/06)  
5dolphin  さん
お久しぶりにどうも、現代孔明こと武侯仁従さま
>E・フロムが「今の親・母は、「乳」与えることは出来ても、「蜜」は与えられないことが、多い」
>といってます。
>乳は生きる糧で、蜜は生きる喜びとか。これは旧約聖書からの引用であります。
>
同意です。
 旧約聖書の、乳は、豊富な土壌、つまり牛が沢山いて、グノームという土の精霊(良い方)が沢山いる土地を意味しています。
 蜜は、蜜蜂が沢山いて、火の精霊(良い方)が沢山いることを意味します。つまり、蜜と乳は、火の精霊と土の精霊の受精を意味します。現代の若者には、知の受精がなされていないといえるでしょうね。

>ちょうど10歳くらいに算数が嫌いになる子供が多いのというのもミソな気がします。

同意です。
 子供に教える前に、まず自分が好きにならないといけません。親が算数が嫌いでは、子供も当然、嫌いになります。自分が嫌いなのに、嫌いなものを押し付けるのは、子供の自由意志を束縛するものです。
>
>>人間は、人生において、まず、この自分という観察眼を土台とすることを学ぶ。観察しながら、同時に観察眼を身につけていくのである。
>
> >だから、学ぶ事に始まりも終わりもない。ただ、ただ、学ぶプロセスが無限に続いていく。
>
>
>宇宙と合一していく過程のように、学問は、深く苦しく、楽しい。
>無精卵のような学習が、勉強・学習から遠ざける要因になっている。
>だが、受験・名利から離れて学問をして、その法悦に浸る人も少なからずいる。それがせめてもの救いでしょうか。

 孟子は、学問とは、貧困によく耐え、人生をよく生きるために必須のものと説いています。学問を栄華栄達の道具に使うのは、偽りであるということなのでしょう。 (2007年12月10日 11時09分11秒)

Re:生きること。学ぶこと。(12/06)  
5dolphin  さん
現代孔明こと武侯仁従さま

>それを大人が怠っていたら、子供は自然に学ばなくなる。
>曹操は老年になっても書物を戦場でも手放すことが無かったそうだ。空海は大それた官位をもらっても、禅定の為に職務を放棄したことも度々だったとか。
>知能は曹操に劣り、霊性人徳は空海に劣る。その癖に学問を放棄してしまう現代の大人・老人。当然
>ボケるのは必然的に多くなり、子供・若者に学問を軽視する風潮が蔓延するのは必然でしょうかな。

同意です。老後を寝たきりで送らない為にも、学問は必須です。学問を放棄するということは、学問から、自らが捨てられていることでもあります。

 肉体を自分の思い通りに制御し、日々健康的に生きることの、いわば薬剤となり、血となり肉となるのが学問なのです。 (2007年12月10日 11時16分35秒)

Re[1]:生きること。学ぶこと。(12/06)  
5dolphin  さん
現代孔明こと武侯仁従さま

「子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎」
http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/kanmei.html

正に、学んだとき、魂が能力を開発しているということを嬉しく思うのですね。 (2007年12月10日 11時31分19秒)

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