シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年03月24日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 一般に物質の本性を把握できるのは唯一比較的難しい概念による。もし物質を記述したいなら、まず、その顕著な特徴を問う必要がある。そしてもし偏見なく探求するなら、物質の特徴とは、空間中での広がりをもつ存在であることを発見する。

 誰も空間の占有が、感情、思考、意志に帰属するなどとは考えないだろう。何らかの思考が、誰か偉大な人物に関する思考でもいいが、それは一般の人物に関する考えより、5平方ヤードも大きい等と示唆するなら、馬鹿にするだろう。

 人間は、この広さの感覚、空間での広がりを、魂に関する事柄に適用など全くできないことを、すぐに理解する。しかし物質には、もう1つ別の特徴、つまり質量(重さ)がある。この質量は、これから見ていくが、それほど単純なものではない。というのも、世界を観察するだけで、直ちに質量(重さ)について分かるというものではなく、ただ空間的な広がりだけが認められるからである。

 さて、この広がりが通常三つの次元、つまり、高さ、幅、そして、深さ或いは奥行き(長さ)に従って考察できる事を知っている。事物が空間中で三次元的に広がっているというのは当たり前で、ほとんどありきたりな事実である。なので、物質の最も明らかな特徴とは、その三次元的広がりであることを認める必要がある。

 さて、空間的条件を、魂の中に横たわるもの(精神)に適用することはできない。なので、実質、或いは物質として空間を満たす以外のもの(精神を構成するもの)が、世界に存在する必要があることが明らかになる。何故なら、物理的空間の中でさえ、空間的な広がりを持たないプロセスや状態があるという証拠を持っているからである。そして、それが、いわゆる「魂の経験」である。

 さて、もし、空間中の物質状態に接したときと同じく、できるだけ偏見を持たずに「魂の経験」に接するなら、すぐに、その中に、魂の経験なしでは、全く経験が存在しないような、もう1つ別の性質を発見する。そして、その別の性質を認めないわけにはいかないが、

その別の性質とは、「魂の経験」は「時間の中で経過する」ということである。

 我々は、「感情、或いは意志の衝動が5ヤードの長さ、或いは5平方ヤードの広さがある」とは言わないが、我々が考える事、或いは感じる事、要するに、全ての「魂の経験」は「時間の中で経過する」、ということを認めないわけにはいかない。

 それは、我々の「魂の経験」には、ある長さの時間を要するだけでなく、ある魂の経験は早く、別の魂の経験は遅くやってくるということでもある。



 さて、実際問題、時間的条件と空間的条件は、周囲を取り巻く現実(真実)や、我々人間の存在内部(精神)では、至る処で入り交じっている。外界において、物事は、空間中に散りばめられ、時間中で相前後して起こり、それ自体一定の時間を要するような形で生起する。

 これら全てに関する超感覚的真実へと至る前に、次のように問う必要がある。

「では、空間は、時間とどのような関係にあるのか」、と。

 そして、そのように問う事によって、分かるが、この人智学の講義において、全くそれとは知らず、大いなる「哲学の謎」(この謎にぶつかり、比喩的に言えば、無数の頭が破壊されたが)に遭遇した事になる。

 つまり、いま時間と空間の関係へとやってきた。多くの者は、特別に哲学的な訓練を受けているわけではないので、それとは知らずに、時間と空間の関係に遭遇し、充分に、その思考プロセスを追跡することは、おそらく困難だろう。しかし、少しでも努力するなら、そのような思考が、いかに実り多いものか、そして、もし、その思考を瞑想の中で行うなら、いかに、その探求において、先に進めるものとなることが分かるだろう。

 その出発点として、自身の魂の中で経験する時間を対象にするのは善い事である。自身の魂の中でどのように時間を経験するのかと自問する。もう少し明確に言えば、時計によって知るような時間に関して考えるのではなく、人間は、時計によって、内的経験を外的プロセスと比較するに過ぎず、今、時計を見るとかその他の外的な出来事全てを、心の中から、すっかり追い出して欲しい。

 魂の中での、時間の関連がどのように現出するかのみを考える。その時間について、できるだけ深くじっくり考えてみると、時間の基準として、次のこと以外は考えられないということが分かる。

すなわち、「ある思考は、何か外的知覚によって、かき立てられた(刺激された)ときに把握すると考えざるを得ない。」

 何かを見るとき、何らかの思考、或いはアイデアが魂の中に生じる。その思考、或いはアイデアと自身の間の関係をより詳しく調べるなら、次のように言わざるを得ない。

「私が思考を行っている間、私自身が実際に思考の存在である」、と。

 再度、この事を最後までよく考えてみる。すると、次のように言うだろう。「私が思考に没頭している間、私は、魂の最奥の存在において、思考となっている」、と。



「私在るもの」は、自分を、思考に明け渡している間は、そこにはない。自身が思考という存在になっている。ある特別の訓練を受けなければ、自分が抱いている思考とは別の存在であることはできない。

 その時、人間は第一に、直接与えられる思考と感情の中にいる。例えば、目の前のチョークが、ある思考に人間を駆り立てる(刺激する)ことを想像する。その時、もし、チョーク以外の他全てを排除し、チョークのみの知覚により刺激された思考に没頭するなら、最奥の存在は、そのチョークに関する思考と1つになっている。

 ところが今、このチョークの思考を把握するとき、突然、昨日も、このチョークを見たことを、再度思い出す。そして、直接的な知覚により与えられたチョークの思考と、昨日の経験との比較を想像してみる。すると、今日、観察されたチョークと、自分は完全に1つだが、昨日のチョークとは、自分を同一視できないことに気づくだろう。後者は記憶像であり、いつまでも、そのままに留まる。

 真に今日のチョークとは1つになったが、昨日のチョークは、何か外的なものになったと感じる。今日観察されたチョークは、現在の自身の内的な存在(精神)と同一だが、記憶像は、確かに振り返ってみるものであり、前者と比べると客観的で、外的なものである。

 そして、この事は、現在の経験を除いて、魂の中で経験したあらゆる事について言える。現在とはさしあたり、内的存在になっているが、経験した事、つまり、脱ぎ捨てた事全ては既に、外にある。



この「思考(蛇)の脱皮」は、人間が、思い出すことができる(過去の記憶の)時点からずっと、最初は内的なもの(精神)を、絶えず外的なものにしてきた、ということを意味している。

 例えば、いまもっているチョークに関する考えを、次の瞬間には、外的なものにしてしまう。そして、自身は別のものに移っていく。つまり、人間は絶えざる外面化の過程(プロセス)に従事しているといえる。永遠に、人間は、内部で何かを創造し、そして、それを後向きに置き去りにする。

 人間のもつ(魂の)最奥にあるものは、脱ぎ捨てられた皮のように、(蛇の脱皮のように)直ちに外的なものになる。我々の魂的生活は、この事、つまり、内的なもの(精神)が絶えず外的なものになり、そのため、自身の存在の内(精神)、つまり、この内的な、精神的プロセスの中で、真に最奥のものと、内なる内的なものが外的になったものとを区別できるという事実から成立している。我々は常に自身の存在の内にいるが、そこでは2つの部分、すなわち第一に、真の内面、第二に外面化された内面の部分を区別する必要がある。





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Last updated  2008年03月24日 19時18分19秒
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