シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年07月07日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 既に以前の講義で指摘したことだが、冷静で、調和がとれ、熱狂や情動から離れた、真に智慧あるバガヴァッド・ギーターの本質を、自らの魂に作用させる場合と、多くの点で、個人的な情熱や意図や見解をもち、ある種、扇動的で、宣伝的な意味を含み、時おり騒々しく怒りっぽいような印象を与えるパウロ書簡の支配的な本質を、自らの魂に作用させる場合とでは、魂の受け取る印象は非常に異なる。

 同時に、その精神(霊)的な内容をも作用させる場合、ギーターでは驚くほど芸術的に完成された完全な形を獲得するが、その形は、詩的に啓示され、また哲学を表現する完全さは、これ以上は想定できないほど完全である。

 対して、パウロ書簡では、しばしばぎこちない表現がみられ、時おり不器用とも思える表現に直面するので、深い意味を引き出してくるのは究めて困難となる。

 以上の大きな違いにも関わらず、ギーターでは、東洋の世界(宇宙)観の調和が主音となって響くようにみえるのと同様に、パウロ書簡では、キリスト教における重要な主音が、キリスト教の発展にとって、調和の位置を占めるようにみえる。

 パウロ書簡のなかにみえるのは、復活や掟と呼ばれるものに対する信仰の意味や、恩寵の作用や、魂、もしくは人間の意識のなかのキリストの誕生他の多くに関するキリスト教における根本的に重要な真理である。

 以上全てが、このパウロ書簡から、キリスト教の叙述として、繰り返し、発せられるように構成されているのがわかる。

 パウロ書簡の場合、全てがキリスト教に関わっている。同じように、バガヴァッド・ギーターでは、全てが自らの行為から自由になることに関わっている。ギーターは、直接の行為から、自らを解き放つことや、事物の観察や、魂への沈潜や、高次の霊界への魂の上昇や、魂の浄化などに関わる。

 要するに、パウロ書簡を、ギーターの意味で語るなら、クリシュナとの一体化へと至る偉大な真理に関わるように構成されているのがわかる。

 いま特徴づけた表面的な事項全てが、ギーターとパウロの背後にある2つの霊(精神)的な啓示の比較を究めて困難にしている。単なる外面的な比較では、純粋さや冷静さや叡智の点で、パウロ書簡よりも、バガヴァッド・ギーターを高く評価せざるを得ない。



 外面的な比較は、美しく、素晴らしい花を咲かせ、完全に成長した植物と、その傍らにある植物の種子とを比較し、完全に開花し素晴らしい花を咲かせた植物の方が、目立たずに陳腐な植物の種子よりもずっと美しい、と言うのに似ている。

 つまり、素晴らしく美しい花を咲かせた植物の傍らに置かれた植物の種子からも、いつか、もっと美しい花が咲き、もっと美しい植物が成長する、という事態もあり得る。従って、ある程度成長した植物と未成長な種を並置して、直接比較するのは、正しい比較とはいえない。

 バガヴァッド・ギーターと、パウロ書簡の比較も、これと同じである。

 バガヴァッド・ギーターに現れるのは、熟し切った果実のように、何千年にもわたって成長し、智慧ある成熟した芸術的表現を発見し、ついには壮大なギーターのなかに、長い人類進化の上に、見事に結実した美しい表現である。

 対して、パウロ書簡には、全く新しい将来成長していく種子があり、未来に向かって進化が何千年も経過し、この種子が、益々一層成長し、生成するものに、預言的に目を向ければ、完全な意味で、自らの魂に作用させることができる。

 以上を考慮するときにだけ、正しい比較ができる。そうすると、将来、成長し、偉大となる叡智が、最初は、目立たない姿で、人類の魂の深みから、キリスト教が混沌と湧き出てくるように、パウロ書簡のなかに、一度現れる必要があったという事実について、はっきりと理解できる。

 全人類の地球での進化について、パウロ書簡の真の意味を知りたいのなら、バガヴァッド・ギーターの表現に置き換える必要がある。また、バガヴァッド・ギーターの美と叡智と内的形態の完成に関して、完全な作品という点で評価するなら、パウロ書簡の表現を用いるべきである。

 つまり、バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡において明らかになる2つの世界観を比較したいなら、第一に、次のように問う必要がある。

 この2つの世界観に共通で、その違いが問題となっているものは、一体、何なのか?

 問題となっている世界観について、歴史的に見通せる洞察力(霊視力)を用いるなら、それは、人類の進化のための自我の成長にある。人類の進化のなかに、自我の成長を追求してみると、次のような結論に至る。

 キリスト教以前の時代には、人間の自我は独立していなかった。まだ人間の魂の隠された奥底に根ざし、自身で進化していく可能性には達していなかった。

「キリスト衝動」 と呼んでいる衝動が、自我のなかに投げ込まれることで可能になった。

 ゴルゴタの秘蹟以後、人間の自我のなかにあり、パウロの「私でなく、私のなかのキリスト」という言葉のなかに表現できる存在は、それ以前には、自我のなかになかった。

 しかし、ゴルゴタの秘蹟より何千年も前、既に秘儀参入者は、省察しながらキリスト衝動に近づいたが、その時代に、その後キリスト衝動が人間の魂のなかに組み込まれることによって起こる自我の育成が、ゆっくりと準備された。特に、その準備は、クリシュナの行いとして、表現できるような形で準備された。

 ゴルゴタの秘蹟以後、人間が、キリスト衝動として、自身のなかに探し求めるべき存在、「私ではなく、私のなかのキリスト」というパウロの表現のなかに、意味を見つけられる存在を、人間は、ゴルゴタの秘蹟以前には、外に向かって探し求めなければならなかった。

 ゴルゴタの秘蹟以前は、あたかも宇宙の彼方から、啓示のように到来する存在のように探し求めなければならなかった。時代を遡れば遡るほど、この外的な啓示は一層輝きに満ち、人類に鼓舞を生じさせた存在だった。



 ゴルゴタの秘蹟以後、人間の魂のなかの、キリスト衝動として、つまり霊的な太陽光としての作用を、次のように喩えることで比較できる。

 霊的な太陽光は、内部から光を放ち、自ら輝く天体を、まるで人間の中にみるのと同じである。

 以上のように事態を観るなら、ゴルゴタの秘蹟という事実が、人類進化の重要な境目となり、このゴルゴタの秘蹟が、人類進化の1つの転換期となることがわかる。そして、この関係全体を、象徴的に以下の図のように描くことができる(図)。

guta2.gif

 左図の円を、人間の魂とすると、左図では、霊の光が外のあらゆる方向から人間の魂へと向かってくる。ゴルゴタの秘蹟が起こった後、右図のように、魂は自らのなかにキリスト衝動をもち、キリスト衝動のなかに含まれる光を自分から発する。

 キリスト衝動以前の魂は、あらゆる方向から照らされることで輝く滴のように現れる。ゴルゴタの秘蹟以後の魂は、キリスト衝動を受け入れる状態となったとき、内的に輝き、自らの光を放射する炎のように現れる。

 (つまり、ゴルゴダの秘蹟以前は、人間は、善意、もしくは良心や道徳を外に求めていたが、ゴルゴダ以後は、人間の内に求めるようになった。

 キリストが降臨する以前は、マヌ、ゾロアスター、モーセ等の預言者は、道徳を外に求めていた。つまり、いまでいう天体観測である。キリスト以後は、キリストが、人間の内側に、道徳を復活させるようにゴルゴダの秘蹟を行ったので、人間は、内に求めるようになり、独自の知性をもつことになった。

 そして、外には、暗黒の時代が訪れた。ゴルゴダ以前は、人間の内に暗黒があった。内と外が逆になったので、紀元前と、紀元後という西暦もかわるわけである。)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2011年07月07日 16時59分38秒
コメント(5) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: