シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年01月30日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 人体組織において、外界-自然のものが、いかに変化させられるか、例えば熱エーテルにまで変化する鉱物質の場合、非常に激しい変化だが、この事がわかると、自然のなかの人間、有機的に組織された人間のなかに生きているものが、いかに霊的(精神的)なものと、つながっているかも認められる。

 例えば解剖学や生理学に関する一般的な教科書にある構図に従い、通常一般的に考えられているように、人間というのは固い(固体の)構築物であり、外界に在る自然成分を摂取し、体内では、摂取物をほとんど変化させないままに留めるように想定するなら、人体に対して、始終悩むことになるのは当然で、自然界のなかの、人間外のものから、人間が、本質的な魂に従い、結びつける人間内のものへと、架けるべき橋が欠けていることになる。

 それでは、固い物体(固体)のようにみえる骨組織、筋肉組織と、例えば、道徳的な宇宙秩序との結びつきを見出すことはできない。人は次のようにいう、「一方は正しく自然であり、他方は自然とは全く異なるものである」、と。

 しかし、人間のなかには、あらゆる種類の(霊)実質が存在し、筋肉と骨よりも、更に揮発的な種類の実質を経る必要がある、ということを明確に理解するなら、揮発的、エーテル的なものは、道徳的宇宙秩序の衝動と結びつくことができるということが認められるだろう。

 既に、これまで行ってきた考察を、人間が上方に向かって有する結びつき、つまり、宇宙霊、高次ヒエラルキア(天使)存在たちと、みなせる存在たちに向かって有する結びつきにまで導くなら、以上のような考えを引き継ぐ必要がある。

 そこで、今までの要約では、むしろ自然から出発したが、今度は、人間のなかで、精神(霊)-道徳的に作用するものを考察していく。

 精神(霊)、道徳というのは、現代の文明にとっては実際、既に多少、慣習を表わす概念になってしまっている。人間の本質において、道徳-精神の根源的な基本的感情は次第に衰退していった。現代文明は例えば、その教育全てに従って、益々、次のような問いを行うように指示する、「一般に通用しているものは何か、慣習的に定着しているものは何か、掟とは何か、法とは何か」等々である。

 現代文明は、人間から正に衝動として、例えば、よく漠然と、良心の赴くところに根付く衝動として発するものに向かうことが、少なくなっている。現代文明において、益々衰退していったものは、この内的な自己自身への方向付けと、目標設定である。なので、結局、精神-道徳は、今日多少なりとも慣習-伝統のなかに生きるものになってしまった。

 古代の世界観、特にまだ生まれついての霊視(霊能力)に支えられていた世界観は、人間の内部から道徳的衝動を、成熟した道徳的衝動を引き出した。このような道徳的衝動は、いまでも存在しているが、今日では伝統的なものになってしまった。例えば、道徳が、非常に伝統的なものになってしまったことについて、明白に理解すべきである。



 根源的、基本的な人間本性から、かつてのデカローク(十戒)のように、湧き出てくるものが、今日でも普通に見られると、現代人は果たして言えるだろうか。そして、人間たちを社会的に結びつけ、人から人へと社会的な糸をつなぐ道徳-精神は、一体何から湧き出てくるのか。

 人類における道徳-精神の本質的源泉として存在するものは、人間理解としてのみ呼べるもので、いわゆる相互の人間理解、そして、この人間の理解に基づく人間愛なのである。

 社会生活において役割を果たしている、人間の道徳-精神的衝動が成立する際、猶もよく、見廻してみるとよい。このような道徳的衝動が基本的に人類から発した場所の至る所で、道徳が人間理解と人間愛から生じたということを見出すだろう。

 後者、つまり人間理解と人間愛は本来、人類の内部で、社会的に精神-道徳を促進させるものである。そして根本において人間が、精神(霊)存在である限り、人間理解と人間愛を発達させることにより唯一、他の人間たちの間で生きることができる。

 さて、いま意味深い問いを投げかけた。確かに、この問いが常に問われるわけではないが、正にいま問われた問いに対して、誰もが口先まで出かかる問い、つまり、「人間愛と人間理解が人間の共生の本来の衝動であるなら、一体、その反対の、人間無理解と人間憎悪が、どうして、我々の社会秩序の内部に生じることになったのか」、という問いが生まれるだろう。

 この問いは、あらゆる人間のなかでも、正に秘儀参入者たちの最大関心事の問いである。秘儀参入学は、原初、あらゆる時代に、この問いを正に最重要の問いとみなしていた。しかし、秘儀参入学は、原初ではまだ、この問い解明の背後に到達できる、ある種の手段をもっていた。

 今日通用している科学を眺めると、人間を観察するとき(神に創造された魂には、本来人間理解と人間愛の素質があるわけだから)、実際次のように問いかけることになる、「人間理解と人間愛が自明のものとして社会秩序の内部で働かないのは一体何故なのか、人間無理解と人間憎悪は一体何処からやってくるのか」、と。

 そして、人間無理解と人間憎悪を、精神(霊)、魂のなかに捜すことができなければ、我々人間は、自ずと、これを物質-身体のなかに捜さなくてはならない。

 とはいっても、今日通用している科学でも、人間の物質-身体、血液、神経、筋肉、骨とは本来、何であるのかを、答えているが、1つの骨をどんなに長いこと眺めることができても、今日の自然科学の目だけで見るなら、「骨が人間を憎悪へと誘惑するものの正体である」、と言うことはできないだろう。

 或いは、今日調べられているような原理に従って、どんなに血液を調べることができても、その手法では、この血液が人間を人間無理解へと誘惑する正体であると確認することはできないだろう。

 秘儀参入学が原初の状態であった時代においては、勿論、全く異なっていた。その頃、人間の物質-身体を眺めると、生まれつきの霊視(霊能力)によって、精神(霊)の対応像が得られたのである。





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Last updated  2008年01月30日 20時20分57秒
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