シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年01月06日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 さて、誰かが次のように反論することも十分考えられる。

 「今まで私は神について、これよりももっとましな意見、つまり、神々は必ずしも悪を創造しなくても人間の自由の舞台をセットできると考えていたが、どうして、神々は、悪なしに人間の自由を世界の中にもたらせなかったのか?」と。

 そこで、世界があまりにも複雑すぎると考えた、このスペインの王様の次の言葉、

 「もし、神様が世界の創造を自分に任せてくれたら、もっとずっと簡単にしていた」

 を思い出して欲しい。

 人間たちは弱さ故に、世界はもっとシンプルにできたはずだ、と考える。しかし、賢明な神々は世界の創造を人間たちには任せなかった。

 人智学の観点から見ると、この状況を遥かに正確に特徴づけられる。

 「台を必要とする人に、柱を立てれば、その上に台として物を置けるよ」、というような指摘を仮定する。そのように言われた人は、「それでもいいだろうが、まだ別の方法もある! どうしてもっと簡単な別の方法でやらないのか?」と言うかもしれない。

 あるいはまた、建設中に三角定規を使いながら、「どうしてこの三角定規には三つの角しかないのか?多分、神様は三つの角を持たない三角定規を作れたはずだ!」と言うかもしれない。



三つの角が三角形に属しているのと同じように、自由は、精神的存在の側でなされた「諦め」によりもたらされた悪の可能性に属する。

 これまで述べてきた全ては、神の「諦め」に属している。というのも、神々は、犠牲を受け取ることを諦めることで、不死のレベルに上昇した後、悪を導き、善に戻すために、不死から進化を創造したからである。それは、この「諦め」という手段を用いてなされた。

 神々は、自由の可能性を与えることができる悪を回避しなかった。もし、神々が悪を抑え込んでいたら、世界は貧弱で単調なものになっただろう。

 神々は、自由のために、悪が世界の中に入り込むのを許さなければならず、そのために、悪を善へと導くのに必要な力を同時に獲得する必要があった。そして、この能力は「拒絶」と「諦め」の結果として、訪れるようなものだった。

 「諦め」は、偉大な宇宙の神秘を表出するために、常に像やイマジネーションとして存在している。いま太古の進化段階に言及し、「犠牲」や「与える徳」の概念に、「諦め」の概念を付け加えることで、マーヤや幻想に対峙する真実に到達するための更なる一歩を踏み出した。

 宗教はそのようなイメージや概念を提供する。だから、聖書を基にする宗教でもまた、「犠牲」や「諦め」、あるいは「犠牲の拒否」といった概念に近づける。

 例えば、アブラハムの物語では、自分の息子を「神」に犠牲として捧げようとするが、「神」は 父祖の犠牲を受け取るのを差し控える。

 もし、この「差し控える」という概念を、魂の中に取り入れるなら、既に述べた瞑想のイメージもまた、自分の元にやって来る。かつて、アブラハムの犠牲が神に受け入れられ、イサクが犠牲になっていたら、という仮定について示唆した。

 もし、「神」がこの犠牲を受け取っていたら、イサクに発する古代ヘブライ民族全体が地球から消滅していただろう。「神」は、ヘブライ民族の(支配)領域を諦めることで、つまり、自分の影響が及ぶ範囲から締め出し、自分の外にあるようにすることで、アブラハムに由来する全てを贈り物として与えた。

 もし、「神」がアブラハムの犠牲を受け入れていたら、「神」は古代ヘブライ民族の活動領域全体を自身の中に取り込んでいただろう。というのも、犠牲になったイサクは「神」と共にいることになったからである。

 しかし、「神」はイサクを放棄し、それによって、この進化の流れ全体が地球上に発散するに任せた。太古の父祖によって提供された意味深い「犠牲」のイメージを通して、全ての「諦め」や「犠牲」の概念が呼び起こされる。



 「地球」と「キリスト」双方の本質的な意味を同時に眼前にする場面を思い描いてみる。その絵の持つ完全な意味の中に参入するように試みる。

 また「もし、死の供犠を避けたいと欲したなら、天使の大群を呼び出すことができないということがあろうか?」(マタイ二六章五三節)という福音書の中のキリストの言葉を思い出してみる。

 「諦め」と「拒絶」によって、「キリスト」は行使できた、この明確で安易な解決法を拒否した。キリスト=イエスが、眼前にもたらす「拒絶」の最大の例が生じたのは、キリストを裏切るイスカリオテのユダが、キリストの領域に入って来ることを許したときである。

 もし、キリスト=イエスの中に見れるものを真に見るなら、キリストの中に、「犠牲」を諦めた(拒絶した)存在たち(ケルビム)と、その本性自体が「諦め」である存在たち(トローネ)の作用を見なければならない。

 神々自身が、古「太陽」紀の間に、反対者たちを、「拒絶」行為を通して呼び出したように、もし「キリスト」が、キリストの反対者としてのユダの裏切り行為を許さなかったとしたら生じたことを、キリストは「拒否(拒絶)」した。



 (もし、キリストが、ユダの裏切りを赦さなかったら、人間に自由はなかったといいたいのだろう。この宇宙に神から離れる自由を与えるために、神は悪を創造した。)

 十二人の真ん中にいる「キリスト」が、裏切り者として立つユダと共にいるのを最後の晩餐に見る。人類にとって計りがたい価値をもつ存在が進化過程に介入するために、「キリスト」自身が反対者を、自身に対立する位置に置く必要があった。

