シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年05月12日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 では物質世界上にある真実とは何なのか?

 物質世界上に唯一真実として存在するために、立ち止まり、「ここに真実がある!」と言えるものは何か?

 それは、人間の世界にある「死」であり、他の自然領域のなかの「死」ではない。地球の進化過程の中で生じる歴史的な出来事を理解するには、高次の精神(霊)的な元型へと上昇する必要がある。しかし、ゴルゴダの出来事だけに関しては当て嵌まらない。ゴルゴダの秘儀に関しては、直接、物質世界に属する。

 上述した内容の別の面もまた明らかで、それは途方もなく興味深いものである。今日では、ゴルゴダでの出来事は真実でないとされ、外(物質)的な歴史では、この出来事を歴史的な事実と認めるのが不可能である、という言論を聞くのは非常に重要である。

 大きな歴史的事実の中で、ゴルゴダの秘儀ほど、外的、すなわち歴史資料的な確認方法での証明が困難なものはない。ゴルゴダの秘儀に比べれば、外界における人間の進歩にとって重要なソクラテス、プラトン他の古代ギリシア人たちの存在に関する歴史上の議論がいかに容易であるか、を考えてみればよい。

 「ナザレのイエスが実際に生きていた」という事実は歴史的根拠(証拠)から主張できない、という、ある程度正当な発言を、多くの人がする。しかし、この発言を正当化する否定的な歴史的根拠(証拠)も存在していない。

 いずれにしろ、他の歴史的事実を取り扱うような形で、ゴルゴダの秘儀という事実を扱うことはできない。

 この外的な、物質世界上で生じた出来事が、超感覚的な領域における事実と同じ特徴、つまり、いかなる外(物質)的な方法でも証明できない、という特徴をもつのは、特筆すべき事実である。超感覚的な世界を否定する多く人たちが、同時に、ゴルゴダの秘儀という出来事を(この出来事は超感覚的な出来事ではないが)、把握する能力を欠く人たちでもある。

 ゴルゴダの秘儀という出来事が、真実であることは、その出来事が与える影響により確かめられるが、超感覚的世界を否定する人々は、ゴルゴダという真の出来事自体が、歴史的な意味で実際には起こらなかったとしても、その出来事の影響が充分に生じ得ると推測する。



 自信過剰な考えを更に進めれば、福音書の著作に携わった各個人にとっても、ゴルゴダの秘儀という歴史的な出来事を、歴史的な証拠に基づく歴史的な事実として証明する必要もなくなり、というのも、ゴルゴダの秘儀は、外(物質)的な観察から知覚可能な証拠を残すことなく生じたからで、全くの空想である、と言うこともできる。

 では、実際、直接的な目撃者でもある、ヨハネの福音書の著者を除く福音書の著者たちが、どうやってゴルゴダの秘儀という出来事を確信するようになったのか?

 当時の彼らには、ゴルゴダの秘儀に関する伝承や書物以上のものは存在しなかったが、歴史的な書物等から確信したわけではない。確信へと至る状況に関しては、著書「神秘的事実としてのキリスト教と古代の秘儀」(1)の中でも概説したが、彼らが「キリスト=イエス」の実在を確信したのは、天体の配置を通じてだった。

 1)西川隆範訳『神秘的事実としてのキリスト教と古代の秘儀』

 というのも、彼らは、大宇宙と小宇宙の関係について非常に熟知していたので、もっていた知識から、今日でもそのような知識を獲得できるが、天体の配置を通じて、世界史における重要な転換期を算出できたからである。

 彼らは、「星座が、このような配置のとき、『キリスト』と呼ばれる『存在』が『地上』に生きたはずである」と知ることができた。つまり、マタイ、マルコ、そしてルカの福音書の著者たちが、歴史的な出来事に対する確信を得たのは、天体の配置からだった。

 彼らは、福音書の内容については、超感覚的能力(霊能力)により獲得したが、地上で起こった様々な出来事への確信は、宇宙における天体の配置から引き出した。いまでも、天体の配置に関する知識をもつ人は、福音書の著者たちを信じることができるだろう。

