シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年02月05日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 さて、この肉体からくる冷酷さと憎悪は否定できないことで(霊眼には極めて明確に示される)、15世紀に始まり、一方では主知主義的で、他方では唯物論的になった、我々の時代の、我々の文明に結びついている観点は、魂の根底では、その観点の多くが人間無理解と人間憎悪において存在する、ということである。

 この存在は、考えられている以上の大きさである。というのも、人間の無意識のなかに人間無理解と人間憎悪がどれほど存在しているか、本来人間は死の門を通過して、はじめて気づくからである。死の門を通過するとき、人間は魂-霊を、物質-肉体から引き離す。つまり、人間は物質-肉体を脱ぎ捨てる。冷酷さの衝動、憎悪の衝動はこのとき、実際、単なる自然力であることが判明する。

 死体をよく見てみる。霊眼で、エーテルの死体をも、よく見てみると、石(鉱物)や植物と同じように、もはや道徳的判断を生じさせない存在を眺めることになる(死体は石に、エーテルの死体は植物と化す)。道徳的な生命体の内部に入り込んでいた存在は、いわば、石や植物のように、自然力へと変化したわけである。

 (人間は死に際し、生前に自分のものとみなしていた肉体を、まるで石のように、肉体の構築図のエーテル体を、まるで植物のように感じ、それらがまるで自然力のように感じるわけである。)

 しかし、人間は生きている間に、これらから、その多くの生命的活動(要素)を吸い込んだ。人間は、この生命的活動(息吹)を、死の門を通り携えていく。自我とアストラル体は、物質体とエーテル体のなかから、後退し、そこに繰り返しの体験から、蓄積させてしまった為に、生きている間には気づかずに残った冷酷さと憎悪の衝動を引き出して、携えていく。

(肉体的感覚故の無理解な存在、つまり人生において蓄積させた冷酷さと憎悪を、死の際に、再び、魂は、肉体感覚の物質的感覚に刻印された負の衝動として、携えていくのである。簡単にいえば、物質的快楽を味わったら、その快楽度合いに応じて、魂でその代償を支払うことになる。物質的快楽度合いが魂の精神を同等に蝕むのである。自分の地位に相応しくない高価な物を買えば、後で借金というツケが請求されてくるのと同じである。)

 この自我とアストラル体は、霊界へと、正に魂のなかに蔓延っていた人間に対する人間憎悪と冷たさの衝動全てを携えていく。

 なので、いま述べたように、次のことがいえる、

「我々のこの文明において、唯物的、もしくは主知主義的に述べられる様々な事柄を通じて、人間無理解と人間憎悪を通して、人間のなかに、いかに多くが植え付けられているか、人は、死の門を通過していくときに、はじめて気づく」、と。



 なぜなら、今日の人間は、人間無理解(冷酷さ)と人間憎悪の両衝動のうち、非常に多くを、途方もなく多くを、死の門を通過して、運んでいくからである。

(あの世と、この世の価値観は百八十度異なるので、この世の快楽は、あの世の負債となる。この百八十度異なるというのは、例えば、順序がまるっきり逆のアベコベの展開になる。この世では、親から子が誕生するが、あの世では、親が子を食うようにみえる。ここから鬼子母神の伝説が生まれた。ギリシャ神話では、ゼウスとクロノスの存在で示したという。)

 この死のとき、人間(魂)が共に携えていくものは、物質のなかの存在(いわば設計図)で、物質体とエーテル体を完成するもの、霊的な残余物である。人間は、人間無理解と人間憎悪のうちに、もともと物質世界に属する残余物を、霊界へと持ち込み、この残余物を、霊の形として持ち込むのである。

 この残余物を、更に、死と新たな誕生(来世)との間の時期(霊界)を通じて、ずっと携えていることは、人間にとって決して役立つものにはならない。なぜなら、人間が、この人間無理解と人間憎悪を残余物として、更に持ち運ばなければならないとしたら、その人間は全く前進(進化)することができず、死と新たな誕生(来世)との間で、更に進化する際に、前に進む度に躓いてしまうことになるからである(霊界でも、同じ過ちを繰り返すことになる)。

 いわゆる、死者たちが歩み入っていく超感覚的世界のなかに、今日絶えず見られるのは、その残余物が直接作用すれば、人間の進歩が阻まれるような動向ばかりなのである。このような動向は、一体何に由来するのか?

 この動向が、何に由来するのかを知ろうとするなら、今日の生活を、よくみればよい。人間たちはお互いに、すれ違い、他人がどんな特性を持っているかを見ることはほとんどない(お互い無関心である)。そもそも、今日の人間たちは、誰もが、多くの場合で、自分が、正しく、良く見られたいというような有様だろう。

 そして、他者が、少しでも自分とは異なった様子をしていると、愛情深く、その人のなかに入り込んでいくのではなく、この人は間違っていると判断するだけで、結局、その際の、その判断の背後にあるのは、「この人は、私のようでなければならない」、と呟くことなのである(自分の価値観を押し付けるのをよいことと思っている)。

 このようなことが、常に意識されているとは限らないが、今日の正に、社交上の交流、人間の社会的なつき合いのなかに潜んでいるものである。今日、明るみになっているもの、人間言語の形式とでも呼ぶべき文化には、他の人間の理解を導くものは、ほとんどないといえる(自国文化を他国に強要しようとする傾向にある)。

(特に日本の場合、昨今の米国の文化強要には敏感だろう。特に肉食など。だが、同様に、日本も日本文化をアジアに押し付けた歴史もある。)

 人間であるべきことを自分がいかに考えているか、人間は世界に向かって大声で叫び、騒々しいが、その際、その背後にあるのは、大抵の場合、全ての人間は、自分のようになるべきである、ということに他ならないのである(グローバル主義や市場原理主義などがその典型だろう。要するに米国がナンバーワンといいたいにすぎないのである)。

 そのとき、全く別な様子の誰かがやってくると、その誰かが直ちに、例え、その誰かが完全に意識されなくても、敵であり、反感を覚えさせる人間となる。ここには人間理解や、道徳熱が欠けているといえ、愛が欠如しているといえる。そして、これらが欠けているのと同じだけ、道徳的冷酷さや、人間憎悪が、その人間とともに死の門を通過していき、牢獄の鎖となって、死の門に人間を引き留める。



 人間が死の門を通過して、死と新たな誕生(来世)との間の世界へと入った後の最初期(死後すぐの霊界)に、天使たちは、人間に近づき、人間無理解から来る冷たさを、慈悲深く人間から取り去る。そして、人間が、死の門を通過して今描写した方法で、霊界に持ち込んだ残余物を、いかに、この第三ヒエラルキア(天使)の存在たちが負担してくれるかがわかる。





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Last updated  2008年02月05日 21時08分10秒
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