シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年06月21日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 物質的な冷酷さは、雪や氷のなかにある。実際、雪や氷は、この上位にある非道徳の霊的(精神的)な冷酷さの物質的な模像にすぎない。自分の前に両者を置いてみると、比較できる。

 前回述べたような高次のヒエラルキア存在のお陰で、死後、人間は、人間無理解と人間憎悪を取り去られた状態を保つが、その間、人間が徐々に形姿を失っていく様子、いわば形姿が次第に溶解していく様子を、霊眼で追求できる。

 イマジネーションという霊眼では、人間が死の門を通って行くとき、本質的にまだ、この地上にいたときと同じように見える。なぜなら、この地上で人間が自らのうちに担っている構造は、いずれにせよ、粒子のような形状、つまり原子のような形状で、人間のなかにある実質だからだが、人間の形姿は、本質的には、霊的な存在である。

 (この実像は、超弦理論で考えると、イメージしやすい。超弦とは、例えば弦楽器の喩えで説明するとわかりやすい。弦は、節をつくり、固定することで、振動し、音を出す。この振動し音を出す部分が、いわばエネルギーをもつので、物質をつくる粒子となる。

 対して、節の固定部分は、静止しているので、エネルギーをもたないが、ポテンシャルとしては振動の可能性を秘めているので、いわば負のエネルギーとなり、ゼロという境目の境界条件を与え、空間をつくりだす。

 つまり、この空間をつくり、境界条件をつくりだす節が、霊的部分といえる。超弦理論は、この原理を数理的に置き換えたもので、超弦理論のM理論には、D-ブレインという空間をつくる境界条件が出てくる。

 節がなくなれば、静止点がなくなり、振動できず、音が出ないので、つまり、霊的部分がなくなれば、物質的部分も、消滅していくのである。)

 このような真実に関しては明白に理解すべきで、本質的な人間の形姿を、物質的にイメージするのは全くのナンセンスで、本当は、人間の形姿を、霊的にイメージしなければならない。霊的なイメージのなかに物質的な存在が、いわば小さな粒子として内部の至る場所にある。

 空間による力の融合がなければ、バラバラに崩れて一塊になってしまう粒子を、形態に従って結合させ、力体として表出している。1人1人の髪の毛を掴んで、人間の力の融合体である形姿を取り除けるなら、物質体とエーテル体は、砂山のように崩れ落ちるだろう。



 実際、人間は霊として、この物質世界を動き回っている。人間が物質だけから成る、というのはナンセンスで、人間の形姿は純粋に霊的である。物質は、大凡の表現として、一山のパン屑に相当する。

 しかし、この形姿を、人間は死の門を通過していくときもまだもち続ける。この形姿は仄かに光り、煌き、色々な色彩に輝く。次第に、その形姿は失われていき、最初は、頭部の形態を失い、次いで他の部分も徐々に溶解していく。

 そして人間が完全に変容して宇宙の一種の模像のようになるのは、死と新たな誕生との間で、セラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、トローネ(座天使)の領域に至る時である。

 死と新たな誕生(転生)の間、人間を追求していくと、上記のように、人間の形姿を上から下へと徐々に失っていきながらも、人間が更に動き活動しているのが見られる。

 しかし、いわば最後の足が失われると同時に、素晴らしい霊の形姿が形成され、それはまるで自らが全天球の模像のようで、同時に、次の転生で、自分の身体となるのを準備する未来の頭の原型となる霊の形姿である。

 ここで人間は、下位のヒエラルキア存在のみならず、セラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、トローネ(座天使)といった最高位のヒエラルキア存在たちが関与する活動に織り込まれる。

 このとき何が起こるのか?

 このとき起こるのは、実際、人間にとってイメージできる最も驚愕すべきことである。なぜなら、このとき、人間の下部(手足)として残った生前の人生の経験が、次の転生の身体の頭部に変容するからである。

 (死後、人間は頭部から、消えていき、最後に手足が残るが、その手足を元に、次の転生の頭部が、最高位のヒエラルキア存在、つまり神々によりつくりだされるという。)

 人間が地上を動き回るとき、表象(イメージ)や思考を担う器官は、貧しい頭部である。しかし、思考は同時に胸部の同伴者でもあり、また特に、思考は四肢の同伴者でもある。

 従って、頭部だけで思考するのではなく、例えば、四肢で思考し始める瞬間、カルマの真相全てが、開かれる。人間が、カルマについて無知なのは、この本来、表面的(皮相的)な器官、つまり脳だけで思考するからである。



 (現世の人生経験は人間の下部の四肢として、死後残り、来世には、それらが頭と変容するので、つまり、四肢を用いた思考は、来世には、頭をつくりあげるので、前世の経験を引き継いだ思考となり、前世の経験はカルマをつくるので、カルマの思考となるのだろう。)

 手を使って、モノを掴むだけでなく、手で思考するとき、人間は手の思考と同時に、自らのカルマを追求していく。そして、特に、足で歩くだけでなく、足で思考するとき、特別、明瞭にカルマを追求できる。

 人間が地上で、これほど偏狭なのは、人間がその思考全てを頭部の領域に閉じ込めているからである。しかし、人間は、人間全体の器官をも用いて思考できる。

 もし、人間がもつ器官全体を用いて思考するとき、中間部(胸部)において、素晴らしい宇宙の叡智を獲得できる。そしてまた、下部、つまり四肢全般においては、カルマを獲得できる。

 例えば、この地上を歩いている人間を観察し、無関心に陥らずに、その歩行の美しさ、もしくは歩行の特徴を追求するなら、また例えば、手を動かし、手の動作を解釈して、どの指の動きにも人間の内にある精神を極めて素晴らしく証左する事実(精神を忠実に表現する動作)を見つけるなら、実際、多くを成し遂げていることに気づく。



 例えば、スポーツ選手はなぜ練習するのか? と問うなら、思考し同時に実行するプロセスを、ゲームに瞬時に適合するためであることがわかる。

 オリンピックがギリシア哲学からはじまったのは、思考が頭だけに限定されないことをギリシアの哲学者たちが知っていたからである。古代インドでは、ヨーガという形で、古くから、頭以外の思考法が探求された。)

 とはいっても、人間の運動、つまり、歩行し、掴み、指を動かす動作に、霊的存在が関与するという事実は、ほんの小さな顕現に過ぎない。何しろ、全器官を使って思考するとき、道徳的な人間全体が運動し、同時に、当人の運命も共に運動し、更にまた当人の霊全てが共に運動するからである。

 (日本語では、「全身全霊に誓って」という表現があるが、この表現の真の意味が、この講義から理解できる。つまり、全身と全霊の全てを使って思考し、行動するという意味である。

 宇宙の道徳に従ってという意味にも要約できる。現代人は、安易に、このような表現を形式的に使っているが、とんでもない深い意味が隠されている。

 英語教育もいいが、利益に走る語学教育よりも、その前に、道徳を重んじる国語教育を行う必要があるだろう。私見だが、昨今の軽薄な風潮は、英語教育にあるように思われてしかたない。

 勿論、外国語をしゃべれるのはよいことだが、逆に母国語を軽んじるのでは、意味がない。

 昨今の英語の表現でも、「クール」という本来「冷たい」という意味の単語が、俗語で「かっこいい」という意味に使われるのは、時代の流れとはいえ、非道徳的冷酷さを意味しているようで疑問に思う。

 いつの間にか、日本語にも浸透しているところが危ないように思える。言葉には意味があり、そのなかに隠された精神があるのだから、理由もなく外見的、形式的に使うのは、確かに、表現の自由も必要だが、社会道徳を乱す由縁となるだろう。

 使うなというのではなく、意味をわかって使って欲しいのである。ちなみに、「クール」を調べると、アフリカ系アメリカ人のブルワーカ層で始まった俗語らしい。だから、その社会の背景や感覚を理解するために使うのならよいと思う。)





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Last updated  2010年06月29日 16時51分28秒
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