シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年08月25日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 さて、同様の不調和は、自意識の基礎をなす意識魂と、肉体との間にも生じ得る。そのとき、以前の受肉(前世)に起因するような肉体的特徴だけでなく、先祖からの系譜の中にみられるような特徴も現れてくる。

 しかし、この不調和においても原則は同じである。意識魂の働きが、肉体の活動的法則性の中に障害を見い出す可能性がある。そして、意識魂が、これらの障害に遭遇するとき、「心的障害」の、ある徴候のなかに荒々しく現れる、様々な事柄が生じる。

 同様に、ある特定の器官が、肉体の中で特に卓越する(優位である)とき、その器官の不幸な側面が現れる。肉体の諸器官が適切に共働し、どれもがその他の器官に比べて、比較的、共に発達していれば、健全な目で見ても、お互いが妨げにならないように、肉体は意識魂の適切な道具となる。

 このような関連で注目すべきことは、近代の、ある重要な科学者によって取り上げられた1つの症例である。ある人物が、片方の目に視覚障害を持っていた為に、特に薄暗がりの中では、何か幽霊のようなものが見えるように思われた。

 この目の障害による、視覚への影響の為、しばしばその行く手に誰かが立っているかのように感じられた。目による、そのような影響が障害となる場合、健常な視覚は不可能になる。このような部分的な欠陥は、全く別の形態を取って現れることもある。

 意識魂が肉体の中に障害を見い出すとき、何らかの器官の特別な卓越(優位)性に帰すことが可能となる。肉体の中の諸器官が通常の共同的な働きを行っているとき、肉体は意識魂にとって抵抗とはならず、自分の意識を、通常の方法で表現できるが、ある器官が、特別な卓越(優位)性を獲得する場合に限り、障害に気づく。つまり、それは抵抗に遭遇するからだが、このように外界との自由な関わり合いが妨害され、そして、その妨害に気づかない場合、深層に根ざした病気の徴候として、誇大妄想や偏執狂的な考えが現れる。

 このように、人間を複雑な存在として観察することにより、人生における不調和と調和について理解できるが、今日の相応しい文献の中に示される素晴らしい結果を、人智学が、いかに秩序立てながら、明らかにしているかに関しては、簡潔に示すことしかできなかった。

 このような事を理解するなら、更なる洞察を得ることができる。つまり、内なる人間の現実や、それぞれの受肉における内なる人間と外なる人間との関わりについての洞察、すなわち、いかに以前の存在状態(前世)に由来する弱さや過ちの結果が、外なる人間における何らかの欠陥、例えばエーテル体の欠陥として現れるか、についての洞察を得ることができる。

 しかし、この事はまた、障害があまりにも大きい場合には、強く内なる規則的な魂生活によっても、それら障害を、常に克服できるとは限らない、ということも示す。



 この考え方を最後まで厳密に追求しない弱い人間、自分の考えの、明確な規定を欲しない弱い人間、感情が自分の経験と一致するような方法で、それを発達させようとしない弱い人間は、外なる人間の抵抗に対し、ただ弱々しく反対することができるだけだろう。つまり、自分の内に病気の種を抱えているとき、いつか、そのときが来れば、心的な障害に陥るだろう。

 しかし、もし我々が強い内なる存在によって、外なる人間に起因する病気に対抗できるなら、状況は違ってくる。何故なら、内と外の2つのうち、強い方が勝つからである!

 この事から、外の本性に対し、常に勝利を収めるとは限らないとしても、規則的で強力な魂生活を発達させることにより、障害に対する主導権を維持すべく多くの事を為すことができる、ということが分かる。

 この事から、あらゆる些細な不都合によって影響されていると感じないで済むように、感情や情動、意志を発達させるように努め、より大きな文脈を包括するために、思考の拡大に努め、思考により、最も明らかな道筋を辿るだけでなく、最も些細な成り行きをも追求するように努め、不可能なことを欲するのではなく、状況に即して、自らの望みを発達させることに腐心するのは、何故なのかを理解できる。

 強力な魂生活を発達させたとしても、それでも限界に行き当たる。しかし、内なる存在が、あらゆる外の抵抗に対して優勢になるように、できるだけのことをした。

 こうして、人間が、その魂生活を、それ相応に発達させることの重要性を理解できる。今日、魂生活を発達(進化)させるということが何を意味しているかについて、ほとんど理解されていない。以前、同様な機会に触れたのは、今日では、体育、例えば、散歩に行くことや肉体を鍛えることに重きが置かれている、ということだった。

 肉体を鍛えることに含まれる原則について、何も言うことはない。肉体の鍛錬は健康的である。しかし、生理的な強化だけを目指して運動がなされるとき、まるで機械であるかのように、外なる人間だけが考慮されるなら、それらが、よい結果をもたらさないことは確かである。体育においては、特定の筋肉が特に強化すべきという観点によって特徴づけられる運動に取り掛かるべきではない。

 あらゆる運動ごとに内なる喜びを体験できるように、あらゆる運動への衝動を内なる健康の感情から取り出してくるように注意する必要がある。運動への衝動は、魂から来るべきである。体育の教師は、例えば、様々の運動に取り掛かるとき、いかに魂が、様々な種類の健康を感じられるか、感情をもって経験できる立場に、自分を置くことができなければならない。

 そのとき、我々は魂を強化する。つまり、もし、健康を魂から感じられなければ、肉体だけを強化し、魂はずっと弱いままに留まる可能性がある。人生を深く洞察する人は、この観点から取り組まれる運動が健康によい影響を与えるもので、人間を単なる解剖学的な機械であるかのように考えて取り組まれる運動とは全く異なる寄与がある、ということを見い出すだろう。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2008年08月25日 20時46分43秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: