シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年06月13日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 人智学徒は、自身の魂の中に、宇宙に人間の自由を誕生させるために、神々が敵対者を創出したという事実を、究めて正確に作用させるようにして欲しい。

 さて、次のような反論が十分考えられる。

 「私は今まで、神については、もっとましな意見を持っていた。神々は必ずしも悪を創造しなくても人間の自由のための舞台を創造できるように考えていた。一体どうして、神々が、悪なしに人間の自由を、世界の中にもたらせなかったのか?」という反論である。

 例えば、次の逸話を思い出して欲しい。世界があまりにも複雑すぎると考えたスペインの王様は、「もし、神様が、世界の創造を自分に任せてくれたら、もっと遙かにシンプルにしていただろう」と言った。このスペインの王様のように、人間は、その知性の弱さ故に、世界はもっとシンプルにできたはずだ、と考えるが、賢明な神々は、世界の創造を人間たちには任せなかった。

 人智学の観点から見ると、以上の状況を、遙かに正確に特徴づけることができる。例えば、台を必要としている人に、「柱を立てれば、台の代わりになるじゃないか?」、と誰かが助言するケースを想定してみる。助言された人は、「いや、柱のほかにも方法がある! なぜ、柱なのか?」と助言を拒絶する場合もある。

 あるいはまた、例えば、建設中に三角定規を使いながら、「どうして三角定規には3つの角しかないのか? 神様は3つの角を持たない三角定規を作れたはずだ!」と不平をいう作業者もいるかもしれない。

 つまり、神様が、悪や苦が生じる可能性なしに、自由を創造できた、と言うのは、三角定規は3つの角を持つべきではない、と言うのと同じ位ナンセンスである。3つの角が三角形に属するのと同じように、自由は、霊的な存在たちの側からなされた「諦め」により生じた悪の可能性に属している。

 これまで述べてきた内容全ては、神の「諦め」に属している。というのも、神々は、「犠牲」の受け取りを「諦める」ことで、不死のレベルに上昇した後、悪を善に導き、戻すために、不死から進化を創造したからである。以上は、この「諦め」という手段を用いてなされた。

 神々は、自由の可能性を与える悪を回避しなかった。もし、神々が悪を抑え込んでいたら、世界はもっと貧弱で単調になっただろう。神々は、自由のために、悪が世界の中に入り込むのを許すことで、悪を善へと導くのに必要な力をも同時に獲得しなければならなかった。そして、この善導は「拒絶」や「諦め」の結果として、獲得できる能力だった。



 宗教は、上記のようなイメージや概念を提供する。従って、聖書を基礎とした宗教もまた、「犠牲」や「諦め」、あるいは「犠牲」の拒否といった概念にアプローチできる。例えば、聖書のアブラハムの物語では、自分の息子を「神」に、犠牲として捧げようとするが、「神」は 父祖の犠牲を受け取るのを差し控える。

 もし、この「差し控える」という概念を、自らの魂の中に取り入れるなら、既に述べた瞑想によるイメージもまた自らの魂から呼び起こされる。かつて、私(シュタイナー)は、アブラハムの犠牲が受け入れられ、イサクが犠牲になっていたら、という仮定について示唆した。

 もし、「神」が、イサクの犠牲を受け取っていたら、イサクに発する古代ヘブライ民族全体が、地球から取り除かれていただろう。「神」は、地上のヘブライ民族の領域を諦めることで、自分の影響が及ぶ範囲から除き、自分の外の領域にすることで、アブラハムに由来する全てを贈り物として与えた。

 もし、「神」がアブラハムの犠牲を受け入れていたら、「神」は古代ヘブライ民族の活動領域全体を、自身の中に組み入れただろう。犠牲になったイサクは「神」と一緒にいることになっただろう。しかし、「神」は、アブラハムによるイサクの犠牲を放棄し、進化全体の流れが、地球上では独自に展開するのに委ねた。

 太古の父祖アブラハムにより提供された意味深い犠牲のイメージを通じて、全宇宙的な諦めや犠牲の概念が、人間の魂の中に呼び起こされる。

 高次の存在による「諦め」もしくは「犠牲」の別の例を、地球の歴史の中にも見つけることができる。既に以前触れた、レオナルドダビンチの絵画「最後の晩餐」に再度言及することになる。

 いま、「地球」と太陽霊「キリスト」という双方の本質的な意味を、同時に目の当たりにする場面を思い描き、その絵画が持つ完全な意味の中に参入してみる。

 そして、「もし、私が死の供儀を避けたいと欲したなら、天使の大群を 呼び出すことができないということがあろうか?(それとも、私が父に願って、天使たちを12軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか)。」(マタイ26章53節)という福音書のなかのキリストの言葉を思い出してみる。

 諦めや拒絶により、「キリスト」は命令できた安易な解決法を拒否した。キリスト=イエスが、人類の前にもたらす拒絶の最たる偉大な例は、キリストを裏切るイスカリオテのユダが、キリストの領域に入って来ることを許す行いである。

 もし、キリスト=イエスの中にある本性を知りたいなら、キリストの中に、「犠牲」を諦めなければならなかった存在たち(ケルビム)、すなわち、「諦め」という本性をもつ存在たち(ケルビム)の反映を霊視できなければならない。

 「キリスト」は、神々が、「太陽」紀に、自身の敵対者たちを、その拒絶行為を通じて呼び出したように、もし、ユダが、自分の敵対者として行動することを許さなかったら生じた出来事を拒否した。宇宙の全体の作用に対する敵対者たちの出現という出来事が「地球」上において、ダビンチの絵画「最後の晩餐」として、絵画的に繰り返されるのが霊視できる。






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Last updated  2011年06月14日 16時51分40秒
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