 福音書の歴史性に対する反論は不正確である、という証明は割に合わない仕事である。はじめに人智学者として、全く異なる基礎である、魂への洞察を通して得られる基礎知識の上に立っている、という事実を明確にしておく必要がある。

 上記に関連して、今回の連続講義を通じて確立しようとした事実に対する理解に注意を促しておきたい。それは、人智学が語る事実の一面だけを取り出し、その一面に対して正しい反駁を加えることで、事実を傷つけ、無用にしようとしても、不可能である、ということである。

 人間は、自分たちの知識に従って、いくらでも正しい反論ができるが、それにより人智学が否定されることはない。例えば「神智学」の講義の中で、次のような比喩を挙げた。

 『ある少年が家族のために朝食用のロールパンを買いに村に通っていた。その村では、ロールパン1個が2クロイツァーであったが、その少年はいつも10クロイツァー貰い、パン屋から沢山のパンを持ち帰っていた。ここで注意すべきことは、彼は算数が得意ではなかったということである。



 「10クロイツァー持ってロールパンを買いに行く。パン1つは2クロイツァーで、10÷(割る)2は5だから、家に持ち帰るのは5個のはずだ!」

 ところが、家に帰って袋を開けると、6個のパンが入っているのに気がついた。そこで、彼は「これはおかしい!10クロイツァーで6個も買えるはずがない。計算は正しいから、明日は5個だろう!」

 しかし、次の日も彼は10クロイツァーで6個のパンを持って帰った! 勿論、計算は正しいが、その計算は現実には対応していなかった。というのは、その村では、10クロイツァー分のパンを買うと、おまけにもう1個のパンをもらえるので、5個ではなく、6個のパンを受け取る習慣になっていたからである。計算は正しいが、現実には対応していなかったわけである。』

 以上のように、人智学に対する最も批判的に考え抜かれた反論は、(論理的に)「正しい」かもしれないが、全く異なる原則の上に立つ霊(精神)的な真実とは何の関係もない可能性もある。上記のような顕著な例は、数学的に正しい事項と実際に真実である事項との間の相違を理論的に示している。

 以上のように、人智学徒の努力により、マーヤ(幻想)の世界は、霊(精神)界の真実へと導かれ、回帰していく、という事実が示された。この過程が示した事実とは、火とは「犠牲」であり、空気(大気)という元素は「流れ、与える徳」であり、あらゆる液体(流体)は、「諦めと拒絶」の結果である、ということだった。



 (生命体の死から鉱物が生まれる。石油や石炭の生成からわかる。微生物に浄化能力があるのは、微生物の死から、鉱物が生まれるからである。)

 この分離状態が始まったとき、「死」が、マーヤ、あるいは幻想の世界の中に、1つの真実として入ってきた。神々は、何らかの形で、この物質的な世界に下降し、マーヤ、あるいは幻想の世界である物質界の中で、真の本性において「死」を理解しない限り、決して、「死」について知ることはなかった。

 以上が、これまで議論してきた概念に付け加えたいものである。地球紀でもまた、真の概念(後に述べるが、マルコの福音書に記述されている事実を根本的に理解するのに必要な概念である)に関する明晰な理解を獲得するには、規則正しい瞑想を通じて、真の概念を繰り返し、自らの魂に作用させることによる。というのも、マルコの福音書を理解できるのは、最も意義深い宇宙的な概念の中に礎石を置くときだけだからである。

 (有名な葉隠れの書には、武士道は死ぬことにみたり、とあるが、各々の死を発見することが、哲学の主題なのであろう。つまり、人は、生きるために死に、死を発見するために、生を謳歌する。

 生と死を経験することで、人類は覚醒意識を制御できるようになる。自動車の運転に、アクセルとブレーキが必要なように。地球は、覚醒意識の教習所ともいえる。)





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Last updated  2011年05月12日 16時56分03秒
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