 この絵画が、人間の魂に深い印象を与えるのは、「最後の晩餐」を見つめることで、力強い、宇宙的な瞬間を思い出させるからである。

 「私とともにその手を皿に浸した者が私を裏切る」(マタイ二十六章二十三節)という「キリスト」の言葉を眼前に掲げるとき、神々自身によって、神々に反対する位置に置かれた反対者たちの地上的な反映を見ることができる。

 もし、火星の住人が地球に降りてきたなら、地球で遭遇する全ては、たとえ、それを十分に理解できなかったとしても、多少とも、興味深いものとはなるだろう。

 けれども、そのような火星人たちが、このレオナルドダビンチの絵を見たなら、宇宙的観点から見て、地球だけでなく、火星にも密接に関連し、そして、実際には、中心に位置する「キリスト」が、太陽系全体に関連した存在であることを見つけるだろう。

 そして、そこから、「地球」の意義を認識できるだろう。「最後の晩餐」の中に、地上的な形式において示されている出来事は全宇宙にとっても意味があることなのである。つまり、不死の神的な力に対抗する者として、ある力が、それと対立する位置に置かれた、ということが示されている。

 そして、死を克服し、地上における不死の勝利を具体的に示した「キリスト」が証しているのは、神々が時間に囚われた存在たちから、自らを区別し、時間に対する勝利(永遠)を達成した事実であり、つまり、不死になったときに生じた意義深い宇宙的な瞬間である。

 レオナルドダビンチによる「最後の晩餐」を見るとき、この全てが心の中で感じられるかもしれない。

 どうか、「最後の晩餐」を見て、素朴で単純な感受性の持ち主には、いま述べたような事実は理解できない、とは言わないで欲しい。そのような人がこれらの事実を知る必要はないからである。というのも、人間の魂の神秘的な深み(潜在意識領域)では、人間の魂の中で感じられる事柄を、知的に知る必要はないからである。



 否、知職で理解できなくても、花は育つ。

 花が自然法則を知る必要があるのだろうか?


 もし、人間の眼前で、神とその敵対者が繰り広げる出来事を見るとき、いわゆるそれは人間の表現可能の最高貴な出来事であり、また不死と死の差別化でもある出来事がもたらされるとき、眼前の存在の圧倒的な重要性さえ感じることができれば、人間の魂は、いかなる理性(知性)の必要性を有するだろうか?

 そのような出来事を理性をもって、知的に知る必要はないであろう。

 世界の意味を写し出す、最後の晩餐の絵の前に、人間が立つとき、かつての宇宙の進化の経験が、不思議な力によって、人間の魂の中へと浸透する。その絵を描くのに、画家が神秘家である必要もない。画家は神秘家でなくても、レオナルドの魂の中には、この最高の、最も意義深い出来事を表現できる力が存在していた。

 偉大な芸術作品が、それほどまでに力強い効果を示しているのはそのためである。つまり、それは、絵画に表現された最後の晩餐が、宇宙的な秩序の意味に密接に結びついているからである。当時とそれ以前の芸術家たちは、その事実を知ることなく、ボンヤリとした(潜在)意識の中で、宇宙的な秩序の意義を結びつけていた。

 しかし、将来、もし、人智学が、新しい知の形として、芸術に対する新しい基礎をもたらさなかったら、芸術は存続できないだろう。

 無意識の芸術はもはや過去のものとなった。人智学により息を吹き込まれるのを、自発的に許容する芸術は、その進化の初期段階に立つ。過去の芸術家は、芸術の根底に存在するものを知る必要はなかった。しかし、未来の芸術家は、それを知らなければならず、それも、もう一度不死を描き出せる力(それは魂の内容全体から何かを提示できる力)によって、知らなければならない。

 人智学を知的な科学、いわゆる数式や範例等で表現する知的な科学にしようとする人は、この事を理解していないが、これまで展開してきた、あらゆる概念(犠牲、与える徳性、そして拒絶のような概念)により、言葉の一つ一つにおいて、その言葉から湧き出てくるものや、その考え方そのものを(そのイメージの多様性から流れ出て来るものを)経験するような人は、人智学を理解できる人である。

 もし、世界の進化は、抽象的概念の中で成し遂げられる、と人間が信じるなら、そのような図式等を提示することもできる。しかし、もし、「犠牲」、「与える徳性」、そして、「諦め」のような生きた概念を提示するのなら、図式等はもはや十分ではない。

 これら三つの言葉は、この言葉の文字の向こうにある存在を、全く考慮しなければ、図式等で提示できる。しかしもし、これらの概念(犠牲、与える徳性、拒絶)について、熟考するのなら、以前、記述したようなイメージを、つまり、犠牲を捧げるトローネ、ケルビムに供犠を送る存在たち、犠牲の煙をまき散らす存在たち、大天使から反射される光を受け取る存在たちの絵画等を自ら描かなければならない。

 そして、次回の講義で「月」存在の考察へと進むとき、いかに、そのイメージがより豊かになるかを見ることになる。集まる雲の塊が液体となり、「月」の塊として、さざ波を立てる出来事を、そして、セラフィムの魅了する光が、そこに付け加わる出来事を見ることになる。

 そのとき、完全な理解に達するように努めなければならない。この事実については、次のように言いたい。

 「将来、人類は外的(物質)世界において、外的世界に対する完全な理解に到達しなければ、アカシャ年代記の中に読みとれる出来事を、表現へともたらす可能性、いわゆる芸術的才能や芸術的手法を創り出す方法が失われるだろう」、と。





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Last updated  2010年01月08日 16時59分29秒
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